馬術歌之書は、馬術の歴史と技術を詳細に解説した貴重な文献。古代から現代への進化、著名な騎手たちの功績、馬との絆の重要性を記し、馬術愛好家必読の一冊。
本報告書は、室町時代に編纂されたとされる一冊の書物、『馬術歌之書』について、特に戦国時代という視座からその実態と歴史的意義を徹底的に調査・分析するものである。利用者より提示された本書の概要は、「編者不明。室町時代、身分の低い武士や庶民の間で流行した宴曲や小歌の中から、馬術や馬に関連したものを集め、編纂した書物」というものであった 1 。この魅力的な記述は、武芸と大衆文化が交差する一点を示唆しており、歴史研究の対象として極めて興味深い。
しかしながら、学術的な文献調査を進める中で、この『馬術歌之書』という名称を持つ書物が、一次史料としてその存在を明確に裏付けることは極めて困難であるという事実に直面した。その名称は、後代、特に現代の歴史シミュレーションゲーム等で用いられる中で広まった可能性が示唆される 1 。だが、本報告はこの「実在性の欠如」をもって探求を終えるものではない。むしろ、これを新たな問いへの出発点としたい。すなわち、「なぜ、このような書物の『概念』が生まれ、現代にまで伝わるのか」という、より本質的な問いである。
本報告では、この問いに答えるため、アプローチを転換する。『馬術歌之書』という特定の「器」が実在したか否かの考証に固執するのではなく、その器が本来盛っていたであろう「中身」、すなわち「歌謡という形式を用いて馬術の知識や文化を伝承する」という文化的営為そのものが、室町から戦国にかけての時代に確かに存在したことを論証する。本書の概念を、文字記録に残りづらい民衆の声を聴くための貴重な手がかりとして再定義し、その成立を可能にした歴史的背景と、それが持つであろう意義を、多角的な視点から立体的に再構築することを目的とする。これは、単一の文献研究を超え、戦国時代の口承文化、知識伝達のシステム、そして武芸が社会の各層へといかに浸透していったかという、より広範で深遠なテーマを探求する試みである。
『馬術歌之書』が「歌之書」と称される点、すなわちその形式が「歌謡」であるという事実は、本書を理解する上で極めて重要な鍵となる。この書物の成立背景を理解するためには、まず室町時代から戦国時代にかけての歌謡文化の隆盛に目を向ける必要がある。
この時代は、公家や高位の武士が嗜む和歌とは別に、より広く民衆の生活感情や本音を率直に表現する新しい歌謡が花開いた時期であった 3 。その代表格が「小歌(こうた)」である。小歌は、宴席や日々の労働の場で口ずさまれ、恋愛や人生の悲哀、社会風刺など、人々のありのままの心を映し出す鏡であった 4 。また、宴席で専門の芸人によって謡われた「宴曲(えんきょく)」(早歌とも呼ばれる)も、物語性豊かな歌詞で人気を博した 4 。これらの歌謡は、身分や階層を超えて享受され、当時の文化の基層を形成していた。
この時代の歌謡文化の精華を今に伝えるのが、永正15年(1518年)に成立した歌謡集『閑吟集』である 4 。編者は不詳であるが、連歌師の宗長ではないかという説もある 4 。この歌集は、当時流行していた小歌を中心に、猿楽の謡、田楽節、早歌など、様々なジャンルの歌謡311首を収録している 4 。その編纂形式、すなわち特定の作者による創作ではなく、既存の流行歌謡を一つのテーマや美意識のもとに集めるという「アンソロジー(選集)」としての性格は、『馬術歌之書』が「宴曲や小歌の中から…集め、編纂した書物」であるという説明と軌を一にする。
重要なのは、『閑吟集』の中に、馬や武士を題材とした歌が確かに存在するという事実である。例えば、「三津の御牧のあら駒を、ささがにのいともてつなぐとも」という一節が収録されている 5 。ここで歌われる「あら駒」とは、まだ乗り慣らされていない荒々しい馬のことであり 5 、馬が当時の人々の心象風景の中に確固たる位置を占めていたことを示している。また、武士の持ち物である「綾藺笠(あやいかさ)」を詠んだ歌もあり、そこからは若武者の姿が想起される 3 。これらの例は、馬や武士というテーマが、決して専門的な武芸の世界に閉じたものではなく、広く民衆の歌謡の題材として取り上げられる文化的土壌が存在したことを証明している。
さらに、『閑吟集』の構造自体が、当時の歌謡文化の特性を物語っている。出自の異なる様々な歌が混在し、その配列には「連歌の付け進みを思わせる配列の妙」が工夫されていると評されるように 4 、個々の歌は独立した「モジュール」として流通し、編者の意図によって自由に再構成される性質を持っていた。この「既存の歌を」「特定のテーマに沿って」「再編纂する」という文化は、まさに『馬術歌之書』の成立プロセスそのものである。したがって、「馬」というテーマで既存の歌謡モジュールを抽出し、一冊にまとめるという行為は、当時の文化的営為として極めて自然なものであったと考えられる。この文化的背景こそ、『馬術歌之書』のようなテーマ別歌謡集が編纂される蓋然性を強力に裏付けるものである。
『馬術歌之書』のもう一つの核である「馬術」は、戦国時代においてその重要性を飛躍的に高めた。この時代の馬術は、単一の概念ではなく、戦場で即座に役立つ実用技術と、武士の教養として体系化された武芸という、二つの異なる側面を持っていた。この二つの世界を理解することが、『馬術歌之書』が生まれた背景を解明する鍵となる。
戦国時代の合戦は、平安・鎌倉期に見られたような個人の武勇を誇示する一騎討ちから、足軽を中心とした集団戦術へと大きく変貌した。しかし、それは騎馬武者の価値を低下させたわけではなく、むしろその役割をより戦術的に特化させた。合戦は多くの場合、決められた手順を踏んで展開された。まず両軍が距離を置いて対峙し、鏑矢を合図に弓矢を射ち合う「矢合わせ」から始まる。次に長槍を持った足軽部隊が前進して敵陣を突き崩そうとする「槍合わせ」が行われ、戦線が膠着、あるいは混乱した決定的な局面で、満を持して「騎馬隊」が投入された 6 。騎馬隊に期待されたのは、その圧倒的な機動力と衝撃力を生かした敵陣の突破、側面からの攪乱、あるいは敗走する敵の追撃であり、戦局を左右する重要な役割を担っていた 7 。
この戦術の変化は、馬上で用いられる武器にも影響を与えた。主力武器が弓から槍へと移行する中で、馬上では敵を突いた際の反動で落馬する危険を避けるため、槍を片手で振り回し、敵を「叩き斬る」あるいは「叩き落とす」といった戦法が主流となった 7 。さらに、天文11年(1542年)に鉄砲が伝来すると、騎乗時でも扱いやすいように銃身を短くした「馬上筒(ばじょうづつ)」と呼ばれる火縄銃も使用されるようになった。しかし、馬上筒は命中精度が低く、馬上での弾込めに時間がかかるという欠点があったため、散弾を込めて敵集団に撃ち込む「塵砲撃ち」といった工夫や、あらかじめ装填済みの銃を複数用意しておくといった対策が取られた 7 。
こうした馬術を駆使した武者たちが駆った馬は、現代の競馬で見られるサラブレッドとは全く異なる存在であった。鎌倉市材木座遺跡などから出土した当時の馬骨を分析すると、その体高は平均して130cmから140cm程度であり、現在の木曽馬や北海道和種のような中・小型の在来馬であったことが確認されている 9 。これらの日本在来馬は、平地での最高速度こそサラブレッドに及ばないものの、傾斜30度を超えるような急峻な山道をものともせずに踏破する驚異的な登坂能力と持久力を備えていた 10 。また、粗食にも耐える強健な消化器官(草腹と呼ばれる特徴的な腹部を持つ)を有し 11 、日本の山がちな地形での長期間にわたる軍事行動に極めて適していたのである。
さらに特筆すべきは、日本では近世に至るまで馬に去勢を施す習慣がなかったため、戦には気性の荒い牡馬(ぼば)がそのまま用いられたことである 6 。これを乗りこなすには高度な操馬技術が不可欠であったと同時に、その激しい気性を逆手にとった奇策も生まれた。羽柴秀吉軍と対峙した淡河城の淡河定範は、敵陣に牝馬(ひんば)の群れを放ち、それに興奮した羽柴軍の牡馬を大混乱に陥らせて勝利したと伝えられている 6 。この逸話は、戦国武士が馬の習性を熟知し、それを戦術にまで昇華させていたことを物語っている。
戦場で求められる実用的な技術とは別に、室町時代には馬術を一つの体系的な「武芸」として捉え、その技と心を後世に伝えようとする動きが活発化した。これにより、後世にまで名を残す馬術流派が確立されるに至る 12 。中でも、小笠原流と大坪流は、武家馬術の二大潮流として双璧をなした 13 。
小笠原流は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の弓馬術師範を務めたとされる小笠原長清を始祖と仰ぐ、由緒ある流派である 14 。将軍家のみが学ぶことを許された「御留流(おとめりゅう)」として、その権威は絶大なものであった。小笠原流の最大の特徴は、馬術を単なる乗馬技術としてではなく、弓術、そして武家の礼法と不可分一体のものとして捉えた点にある 14 。馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)といった「騎射三物(きしゃみつもの)」は、その象徴である 7 。その射法は騎射を源流とする「正面打起し」に特徴があり 15 、技術の練磨を通じて武士としての品格と精神性を涵養することを目的とした。まさに武家の「故実(こじつ)」、すなわち儀礼や慣習の中核をなす総合的な武芸であった。
一方、大坪流は、小笠原流を学んだ大坪慶秀(道禅)が室町時代に創始したと伝えられる流派である 13 。小笠原流から分派したこの流派は、儀礼的な側面よりも、より実戦的、技術的な側面を重視する傾向があった。特に、江戸時代中期に斎藤主税定易(号は青人)が興した大坪本流は、「五馭(ごぎょ)の法」と呼ばれる高度な操馬術を編み出して一世を風靡した 13 。大坪流の思想を端的に示すのが、「馬術専一」という言葉である。これは、高松藩大坪流の沼田美備が著した『大坪流軍馬』の中で、刀槍や薙刀といった馬上での武器の扱いについては「それぞれ特別な指南役があるので、それについて聞くべし」と述べているように、あくまで純粋な馬の操縦技術そのものを深めることを本分とする姿勢を意味する 13 。『甲陽軍鑑』にも、大将たる者は馬上で自在に指揮を執るために「片手綱を達者に覚えてこそ」と記されており 17 、こうした高度な操馬術の追求が大坪流の真骨頂であった。
これらの流派は、その奥義や秘伝を『大坪流手綱秘伝書』や『大坪流馬方幸秀論』といった「伝書(でんしょ)」の形で記録し、後進へと伝えた 16 。図解を交えたこれらの伝書は、馬術の知識を体系的に整理し、文字を通じて伝達する、エリート層のための高度な教育システムであったと言える。
このように、戦国時代の馬術には明確な階層性が存在した。一つは、小笠原流や大坪流に代表される、武士としての身分や教養を体現するための「騎乗者の武芸」。そしてもう一つは、戦場の最前線や後方で馬を扱う、より多くの人々が担った実用的な「使役者の技術」である。騎乗する武士には、主人の馬の口を取り、武具を運び、日々の世話をする足軽や中間(ちゅうげん)といった武家奉公人が付き従っていた 18 。また、大軍の兵站を支える小荷駄隊は、膨大な数の駄馬によって構成され、その運用は専門の足軽や陣夫(農民)の手に委ねられていた 21 。彼らに求められたのは、流鏑馬の華麗な技術ではなく、気性の荒い馬を安全に誘導し、長距離を移動させ、日々の健康を管理するという、極めて実践的な知識と経験であった。この二つの異なる馬術世界が存在したという事実こそ、『馬術歌之書』が「身分の低い武士や庶民の間で流行した」と伝わる理由を解き明かす。それは、エリート向けの体系的な伝書では満たされることのない、現場レベルでの切実な知識需要に応えるための、もう一つの知の伝達形態だったのである。
比較項目 |
小笠原流 |
大坪流 |
戦場の実用馬術 |
『馬術歌之書』的伝承 |
目的 |
儀礼、武家故実の体現、将軍家師範 |
実戦的馬術の追求、純粋な操馬技術の向上 |
敵陣突破、追撃、攪乱、戦術的機動 |
馬の日常的管理、荷駄輸送、安全確保、労働の慰安 |
技術的特徴 |
弓馬術(流鏑馬等)、礼法との一体化、正面打起し |
馬術専一、五馭の法、片手綱による指揮 |
槍による打突、馬上筒による射撃、集団での突撃 |
馬の世話、駄載技術、馬沓の利用、気性の荒い馬の扱い |
伝達方法 |
伝書、一子相伝、儀礼を通じた口伝 |
伝書(『手綱秘伝書』等)、教歌(『哥之巻』) |
実戦での経験、上位者からの指示 |
口承、歌謡(小歌、宴曲)、労働歌、物語 |
主な担い手 |
将軍家、大名、上級武士 |
大名、上級・中級武士、馬術指南役 |
騎馬武者(侍大将、武士) |
下級武士、足軽、武家奉公人、小荷駄隊の陣夫、庶民 |
『馬術歌之書』が歌謡集であるという形式は、決して突飛なものではない。むしろ、日本の武芸の歴史を紐解くと、「歌」というメディアが知識伝達において極めて重要な役割を果たしてきたことがわかる。この「歌による武芸伝承」の伝統を理解することは、『馬術歌之書』の存在が単なる推測ではなく、文化的な必然であったことを論証する上で不可欠である。
剣術の塚原卜伝が遺したとされる「卜伝百首」をはじめ 23 、槍術、柔術、兵法など、多くの武芸流派において、その極意や修行上の心得を和歌(短歌)の形式で詠んだ「教歌(きょうか)」や「道歌(どうか)」が数多く伝えられている 23 。これらの歌は、単なる文学作品ではなく、武芸伝承のシステムに組み込まれた実用的な教育ツールであった。
教歌が果たした機能は多岐にわたる。第一に、「記憶の補助」である。五七五七七という定型詩の持つリズムと簡潔さは、口ずさみやすく、複雑な要訣を記憶に定着させる上で絶大な効果を発揮した。文字を読み書きする能力が限られていた時代や、師が常に側にいて指導できるわけではない状況において、門弟は歌を反芻することで、いつでもどこでも師の教えを思い出し、自己の技を確認することができた 24 。
第二に、「心法の伝達」である。武芸の上達には、単なる身体技術の向上だけでなく、精神的な要素、すなわち「心法」の練磨が不可欠とされる 24 。教歌は、「稽古や実戦に臨む姿勢や心構え」といった、言葉で説明し尽くしがたい精神的な機微や教訓を、比喩や情景に託して伝えるのに非常に適した形式であった 24 。技の奥にある哲学や世界観を、歌を通じて感性的に理解させることができたのである。
第三に、「流派のアイデンティティ形成」である。共通の教歌を持つことは、門弟たちの間に一体感と連帯感を醸成し、自らが属する流派の教えの核となる思想を共有する助けとなった 24 。例えば、宝蔵院流槍術に伝わる「突ば鑓なげば長刀ひけば鎌とにもかくにもはづれざりけり」という一首は、突けば槍、投げれば薙刀、引けば鎌のように、状況に応じて千変万化する宝蔵院流槍術の特性を見事に表現しており 24 、この歌一つで流派の神髄を語ることができる。
そして、この「歌による武芸伝承」の伝統が、馬術の世界にも確かに存在したことを示す、決定的な証拠が存在する。それは、前章で述べた武家馬術の最高峰の一つ、大坪流に伝わる**『大坪流哥之巻(おおつぼりゅううたのまき)』**である 16 。この文献の存在は、「馬術の要訣を歌の形式で編纂し、伝承する」という行為が、決して庶民の間に限られたものではなく、身分の高い武士が修める正式な馬術の世界においても、確立された方法論として実践されていたことを明確に示している。
この事実は、武芸における知識伝達メディアの階層性を浮き彫りにする。大坪流には、『大坪流馬方幸秀論』のような、詳細な解説と図を伴う体系的な「伝書」が存在した 16 。これらは、高度な識字能力を持つ上位の門弟や後継者を対象とした、いわば「専門書」であった。一方で、同じ流派に『哥之巻』が存在するということは、伝書の内容を補完し、その要点をより多くの門弟の記憶に刻み込むための、よりアクセシブルなメディアが必要とされていたことを示唆している。
この論理をさらに拡張すれば、『馬術歌之書』が対象としたとされる「身分の低い武士や庶民」は、そもそも高価で難解な伝書を読み解く機会などほとんどなかったであろう。彼らにとって、日々の生活の中で親しんでいた「小歌」や「宴曲」という形式こそが、馬に関する知識や技術を学び、記憶するための、最も効果的で、場合によっては唯一のメディアであった可能性が高い。したがって、『馬術歌之書』は、大坪流の『哥之巻』が担った役割を、より大衆的な歌謡形式で、より広い階層の人々に向けて果たそうとしたものと位置づけることができる。それは、当時の社会における情報格差を埋めるための、民衆の側からの文化的発明であったのかもしれない。
これまでの分析—室町・戦国期の歌謡文化の隆盛、戦場と流派における馬術の二重構造、そして武芸における教歌の伝統—を統合することで、我々は『馬術歌之書』がどのような内容を持ち、いかなる人々に享受されたのか、その具体的な姿を再構築することができる。それは、歴史の表舞台に登場する英雄たちの物語ではなく、戦国という時代を足元から支えた無名の人々の、馬をめぐる生活世界の記録である。
本書の主たる担い手、すなわち読者であり、また歌い手であったのは、戦国大名の軍団を末端で構成した人々であったと考えられる。その筆頭は、武士に仕える「武家奉公人」たちである。彼らは、主人が騎乗する馬の口を取って世話をする「馬取(うまとり)」や、槍持ち、荷物持ちといった雑役をこなす「中間(ちゅうげん)」、あるいは「足軽」といった身分の者たちであった 18 。彼らにとって馬は、主人の権威の象徴であると同時に、日々世話をし、心を通わせるべき労働の対象であり、時には戦場で運命を共にする戦友でもあった。
もう一つの重要な担い手は、大軍の生命線を維持する「小荷駄隊(こにだたい)」の人々である 21 。兵糧、米、塩、大豆、そして武具弾薬といった膨大な物資を前線に届ける彼らの主役は、専門の兵卒と、徴発された多くの「陣夫(じんぷ)」、そして何百頭もの「駄馬(だば)」であった 21 。彼らには、多数の馬を効率よく、かつ安全に管理・運用するための、極めて実践的なノウハウが求められた。
これらの人々のために編まれたであろう『馬術歌之書』の内容は、小笠原流や大坪流が説くような、馬上での華麗な武芸や高度な操馬術ではなかったはずだ。むしろ、彼らの日々の労働や生活に密着した、実用的な知識や生活感情が歌い込まれていたと推察される。
その内容の一つは、具体的な「実用的な知恵」であろう。例えば、気性の荒い馬をなだめる方法、馬の病気や怪我の兆候を簡単に見分けるための知識、長距離の行軍で馬の蹄(ひづめ)を保護するために不可欠だった藁製の履物「馬沓(うまぐつ)」の作り方や丈夫な付け方のコツ 26 、駄馬の背に荷物を安定して積むための技術、川を渡る時や険しい山道での注意点など、文字化されにくい経験則や身体知が、覚えやすい歌の形で伝えられたのではないだろうか。
また、「労働歌」としての側面も強かったと考えられる。単調で過酷な馬の手入れをしながら、あるいは何日も続く行軍の道すがら、仕事の辛さやささやかな喜び、そして愛馬への情愛を込めた歌が口ずさまれたであろう。それは労働の苦痛を和らげ、仲間との連帯感を育む上で重要な役割を果たしたに違いない。
さらに、娯楽的な要素として、各地に伝わる「物語や伝説」も含まれていた可能性がある。源氏の武将が乗ったという甲斐の「黒駒伝説」 8 のような名馬の物語や、有名な武将と愛馬にまつわる逸話、あるいは馬にまつわる面白い話や怖い話などが歌の形で語り継がれ、野営の夜のささやかな楽しみとなったことも想像に難くない。
このように考えると、『馬術歌之書』は単なる知識の伝達ツールに留まらない、より広範な社会的機能を持っていたことが見えてくる。それは、馬という動物を介して形成された、身分の低い武士や庶民からなる共同体において、共通の文化や価値観、そして仕事への誇りを育むための「生活技術のアーカイブ」であった。武芸の正式な伝書が「武術」を記録するものであったとすれば、『馬術歌之書』は馬に関わる人々の「生活」そのものを記録し、伝承する装置だったのである。それは、歴史の記録からはこぼれ落ちてしまう人々の、日々の営みと知恵が凝縮された、貴重な文化遺産の「概念的痕跡」と言えるだろう。
本報告書における徹底的な調査と分析の結果、『馬術歌之書』という名の特定の書物が、一次史料としてその実在を確定することはできなかった。しかし、本報告が目指したのは、単一の文献の有無を断定することではない。むしろ、その書物が象徴する「概念」—すなわち、宴曲や小歌といった民衆的な歌謡の形式を用いて、馬に関する知識や文化を編纂し、伝承するという文化的営為—が、室町時代から戦国時代にかけての文化的・社会的状況の中に、確かに、そして必然的に存在したことを論証することであった。
この探求を通じて明らかになったのは、『馬術歌之書』が決して空想の産物ではなく、当時の社会の重層性を映し出す鏡のような存在であるということだ。それは、将軍や大名、上級武士といったエリート層が担った、儀礼的かつ体系的な「武芸」の世界とは一線を画す、もう一つの世界を我々に垣間見せる。すなわち、歴史の主役とはなりにくい足軽、武家奉公人、そして名もなき陣夫たちの、汗と土にまみれた「生活技術」の世界である。馬という一つの動物を介して、社会の頂点から末端までが、それぞれの形で関わり、知識を交換し、文化を形成していた。このダイナミズムこそ、戦国社会の真の姿の一端である。
『馬術歌之書』は、失われた文献かもしれない。しかし、その概念を追う旅は、我々を戦場の喧騒の背後で、あるいは長い兵站路の途上で、馬と共に働き、歌を口ずさんだであろう無名の人々の世界へと導いてくれる。彼らが歌ったであろう歌声そのものを、我々が直接聴くことはもはや叶わない。だが、その「失われた声の響き」の痕跡を、史料の断片から丹念にたどり、その存在の蓋然性を論証することによって、我々は戦国時代という時代を、より深く、より人間味あふれる、立体的なものとして理解することができる。この響きに耳を澄まし、歴史の行間を読むことこそ、『馬術歌之書』という謎めいた存在が、現代の我々に投げかける最も重要で、かつ豊饒な問いなのである。