最終更新日 2025-09-05

三刀屋城の戦い(1580)

天正八年「三刀屋城の戦い」は史実ではない。永禄年間の尼子・毛利の激戦と尼子再興軍の悲劇が融合した歴史的イメージ。毛利氏の東方戦略転換後、出雲は平穏化。三刀屋氏は政争で終焉を迎えた。

出雲国・三刀屋城の攻防:永禄の激戦と天正八年の真実

序章:天正八年「三刀屋城の戦い」への問い

天正8年(1580年)、出雲国三刀屋城において、尼子再興軍と毛利氏の間で激しい攻防戦が繰り広げられた――。この特定の年における合戦の存在は、戦国史に関心を持つ人々の間で語られることがある。しかし、この「1580年の戦い」を直接的に、かつ明確に記述した一次史料や、信頼性の高い歴史研究は現時点では確認されていない 1 。尼子氏再興を掲げた主力の軍勢は、この2年前の天正6年(1578年)に播磨国上月城の戦いで事実上壊滅しており、1580年に出雲で大規模な軍事行動を起こす能力は失われていたと考えるのが妥当である。

では、なぜ「1580年の三刀屋城の戦い」というイメージが形成されたのであろうか。その背景には、三刀屋城をめぐる複数の劇的な歴史的事実が存在する。すなわち、毛利氏の出雲侵攻が本格化した永禄年間(1562年~1563年)に実際に発生した尼子・毛利両軍の死闘、そして尼子再興に全てを懸けた山中幸盛(鹿介)ら残党の悲劇的な終焉である。これらの記憶が、長い年月を経て人々の間で混同され、あるいは結合された結果、特定の歴史的イメージとして再構成された可能性が極めて高い。

本報告書は、この認識のずれを単に訂正するに留まらない。利用者からの「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」での解説という要望に応えるべく、まず永禄年間に実際に起こった三刀屋城攻防戦の様相を徹底的に詳述する。その上で、尼子再興軍の興亡と、天正8年(1580年)当時の出雲国および周辺地域の政治・軍事状況を分析することで、「なぜその年には大規模な戦闘が起こり得なかったのか」を論証する。このプロセスを通じて、断片的な歴史的事実を丹念に解きほぐし、それらを正確な時系列と戦略的文脈の中に再配置することで、三刀屋城をめぐる尼子と毛利の攻防の全体像を、より深く、より正確に描き出すことを目的とする。

【表1:三刀屋城および関連勢力の動向年表(1540年~1591年)】

年(西暦/和暦)

三刀屋氏(当主:三刀屋久扶)の動向

尼子氏の動向

毛利氏の動向

尼子再興軍の動向

1540-41年(天文9-10)

尼子方として吉田郡山城攻めに参加 1

吉田郡山城攻めに失敗し、出雲へ撤退 5

大内氏の援軍を得て吉田郡山城を防衛。

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1560年(永禄3)

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当主・尼子晴久が急死。嫡男・義久が継承 1

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1562年(永禄5)

毛利氏の出雲侵攻を受け、毛利方に帰順 6

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出雲侵攻を開始。三刀屋城を重要拠点とする 1

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1562年(永禄5)

毛利からの援軍を得て、八畔峠で尼子軍を撃退 1

毛利方の補給路を断つため三刀屋城を攻撃。

宍戸隆家らを援軍として派遣。

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1563年(永禄6)

地王峠で尼子軍の大軍を迎撃。防衛に成功 1

宇山久兼らを大将に2,000騎で再度三刀屋城を攻撃。

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1566年(永禄9)

毛利軍の一員として月山富田城攻めに参加 1

月山富田城が開城し、降伏。戦国大名として滅亡 9

月山富田城を攻略し、出雲を平定 11

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1569年(永禄12)

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山中幸盛らが尼子勝久を擁して蜂起。出雲に侵攻 12

1575年(天正3)

毛利輝元に対し、忠誠を誓う起請文を提出 1

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1578年(天正6)

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播磨国・上月城を攻略。

拠点の上月城が落城。尼子勝久は自刃、山中幸盛は処刑。事実上壊滅 13

1580年(天正8)

毛利氏麾下の国人領主として出雲に在城。

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主戦場は対織田戦線の但馬・因幡方面へ移行 15

組織的抵抗力は消滅。

1588年(天正16)

毛利輝元の上洛に同行。徳川家康と面会したことで輝元の猜疑を買い、所領を没収される 4

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豊臣政権下で領国支配の集権化を進める。

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1591年(天正19)

京にて死去 4

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第一部:尼子・毛利の狭間で揺れる要衝 ― 三刀屋城と三刀屋氏

第一章:出雲の地理的要衝、三刀屋城

三刀屋城は、現在の島根県雲南市三刀屋町に位置する山城である。この地は、出雲国の中心地である松江平野と、内陸の山間部、さらには備後国へと抜ける街道が交差する交通の要衝であった 16 。この戦略的な立地から、三刀屋城は出雲を支配する者にとって、領国経営と軍事行動の両面で極めて重要な拠点と見なされていた。城は標高約200メートルの山に築かれ、連郭式の縄張りを持ち、随所に石垣や土塁、堀切、そして防御の要となる虎口(城門)が巧みに配置された堅城であった 3

戦国時代、この城は出雲の戦国大名・尼子氏の本城である月山富田城を防衛するために配置された支城ネットワーク「尼子十旗」の一つに数えられていた 1 。尼子十旗は、月山富田城を中心とした放射線状の防衛ラインを形成しており、三刀屋城はその中でも西方の重要な一角を担っていた。この事実は、城主である三刀屋氏が、単なる在地領主ではなく、尼子氏の軍事体制の中核を担う有力な国人領主であったことを示している。

第二章:国人領主・三刀屋氏の存亡をかけた選択

三刀屋城の主、三刀屋氏は鎌倉時代に信濃国から地頭としてこの地に入った諏訪部氏を祖とする名族である 18 。問題の時期の当主は三刀屋弾正忠久扶(ひさすけ)であった。彼は当初、尼子氏の家臣団の中でも有力な武士で構成される「惣侍衆」の一員として、主君である尼子晴久・義久父子に仕えていた 4 。天文9年(1540年)には、晴久が安芸国の毛利元就を討つために起こした吉田郡山城の戦いにも、尼子軍の一員として従軍している 1

しかし、戦国の世は非情である。永禄3年(1560年)、尼子氏の最盛期を築いた当主・尼子晴久が急死すると、その強大な求心力に陰りが見え始める。家督を継いだ嫡男・義久は若く、晴久ほどの威勢を示すことはできなかった。この機を捉え、中国地方のもう一方の雄である毛利元就が、石見銀山を巡る攻防で優位に立ち、満を持して出雲国への侵攻を開始する。この毛利氏の圧倒的な勢いを前に、出雲国内の国人領主たちに深刻な動揺が広がった 1

この状況下で、三刀屋久扶は重大な決断を迫られる。滅びゆく可能性のある旧主・尼子氏に忠義を尽くして殉じるか、それとも新たな覇者である毛利氏に帰順して一族の存続を図るか。国人領主にとっての至上命題は、自らの領地と一族の血脈を未来永劫にわたって保つことである 16 。久扶は、同じく有力国人であった三沢為清らと歩調を合わせ、永禄5年(1562年)頃、毛利氏の軍門に降ることを選択した 1

この久扶の選択は、後世の視点から見れば「裏切り」と映るかもしれない。しかし、これは戦国乱世を生きる国人領主として、極めて合理的かつ現実的な政治判断であった。尼子氏の衰退と毛利氏の興隆という、抗いがたい時代の大きな流れの中で、自らの家を守るために最善の道を選んだのである。だが、この決断こそが、彼の居城・三刀屋城を、尼子軍の凄まじい憎悪と執念が込められた攻撃の的とすることになるのであった。

第二部:三刀屋城、炎上 ― 永禄年間の攻防戦(リアルタイム解説)

第一章:毛利出雲侵攻の橋頭堡(永禄五年 / 1562年)

三刀屋久扶の毛利氏への帰順は、出雲の軍事バランスを大きく揺るがした。尼子氏にとって、かつての味方であり、防衛網の要であった三刀屋城は、今や喉元に突き付けられた敵の刃となった。一方、毛利氏にとって三刀屋城は、出雲国深部へと侵攻するための絶好の橋頭堡であり、兵站を維持するための最重要補給拠点へと変貌した 1 。尼子氏としては、この毛利の侵攻拠点を放置することはできず、その奪還は喫緊の課題となった。

永禄5年(1562年)、尼子義久は早速、三刀屋城への攻撃軍を派遣する。その大将は、尼子家中でも勇猛で知られた熊野入道西阿であった。尼子軍進撃の報を受け、三刀屋久扶は城兵を率いて出陣。しかし、兵力で劣る久扶は単独での迎撃は困難と判断し、新たな主君である毛利元就に急使を送り、援軍を要請した。

元就の反応は迅速であった。彼はこの戦略拠点の重要性を深く認識しており、即座に宍戸隆家、山内隆通といった歴戦の将を援軍として派遣した。毛利の援軍を得た三刀屋勢は、城に到達する手前の要害である八畔峠で尼子軍を迎え撃つ。両軍は峠道で激しく衝突したが、地の利と毛利の援軍に支えられた三刀屋方が優勢に戦いを進め、ついに熊野入道率いる尼子勢を撃退することに成功した 1 。三刀屋城は、毛利方となって最初の危機を、主君の的確な支援を得て乗り切ったのである。

第二章:地王峠の激戦(永禄六年 / 1563年)

前年の敗北は、尼子氏にとって屈辱以外の何物でもなかった。永禄6年(1563年)、尼子義久は雪辱を期し、前回をはるかに上回る規模の第二次三刀屋城討伐軍を編成する。総大将には宇山久兼、副将には牛尾幸清、立原源太兵衛といった尼子家中の中核を担う武将たちが任命された。その兵力は『陰徳太平記』などの軍記物によれば2,000騎に達したとされ、三刀屋城を完全に粉砕しようという尼子方の強い意志が窺える 1

進軍と対峙

尼子軍2,000の軍勢は、出雲平野を南下し、三刀屋領の境界をなす斐伊川を渡河した。その軍勢の威容は、田畑を耕す領民たちを恐怖に陥れたであろう。対する三刀屋久扶は、籠城という選択肢を採らなかった。彼は城から打って出て、尼子軍を平野部に入れる前に、山間の隘路である地王峠でこれを迎え撃つことを決断する。兵力で劣る側が、地の利を最大限に活かして大軍を食い止めるという、山城を拠点とする武将の定石であった。やがて、地王峠を挟んで両軍が布陣し、戦雲がにわかに垂れ込めてきた 1

【表2:永禄六年 地王峠の戦い 両軍兵力構成(推定)】

項目

尼子軍

三刀屋・毛利連合軍

陣営

尼子方

毛利方

総大将

宇山久兼

三刀屋久扶

主要武将

牛尾幸清、立原源太兵衛

(城兵が主体)

総兵力(推定)

2,000騎 8

(兵力不明だが、尼子軍より少数と推定)

結果

毛利本隊接近の噂により撤退。三刀屋城の防衛成功。

激戦と戦況の急転

地王峠での戦闘は熾烈を極めた。数に勝る尼子軍が波状攻撃を仕掛け、三刀屋勢は必死にこれを防ぐ。しかし、衆寡敵せず、三刀屋勢は徐々に押し込まれていく。ついに尼子軍は峠を突破し、三刀屋城の眼下を流れる三刀屋川まで進出。城は裸同然となり、落城はもはや時間の問題かと思われた 8

まさにその時、戦況を一変させる出来事が起こる。尼子軍の陣中に、一つの噂が疾風のごとく駆け巡ったのである。「毛利の大軍が、洗合(現在の雲南市掛合町)を出立し、我らの背後を遮断すべく進軍中」という情報であった 8

この情報は、尼子軍の指揮官たちを震撼させた。もしこれが事実であれば、彼らは目前の三刀屋城と、背後の毛利本隊に挟撃される形となり、退路を断たれて全滅する危険性があった。目前の戦術的勝利よりも、軍全体の壊滅という戦略的敗北のリスクを回避することが最優先と判断された。たとえそれが真偽不明の「噂」であったとしても、万が一の可能性を無視することはできなかったのである。宇山久兼ら尼子軍の将は、苦渋の決断を下す。目前の勝利を捨て、全軍の退路を確保するために、即時撤退を開始した。この噂が、毛利方の意図的な情報操作、すなわち謀略であった可能性は高い。いずれにせよ、三刀屋城はまたしても絶体絶命の危機を、兵力ではなく「情報」の力によって脱したのである。

第三章:月山富田城陥落への道標

三刀屋城が、二度にわたる尼子軍の猛攻を耐え抜いたことの戦略的価値は計り知れない。この城が毛利方の拠点として機能し続けたことで、毛利軍は後顧の憂いなく、出雲国内の他の尼子方諸城の攻略に戦力を集中させることが可能となった。事実、この地王峠の戦いの直後、毛利軍は尼子十旗の一つであり、日本海に面した重要拠点・白鹿城の攻略に着手し、これを陥落させている 1

三刀屋城という盤石な前線基地と補給路を確保し続けたことは、尼子氏の本城・月山富田城を徐々に孤立させる包囲網の完成に直結した。一つ、また一つと支城を失い、外部からの救援も兵糧の補給も絶たれた月山富田城は、永禄8年(1565年)から始まる毛利軍の総攻撃の前に為すすべもなく、翌永禄9年(1566年)11月、ついに開城。ここに戦国大名・尼子氏は滅亡する 9 。三刀屋城の堅守は、まさに出雲の覇権を巡る戦いの帰趨を決定づける、重要な道標となったのである。

第三部:尼子再興の夢、潰える ― 上月城、落日

第一章:執念の蜂起

尼子氏が滅亡した後も、その再興を願う者たちの執念の火は消えなかった。旧臣の中でも特に忠義に厚い山中幸盛(鹿介)は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈り、尼子家再興のためにその生涯を捧げることを誓った。彼は京の東福寺にいた尼子氏一族の尼子勝久を還俗させ、新たな当主として擁立。各地に離散していた旧臣たちを糾合し、尼子再興軍を組織した 1 。彼らは織田信長の支援を取り付け、毛利氏の支配に対する反攻の狼煙を上げる。

第二章:天正六年の悲劇(1578年)

一時は出雲・因幡の一部を奪還するなど勢いを示した尼子再興軍であったが、毛利氏の本格的な反撃の前に苦戦を強いられる。彼らの最後の拠点となったのが、播磨国と美作国の国境に位置する上月城であった 13 。天正6年(1578年)、毛利輝元は吉川元春・小早川隆景の両川を大将とする3万を超える大軍を動員し、上月城を完全に包囲した。

尼子再興軍の唯一の希望は、同盟者である織田軍の救援であった。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)率いる織田の援軍が播磨まで進出していたが、ここで予期せぬ事態が発生する。秀吉の与力であった播磨の有力大名・別所長治が突如として織田方に反旗を翻し、三木城に籠城したのである(三木合戦)。秀吉は、この背後からの脅威に対応するため、上月城の救援を断念し、全軍を撤退させてしまう。

織田軍に見捨てられた上月城は、毛利の大軍の前に完全に孤立無援となった。兵糧は尽き、城兵の士気は日に日に低下していく。もはやこれまでと悟った当主・尼子勝久は、城兵の命と引き換えに自刃。忠臣・山中幸盛も毛利軍に捕縛され、備中松山城へ護送される途中、阿井の渡しで謀殺された 12 。この上月城の悲劇によって、尼子再興軍は組織的な抵抗力を完全に喪失し、その再興の夢は儚くも潰え去ったのである。

第四部:天正八年(1580年)、出雲国の静寂

第一章:主戦場の東遷

尼子再興軍が壊滅した天正8年(1580年)、中国地方の政治・軍事状況は、永禄年間とは全く様相を異にしていた。毛利氏にとって、もはや出雲国内に憂慮すべき敵は存在しない。彼らの最大の脅威は、天下統一の道を突き進む東の巨人、織田信長であった。毛利氏の戦略的関心は、完全に出雲の「外」、すなわち織田方の羽柴秀吉軍と直接対峙する播磨・但馬・因幡といった東方国境線へと移行していた。

この当時の毛利方の戦略を如実に示す史料が残されている。毛利家の軍事を一手に担っていた吉川元春が家臣に宛てた天正8年付の書状である。その中で元春は、但馬国の防衛の重要性を説き、次のように述べている。「今、我々が山陰(但馬)を離れれば、但馬はすぐに敵(織田方)の手に落ちるだろう。但馬を失えば、敵は水陸両方から因幡へ攻め込み、そうなれば伯耆・出雲も危うくなる。故に、但馬を見捨てるわけにはいかない」 15

この書状から明らかなように、1580年時点での毛利首脳部の意識は、出雲国内の安定維持ではなく、東方からの織田軍の侵攻をいかに食い止めるかという点に完全に集中していた。出雲国は、彼らにとって安全な後方地域であり、兵力や資源を動員すべき供給基地と化していたのである。

第二章:毛利体制下の三刀屋城

このような状況下で、出雲国は毛利氏の支配下で比較的平穏な状態にあった。散発的な抵抗や一揆が皆無であったとは言えないが 20 、尼子再興軍のような組織的な勢力が大規模な攻城戦を仕掛けるような状況では断じてなかった。

三刀屋城主・三刀屋久扶の立場も、永禄年間とは大きく異なっていた。彼はもはや独立した国人領主ではなく、毛利氏という巨大な権力構造に組み込まれた一人の武将であった。事実、天正3年(1575年)には、主君・毛利輝元に対して改めて忠誠を誓う起請文を提出しており、毛利氏の家臣としての立場を明確にしている 1 。1580年当時、彼は毛利氏の麾下として三刀屋城に在城し、領国の安定に努めていたと考えられる。

永禄年間の激しい攻防戦は、出雲国内の覇権を巡る国人領主同士の生存競争であった。しかし、尼子氏の滅亡と尼子再興軍の壊滅を経て、出雲国における「戦いの季節」は終わりを告げていた。天正8年(1580年)の出雲は、もはや群雄が割拠する「戦国乱世」の段階ではなく、毛利氏という単一の巨大権力によって統治される「近世的秩序」への移行期にあった。この新たな秩序の中で、三刀屋城が再び大規模な合戦の舞台となることは、政治的にも軍事的にも起こり得ない過去の出来事となっていたのである。

第五部:三刀屋氏の終焉

戦国の動乱を巧みな政治判断で生き抜き、毛利氏の出雲平定に多大な貢献をした三刀屋氏であったが、その終焉は戦場ではなく、政争の中で訪れた。それは、武力ではなく、猜疑という目に見えぬ刃によってもたらされた、皮肉な結末であった。

第一章:輝元の猜疑

天正16年(1588年)、天下人となった豊臣秀吉の権威を示すため、毛利輝元は吉川広家、小早川隆景ら一門の重鎮と共に上洛した。この際、毛利家の有力家臣の一人として三刀屋久扶もこれに同行した。伝えられるところによれば、久扶はこの上洛の折、秀吉の居城である聚楽第において、当時、豊臣政権下で五大老の一人として重きをなしていた徳川家康と単独で謁見したという 4

この行動が、後に主君・輝元の耳に入ると、深刻な事態を招く。「久扶に二心あり」――輝元は、久扶が主君である自分を介さずに、天下の有力者である家康と接触したことを、毛利家に対する背信行為と見なしたのである 21

第二章:所領没収と流転

輝元の猜疑は、三刀屋氏にとって致命的な結果をもたらした。久扶は弁明の機会も与えられぬまま、鎌倉時代から代々受け継いできた本領である出雲国三刀屋の地を没収され、追放の憂き目に遭った 4 。これにより、数百年にわたってこの地を治めてきた名族・三刀屋氏の歴史は、突如として幕を閉じたのである。

この悲劇的な結末は、単に久扶個人の軽率な行動や、輝元の猜疑心だけが原因ではない。その背景には、より大きな時代の構造変化が存在した。毛利元就の時代、毛利家は安芸国の国人領主たちの連合盟主という性格が強く、麾下の国人たちは一定の独立性を保持していた 22 。久扶の行動も、こうした旧来の国人領主としての慣習や感覚からすれば、許容範囲内のものだったかもしれない。

しかし、豊臣政権が確立すると、時代は大きく変わる。秀吉は全国の大名に対し、領国内の支配体制を強化し、家臣団を完全に掌握する中央集権的な統治を求めた 23 。大名はもはや国人たちの盟主ではなく、領国を一元的に支配する絶対的な君主であることが求められたのである。この新しい価値観の中では、家臣が主君を飛び越えて他の有力大名と私的に接触することは、独立性の誇示、すなわち「二心」と見なされる許されざる越権行為であった。三刀屋久扶の悲劇は、戦国的な国人連合体制から、近世的な大名領国制へと社会が移行する過程で生じた、時代の歪みの犠牲者であったと言えるだろう。

結論:歴史的イメージと史実の再構築

本報告書で詳述した通り、「天正八年(1580年)の三刀屋城の戦い」という特定の合戦が、尼子再興軍と毛利氏の間で行われたという直接的な史実は確認できない。尼子再興軍の組織的抵抗は天正6年(1578年)の上月城落城をもって終焉を迎え、天正8年当時の毛利氏の戦略的関心は、平穏であった出雲国ではなく、東方の対織田戦線に完全に移行していたからである。

しかし、この「1580年の戦い」というイメージが全くの虚構であると断じるのは早計であろう。それはむしろ、三刀屋城をめぐる二つの異なる時代の、二つの強烈な記憶が、長い年月を経て人々の心の中で融合し、再構成された「歴史的イメージ」であると結論付けることができる。

一つは、永禄5年(1562年)と6年(1563年)に、実際に三刀屋城で繰り広げられた尼子・毛利双方の存亡をかけた死闘の記憶である。特に、2,000の大軍を情報戦によって退けた地王峠の戦いは、三刀屋城の歴史における最大のクライマックスであった。もう一つは、主家滅亡後も再興の夢を追い続け、悲劇的な最期を遂げた山中幸盛ら尼子残党の物語である。この不撓不屈の精神と悲劇性は、後世の人々に強い感銘を与え、伝説として語り継がれた。

この二つの記憶――「三刀屋城での激戦」と「尼子再興軍の悲劇」――が結びつき、具体的な年号として、尼子再興軍壊滅後の天正8年(1580年)という時点に投影されたのではないか。本報告書は、この流布されたイメージを起点としながらも、史料に基づき各事実を丹念に検証し、それらを正確な歴史的文脈の中に再配置する作業を行った。その結果、三刀屋城をめぐる攻防の真実の姿、すなわち永禄年間の戦略的重要性、国人領主・三刀屋氏の苦渋の選択、そして時代の大きな変化の中で迎えたその終焉という、より複雑で奥行きのある歴史像が浮かび上がってくる。歴史を探求する営みとは、時にこうしたイメージと史実との対話の中から、より深く豊かな理解を導き出すプロセスに他ならない。

引用文献

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  2. 堀尾氏邸宅跡(No.1) - 松江市 https://www.city.matsue.lg.jp/material/files/group/2/joukaku.pdf
  3. 三刀屋城 牛尾城(三笠城) 大西城(高麻城) 佐世城 阿用城 岩熊城 三刀屋じゃ山城 近松城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/simane/unnansi.htm
  4. 三刀屋久扶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%89%B6
  5. 歴史の目的をめぐって 尼子経久 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-amago-tsunehisa.html
  6. 出雲三刀屋家文書Ⅰ - 大阪歴史博物館 https://www.osakamushis.jp/education/publication/kenkyukiyo/pdf/no19/pdf19_08.pdf
  7. 三刀屋城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E5%9F%8E
  8. 超訳!三刀屋の歴史(鎌倉時代~戦国時代編)ー地域の歴史ってこんなにもエキサイティング! https://note.com/machanome/n/n5e602122eac9
  9. 尼子盛衰記を分かりやすく解説 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagokaisetsu/
  10. 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 尼子家滅亡・月山富田城の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=BmwddcQF4GQ
  12. 尼子一族盛衰記 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagoitizokuseisuiki/
  13. 【兵庫県】上月城 取って取られた激戦の城 山中鹿之助らの尼子家再興なるか https://yamatano.blog/archives/9971
  14. 【月山富田城の戦い】尼子家、ついに滅亡…!そして、不屈の男〈山中鹿介〉の物語が今始まる!!【きょうのれきし3分講座・11月28日】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xEhbfUuw-7o
  15. 第90回県史だより/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/223184.htm
  16. りびえーる - 尼子十旗(あまごじっき)探訪帳 - 山陰中央新報デジタル https://ww4.sanin-chuo.co.jp/livingyell/lifestyle/archive-featurestorys-955
  17. 三刀屋城の見所と写真・100人城主の評価(島根県雲南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2601/
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  20. 毛利輝元は何をした人?「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/terumoto-mouri
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