最終更新日 2025-09-01

コシャマインの乱(1457)

戦国前夜、北の辺境に燃え上がった烽火 ― コシャマインの乱(1457)の総合的考察

序章:応仁の乱前夜の蝦夷地 ― 戦国を先駆けた辺境

本報告書は、長禄元年(1457年)に蝦夷地(現在の北海道南部)で勃発した「コシャマインの乱」を、単なる和人とアイヌの民族紛争という枠組みを超え、応仁の乱(1467年)に10年先駆けて発生した「戦国時代の縮図」として歴史的に位置づけることを目的とする。室町幕府の権威が失墜し、中央の秩序が崩壊へと向かう中、遥か北の辺境において、旧来の支配体制が武力によって覆され、実力のみを背景とする新たな権力者が台頭する様は、まさしく来るべき戦国乱世の力学を先取りするものであった 1

15世紀半ば、足利将軍家の権威は著しく低下し、有力守護大名たちは幕政の主導権を巡って内紛を繰り返していた。この中央政権の機能不全は、全国各地に「下剋上」の気風を蔓延させ、旧来の権威や秩序よりも個々の武力がものをいう時代の到来を告げていた。蝦夷地は、幕府の直接支配が及ばない「化外の地」と見なされていたが、この時代の大きな潮流と無縁ではあり得なかった。本州から渡来した和人(渡党)社会の内部で権力構造が変質し、先住民族であるアイヌとの関係が抜き差しならない緊張状態に至った背景には、この中央の混乱が深く影を落としていたのである。本稿では、この大規模な武力衝突がなぜ発生し、どのように推移し、そしていかなる歴史的帰結をもたらしたのかを、合戦のリアルタイムな様相を再現しつつ、多角的に分析する。

第一部:衝突の構造 ― なぜ戦いは避けられなかったのか

コシャマインの乱は、一人のアイヌ青年の死をきっかけに突如として燃え上がったかのように見える。しかし、その火種は長年にわたって燻り続けていた。その根源には、和人による経済的支配構造の確立と、それを支える政治的・軍事的権力の変質という、二つの深刻な問題が存在した。

第1章:北の交易世界とその歪み

15世紀の蝦夷地は、多様な民族が交流する交易の結節点であった。しかし、そのバランスは和人の進出によって徐々に崩れ、アイヌ社会を経済的に追い詰める構造的な問題へと発展していった。

アイヌの経済基盤と交易への依存

当時のアイヌ社会は、狩猟(ヒグマ、エゾシカ)、漁労(サケ、マス)、植物採集といった豊かな自然の恵みに依拠する自給自足経済を基本としていた 3 。しかし、彼らの生活はそれだけで完結していたわけではない。クマの毛皮、ワシの尾羽、コンブといった蝦夷地の特産品を、本州の和人や大陸の諸民族との交易に出し、自給できない物資を入手していた 3

その中でも特に決定的だったのが、鉄製品への依存である。アイヌは製鉄技術を持たなかったため、生活や狩猟に不可欠な小刀(マキリ)、鍋、農具といった鉄製品のほぼ全てを交易に頼らざるを得なかった 1 。この事実は、アイヌ社会が交易相手に対して構造的な弱みを抱えていたことを意味する。いわば、鉄製品の供給ルートは、彼らの経済的生命線そのものであった。

和人の北方進出と「道南十二館」

14世紀から15世紀にかけて、本州、特に津軽地方から「渡党(わたりとう)」と呼ばれる和人の集団が、津軽海峡を越えて渡島半島南部へ進出してきた 6 。彼らは、名目上は津軽の安藤氏の被官でありながら、半ば独立した勢力として、沿岸部の要衝に「館(たて)」と呼ばれる fortified 拠点を次々と築いていった 6

松前藩の公式史書である『新羅之記録』によれば、当時、渡島半島には12の主要な館が存在したとされ、これらは「道南十二館」と総称される 8 。これらの館は、単なる防衛拠点ではなかった。それらはアイヌとの交易を管理・独占する交易所であり、同時に、アイヌに対する軍事的な威圧を背景に和人の支配領域を維持・拡大するための前線基地という二重の機能を有していた 8 。館主たちは、この拠点を足がかりに、交易利潤を蓄積し、地域における影響力を強めていったのである。

交易バランスの崩壊

当初、和人とアイヌの交易は、相互にある程度の利益をもたらす互恵的な側面も持っていた。しかし、15世紀半ばを境に、そのバランスは急速に崩壊する。

大きな外的要因として、1449年に明で発生したモンゴル・オイラト部との軍事衝突「土木の変」が挙げられる 5 。この事件を機に、明の北方民族に対する影響力が著しく低下し、アイヌが大陸方面から得ていた交易ルートが衰退した。これにより、アイヌは鉄製品をはじめとする物資の入手を、和人との交易にますます依存せざるを得なくなった 5

この状況は、和人商人にとって交易の主導権を完全に掌握する好機となった。彼らはアイヌの足元を見て、一方的に交易レートをアイヌ側に不利なものへと改悪していった 10 。さらに、和人たちはアイヌの伝統的なサケ漁場にまで侵入し、大網を用いて乱獲を行うなど、彼らの食料基盤そのものを脅かす収奪行為を公然と行うようになった 10

この一連の動きは、単なる商取引上の不公正にとどまらない。それは、和人側がアイヌの経済的弱点を突き、意図的に「経済的従属構造」を構築しようとする過程であった。鉄器という生活必需品の供給を独占し、その優位性を最大限に利用して搾取を強化する。この構造の中で、アイヌは生存そのものを脅かされる状況へと追い込まれていった。もはや不満や摩擦といったレベルではなく、武力に訴えてでもこの隷属的な状況を打破しなければならないという危機感が、アイヌ社会全体に醸成されていったのである。

第2章:支配の空白と権力の変質

経済的収奪が深刻化する一方で、蝦夷地における政治的秩序もまた崩壊しつつあった。名目上の支配者であった安藤氏の権威が失墜し、現地の館主たちが野放図な実力支配を強めたことが、紛争の激化に拍車をかけた。

「日ノ本将軍」安藤氏の衰退

中世の蝦夷地は、津軽を本拠とする安藤氏の勢力圏と見なされていた。安藤氏は「日ノ本将軍」や「蝦夷管領」を称し、渡党である道南十二館の館主たちを被官として名目上の統制下に置いていた 12 。しかし、15世紀に入ると、安藤氏は本拠地である津軽において南部氏との抗争を激化させ、さらに一族内部でも内紛が頻発するようになる。

特に、安藤政季が南部氏との戦いのために蝦夷地を離れた後、この地域には事実上の「権力の空白」が生じた 5 。安藤氏の統制力が及ばなくなったことで、現地の館主たちはもはや誰の指図も受けることなく、自らの判断で行動するようになっていった。

館主たちの実力支配

安藤氏という「重し」が外れた館主たちは、さながら独立した小領主のように振る舞い始めた。彼らはアイヌとの交易から得られる莫大な利益を独占し、その経済力を背景に軍備を増強し、アイヌに対する圧迫を一層強めていった 12 。彼らにとって、アイヌはもはや対等な交易相手ではなく、搾取の対象でしかなかった。

この館主たちの姿は、中央の権威が衰える中で自らの実力でのし上がろうとする、まさしく「戦国武将の萌芽」であった。彼らの無軌道な支配と搾取が、アイヌの怒りを臨界点へと押し上げた直接的な要因となったのである。経済的収奪と政治的無秩序が絡み合い、蝦夷地はいつ爆発してもおかしくない火薬庫と化していた。

第二部:合戦のリアルタイム・クロノロジー

長年にわたる抑圧と搾取によって蓄積されたアイヌの怒りは、康正2年(1456年)のひとつの事件をきっかけに、ついに爆発する。それは、蝦夷地の歴史を塗り替える大規模な民族戦争の始まりであった。

第1章:発火点 ― 志濃里鍛冶屋事件(康正2年/1456年)

全ての始まりは、渡島半島東部に位置する和人の拠点、志濃里(しのり、現在の函館市志苔町)の鍛冶屋村で起こった 14

『新羅之記録』によれば、康正2年(1456年)の春、一人のアイヌの若者がこの村を訪れ、和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)の製作を注文した 1 。完成したマキリを受け取る段になり、若者はその品質に不満を述べ、代金を巡って鍛冶屋と激しい口論になった。両者の主張は平行線を辿り、ついに激高した鍛冶屋は、若者が注文したそのマキリを掴むと、その場で若者を突き殺してしまったのである 5

この事件は、単なる個人的な諍いから生じた殺人事件ではなかった。それは、鉄製品を巡る和人の優越的な立場と、それに対するアイヌの鬱積した不満が、最も暴力的な形で噴出した象徴的な出来事であった 15 。一人の同胞が、生活に不可欠な道具を求めた末に、その道具によって命を奪われたという報は、瞬く間にアイヌの集落間に伝播した。この一件は、もはや対話や交渉の余地はないと各地のアイヌ首長たちに確信させ、和人全体に対する全面的な武装蜂起を決意させる最後の一押しとなった。

第2章:蜂起と電撃的進攻(長禄元年/1457年5月)

事件から約一年、雪解けを待ったアイヌは、周到な準備の末、ついに決起の時を迎えた。

指導者コシャマインの登場

この全アイヌを挙げた蜂起の総大将として歴史の表舞台に登場したのが、渡島半島東部を拠点とする首長、コシャマインであった 5 。彼の出自や具体的な人物像については史料が乏しく不明な点が多いが、この大規模な反乱において、地域の別を超えて広範なアイヌ勢力を糾合し、統率したその卓越した指導力は疑いようがない 1

5月14日、蜂起

長禄元年(1457年)5月14日、コシャマイン率いるアイヌ連合軍は、蜂起の狼煙を上げた 15 。彼らが最初の目標としたのは、因縁の地、志濃里に築かれた志苔館(しのりだて)であった。館主・小林良景が守るこの館に、怒涛の如くアイヌ軍が殺到した。激しい攻防の末、小林良景は奮戦及ばず討死し、志苔館は陥落した 1

破竹の進撃

志苔館陥落の報は、道南の和人社会に凄まじい衝撃と恐怖をもたらした。勢いに乗るアイヌ軍は、これを皮切りに、和人の館が点在する渡島半島沿岸を東から西へと席巻していく。その進撃速度は驚異的であり、和人たちは組織的な抵抗もままならず、次々と駆逐されていった。

志苔館に続き、河野政通が守る宇須岸館(うすけしだて、後の箱館)が陥落。さらに西進し、中野館、脇本館、穏内館、覃部館、大館、禰保田館、原口館、比石館といった和人の拠点が、わずか数週間のうちにドミノ倒しのようにアイヌの手に落ちた 15 。特に松前守護・下国定季が守る大館も陥落し、定季自身が生け捕りにされるという事態は、和人側の敗北が決定的であることを示していた 17

この電撃的な進攻により、かつて渡島半島に威を誇った道南十二館のうち、実に10もの館が陥落し、和人勢力は壊滅的な打撃を受けた 1

表1:道南十二館一覧とその命運

館名称

当時の館主(推定)

現在地

乱における結末

志苔館

小林太郎左衛門良景

函館市

陥落 (館主討死)

宇須岸館

河野加賀右衛門尉政通

函館市

陥落

茂別館

下国安東八郎式部大輔家政

北斗市

籠城成功

中野館

佐藤三郎左衛門尉季則

木古内町

陥落

脇本館

南條治郎少輔季継

知内町

陥落

穏内館

蒋土甲斐守季直

福島町

陥落

覃部館

今井刑部少輔季友

松前町

陥落

大館

下国山城守定季

松前町

陥落 (館主捕縛)

禰保田館

近藤四郎右衛門尉季常

松前町

陥落

原口館

岡辺六郎左衛門尉季澄

松前町

陥落

比石館

厚谷右近将監重政

上ノ国町

陥落

花沢館

蠣崎修理大夫季繁

上ノ国町

籠城成功

出典: 8 等の情報を基に作成

この一覧は、アイヌ軍の進撃がいかに圧倒的であったか、そして和人側の支配体制がいかに脆弱であったかを如実に物語っている。東部から始まった蜂起の波は、半島をほぼ呑み込み、和人勢力は西端の二つの拠点に追い詰められたのである。

第3章:最後の砦 ― 茂別館と花沢館

和人社会が滅亡の危機に瀕する中、アイヌの猛攻を耐え抜いた拠点が二つだけ存在した。それは、渡島半島西部に位置する下国家政の茂別館(もべつだて)と、蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の花沢館(はなざわだて)であった 19

これらの館が籠城に成功した要因としては、地理的に西端に位置し、アイヌ軍の主力が到達するまでに防備を固める時間的余裕があったことに加え、館そのものの構造も挙げられる。特に花沢館は、平時の居館というよりは、有事の際に立てこもることを想定した険峻な山城としての性格が強かったことが、考古学的調査からも示唆されている 21

この絶望的な状況下で、和人最後の希望として歴史の表舞台に躍り出たのが、花沢館主・蠣崎季繁のもとに客将として身を寄せていた一人の武将、武田信広であった 22 。『松前氏系図』などによれば、彼は若狭守護・武田信賢の子とされるが、家督争いに敗れて流浪の身となり、蝦夷地へ渡ってきたと伝えられている 22 。その出自には諸説あるものの 25 、彼が卓越した武勇と将器を備えていたことは、その後の展開が証明することになる。

第4章:逆転の潮流 ― 武田信広の反攻

和人勢力が風前の灯火となる中、武田信広は行動を開始した。彼は館主の蠣崎季繁に対し、ただ籠城を続けるのではなく、積極的に打って出ることを進言したとされる。

信広はまず、各地で敗走し、山野に潜伏していた和人の敗残兵たちを糾合し、反撃のための中核部隊を組織した 26 。彼の類稀なる統率力は、希望を失いかけていた武士たちを再び奮い立たせた。兵力を再編した信広は、ついに花沢館から出撃。陥落した諸館を奪還し、アイヌ軍の主力を叩くべく、少数精鋭の部隊を率いて東へと進軍を開始した 28 。和人の存亡をかけた反撃の始まりであった。

第5章:決戦 ― 七重浜の死闘とコシャマインの最期(長禄2年/1458年)

蜂起から一年が経過した長禄2年(1458年)、両軍の雌雄を決する戦いの時が訪れた。

七重浜での対峙

武田信広率いる和人軍と、コシャマイン率いるアイヌ軍は、箱館にも近い七重浜(ななえはま、現在の北斗市)で対峙した 26 。依然として兵力ではアイヌ軍が圧倒的に優勢であった。

信広の戦術

この兵力差を覆すため、信広は周到な戦術を用いた。正面からの力押しを避け、敵を計略に嵌めることを画策したのである。『新羅之記録』などの記述によれば、信広はまず海辺の林に伏兵を潜ませた上で、主力がアイヌ軍の陣地に正面から攻撃を仕掛けた 17

和人軍は、アイヌ軍と一戦交えた後、計画通りに敗走を装った。これを見たアイヌ軍は、勝利を確信して追撃を開始する。信広の狙いは、敵を伏兵を配置した地点まで深く誘い込むことにあった。これは後に日本の戦国時代で多用される「釣り野伏せ」にも通じる高度な戦術であった 17

クライマックス

信広の術中に嵌り、追撃に夢中になったアイヌ軍の隊列が乱れた瞬間、潜んでいた伏兵が一斉に蜂起し、側面と後方から襲いかかった。予期せぬ奇襲にアイヌ軍はたちまち大混乱に陥る。この乱戦の最中、武田信広は自ら強弓を手に取り、敵の総大将を探し求めた。そして、ついに軍を指揮するコシャマインとその息子の姿を捉えると、立て続けに矢を放ち、父子二人を見事に射殺したのである 17

アイヌ軍の瓦解

絶対的な指導者であったコシャマインとその跡継ぎを同時に失ったアイヌ軍は、完全に統率を失い、総崩れとなった 1 。兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃走し、組織的な抵抗はここに終焉を迎えた。この七重浜における劇的な勝利により、一年以上にわたって蝦夷地を揺るがしたコシャマインの乱は、事実上終結したのである。

第三部:戦後の新秩序と歴史的意義

コシャマインの乱の終結は、単に和人側の勝利を意味するだけではなかった。それは、蝦夷地の和人社会内部の権力構造を根底から覆し、後の松前藩へと至る新たな支配体制を誕生させる、決定的な転換点となった。

第1章:北の「下剋上」― 蠣崎氏の台頭

この大乱は、一人の英雄を誕生させた。それは、流浪の客将から和人社会の救世主へと駆け上がった武田信広であった。

英雄の戴冠

コシャマイン父子を討ち取った武田信広の武功と名声は、道南の和人社会に鳴り響いた。和人滅亡の危機を救った彼の功績は絶大であり、最後の砦であった花沢館の主、蠣崎季繁は信広の器量を高く評価した。季繁は自らの娘を信広に娶らせて婿とし、蠣崎家の後継者として迎えたのである 17 。これにより、出自も定かでなかった一介の浪人、武田信広は、蝦夷地における最も有力な実力者としての地位を、その武功のみによって確立した。

この一連の出来事は、乱が和人内部の権力再編をもたらしたことを示している。乱の勃発によって、旧来の支配層であった道南十二館の館主たちの多くは討死、あるいはその権威を失墜した。この権力の空白地帯に、軍事的才覚のみを武器に彗星の如く現れたのが、よそ者である武田信広であった。彼は乱を平定するという最大の功績を上げることで、旧勢力に対する圧倒的な優位性を手にした。これは、血統や家格ではなく、実力が全てを決定するという、まさしく戦国時代の「下剋上」の論理が、北の辺境で現実のものとなった瞬間であった。

新拠点の構築

蠣崎氏を継承した信広は、旧来の花沢館に留まらず、その西に新たに勝山館を築城し、ここを自らの本拠地とした 26 。勝山館は、単なる軍事拠点ではなく、政治・経済・交易の中心地として機能し、信広による新たな支配体制の象徴となった。これは、かつての館主たちの緩やかな連合体という旧体制から、単一の強力な権力者による中央集権的な支配体制へと移行したことを意味していた。

第2章:終わらぬ戦いと松前藩への道

コシャマインという傑出した指導者を失ったものの、アイヌの抵抗の意志が完全に潰えたわけではなかった。

抗争の継続

乱の終結後も、和人とアイヌの間の緊張関係は続き、散発的な武力衝突はその後約1世紀にわたって繰り返された 1 。コシャマインの乱は、長期にわたる民族闘争の始まりを告げるものであり、決して終わりではなかった。

松前藩の礎

武田信広によって新たな支配者となった蠣崎氏は、その後も続くアイヌとの抗争を戦い抜きながら、徐々に蝦夷地における支配権を盤石なものにしていく。やがて5代目の慶広の時代になると、巧みな外交手腕を発揮し、中央の豊臣政権、そして徳川幕府から蝦夷地における交易独占権の公認を取り付けることに成功する 30

これにより、蠣崎氏は単なる地域の豪族から、公儀に認められた領主へと脱皮を遂げた。後に姓を「松前」と改め、近世大名・松前藩として、幕藩体制の中で北の地を支配する唯一の大名となる 13 。その全ての礎を築いたのが、コシャマインの乱における武田信広の勝利であったことは言うまでもない。

アイヌ社会への影響

一方、乱の敗北はアイヌ社会に長期にわたる深刻な影響を及ぼした。松前藩による支配体制が確立されると、彼らの自由な交易活動は厳しく制限された。藩は「商場知行制」や「場所請負制」といった制度を導入し、和人商人を介してアイヌとの交易を完全に管理下に置いた 34 。これにより、アイヌはさらに不利なレートでの交易を強いられ、経済的収奪はより一層システム化され、強化されていくことになった 36

結論:コシャマインの乱と戦国時代

コシャマインの乱は、和人による苛烈な経済的搾取が引き起こした大規模な民族蜂起であった。しかし、その歴史的意義はそれに留まらない。この乱は、中央の権威が及ばぬ辺境の地において、旧来の支配体制が武力によって崩壊し、実力を持つ新たな覇者がそれに取って代わるという、戦国時代の力学を明確に先取りした事件であった。

一介の浪人の身から、軍功のみを頼りに一国の支配者への道を切り開いた武田信広の生涯は、後に関東を制する北条早雲や、美濃を盗んだ斎藤道三にも比肩されるべき「戦国大名の原型」と言える。彼の登場をもって、蝦夷地における実力主義の時代、すなわち「戦国時代」が幕を開けたと結論づけることができる。応仁の乱に先立つこと10年、北の辺境で燃え上がったこの激動の烽火は、まさしく日本全土を覆うことになる大乱世を予兆するものであった。

補論:史料批判 ― 『新羅之記録』を読む視点

本報告書の記述、特に合戦の経過に関する部分の多くは、17世紀半ばに松前藩によって編纂された歴史書『新羅之記録』に依拠している 37 。この史料は、和人による北海道支配の成立過程を詳細に記録した現存最古の文献であり、その価値は計り知れない 37

しかし、この史料を解釈する上では、その性格を十分に理解しておく必要がある。『新羅之記録』は、言うまでもなく松前藩、すなわち「勝者」の視点から書かれた歴史書である。そのため、藩祖である武田信広の出自や活躍が、後世の視点から英雄的に脚色・誇張されている可能性は否定できない。

したがって、我々はこの史料の記述を尊重しつつも、考古学的な調査結果 8 や、当時の政治・経済状況といった客観的な証拠と照らし合わせながら、その記述の裏にある意図を批判的に読み解く姿勢が求められる。本報告書は、この史料批判の視点を常に念頭に置きつつ、コシャマインの乱の歴史的実像に迫ることを試みたものである。

引用文献

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  30. 蠣崎氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B0%8F
  31. 【アイヌ社会の「政戦」戦略の不明 コシャマインの戦い-4】 | 住宅ジャーナリスト・三木奎吾の 住宅探訪記 - 住宅雑誌Replan http://kochihen.replan.ne.jp/?p=44216
  32. 東京会場 - 東アジアの中の蝦夷地 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1401.pdf
  33. コシャマイン - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3/
  34. ② 松前藩の交易支配と 「場所」 https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc-att/ctll1r000000cz1r.pdf
  35. ③ シャクシャインの戦い https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc-att/ctll1r000000cz1o.pdf
  36. 1789年クナシリ・メナシの戦い/朝日にいちばん近い街 - 根室市 https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/tatakai/4719.html
  37. 新羅之記録 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/184140
  38. 新羅之記録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E4%B9%8B%E8%A8%98%E9%8C%B2
  39. 東京 8/20 「中世北方史」 入間田 - アイヌ民族文化財団 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1403.pdf
  40. 北海道の古文書(1) 「最古の文献「新羅之記録」と「福山秘府」」 吉成秀夫 - note https://note.com/kawaumi/n/n045c1b2ecd6c