七尾湾制海戦(1577)
天正五年、上杉謙信は七尾城を陸海から包囲。疫病と内応で城は陥落し、織田援軍も手取川で撃破された。謙信の急死で上杉氏の能登支配は短命に終わった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
『天正五年 七尾城の戦いと七尾湾制海権の攻防 ― 軍神・謙信最後の城攻め、その一年間の全貌』
序章:問い直される「七尾湾制海戦」
天正5年(1577年)、能登国(現在の石川県)において、戦国時代の勢力図を大きく塗り替える一つの合戦が終結した。一般に「七尾城の戦い」として知られるこの攻防は、越後の「軍神」上杉謙信がその生涯で最後に行った大規模な城攻めであり、約一年にも及ぶ長期戦であった。ユーザーが提示した「七尾湾制海戦」という呼称は、この長期にわたる攻城戦の中で、極めて重要な戦略的側面を指し示すものである。しかし、それは単一の艦隊決戦を意味するものではない。本報告書は、この「七尾湾制海権の攻防」を、陸海にまたがる複合的な攻城戦の生命線を巡る戦略的駆け引きとして再定義し、その一年間にわたる全貌を、合戦中のリアルタイムな状況が把握できる形で詳細に解明することを目的とする。
この戦いの本質を理解するためには、三つの核心的論点を深く掘り下げる必要がある。第一に、七尾城の攻防の帰趨を決定づけたのは、城壁を巡る直接的な武力衝突以上に、七尾湾の海上封鎖による兵站の完全な遮断であったこと。第二に、籠城方である能登畠山氏内部に深く根差した派閥対立が、外部からの軍事的圧力以上に城を内部から蝕んでいたこと。そして第三に、上杉謙信が武力だけでなく、巧みな調略と情報戦を駆使して、この内部対立を決定的な崩壊へと導いたことである。
したがって、七尾城の戦いは、単なる軍事史の一幕に留まらない。それは、政治、諜報、兵站、さらには疫病といった複合的要因が複雑に絡み合い、一つの名門大名を滅亡へと導いた、戦国時代における籠城戦の縮図とも言える事例である。本報告書では、『長家家譜』のような特定の家に偏った記録と、より客観的な史料を比較検討し、多角的な視点から合戦の実像に迫る。
第一章:戦乱前夜の能登 ― 崩壊する秩序
七尾城を巡る攻防は、突発的に生じたものではない。それは、天下統一へと突き進む織田信長と、それに抗する上杉謙信という二大勢力の衝突、そして、その狭間で自壊しつつあった能登畠山氏という地域権力の末路が交差した、必然的な帰結であった。
第一節:二大勢力の衝突 ― 織田信長と上杉謙信の北陸戦略
天正年間、織田信長は「天下布武」を掲げ、急速にその勢力圏を拡大していた。天正元年(1573年)に越前の朝倉義景を、次いで浅井長政を滅ぼし、天正3年(1575年)には越前一向一揆を殲滅するなど、北陸地方への圧力を着実に強めていた 1 。
一方、越後の上杉謙信は、室町幕府15代将軍・足利義昭からの要請を受け、信長包囲網の重要な一翼を担う存在となっていた 3 。かつて両者は、甲斐の武田信玄という共通の敵に対して協調関係にあったが、天正元年に信玄が病没すると、その関係は急速に冷却化する 1 。両者の間に横たわる加賀・能登は、互いの勢力が直接接触する新たな係争地となり、軍事衝突は避けられない情勢であった 1 。謙信には、信長が対武田への軍事協力に非協力的であったことへの不満も蓄積していたとされる 1 。
決定的な転機は、天正4年(1576年)に訪れる。謙信は長年敵対してきた加賀・越中の一向一揆と和睦を結び、同年6月、信長との同盟関係を正式に破棄した 1 。これにより、謙信は背後の憂いなく西進する体制を整え、北陸の覇権を巡る信長との全面対決へと舵を切ったのである。この決断が、能登侵攻、すなわち「七尾城の戦い」の直接的な引き金となった。
【表1】七尾城の戦い 主要関連年表
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年月 |
出来事 |
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天正4年 (1576) 9-10月 |
上杉謙信、越中を平定し、能登へ侵攻を開始。 |
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天正4年 (1576) 11月 |
第一次七尾城包囲戦が開始される。周辺の支城が次々と陥落。 |
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天正5年 (1577) 3月 |
謙信、関東の北条氏の動きに対応するため、一時越後へ帰国。 |
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天正5年 (1577) 5月 |
謙信不在の隙を突き、畠山方が反撃。熊木城などを奪還。 |
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天正5年 (1577) 閏7月 |
謙信、大軍を率いて再び能登へ出陣。第二次七尾城包囲戦が開始される。 |
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天正5年 (1577) 閏7月23日 |
城内で疫病が蔓延し、当主・畠山春王丸が病死。 |
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天正5年 (1577) 8月8日 |
長氏の要請を受け、織田信長が柴田勝家を総大将とする大規模な援軍の派遣を決定。 |
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天正5年 (1577) 9月15日 |
親上杉派の重臣・遊佐続光が内応。長続連ら主戦派を謀殺し、城門を開放。七尾城が陥落。 |
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天正5年 (1577) 9月23日 |
手取川にて、上杉軍が織田方の援軍を撃破(手取川の戦い)。 |
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天正6年 (1578) 3月13日 |
上杉謙信、春日山城にて急死。 |
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天正6-7年 (1578-79) |
上杉家で家督争い「御館の乱」が勃発。能登の支配力が弱体化。 |
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天正9年 (1581) |
織田信長、能登一国を前田利家に与える。 |
第二節:名門の落日 ― 内紛に揺れる能登畠山氏の実情
謙信が侵攻の標的とした能登畠山氏は、足利一門の名門守護大名であったが、その統治能力は崩壊寸前にあった。応仁の乱以降、一族の内紛が絶えず 5 、それに乗じて家臣団が実権を掌握する「下克上」が進行していた。
特に「畠山七人衆」と呼ばれる重臣連合(遊佐続光、温井総貞、長続連ら)の力が強大化し、主君を傀儡とする状況が常態化していた 7 。天正2年(1574年)には当主・畠山義慶が家臣の遊佐続光らによって暗殺されたという説があり、その後を継いだ弟の義隆も天正4年(1576年)に急死 9 。遂には、義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が当主として擁立されるに至り、統治機構は完全に麻痺状態に陥っていた 4 。
この権力の空白は、家臣団の深刻な派閥対立を生み出した。織田信長との連携を模索し、徹底抗戦を主張する筆頭重臣の長続連を中心とする「親織田派」と、上杉謙信に接近し、和睦による生き残りを図る遊佐続光、温井景隆らの「親上杉派」である 4 。この内部分裂こそが、能登畠山氏の最大の弱点であった。外部の二大勢力が能登に触手を伸ばす中、畠山家中は一致団結して国難に当たることができず、むしろ外部勢力を利用して内敵を排除しようとする内向きの権力闘争に明け暮れていた。この状況は、上杉謙信にとって、武力と調略を併用して能登を切り崩す絶好の機会を提供することになった。
第三節:七尾城 ― 天然の要害と七尾湾という生命線
畠山氏の居城である七尾城は、春日山城や月山富田城などと並び称される、日本屈指の規模と堅固さを誇る山城であった 9 。その名は、城が七つの尾根にまたがって築かれていたことに由来し、広大な城域は自然の地形を巧みに利用した一大要塞群を形成していた 14 。攻城の名手と謳われた上杉謙信ですら、その攻略に約一年もの歳月を要した事実が、この城の難攻不落ぶりを物語っている 9 。
しかし、七尾城の戦略的価値を決定づけていたのは、その陸上の防御力だけではなかった。城の背後には、能登島によって外海から守られた天然の良港、七尾湾が広がっていた 15 。この湾は、城にとって外部世界と繋がる唯一の生命線であった。平時においては、交易による経済的利益をもたらし、戦時においては、海上からの兵員や兵糧、武器弾薬の補給を可能にする。また、外部勢力との連絡や、万が一の際の脱出路としても機能し得た。
この「海の生命線」の存在こそが、七尾城の防御力を完全なものにしていた。逆に言えば、攻城側である上杉軍にとって、七尾城を完全に孤立させ、降伏に追い込むためには、陸からの包囲と同時に、七尾湾の制海権を掌握し、この海上補給路を遮断することが絶対的な戦略目標となったのである。この認識が、「七尾湾制海戦」という概念の核心をなしている。
第二章:第一次七尾城攻防戦(天正四年十一月~五年三月)
天正4年(1576年)秋、越中を完全に平定した上杉謙信は、満を持して能登へと軍を進めた。これに対し、能登畠山家中は内部に対立を抱えながらも、筆頭重臣・長続連の主導の下、籠城による徹底抗戦を選択。ここに、約一年にわたる長き攻防戦の火蓋が切られた。
第一節:謙信、能登へ侵攻 ― 支城群の陥落と包囲網の形成
天正4年9月、謙信は2万と号する大軍を率いて能登に侵攻した 9 。これに対し、能登畠山家中は謙信の介入を拒絶し、対決する姿勢を明確にした。評定の結果、日本屈指の堅城である七尾城での籠城戦が決定される 1 。城内の守備配置は、内部の力関係を反映するものであった。
【表2】七尾城籠城方における主要人物と派閥
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派閥 |
主要人物 |
守備担当区域 |
立場・動向 |
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名目上の当主 |
畠山春王丸 |
(城主) |
幼児であり、実権を持たない象徴的存在。 |
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親織田・徹底抗戦派 |
長 続連(ちょう つぐつら) |
大手口(正面) |
畠山家筆頭重臣。事実上の最高指揮官。織田信長に援軍を要請し、徹底抗戦を主導。 |
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長 綱連(ちょう つなつら) |
(続連の子) |
父と共に抗戦派の中核をなす。 |
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親上杉・和平派 |
遊佐 続光(ゆさ つぐみつ) |
蹴落口 |
長氏と対立する重臣。早くから上杉方と内通し、最終的にクーデターを実行。 |
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温井 景隆(ぬくい かげたか) |
古府谷 |
遊佐氏と共に親上杉派を形成。内応に同調。 |
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三宅 長盛(みやけ ながもり) |
(温井の与力) |
温井氏と行動を共にする。 |
この布陣が示すように、城の主要な防御拠点は、すでに対立関係にある重臣たちによって分担されており、一枚岩の指揮系統とは言い難い状況であった 9 。
謙信は、いきなり七尾城本体への力攻めは行わなかった。彼の戦術は、まず巨大な城を完全に孤立させることにあった。熊木城、黒滝城、富来城、穴水城といった七尾城を取り巻く支城群に矛先を転じ、これらを驚くべき速さで次々と攻略していった 1 。これにより、七尾城は周囲からの支援や連絡を断たれ、能登半島に浮かぶ孤島と化した。
第二節:籠城戦の始まり ― 難攻不落の城を前にした膠着
支城群を制圧し、包囲網を完成させた謙信であったが、七尾城の堅固さを前に攻めあぐねた。「軍神」をもってしても、天然の要害を利した巨大な山城を力でねじ伏せることは容易ではなかったのである 1 。
籠城側の長続連も、ただ籠もるだけではなかった。彼は上杉軍の背後を撹乱するため、領内の農民や寺社勢力を扇動し、一揆を起こさせようと画策した 1 。しかし、長年一向一揆に悩まされてきた謙信は、一揆への対処に長けており、その情報網を駆使して一揆の動きを事前に察知し、ことごとく鎮圧してしまった 1 。
攻め手なく、守りもまた万全。戦況は膠着状態に陥り、謙信は能登の地で越年することを余儀なくされた 1 。この時点で、戦いは双方にとって忍耐と消耗を強いる長期戦の様相を呈し始めた。
第三節:謙信の一時撤退と畠山方の反攻
天正5年(1577年)3月、戦況に予期せぬ変化が訪れる。関東の雄・北条氏政が上杉領の北関東方面へ出兵したとの報が謙信のもとに届いたのである 1 。本国の危機に対し、謙信は七尾城の包囲を維持しつつも、本隊を率いて一時越後へ帰国するという決断を下した。能登には熊木城の三宝寺平四郎、穴水城の長沢光国など、主要な拠点に守備隊を残しての撤退であった 9 。
この謙信の不在は、籠城する畠山方にとって千載一遇の好機であった。長続連らは即座に城から打って出て、反撃を開始した。上杉方の守備隊が手薄になった熊木城と富来城を謀略や攻撃によって次々と奪還し、さらには穴水城を包囲するに至った 1 。
この一時的な勝利は、長続連ら抗戦派の士気を大いに高揚させた。彼らにとって、この成功は自らの戦略の正しさを証明するものであり、「このまま持ちこたえれば、織田信長の援軍が到着し、必ずや勝利できる」という希望を確信へと変えさせた。しかし、この成功体験こそが、後に親上杉派による降伏の提案を頑なに拒絶させ、城内の対立を修復不可能なレベルにまで深刻化させる一因となった。謙信のやむを得ない一時撤退が、結果的に七尾城の内部崩壊を加速させる戦略的な触媒として機能したことは、歴史の皮肉と言えるだろう。
第三章:七尾湾の制圧 ― 見えざる海戦の実態
七尾城の攻防において、陸上での包囲網と並行して、もう一つの決定的に重要な戦いが静かに進行していた。それは、七尾湾の制海権を巡る攻防である。派手な艦隊決戦の記録こそないものの、上杉軍による海上封鎖は、七尾城の生命線を断ち、籠城側を緩やかに、しかし確実に窒息へと追い込んでいった。
第一節:補給路遮断という戦略 ― 上杉水軍による海上封鎖
謙信が七尾城を攻略する上で、陸路からの補給を断つだけでは不十分であった。背後に広がる七尾湾からの物資搬入を阻止しない限り、城は半永久的に持ちこたえる可能性があったからである。史料には、上杉軍が「海からも陸からも七尾城を包囲した」と明確に記されており 18 、これが謙信の基本戦略であったことを示している。
上杉謙信は、青苧(衣類の原料となる植物)の交易などを通じて日本海航路を重視し、その経済活動を支えるための水軍力を有していた 19 。能登侵攻にあたり、謙信は越後の直轄水軍を動員したか、あるいは能登周辺の在地水軍(警固衆など)を味方につけることで、七尾湾内の制海権を掌握したと推察される。この海上封鎖によって、七尾城は外部世界から完全に切り離され、文字通りの「陸の孤島」となった。
第二節:湾内における上杉方の軍事活動
大規模な海戦こそ記録されていないが、上杉軍が七尾湾内で船舶を自由に運用していたことを示す間接的な証拠は存在する。『長家譜』によれば、天正6年(1578年)の長連龍による穴水城奪回作戦の際、甲山城にいた上杉軍が船を使って穴水城への援軍に向かったと記されている 20 。これは、少なくともこの時点で上杉方が湾内の自由な航行権を確保し、能登半島沿岸の各拠点を海上ルートで有機的に結びつけ、兵員や物資を迅速に輸送できる体制を構築していたことを物語っている。
この制海権の掌握は、上杉軍に多大な戦略的優位をもたらした。陸路が寸断されても、海上から各拠点を支援し、包囲網を維持・強化することができた。一方で、七尾城の籠城兵たちは、眼下に広がる湾を敵の船が自由に行き交う光景を日々目の当たりにすることになった。それは、食料や矢弾が尽きていく物理的な苦痛以上に、援軍が来る望みが絶たれたという絶望感を植え付け、士気を著しく低下させる心理的な兵器としても機能した。海上封鎖は、七尾城を要塞から監獄へと変貌させたのである。
第三節:なぜ大規模な海戦は起きなかったのか ― 戦術的考察
七尾湾の制海権がこれほど重要であったにもかかわらず、なぜ畠山方は海上からの反撃を試みず、大規模な海戦が起きなかったのか。その理由は、双方の戦力と当時の戦略的状況から推察できる。
第一に、能登畠山氏の統治能力の低下は、陸軍のみならず水軍の組織力にも及んでいた可能性が高い。湾岸の在地水軍(警固衆)を統率し、上杉水軍に対抗できるだけの艦隊を編成する能力が、当時の畠山氏には欠如していたと考えられる。
第二に、畠山方が期待を寄せていた織田方の水軍は、当時別の戦線に釘付けにされていた。織田信長配下の九鬼嘉隆が率いる九鬼水軍は、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いで毛利水軍に大敗を喫しており、その再建と、依然として続く石山本願寺への海上補給路の遮断に全力を注いでいた 21 。遠く能登まで大規模な救援艦隊を派遣する戦略的余力は、この時点の織田方にはなかった。
これらの要因が重なり、七尾湾の攻防は、艦隊同士が火花を散らす海戦ではなく、上杉方による一方的な海上支配と、それによって籠城方が抵抗の術なく追い詰められていくという、静かなる消耗戦として進行したのである。
第四章:第二次七尾城攻防戦(天正五年閏七月~九月)
謙信の一時撤退によって得られた束の間の安息は、長くは続かなかった。天正5年(1577年)閏7月、関東の憂いを払拭した謙信が再び能登へ姿を現した時、七尾城の運命は急速に暗転していく。
第一節:軍神、再び ― 第二次包囲と城内の絶望
謙信が8000(一説に2万)の兵を率いて能登に再侵攻すると、一度は勢いを取り戻した畠山方の諸将はなすすべもなく、再び七尾城へと逃げ込んだ 1 。この時、籠城側は大きな過ちを犯す。防衛兵力としてだけでなく、周辺の領民たちをも城内へ強制的に収容したのである。その結果、城内の人口は1万5千人にも膨れ上がったと言われる 17 。
この過剰な人口集中は、籠城戦において致命的な結果をもたらした。限られた空間に多数の人間が密集したことで、兵糧の消費が激増しただけでなく、排泄物の処理が追いつかなくなり、衛生環境が極度に悪化した 24 。これが、後に城内を地獄へと変える疫病蔓延の温床となった。謙信は七尾城下に本陣を移し、鉄壁の包囲網を再構築。城は再び、外部から完全に遮断された。
第二節:疫病の蔓延 ― 当主・春王丸の死と士気の崩壊
夏を迎え、長期にわたる籠城と劣悪な衛生環境は、最悪の事態を引き起こした。城内で大規模な疫病(赤痢などが推測される)が発生し、兵士や領民が次々と倒れていったのである 12 。治療法も確立されていない時代、城内は阿鼻叫喚の巷と化した。
そして閏7月23日、この悲劇は城の中枢を襲う。名目上の城主であった畠山春王丸が、わずか5歳(もしくは6歳)で病に倒れ、その短い生涯を閉じたのである 11 。当主の死は、籠城する将兵から戦うための大義名分を奪い去った。「一体、誰のために戦っているのか」。この問いが、絶望と共に城内に広がった。士気は完全に崩壊し、もはや城としての統制を保つことは困難な状況に陥った。この危機的状況下で、長続連が城代として指揮を執り続けたが、人心はすでに彼から離れつつあった 25 。
第三節:最後の望み ― 織田信長への救援要請
絶望的な状況を打開するための最後の手段として、長続連は一つの賭けに出た。息子の一人である長連龍(ちょう つらたつ)を密かに城から脱出させ、安土の織田信長のもとへ援軍を要請する使者として派遣したのである 12 。
この要請に対し、信長は迅速に反応した。謙信の北陸への進出は、信長にとっても看過できない脅威であったからだ。天正5年8月8日、信長は北陸方面軍司令官である柴田勝家を総大将とし、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった織田軍の主力を結集させた総勢4万(一説に3万)ともいわれる大軍の派遣を決定した 18 。
これにより、戦局は新たな段階へと移行した。それは、「七尾城が陥落するのが先か、織田の援軍が到着するのが先か」という、時間との熾烈な競争であった。城内の抗戦派は援軍の到着を信じて最後の抵抗を試み、和平派は援軍到着前に降伏すべきだと主張する。一方、城外の上杉謙信は、織田の大軍が到着する前に、何としても七尾城を陥落させる必要に迫られた。七尾城の運命は、まさに風前の灯火となった。
第五章:落城への道程 ― リアルタイム・ドキュメント(天正五年九月)
天正5年9月、七尾城を巡る攻防は最終局面を迎えた。それは、織田援軍の接近という時間的制約の中で、上杉謙信の軍事力と外交術、そして城内の人間模様が複雑に絡み合った、息詰まるような心理戦であった。
九月上旬~中旬:水面下の攻防
織田の4万の大軍が北上中であるとの報は、上杉方の陣営にも緊張をもたらした。謙信は、力攻めでは間に合わないと判断し、二正面作戦を展開する。一つは、織田軍の進軍を遅延させるための軍事工作である。彼は、かつて敵対し、今は和睦関係にある加賀の一向一揆衆に協力を要請し、織田軍の進路妨害や後方撹乱を行わせた 17 。これにより、柴田勝家率いる大軍は、思うように進軍速度を上げることができなかった。
もう一つは、七尾城の内部崩壊を加速させるための最終調略であった。謙信は、城内の親上杉派の筆頭である遊佐続光に密使を送り、内応を促した。その条件は、「もし味方すれば、畠山氏の旧領に加え、対立する長一族の所領も与える」という、破格のものであったと伝えられている 24 。
この時、城内では対立が頂点に達していた。長続連・綱連父子は、織田の援軍到着を固く信じ、徹底抗戦を叫んでいた。一方、遊佐続光らは、疫病で将兵が次々と倒れ、当主まで失った今、これ以上の籠城は無意味な死を招くだけだと考え、降伏による生き残りを模索していた 24 。春王丸の死によって「主君のため」という大義名分が失われた今、両派の争いは、もはや自らの家門の存続をかけた剥き出しの権力闘争と化していた。謙信が提示した条件は、この遊佐の絶望と野心に火をつけたのである。
九月十五日(十五夜):裏切りの月夜
遊佐続光は、織田の援軍が落城までに到着する可能性は低いと判断し、ついに上杉方への内応を決断した。温井景隆、三宅長盛らもこれに同調した 24 。
運命の日は、9月15日。奇しくもこの夜は、中秋の名月、十五夜であった。
『長家家譜』などの記録によれば、遊佐続光は軍議を開くと称して、抗戦派の中核である長続連と長綱連の父子を自らの屋敷に招き入れた。そして、その場で一気に彼らを謀殺した 9 。指揮官を失った長一族は混乱に陥る。
その混乱の最中、月が天高く昇る頃、遊佐の手引きによって七尾城の城門が内側から開け放たれた。かねてより手筈を整えていた上杉軍が、鬨の声を上げて城内へと雪崩れ込んだ 9 。
どれほど堅固な城であろうと、内部から破られてはひとたまりもない。城内各所で抵抗を試みた長一族100余名はことごとく討ち取られ、ここに日本屈指の堅城と謳われた七尾城は、約一年にわたる籠城の末、内部からの崩壊によって陥落した 9 。鉄壁の要塞の唯一の弱点は、「人心」であった。謙信は、その弱点を的確に突き、織田援軍到着というタイムリミットぎりぎりで、この難攻不落の城を手中に収めたのである。
九月十七日~二十六日:戦後処理と次なる戦い
七尾城を陥落させた謙信の動きは迅速であった。9月17日には、すぐさま軍を南下させ、能登と加賀の国境に位置する要衝・末森城を攻略。これにより能登一国を完全に平定した 18 。
一方、柴田勝家率いる織田の援軍は、七尾城がすでに陥落したことを知らないまま進軍を続けていた。そして9月23日、加賀国の手取川を渡河している最中に、待ち構えていた上杉軍本隊の奇襲を受ける。これが世に言う「手取川の戦い」である。織田軍は、かねてより柴田勝家と不仲であった羽柴秀吉が戦線を無断で離脱するなど、指揮系統に混乱をきたしていたこともあり、増水した川に多くの兵が流されるなどして1,000人以上の死者を出す大敗を喫し、越前へと敗走した 18 。
9月26日、謙信は七尾城に凱旋入城し、城の普請(修復・改築)に着手した。この時、本丸から七尾湾の絶景を眺め、感慨にふけった謙信が詠んだとされるのが、有名な漢詩『十三夜の詩』である 9 。
霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行の過雁 月三更
越山併せ得たり 能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷 遠征を憶うは
(意訳:霜は陣営に満ち、秋の気は清らかである。雁の群れが空を渡り、月は夜更けに輝いている。越後の山々を越え、遂にこの能登の絶景を手に入れた。故郷を思う遠征の感慨も、今はさておこう)
この詩は、長年の宿願であった能登平定を成し遂げた謙信の達成感と、天下統一への新たな決意を示している。
第六章:戦後の能登と歴史的意義
七尾城を陥落させ、手取川で織田軍を撃破した上杉謙信は、生涯の絶頂期にあった。能登・越中を完全に掌握し、京へ向かう西進ルートの橋頭堡を築いたことで、信長との天下を巡る最終決戦は目前に迫っているかに見えた。しかし、歴史の歯車は誰もが予期せぬ方向へと回転する。
第一節:束の間の栄光 ― 謙信の急死と能登支配の終焉
能登平定の余韻も冷めやらぬ天正6年(1578年)3月9日、謙信は次なる関東遠征の準備中、春日山城で突如として倒れた。そして、意識が戻ることのないまま、3月13日に49歳でその生涯を閉じた 24 。死因は脳溢血であったと伝えられる。
「軍神」のあまりにも突然の死は、上杉家の運命を大きく揺るがした。謙信が後継者を明確に指名していなかったため、二人の養子、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子)の間で、壮絶な家督相続争い「御館の乱」が勃発したのである 29 。この内乱によって上杉家は国力を著しく消耗し、謙信が築き上げた能登・越中の支配地を維持する力を失ってしまった。謙信の死からわずか2年足らずで、上杉勢力は能登から撤退を余儀なくされ、その支配は束の間の栄光に終わった 26 。
第二節:長連龍の復讐と前田利家の能登入府
一方、織田信長のもとへ援軍要請に赴き、一族の悲劇から唯一生き延びた長連龍は、信長の後ろ盾を得て能登へ帰還した。彼は父と一族を死に追いやった遊佐続光とその一族を探し出し、これを討ち滅ぼして復讐を遂げた 30 。
上杉家の混乱に乗じて、織田勢力は再び北陸へと進出する。天正9年(1581年)、織田信長は能登一国を、腹心の将である前田利家に与えた 11 。利家は当初、七尾城に入城したが、山城は平時の統治には不便であると判断。港に近く、商業の中心地となりうる小丸山に新たな城(小丸山城)を築いて本拠を移した 31 。これにより、戦国史にその名を刻んだ難攻不落の巨城・七尾城は、その歴史的役割を終え、廃城となった。
第三節:「七尾城の戦い」が戦国史に与えた影響
「七尾城の戦い」は、戦国時代の歴史において、いくつかの重要な意義を持つ。
第一に、この戦いは上杉謙信の生涯における最後の、そして最大規模の城攻めであり、彼の軍事的才能と戦略的思考の集大成であった。力攻めを避け、兵站の遮断と調略によって、内部から敵を崩壊させるという彼の戦術は、攻城戦の一つの完成形を示している。
第二に、この戦いは能登畠山氏という、約170年にわたり能登を支配した名門守護大名の完全な滅亡を決定づけた。それは、旧来の権威がもはや通用せず、実力のみが支配者を決める戦国乱世の厳しさを象徴する出来事であった。
第三に、この戦いの結果、能登は最終的に織田家の勢力圏に組み込まれ、前田利家の支配地となった。これは、後の加賀藩百万石の広大な領国の礎の一部となり、北陸地方の政治・経済のあり方を大きく変える転換点となった。
結論として、「七尾城の戦い」は、いかに堅固な城塞であっても、内部に不和を抱え、生命線である兵站を断たれれば、必ず崩壊するという、戦国時代の攻城戦における普遍的な教訓を我々に示している。それは、武力のみならず、情報、外交、そして人心の掌握こそが勝敗を決するという、時代を超えた戦略の本質を物語る戦いであったと言えるだろう。
引用文献
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