最終更新日 2025-09-04

七曲口の戦い(1582)

天正十年、武田勝頼は織田・徳川連合軍の猛攻と家臣の離反により、新府城を焼き払い岩殿城へ逃避。小山田信茂の裏切りで退路を断たれ、天目山麓田野で自刃。名門武田氏は滅亡した。

天正十年・甲州征伐における武田氏滅亡の軌跡 ― 『七曲口の戦い』の真相と天目山への道

序章: 「七曲口の戦い」の特定と甲州征伐の全体像

「七曲口」の謎の解明

天正10年(1582年)の甲州征伐における「七曲口の戦い」という名称は、利用者様がご提示された「新府退去後の退路で織田・徳川が追撃」という状況説明とは、歴史的に見て直接的な結びつきが確認されない。史料において「七曲口」が合戦の舞台として明確に登場するのは、むしろ慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた「岐阜城の戦い」においてである 1 。岐阜城(当時は稲葉山城)は金華山に築かれた難攻不落の山城であり、「七曲り登山道」はその大手道(主要な登城路)として知られている 3 。福島正則らがこの七曲口から攻め上った記録が残されており 2 、ご提示の名称はこの戦いを指すのが一般的である。

しかしながら、利用者様の意図は、名称の特定そのものよりも、1582年の武田氏滅亡に至る過程、すなわち武田勝頼が本拠地たる新府城を放棄してから、織田・徳川連合軍の追撃を受け、最期の地である天目山で自刃するまでの一連の出来事を時系列で詳細に知りたいという点にあると拝察する。したがって、本報告書は、この名称に関する歴史的背景を冒頭で解明した上で、利用者様が真に探求されている**「武田氏滅亡に至る最後の数日間」 、すなわち 「天目山の戦い」**へと至る絶望的な逃避行と断続的な戦闘の過程を、極めて詳細な時系列に沿って再現することに主眼を置くものである。

甲州征伐 ― 必然だった崩壊の序章

天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける壊滅的な敗北は、武田氏の軍事的優位性を根底から揺るがした 6 。その後7年間、武田勝頼は外交戦略を駆使して領国を維持し、一時は武田家史上最大の版図を築き上げる辣腕を見せた 8 。しかし、その内実では国力が疲弊し、有力な譜代家臣を失ったことによる家臣団の動揺は深刻化の一途をたどっていた。

そして天正10年(1582年)2月3日、決定的な転機が訪れる。武田信玄の娘婿であり、信濃の要衝を抑える重臣・木曾義昌が織田信長に寝返ったのである 9 。この報を受け、信長は即座に武田討伐の総動員令を発令。その戦略は、武田氏に再起のいとまを与えない、周到かつ圧倒的なものであった。

織田信長は、嫡男・織田信忠を総大将とする数万の主力軍を信濃伊那方面から、同盟者である徳川家康の軍勢を駿河方面から、そして家臣の金森長近の軍勢を飛騨方面から、それぞれ武田領内へと侵攻させた 9 。さらに、関東の北条氏政もこれに呼応し、上野、伊豆、駿河の各方面から圧力をかけた 9 。これは、武田氏の領国を四方から同時に侵食し、完全に包囲殲滅するための、巨大な戦略的包囲網であった。

この甲州征伐は、単なる大規模な軍事作戦ではなかった。それは、信長が長年にわたり進めてきた外交・調略戦の最終段階であり、武田氏を政治的に孤立させ、内部から崩壊させるための総仕上げであった。木曾義昌や、後に決定的な裏切りを行うことになる一門衆筆頭の穴山梅雪といった有力者への事前の調略は、武田家臣団の結束を内側から蝕んでいた 11 。信長の侵攻は、この内部崩壊が確実となった段階で、圧倒的な物量と多方面からの同時圧力によって、抵抗の意志そのものを粉砕することを目的としていた。したがって、これから詳述する勝頼の逃避行は、一個人の戦術的失敗というよりも、この巨大な戦略システムによって追い詰められていく、名門武田氏の悲劇として捉えるべきなのである。


【表1:甲州征伐と武田勝頼の逃避行に関する詳細年表(天正10年)】

日付

場所

武田方の動向

織田・徳川方の動向

出来事の意義

2月3日

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-

織田信長、木曾義昌の寝返りを受け、武田討伐の総動員令を発令。

甲州征伐の正式な開始。

2月12日

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-

織田信忠軍、出陣。軍監として滝川一益らが同行。

主力軍による信濃侵攻の開始。

3月1日

駿河

穴山梅雪(信君)、徳川家康に通じ、織田方に寝返る。

徳川軍、穴山梅雪を先導に甲斐へ侵攻開始。

一門衆筆頭の裏切り。武田家中枢の崩壊が始まる。

3月2日

信濃・高遠城

仁科盛信(勝頼の弟)が籠城するも、織田信忠軍の猛攻により落城。盛信以下玉砕。

織田信忠軍、3万の兵で高遠城を総攻撃。

武田方の組織的抵抗の終焉。勝頼の防衛戦略が破綻。

3月3日

甲斐・新府城

勝頼、未完成の新府城に自ら放火し、小山田信茂を頼り岩殿城へ向け退去。

織田信忠軍、高遠城陥落後、諏訪へ進軍。

武田氏本拠地の放棄。勝頼が「国主」から「亡命者」へ。

3月7日

甲斐・甲府

-

織田信忠、甲府へ入城。武田一族の残党を処刑。

甲斐国の中心地が完全に制圧される。

3月9日

甲斐・鶴瀬

勝頼一行、小山田信茂の裏切りに遭い、岩殿城への道を絶たれる。

-

最後の逃げ道を失い、勝頼一行は完全に孤立。

3月11日

甲斐・田野

勝頼、信勝、北条夫人らが自刃。名門・甲斐武田氏が滅亡。

滝川一益の追撃軍が勝頼一行を捕捉し、包囲。

戦国大名・武田氏の歴史的終焉。


第一章: 崩壊の序曲 ― 新府城放棄に至る経緯

雪崩を打つ離反と高遠城の悲劇

織田信忠率いる主力軍の進撃速度は、武田方の予想を遥かに超えていた。それは、武田家臣団の戦意が、指導部の想像以上に喪失していたことの証左であった。信濃に点在する武田方の城は、ほとんど抵抗らしい抵抗も見せず、城主たちは次々と降伏、あるいは城を捨てて逃亡した 12 。織田軍は、ほぼ無傷のまま武田氏の心臓部へと迫っていったのである。

この急速な崩壊の中で、唯一、武士の意地を見せたのが、勝頼の実弟・仁科盛信が守る高遠城であった。天正10年3月1日、織田信忠は降伏を勧告する使者を送るが、盛信は使者の耳鼻を削いで送り返し、徹底抗戦の意志を表明した 13 。翌3月2日、信忠は3万とも5万ともいわれる大軍をもって高遠城に総攻撃を開始。対する高遠城の兵力はわずか3,000であった 9

戦いは凄惨を極めた。織田軍は大手口、搦手から一斉に攻めかかり、城兵も必死に防戦した。城内の女性たちまでもが薙刀を手に戦ったと伝えられる 12 。しかし、圧倒的な兵力差は覆しがたく、城はわずか1日で陥落。仁科盛信は自刃し、城兵はことごとく討たれるか自決し、全員が玉砕するという壮絶な最期を遂げた 9

高遠城の落城は、諏訪上原城にいた勝頼と残存家臣団に絶望的な衝撃を与えた。最後の組織的抵抗拠点が失われたことで、信濃での防衛戦略は完全に破綻。勝頼は、本国である甲斐への撤退を余儀なくされた 11

新府城での最後の軍議

勝頼が最後の望みを託したのが、韮崎に築城中であった新府城である。この城は、西側に「七里岩」と呼ばれる壮大な断崖絶壁を天然の要害とし、東には塩川が流れる、まさに難攻不落を期して設計された新時代の拠点であった 14 。信玄以来の居館であった躑躅ヶ崎館が手狭になったこともあり、勝頼はこの新府城を新たな武田氏の政治的・軍事的中心地としようとしていた 16

しかし、天正10年3月の時点で、城はまだ未完成の状態であった 18 。さらに深刻だったのは、兵の離散が相次ぎ、もはや籠城戦を戦い抜くだけの兵力も士気も残されていなかったことである 19 。新府城に集まった重臣たちの間で開催された軍議は、絶望的な雰囲気の中で行われた。

ここで、二つの進言がなされる。一つは、知略で知られる真田昌幸による、上州(群馬県)の岩櫃城への退避案であった。岩櫃城は険しい山に囲まれた堅城であり、再起を図るには格好の拠点であった 19 。もう一つは、郡内領主であり、武田一門に準じる重臣・小山田信茂による、自身の居城である岩殿城への退避案であった 10 。岩殿城もまた、巨大な岩山に築かれた要害であり、新府城からの距離が近く、また雪深い山道を行く必要がないという利点があった 10

勝頼は、最終的に小山田信茂の進言を受け入れた。これは、目前に迫る織田軍の脅威から一刻も早く離れたいという焦り、そして何よりも、長年にわたり武田家に仕えてきた重臣・小山田信茂への信頼に基づく判断であった。しかし、この選択が、彼の運命を決定づけることになる。

3月3日未明、新府城炎上

天正10年3月3日の払暁、武田勝頼は、自らの手で、完成を見ることのなかった新たな居城・新府城に火を放った 19 。燃え盛る炎は、武田氏の栄光の終わりと、絶望的な逃避行の始まりを告げる狼煙であった。『信長公記』は、この時、城内にいた人質たちが建物に閉じ込められ、焼き殺されたと記している 20

この新府城の放棄は、単なる軍事的な撤退ではなかった。それは、武田勝頼が「甲斐の国主」としての統治権威を自ら放棄した瞬間を意味していた。父・信玄が築き上げた「府中」という政治的中心地を捨て、一地方領主である小山田信茂の庇護を求めるという行為は、大名と家臣という権力構造の完全な逆転であった。この時点で、勝頼は「大名」から「亡命者」へとその立場を変え、その後の小山田による裏切りを誘発する土壌が、皮肉にも彼自身の手によって形成されたのである。

第二章: 運命の岐路 ― 岩殿城への逃避行

逃避行の始まり

新府城から立ち上る黒煙を背に、武田勝頼一行は東、岩殿城を目指して落ち延びていった。当初、彼に従う者たちは数百から1,000名ほどいたとされるが、主家を見限った者たちの脱落が相次ぎ、その数は刻一刻と減少していった 13 。最終的に勝頼の傍に残ったのは、元服を間近に控えた嫡男・信勝、正室の北条夫人、そして土屋昌恒、秋山紀伊守といった、ごく一握りの忠臣たちだけであった 22 。彼らは、滅びゆく主君と運命を共にすることを覚悟した、最後の武田武士であった。

甲州街道・鶴瀬宿へ

一行がたどったのは、江戸と甲府を結ぶ主要街道である甲州街道であった。目指す岩殿城への経路上にある鶴瀬(現在の山梨県甲州市大和町鶴瀬)は、宿場町であると同時に、甲斐国に設けられた十二の関所の一つが置かれた交通の要衝でもあった 24

武田側の史料である『甲陽軍鑑』によれば、勝頼一行は3月9日頃、この鶴瀬に到着し、小山田信茂からの迎えを待つために逗留したとされている 27 。岩殿城は目前であった。しかし、この地での数日間の待機が、彼らにとって最後の希望を打ち砕く、運命の時となる。


【表2:武田勝頼最後の逃避行における主要登場人物】

人物名

立場・役割

最終的な運命

武田勝頼

甲斐武田家第20代当主。

天目山麓・田野にて自刃(享年37)。

武田信勝

勝頼の嫡男。

父に先立ち、田野にて自刃あるいは突撃し戦死(享年16)。

北条夫人

勝頼の正室。北条氏政の妹。

田野にて自刃。

小山田信茂

武田家の重臣。郡内領主。

勝頼を裏切り、織田方に降伏するも、後に信長に不忠を咎められ処刑。

滝川一益

織田家重臣(四天王の一人)。追撃軍の指揮官。

勝頼を討ち取る最大の功績を挙げる。戦後、関東管領に任じられる。

土屋昌恒

勝頼の側近。

殿(しんがり)を務め、日川沿いで奮戦し戦死。「片手千人斬り」の伝説を残す。

小宮山友晴(内膳)

譜代家臣。

主君の危機に馳せ参じ、田野にて勝頼に殉じて戦死。

真田昌幸

武田家臣。

岩櫃城への退避を進言。勝頼滅亡後は織田、北条、徳川、豊臣の間を渡り歩き家名を存続させる。


第三章: 絶望の鶴瀬 ― 小山田信茂の裏切り

3月9日夜、裏切りの銃声

天正10年3月9日の夜、鶴瀬で待ち続ける勝頼一行の元に、小山田信茂からの「迎え」が来た。しかし、それは彼らが期待したものではなかった。信茂は、郡内領への入り口である笹子峠の道を封鎖し、木戸を固めていた 27 。そして、勝頼一行を招き入れると見せかけ、対岸から無慈悲な鉄砲を撃ちかけたのである 13

銃声は、最後の同盟者による裏切りという、最も残酷な現実を勝頼に突きつけた。岩殿城への道は完全に断たれ、一行は進むことも退くこともできない、完全な孤立状態に陥った。絶望が、残されたわずかな者たちの心を支配した。

裏切りの深層分析

小山田信茂のこの行動は、後世、「主君を裏切った不忠者」として厳しく断罪されてきた。しかし、戦国という時代の論理に照らし合わせれば、彼の決断は、単なる個人的な不忠義として片付けられるものではない。その背景には、国衆としての存亡をかけた、冷徹な政治的計算があった。

第一に、 領地と領民の保全 という、領主としての根本的な責務である。信茂は武田家の重臣であると同時に、先祖代々郡内地方を治めてきた独立性の高い国衆であった 29 。滅亡寸前の武田家に殉じることは、自らの領地と領民を、織田の大軍による殺戮と破壊に晒すことを意味する。既に甲府には織田信忠の主力軍が進駐しており 10 、信茂にとって、勝頼を受け入れるという選択は、自滅行為に等しかった。

第二に、 勝頼への信頼の欠如 である。長篠での大敗、御館の乱における外交的失敗、そして高天神城を見殺しにした一件 14 など、勝頼の代になってからの度重なる失策は、家臣たちの信頼を大きく損なっていた。武田家という巨大な組織を率いるだけの「人望」や「威光」が、この時点で勝頼にはもはや残されていなかった可能性は高い。

そして第三に、 織田軍の圧倒的な脅威 である。信茂が裏切った時点で、武田家の組織的抵抗は皆無に等しく、勝敗は完全に決してしまっていた。彼に残された選択肢は、滅びゆく武田家と共に玉砕するか、新たな覇者である織田信長に恭順して家名を保つかの二つしかなかった。

小山田信茂の裏切りは、戦国時代における「主君と家臣」の関係が、絶対的な忠誠心のみで結ばれたものではなく、主君が家臣の所領と生命を保障するという「安全保障契約」に基づいていたことを示す象徴的な事件である。勝頼がその安全保障を提供する能力を完全に失った時、その契約は一方的に破棄された。信茂の行動は、倫理的な側面から見れば裏切りであるが、戦国の世を生きる国衆としての視点から見れば、自らの共同体を守るための、極めて合理的な政治判断だったのである。それは、武田氏という大名権力の機能不全が招いた、必然的な結末であった。

第四章: 天目山への道 ― 最後の抵抗と追撃

追撃軍の編成と動向

勝頼一行が鶴瀬で絶望に打ちひしがれている頃、織田方の追撃体制は着々と整えられていた。総大将である織田信忠は3月7日に甲府へ入城し、武田信廉(信玄の弟)や一条信龍といった武田一族の残党を捕らえては処刑し、甲斐国内の完全制圧を進めていた 9

そして、孤立した勝頼の息の根を止めるべく、追撃部隊が編成された。この直接の指揮を執ったのが、織田四天王の一人に数えられる猛将・滝川一益であった 9 。一益は鉄砲の集団運用を得意とし、長篠の戦いでも鉄砲隊を率いて武田軍を壊滅させた実績を持つ、織田軍屈指の戦のプロフェッショナルである 32 。彼は軍監として信忠軍に属し、この甲州征伐において、最終的に勝頼を討ち取るという最大の功績を挙げることになる 31 。一益率いる数千の精鋭部隊は、裏切った小山田信茂などから情報を得て、勝頼一行の足跡を確実に追っていた。

絶望的な逃避行と最後の忠臣たち

進むべき道を失った勝頼一行は、武田氏発祥の地ともいわれ、先祖ゆかりの寺社が存在する天目山を目指し、来た道を引き返し始めた 9 。それは、もはや再起を期した戦略的撤退ではなく、死に場所を求めるための、悲壮な巡礼であった。この時点で、一行の数はわずか数十名にまで激減していた 21

この絶望的な退路において、武田武士最後の意地を見せたのが、殿(しんがり)を務めた勝頼の側近・土屋惣蔵昌恒であった。追撃軍が迫る中、昌恒は日川の渓谷沿いの道幅が狭まった地点で踏みとどまった。現地の伝承によれば、彼は崖に生えた藤蔓を片手で掴み、身体を支えながら、もう一方の手に持った太刀で、次々と襲いかかってくる織田兵を斬り伏せ、谷底へ蹴落としたという 35 。その奮戦は鬼神の如く、後世「片手千人斬り」として語り継がれることになる 9 。彼の目的は、敵を撃退することではなく、主君である勝頼が、武士として、そして武田家当主として、名誉ある最期を遂げるための時間を稼ぐことにあった。

また、この最後の逃避行において、武士の忠義とは何かを我々に問いかける、一つの逸話が残されている。小宮山内膳友晴という譜代家臣がいた。彼は、かつて勝頼の不興を買い、逼塞(謹慎)を命じられていた身であった 22 。しかし、主君の危機を知るや、彼は全ての私怨を捨てて馳せ参じ、勝頼への同行を願い出た。そして、自分を陥れた政敵たちがとうの昔に逃亡していたことを知り、悲嘆に暮れたという 22 。多くの家臣が主君を見捨てて去る中で、一度は見捨てられた男が、三代にわたる御恩に報いるために死地へと赴く。彼の姿は、崩壊していく武田家臣団の中で、ひときわ際立った忠義の光を放っていた。

第五章: 名門武田氏の最期 ― 田野における滅亡

天正10年3月11日、田野

土屋昌恒らの命を懸けた奮戦も、織田の大軍の前では、時間の猶予をもたらす以上の意味はなかった。滝川一益の追撃軍は、ついに天目山の麓、田野(現在の甲州市大和町田野)で勝頼一行に追いつき、完全に包囲した 9 。この時、勝頼の傍らに残っていたのは、わずか40名余りの家臣と、北条夫人をはじめとする侍女たちだけであった 21 。四方を敵に囲まれ、逃れる術はもはやない。戦国最強を謳われた名門・甲斐武田氏の、最後の時が訪れた。

滅びの儀式

しかし、彼らの最期は、単なる戦闘による玉砕ではなかった。それは、滅びゆく名門が、その「名誉」と「格式」を後世に伝えるために行った、極めて儀式的な集団自決であった。

まず勝頼は、数え16歳になる嫡男・信勝の元服の儀を、敵陣を前にしたこの場所で執り行った。信勝は、武田家代々の家宝である鎧「楯無」を身に着け、家督を譲られた 38 。武田家第21代当主となった信勝にとって、これが初陣であり、そして最後の戦いであった。父から家督を譲られた信勝は、残った家臣と共に敵中に突撃し、壮絶な最期を遂げたと伝えられる 9 。これは、武田家の家督が正式に継承され、信勝が武田家当主として死んだという「事実」を歴史に刻むための、最後の儀式であった。

次に、勝頼の正室である北条夫人が覚悟を決めた。勝頼は彼女に落ち延びるよう勧めたが、夫人はこれを毅然と拒否した 22 。そして、「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消える 露の玉の緒」という辞世の句を残し、自らの命を絶った 38 。彼女の死は、夫と運命を共にするという、武家の妻としての誇りを示したものであった。

侍女たちも次々と自害し、残った家臣たちは、後顧の憂いなく最後の戦いに臨んだ 39 。そして、全ての終わりを見届けた武田勝頼は、静かに辞世の句を詠んだ。

「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」 11

(おぼろ月がおぼろげにかすむように、私の人生もかすんでしまった。しかし今、雲が晴れるように迷いは消え、西方浄土へと向かうことができる。)

享年37。ここに、かつて父・信玄と共に天下にその名を轟かせた戦国大名・武田勝頼は、その波乱の生涯を閉じた。

史料から見る最期の情景

この最期の場面は、複数の史料によって異なる色合いで描かれている。織田方の公式記録である太田牛一の『信長公記』は、土屋昌恒らの奮戦を「比類なき働き」と称賛しつつも、勝頼主従の最期については比較的淡々と事実を記している 40 。一方で、武田方の視点で描かれた『甲陽軍鑑』や、侍女の視点から記されたとされる『理慶尼記』は、登場人物の心情や辞世の句などを詳細に記録し、より情緒的で悲劇的な物語としてこの出来事を伝えている 11 。これらの史料を比較検討することで、歴史的事実と、後世の人々がこの悲劇に付与した物語性の両側面を垣間見ることができる。武田氏の最期は、単なる軍事的敗北ではなく、後世に語り継がれるべき「物語」として、その幕を閉じたのである。

終章: 歴史的意義と後世への影響

戦国史における転換点

甲斐武田氏の滅亡は、戦国時代の勢力図を決定的に塗り替える出来事であった。長年にわたり織田信長を苦しめ続けた最大の敵が消滅したことにより、信長の権力は絶対的なものとなり、天下統一はまさに目前となった。

戦後、信長は論功行賞を行い、旧武田領を家臣たちに分与した。最大の功労者である滝川一益には上野一国と信濃二郡が与えられ、関東の諸大名を監督する「関東管領」に任じられた 41 。しかし、この新たな支配体制は、驚くほど短命に終わる。武田氏滅亡からわずか3ヶ月後の6月2日、京都・本能寺において信長が横死。これを機に、旧武田領は主を失った空白地帯と化し、徳川、北条、上杉が覇を競う「天正壬午の乱」へと突入していく。武田氏の滅亡は、織田政権の絶頂期を象徴すると同時に、その後の激動の時代の幕開けを告げる出来事でもあった。

武田勝頼 ― 再評価される悲劇の将

武田勝頼は、長らく「偉大な父の遺産を食い潰した暗愚な二代目」という評価に甘んじてきた。しかし、近年の研究、特に歴史研究家・平山優氏の著作『武田氏滅亡』などに代表される実証的な研究の進展により、その人物像は大きく見直されつつある 8

勝頼は、父・信玄から、家臣団の不和や、織田信長との絶望的な対立関係といった、数多くの負の遺産を引き継がされた 44 。また、彼が当主となった時代は、織田信長という、戦国時代における規格外の天才がその勢力を最大化させていく時期と完全に重なる。あまりにも強大な敵と、あまりにも不利な状況の中で、それでも7年間にわたり領国を維持し、時には拡大させたその手腕は、決して無能と断じられるものではない。彼は、時流に見放された悲劇の将として、再評価されるべき存在なのである。

地域に残る記憶

武田氏は滅亡したが、その記憶は終焉の地となった山梨県甲州市に、今なお色濃く残されている。毎年4月には「甲州市ふるさと武田勝頼公まつり」が開催され、勇壮な武者行列が、勝頼主従の悲劇を現代に語り継いでいる 45

また、勝頼らの亡骸は、後にこの地を支配した徳川家康によって手厚く葬られ、その菩提を弔うために景徳院が建立された 21 。敵将であった勝頼に対し、家康が示したこの敬意は、武士の情けか、あるいは、戦国の世の無常を知る者同士の共感であったのか。景徳院に静かに佇む勝頼の墓は、訪れる者に、栄華を極めた名門の儚い最期と、戦国という時代の厳しさと悲しみを、静かに語りかけている。

引用文献

  1. 岐阜公園のご紹介 - 岐阜信長公おもてなし武将隊 響縁 https://gifu-busho.com/gifu-park/
  2. 岐阜城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%9F%8E
  3. 七曲り登山道|岐阜市公式ホームページ https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubunka/kankou/1013265/1013573.html
  4. 金華山登山ガイド|岐阜市公式ホームページ https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubunka/kankou/1013265/index.html
  5. 岐阜城① ~国盗り物語・一 - 城館探訪記 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-1301.html
  6. 長篠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 武田家滅亡ー勝頼の最後 - 見本 https://www.umenoyaissei.com/takedakemetubou.html
  8. 「武田氏滅亡」平山優 [角川選書] - KADOKAWA https://www.kadokawa.co.jp/product/321601000712/
  9. 甲州征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  10. 甲州征伐- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  11. 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  12. 高遠城の戦い(甲州征伐)古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/takatojo/
  13. 【合戦図解】甲州征伐〜迫る織田・徳川!甲斐の名門武田家滅亡の軌跡〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nd4ty1cf7Dw
  14. 【新府城】織田信長に対抗するため、武田勝頼が築いた、武田築城術を集大成した城 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Oy2DaIuKIfw
  15. 武田勝頼の最後を巡る日帰り旅、新府城と景徳院 [続日本100名城][山梨県韮崎市][山梨県甲州市]|Rena - note https://note.com/rena_fr/n/na0e50da35982
  16. 新府城と武田勝頼公2 https://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
  17. ふる.さとの城を語ろう https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/9/9167/7099_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E.pdf
  18. 新府城 ~未完に終わった甲州流築城術の集大成~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/shinpujou
  19. 新府城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/shinpu.j/shinpu.j.html
  20. 最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70294?page=2
  21. 天目山の戦い(甲州征伐)古戦場:山梨県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenmokuzan/
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  29. 末代まで裏切り者の汚名を着た武田二十四将の一人・小山田左衛門尉信茂 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10124
  30. 新府城 http://shirabe.sunnyday.jp/castle/011.html
  31. 瀧川一益とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%80%A7%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
  32. 滝川一益は何をした人?「甲州征伐で大活躍したが清洲会議に乗り遅れてしまった」ハナシ https://busho.fun/person/kazumasu-takigawa
  33. 甲斐武田氏終焉の地 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/99115/yamanashishiromapsoto7.pdf
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  37. 「武田勝頼の墓」調査報告について - 甲州市 https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2017051600118/
  38. 命より、夫との死を選ぶ。19歳で壮絶な最期を迎えた武田勝頼夫人の愛 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/117343/
  39. 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919?p=1
  40. 徳川家康との偶然の出会いが運命を変えた!「片手千人斬り」の父と息子のちょっといい話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/161683/
  41. 織田信長最後の出陣はほとんど物見遊山だった? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=poDZCXfEMlE
  42. 滝川一益(たきがわかずます) - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/8/19885.html
  43. 【書評】平山優「武田氏滅亡」(角川選書)|三城俊一/歴史ライター - note https://note.com/toubunren/n/ndf65a82bd87d
  44. 【「本が好き!」レビュー】『武田氏滅亡』平山優著 - 新刊JP https://www.sinkan.jp/news/7735?page=1
  45. 令和7年度第60回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり【4月27日】 - 山梨 https://www.yamanashi-kankou.jp/koshu/event/koushu_furusato_katsuyori-ko-fes.html
  46. 令和7年度 第60回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり開催!4/27(日 https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2025022700033/
  47. 第43回 甲州市ふるさと武田勝頼公祭りを4月27日に開催いたします。 https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2021032300171/