竹中半兵衛の魚鱗札二枚胴具足は、魚鱗状の小札と眉強調の兜が特徴。知略を象徴し、革新性と個性を兼ね備えた軍師の甲冑。
戦国乱世の只中、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の天下統一事業を黒田官兵衛孝高と共に支え、「両兵衛」と並び称された稀代の軍師、竹中半兵衛重治 1 。その生涯は、知略と謀略に満ち、数々の伝説に彩られている。しかし、彼の人物像を今に伝えるのは、史書や軍記物語の記述だけではない。岡山県の林原美術館に、彼が所用したと伝わる一領の具足が、静かにその威容を湛えている。
その名は「魚鱗札二枚胴具足(ぎょりんざねにまいどうぐそく)」 2 。全体を艶やかな黒漆で塗り固め、胴や袖、草摺(くさずり)といった主要部分が、文字通り魚の鱗を模した無数の小札(こざね)で覆われている。一見して異様とも言えるその姿は、戦国の数多ある甲冑の中でも他に類を見ない、強烈な個性を放っている 2 。
本報告書は、この「魚鱗札二枚胴具足」を単なる歴史的工芸品、あるいは一介の武具として捉えることを目的としない。むしろ、これを竹中半兵衛という人物の精神性、戦国時代という時代の技術革新、そして武将たちが武具に込めた思想を読み解くための、一つの動的な「テクスト」として分析するものである。なぜ彼は、これほどまでに特異な意匠の甲冑を身に纏ったのか。その構造には、いかなる先進性や合理性が秘められているのか。この一領の具足を手掛かりに、智将・竹中半兵衛の実像と、彼が生きた時代の深奥へと迫っていく。
甲冑を理解するためには、まずその着用者を知らねばならない。「魚鱗札二枚胴具足」に込められた意味を解読する鍵は、その持ち主である竹中半兵衛という人物の多面的な実像の中にある。本章では、史実と伝説を丹念に紐解きながら、この天才軍師の人物像を再構築する。
竹中半兵衛重治は、天文13年(1544年)、美濃国大野郡大御堂城主・竹中重元の子として生まれた 3 。竹中氏は美濃の有力な国人であり、半兵衛は当初、美濃の戦国大名・斎藤氏に仕えた 5 。彼の名を天下に知らしめた最初の大きな出来事は、永禄7年(1564年)、主君・斎藤龍興の居城であった稲葉山城(後の岐阜城)を、わずか十数名の部下と共に一日で奪取したという一件である 6 。これは、龍興の乱行を諌めるための行動であったとされ、城を占拠した後に速やかに龍興に返還しているが、彼の非凡な胆力と知略を示す逸話として広く知られている 4 。
斎藤氏が織田信長によって滅ぼされた後、半兵衛は一時、北近江の浅井長政の客分となるが、やがて故郷に隠棲する 4 。その類稀なる才能を惜しんだ信長は、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた羽柴秀吉に、半兵衛の勧誘を命じた。秀吉が「三顧の礼」をもって迎えたというこの有名な逸話は、半兵衛の価値がいかに高く評価されていたかを物語っている 1 。
しかしながら、厳密な史料に基づけば、半兵衛は秀吉の直接の家臣(直臣)というよりは、信長から秀吉に付けられた与力(よりき)、すなわち信長直属の武将であったと見られている 4 。この事実は、彼の立場が単なる一武将の陪臣ではなく、織田軍全体の中での重要な戦力として認識されていたことを示唆する。主家を乗り換え、自らの才を最も活かせる主君の下で能力を発揮するという彼の経歴は、旧来の封建的な忠誠心よりも、個人の実力と合理的な判断が重視された戦国時代という時代の流動性を象徴している。彼の選択は、自身の能力を正当に評価し、それを最大限に活用できる場を求める、極めて戦略的なキャリア形成であったと解釈できよう。
秀吉の与力となった半兵衛は、その軍師として中国攻めなどで数々の戦功を挙げた 6 。しかし、天正7年(1579年)、播磨の三木城を包囲する陣中にて病に倒れ、36歳という若さでその生涯を閉じた 1 。この早すぎる死は、彼の存在を一層伝説的なものとし、後世における軍師像の形成に大きな影響を与えたのである。
竹中半兵衛の人物像は、その生涯の軌跡以上に、彼にまつわる数々の逸話によって複雑かつ魅力的に形づくられている。これらの逸話は、彼の内面的な精神性を探る上で不可欠な手掛かりとなる。
特筆すべきは、彼の容貌と行動の間に見られる著しい乖離である。『太閤記』などの後世の記録によれば、半兵衛は「その容貌、婦人の如し」と記されるほど、華奢で女性的な見た目であったと伝えられる 4 。しかし、その穏やかな外見とは裏腹に、前述の稲葉山城乗っ取りに見られるように、その行動は大胆不敵そのものであった。この外見と内面のギャップこそが、周囲の者たちに彼を「計り知れない」人物と印象づけ、その神秘性を高める要因となったと考えられる。
また、彼の行動原理の根底には、徹底した合理主義と実利主義があったことが窺える。その象徴的な逸話が、高価な名馬を求めなかったという話である。秀吉に貧相な馬に乗っている理由を問われた半兵衛は、「良い馬に乗っていては、いざという時に馬のことを惜しんでしまい、好機を逃すことになる」と答えたという 7 。この言葉は、外見上の体面や名声といった虚飾を排し、戦場における実利と結果のみを追求する、彼の冷徹な思考様式を端的に示している。
一方で、半兵衛は冷徹な合理主義者であるだけでなく、深い人間的な情義も持ち合わせていた。その代表例が、黒田官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)の命を救ったとされる逸話である。官兵衛が有岡城主・荒木村重の説得に赴き、逆に捕らえられた際、信長は官兵衛が寝返ったと誤解し、人質として預かっていた松寿丸の殺害を命じた。この時、半兵衛は信長の命令に背き、松寿丸を密かに自らの領地で匿い、その命を救ったとされる 11 。この逸話の史実性については議論の余地があるものの 14 、後世において竹中家と黒田家の深い絆の象徴として語り継がれ、第四部で詳述する「一の谷形兜」の伝来にも繋がる重要な物語となっている。
ここで一つの問いが浮かび上がる。実利を重んじ、華美な名馬を避けたほどの合理主義者である半兵衛が、なぜ「魚鱗札二枚胴具足」のような、他に類を見ない奇抜な意匠の甲冑を好んだのか。これは一見すると矛盾しているように感じられる。しかし、この二つの事象は、彼の合理主義が異なる次元で発露した結果として解釈することで、一つの線として結びつく。すなわち、彼にとってこの具足の奇抜な意匠は、単なる装飾や自己満足ではなく、何らかの「機能」あるいは「戦略的意図」を持つ、合理的な選択の産物であった可能性が極めて高い。その「機能」が、物理的な防御性能の革新性なのか、あるいは敵に与える心理的効果という戦略的なものなのか。この問いこそが、本具足を分析する上での中心的な視座となる。
竹中半兵衛という人物の精神性を探る旅は、彼が身に纏った具足そのものの物理的な分析へと移行する。本章では、林原美術館に所蔵される実物を基に、「魚鱗札二枚胴具足」を工芸品および武具として徹底的に解剖し、その構造と意匠に秘められた特異性を明らかにしていく。
林原美術館が所蔵する竹中半兵衛所用と伝わるこの具足は、「魚鱗札二枚胴具足(ぎょりんざねにまいどうぐそく)」と呼称される 2 。その構成は、兜、胴、大袖、草摺、手甲といった、いわゆる「当世具足」の形式を成している 2 。
全体の基調となるのは、深みのある黒漆である。光を鈍く反射する漆黒の表面は、具足全体に重厚かつ引き締まった印象を与えている 2 。この静謐な黒の世界にあって、鮮やかなアクセントとなっているのが、大袖や手甲に配された竹中家の家紋「丸に九枚笹」である 2 。笹の葉は、その生命力や真っ直ぐに伸びる姿から、古来より神聖視され、武家の家紋としても好まれた 9 。漆黒の中に浮かび上がる笹の紋は、この具足が竹中半兵衛という特定の個人のために作られたものであることを雄弁に物語ると同時に、その静かな佇まいの中に凛とした気品を添えている。
この具足の名称の由来であり、その最大の特徴となっているのが、胴部を構成する「魚鱗札」である。これは、魚の鱗を模した半円形に近い形状の小札(こざね)を無数に連ねて作られている 2 。
その製作技法は、日本の甲冑史においても極めて特殊である。通常、日本の伝統的な甲冑(特に大鎧や胴丸)は、「威糸(おどしいと)」と呼ばれる組紐を用いて小札を一枚一枚、縦横に綴じ合わせていくことで柔軟な防御面を形成する。しかし、この「魚鱗札二枚胴具足」では、威糸がほとんど用いられていない。その代わりに、鱗状の札を一枚一枚、下から順に少しずつ重ね合わせ、リベット(鋲)のようなもので留めていくという、他に類例の少ない技法が採用されている 2 。
この特殊な構造は、甲冑の性能に大きな影響を与える。威糸で綴られた甲冑は、柔軟性に富む一方で、雨水に濡れて威糸が腐食したり、戦場で刃物によって切断されたりするという脆弱性を抱えていた。特に集団戦が主体となり、斬り合いだけでなく突きや打撃も多用される戦国時代の合戦においては、威糸の損耗は深刻な問題であった。「魚鱗札」を鋲で留める構造は、この威糸の脆弱性を根本的に克服する試みであったと考えられる。
材質については明確な記録は残されていないが、同様の魚鱗札技法を用いた他の具足から類推することが可能である。例えば、村上水軍が使用したと伝わる「練革黒漆塗魚鱗札両引合胴具足」(刀剣ワールド財団所蔵)は、なめした強靭な牛革に漆を塗り重ねた「練革(ねりかわ)」を主材料としている 15 。練革は鉄に比べて軽量でありながら、漆を塗り固めることで高い強度を発揮する。半兵衛の具足も、この練革を主体としているか、あるいは防御力をさらに高めるために鉄と練革を巧みに組み合わせたハイブリッド構造であった可能性が考えられる。
この「魚鱗札」の構造は、戦国時代の甲冑技術における一つの画期的な実験であったと評価できる。それは、伝統的な小札鎧が持つ柔軟性と、鉄砲の普及に対応して登場した板札鎧(一枚板で作られた桶側胴や仏胴など)が持つ堅牢性の、双方の長所を両立させようとする野心的な試みであった。いわば、伝統と革新の「中間」に位置する、独自の解答だったのである。知将として知られる半兵衛が、このような先進的かつ実験的な構造の具足を積極的に採用したという事実は、彼が単なる戦術家ではなく、武具の技術革新に対しても鋭い視点を持っていたことを強く示唆している。
胴部と並び、この具足の個性を決定づけているのが、極めて特徴的な意匠を持つ兜である。武将にとって兜は、戦場における自らの「顔」であり、アイデンティティを最も強く表明する部位である。半兵衛の兜は、その思想と美意識を雄弁に物語っている。
その形状は、古代中国の官人が被った冠を模したとされる「唐冠形(とうかんなり)」に分類される 2 。しかし、その意匠は単なる模倣ではない。最も注目すべきは、通常の兜には必ず備わっている「眉庇(まびさし)」、すなわち顔面を保護するための「ひさし」の部分が存在しない点である。そして、眉庇があるべき兜の額部分には、まるで人間の顔のように、力強く隆起した眉毛が打ち出しによって表現されている 2 。
この異様な兜のモチーフについては、いくつかの解釈が存在する。一つは、胴部の魚鱗札に合わせて、兜全体で「魚」をイメージしたものであるという説である 2 。兜の鉢(頭部を覆う部分)を魚の頭に見立て、打ち出された眉を魚の目と捉える見方であり、そのユーモラスな形状が半兵衛の「食えない男」という側面を表現していると分析されている 17 。また、別の視点からは、眉庇がなく後部に特徴的な飾りを持つその形状が、モンゴル甲冑の影響を思わせるとの指摘もある 16 。
これらの解釈を踏まえ、さらに一歩踏み込んだ考察が可能である。眉庇を排し、人間の意志や知性を象徴する「眉」を敢えて剥き出しに強調するこのデザインは、半兵衛の自己演出、すなわち戦場における「ペルソナ」の構築と深く関わっていると考えられる。眉庇は物理的に顔面を保護する機能を持つが、同時に着用者の表情を覆い隠す。それを意図的に取り払うことは、物理的な防御性能よりも、敵に与える心理的なインパクトを優先した結果ではないか。それは、「私はこの頭脳で策を巡らし、敵を討つ」という、軍師としての絶対的な自信とアイデンティティを、敵味方の全てに宣言する、極めて象徴的なデザインであったと解釈できる。この兜は、物理的な脅威から身を守るための防具であると同時に、知性そのものを武器とする半兵衛の精神を可視化した、一種の心理的兵器だったのである。
「魚鱗札二枚胴具足」の真価を理解するためには、それを孤立した工芸品としてではなく、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲冑史という大きな技術的・文化的潮流の中に位置づける必要がある。本章では、この具足が持つ先進性と希少性を、歴史的な文脈の中で明らかにする。
竹中半兵衛の具足は、室町時代後期から安土桃山時代にかけて主流となった「当世具足(とうせいぐそく)」というカテゴリに分類される 18 。当世具足の「当世」とは「現代風」を意味し、それ以前の「大鎧」や「胴丸」といった伝統的な甲冑とは一線を画す、新しい形式の甲冑群を指す。
この革新の最大の原動力となったのが、鉄砲の伝来と戦場への普及である 19 。従来の弓矢に比べて遥かに高い貫通力を持つ鉄砲の登場は、甲冑の防御思想に根本的な変革を迫った。騎馬武者による一騎討ちを主眼に置いた大鎧では、鉄砲弾を防ぐことは困難であった。また、戦闘の主体が徒歩の足軽による集団戦へと移行する中で、甲冑にはより高い機動性と生産性が求められるようになった 20 。
こうした時代の要請に応える形で登場したのが当世具足である。その特徴は多岐にわたる。まず、防御力の向上のため、小札を紐で綴るのではなく、より大きな鉄板(板札)を用いて胴を製作する「桶側胴」や「仏胴」といった形式が発達した 19 。これにより、生産性を高めつつ、鉄砲弾に対する防御力を向上させた。同時に、全身の隙間をなくすために籠手(こて)や佩楯(はいだて)、臑当(すねあて)といった小具足が一体的に整備され、軽量化と動きやすさも追求された 20 。
そしてもう一つの大きな特徴が、武将の個性を反映したデザインの多様化である。特に兜においては、実用性を超えた奇抜な意匠の「変わり兜」が数多く作られ、戦場での自己顕示や、部隊の識別、士気の高揚といった役割を担った 23 。
竹中半兵衛の「魚鱗札二枚胴具足」は、まさにこの当世具足の理念を体現した好例と言える。威糸の脆弱性を克服しようとした「魚鱗札」の実験的な構造は、技術革新による実用性の追求という側面に合致する。そして、唐冠形に眉を打ち出した極めて個性的な兜は、武将のアイデンティティを表明する変わり兜の潮流そのものである。この具足は、戦国乱世という時代のダイナミズムが生み出した、機能性と自己表現が融合した最先端の武具だったのである。
「魚鱗札」を用いた甲冑は、その存在こそ知られているものの、現存する作例は極めて少なく、大変貴重なものである 15 。この希少性ゆえに、竹中半兵衛の具足の価値は一層高められているが、同時に、数少ない比較対象との検討を通じて、その独自性をより深く理解することが可能となる。
最も重要な比較対象は、伊予の村上水軍が使用したと伝わる「練革黒漆塗魚鱗札両引合胴具足」(刀剣ワールド財団所蔵)である 15 。この具足もまた、魚鱗状の札を鋲留めにしたと推測される構造を持つが、その設計思想には半兵衛の具足との間に明確な差異が見られる。
両者の特徴を比較すると、以下の表のように整理できる。
特徴 |
竹中半兵衛所用「魚鱗札二枚胴具足」 |
村上水軍伝来「練革黒漆塗魚鱗札両引合胴具足」 |
所蔵 |
林原美術館 1 |
刀剣ワールド財団 15 |
時代 |
安土桃山時代 |
江戸時代中期(推定) 15 |
胴形式 |
二枚胴 2 |
両引合胴 15 |
主材質 |
練革および鉄の可能性 |
練革 15 |
札の固定 |
鋲留め(威糸なし) 2 |
(同様の技法と推測) |
金具 |
通常の使用 |
最小限(海上戦を考慮) 15 |
兜 |
特徴的な唐冠形兜 2 |
(付属の面頬あり) 26 |
全体意匠 |
個性的・象徴的・自己表現的 |
機能的・実戦的(集団装備の可能性) |
この比較から、いくつかの重要な点が浮かび上がる。第一に、製作意図の違いである。村上水軍の具足は、「海上での戦いを考慮して、金具の使用を最小限に留めて」いる 15 。これは、海水による金具の錆び(塩害)を防ぐための、極めて実用的な配慮である。一方、半兵衛の具足にはそのような特徴は見られず、陸上での戦闘を前提として設計されたことが明らかである。
第二に、意匠の方向性である。村上水軍の具足が、集団で装備することを想定したであろう機能的で均質なデザインであるのに対し、半兵衛の具足は、唐冠形の兜をはじめ、細部に至るまで極めて個人的で、強い自己表現の意図が感じられる。これは、一軍を率いる軍師という、彼の特殊な立場を反映している可能性が高い。
このように、同じ「魚鱗札」という希少な技法を用いながらも、両者の間には明確な設計思想の違いが存在する。この比較を通じて、竹中半兵衛の具足が、特定の環境(海上)に特化した実用具ではなく、一人の武将の思想と美意識を色濃く反映した、唯一無二の作品であることがより一層際立つのである。
甲冑の意匠、特に変わり兜のモチーフは、単なる装飾ではない。それは着用者の思想、信条、あるいは戦場での験担ぎといった、精神的な意味合いを強く帯びている。戦国武将たちは、獅子や龍、鬼といった勇猛さを象徴する生き物や、神仏の加護を願う意匠を好んで兜に取り入れた 23 。例えば、鯱(しゃち)は火災から城を守る守り神とされ、厄除けの意味で用いられた 27 。
では、竹中半兵衛はなぜ、数あるモチーフの中から「魚」を選んだのか。魚は、獅子や鬼のような直接的な武勇の象徴ではない。この選択の背後には、軍師としての彼の思考様式が深く関わっていると考えられる。
魚、特に水中に棲む魚の動きは、予測が困難である。その動きは直線的ではなく、変幻自在で捉えどころがない。この「捉えどころのなさ」こそ、敵の意表を突き、常に二手三手先を読んで策略を巡らすことを旨とする、軍師の戦術思想と強く共鳴する。敵にとっては、半兵衛の思考は、まるで深淵を泳ぐ魚のように、その動きを読むことができず、底知れないものであったに違いない。
したがって、この「魚鱗札二枚胴具足」は、単に魚を模した奇抜な甲冑なのではなく、半兵衛自身の戦い方、すなわち「怜悧で底知れない知性」を象徴する、視覚的なメタファーであったと結論づけられる。彼はこの具足を身に纏うことで、自らが物理的な力ではなく、知略をもって戦う人間であることを、戦場の全ての者に対して宣言したのである。その異様な威容は、敵に恐怖や畏怖と共に、「この男は何を考えているのか分からない」という当惑を与え、心理的な優位を築くための、高度な戦略的意図を持っていた可能性が高い。
優れた工芸品や武具は、その物理的な存在だけでなく、時代を超えて人々の手を渡り歩いてきた「伝来」の物語によって、その価値を一層深める。本章では、「魚鱗札二枚胴具足」の来歴を追うとともに、しばしば混同されがちな竹中半兵衛ゆかりの別の武具との関係を整理し、伝来品をめぐる専門的な知見を提供する。
竹中半兵衛の死後、「魚鱗札二枚胴具足」は竹中家に代々伝えられてきたとされる。そして現在、この貴重な文化遺産は、岡山市にある林原美術館の所蔵品となっている 1 。
この具足は、経年による損傷が激しかったため、近年、大規模な修復作業が行われた。その結果、実に15年ぶりに一般公開されるに至ったという記録がある 1 。この事実は、単に具足が現存しているというだけでなく、その歴史的・文化的価値が正しく評価され、後世に伝えるための多大な努力が払われていることを示している。一人の武将の私物であった甲冑が、数百年という時を超え、文化遺産として大切に保存・継承されているのである。
竹中半兵衛が所用したと伝わる武具として、「魚鱗札二枚胴具足」と並び、あるいはそれ以上に有名なのが「一の谷形兜(いちのたになりかぶと)」である。しかし、この兜は本報告書で分析してきた具足とは全くの別物であり、両者を明確に区別しておく必要がある。
「一の谷形兜」は、源平合戦における源義経の有名な奇襲攻撃「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の舞台となった、一ノ谷の断崖絶壁を模したとされる奇抜なデザインを持つ 28 。これは、義経の武功にあやかり、戦勝を祈願する意味合いが込められていたと考えられる 11 。
この兜の伝来は、それ自体が戦国時代の人間関係を映す一つの物語となっている。半兵衛の死後、この兜はまず豊臣家の勇将・福島正則の手に渡った。その後、朝鮮出兵の際に正則と黒田長政が仲違いをし、その和解の印として互いの兜を交換した結果、長政の所有となったと伝えられている 11 。
黒田長政にとって、竹中半兵衛は父・官兵衛の盟友であると同時に、自らの命の恩人でもあった。前述の通り、信長の命令に背いてまで自分の命を救ってくれた半兵衛への恩義は、計り知れないものがあっただろう。その恩人の形見とも言える兜を、長政は天下分け目の関ヶ原の合戦をはじめ、重要な戦で着用したとされる 11 。これは、半兵衛の智勇にあやかりたいという願いと共に、彼への深い感謝と敬意の念が込められた行為であったに違いない。
ここで、二つの兜の存在が示唆するものを考察すると、興味深い対比が浮かび上がる。「一の谷形兜」は、半兵衛から正則、そして長政へと、人から人へと渡り歩く中で、友情や恩義といった「関係性」の物語を纏っていく、いわば「外交的」な武具である。それに対し、「魚鱗札二枚胴具足」は、そのような伝来の物語が(少なくとも記録上は)乏しく、竹中家という一つの家系の中に留まってきた、いわば「内省的」な武具と言える。
この対比は、竹中半兵衛という人物が持つ二つの側面を象徴しているようにも見える。「一の谷形兜」が、他者との関係性の中で生まれた「功績」や「絆」の象徴であるならば、「魚鱗札二枚胴具足」は、半兵衛自身の「内面」、すなわち彼の革新的な思考や戦略思想、そして美意識そのものを色濃く反映した、極めて個人的な武具なのである。この二つの武具を並べて見ることによって、我々は竹中半兵衛という人物をより立体的に理解することができる。
伝来品の鑑定は、常に真贋の問題を伴う。特に著名な武将の所用と伝わる品には、後世の付会や誤伝がつきものである。この点を考慮することは、本報告書で扱う具足の由緒を評価する上で重要となる。
興味深い指摘として、かつて竹中家ゆかりの品として公民館で展示されていた具足の中に、竹中家の家紋である「九枚笹」ではなく、「丸に一文字紋」が付いたものがあったという記録がある 30 。この具足も「竹中半兵衛重治所用」との木札が添えられていたというが、家紋という最も重要な識別情報に相違があることは、その伝来に疑問を投げかけるに十分な証拠となる 30 。
この事例は、伝来品の鑑定がいかに難しいかを示すと同時に、林原美術館所蔵の「魚鱗札二枚胴具足」の由緒の確かさを、相対的に補強する役割を果たす。林原美術館の具足は、大袖や手甲に竹中家の正式な家紋である「九枚笹」が明確に施されており、その様式や意匠にも一貫性が見られる。このような客観的な証拠の存在は、この具足が竹中半兵衛本人、あるいは竹中家と極めて強い結びつきを持つものであることの信憑性を高めているのである。
本報告書では、竹中半兵衛重治が所用したと伝わる「魚鱗札二枚胴具足」について、その着用者の人物像、具足自体の構造と意匠、そして歴史的・技術的な文脈という三つの側面から多角的な分析を行ってきた。これらの考察を通じて、この一領の具足が単なる防御具の域を遥かに超えた、極めて雄弁な歴史の証言者であることが明らかになった。
結論として、この「魚鱗札二枚胴具足」は、竹中半兵衛という稀代の軍師が持つ、以下の三つの本質を体現した、他に類を見ない文化的遺産であると断言できる。
第一に、 革新的な思考 である。威糸を用いず、鱗状の札を鋲で留めるという実験的な構造は、伝統的な甲冑の脆弱性を克服し、新たな時代の戦闘に対応しようとする、彼の先進的な精神を物語っている。
第二に、 怜悧な知性 である。魚をモチーフとしたその意匠は、単なる奇抜さの追求ではない。それは、捉えどころのない魚の動きに、敵の意表を突く自らの戦術思想を重ね合わせた、高度な戦略的メタファーであった。この具足は、彼の知性そのものを可視化した心理的兵器でもあった。
第三に、 計り知れない人物像 である。実利を重んじる合理主義者でありながら、極めて個性的な自己演出を厭わない。華奢な容貌の内に、大胆不敵な胆力を秘める。この具足が持つ、実用性と奇抜な意匠の同居は、半兵衛自身のアンビバレントな魅力をそのまま映し出している。
鉄砲の登場が戦術を根底から覆し、下剋上が常態化した戦国時代。その激動の時代にあって、一人の天才軍師は、自らの知性と個性を一領の甲冑に結晶させた。「魚鱗札二枚胴具足」は、その時代のダイナミズムと、その中で生き抜いた人間の精神が奇跡的に結実した、「物言う工芸品」なのである。その黒漆の輝きと鱗の連なりは、四百数十年の時を超えて、今なお我々に智将・竹中半兵衛の息遣いを伝えている。