最終更新日 2025-09-09

三戸城の戦い(1591)

天正19年、九戸政実が豊臣秀吉に反抗し九戸城に籠城。秀次率いる大軍に包囲され、偽りの和睦で開城後、城兵は撫で斬りに。政実は処刑され、戦国時代の終焉を告げた。

天を衝く最後の抵抗:九戸政実の乱と九戸城攻防戦の時系列全詳解

序章:戦国時代の黄昏

天正19年(1591年)、陸奥国で繰り広げられた一連の合戦は、利用者様の認識する「三戸城の戦い」という呼称の背後にある、より広範で深刻な動乱の終局であった。この戦いの本質は、南部氏宗家の本拠・三戸城を巡る直接的な攻防ではなく、南部一族内の有力者・九戸政実が、主君・南部信直と、その背後に控える天下人・豊臣秀吉の権威に対して起こした反乱、すなわち「九戸政実の乱」である 1 。そして、そのクライマックスは、政実が籠城した堅城・九戸城を舞台とした壮絶な攻防戦であった 2

この戦いは、歴史の大きな転換点に位置づけられる。天正18年(1590年)の小田原征伐と、それに続く「奥州仕置」によって、豊臣秀吉による天下統一事業は事実上完成し、2世紀近く続いた戦乱の時代は終焉を迎えつつあった 3 。しかし、中央政権による急進的な領土再編は、奥州の地に新たな火種を撒き、各地で大規模な一揆が頻発する。かかる状況下で発生した九戸政実の蜂起は、秀吉の天下に対して組織的に行われた最後の、そして最大級の武力抵抗であり、戦国という時代の真の終焉を告げる画期となったのである 4 。本報告書は、この歴史的合戦の全貌を、合戦に至る力学から、リアルタイムに近い時系列での戦闘経過、そして悲劇的な結末に至るまで、徹底的に詳解するものである。

第一部:火種、奥州に燻る ― 合戦前夜の力学

第一章:南部宗家の内訌 ― 信直と政実、宿命の対立

九戸政実の乱の根源は、豊臣政権の介入以前から南部一族の内部に深く根差していた。九戸氏は、南部氏の始祖・南部光行の六男を行連を祖とする庶流でありながら、室町幕府からは宗家と同列に扱われるほどの高い家格を誇っていた 7 。政実はその九戸氏の当主として、武将としての器量に優れ、安東氏との鹿角郡を巡る戦いなどで軍功を重ね、その勢力は南部家中において宗家を脅かすほどに強大化していた 6

両者の対立が決定的なものとなったのは、南部宗家の家督相続問題であった。天正10年(1582年)、南部家24代当主・晴政とその嫡男・晴継が相次いで急死するという異常事態が発生する。晴継の死には信直による暗殺説も囁かれる中、後継者を決める一族の評定が開かれた 6 。政実は、晴政の婿であった実弟・九戸実親を強く推挙し、当初は実親を推す空気が強かった 7 。しかし、信直派の重臣・北信愛が、有力な一族である八戸政栄を調略したことで形勢は逆転し、最終的に南部信直が26代当主の座に就くことが強引に決定された 6

この結果に政実は到底納得できなかった。当主暗殺の容疑者ですらある信直の家督継承に激しい不満を抱き、信直への遺恨を胸に自領へ引き上げた 7 。その後、政実は天正19年(1591年)の正月には宗家への新年挨拶を欠席するなど、信直との対立姿勢を公然たるものとし、南部家は事実上の分裂状態に陥っていたのである 7

第二章:天下人の仕置 ― 奥州を揺るがした中央の介入

南部一族内の燻る対立に、決定的な油を注いだのが、中央政権、すなわち豊臣秀吉の介入であった。天正18年(1590年)、小田原征伐を終えた秀吉は、日本の東端に残された最後の独立地域である奥州の秩序形成に着手する。これが「奥州仕置」である 2

この機を捉え、南部信直は小田原に参陣して秀吉に臣従。その結果、秀吉から「南部内七郡」の所領を正式に安堵する朱印状を拝領した 2 。これは、信直が豊臣政権公認の南部家当主として、領内の仕置権を認められたことを意味する。これにより、信直は政実を遥かに凌駕する絶対的な地位と権威を手に入れたのである 2

この決定は、自らを信直と同等か、あるいはそれ以上の存在と自負していた九戸政実にとって、耐え難い屈辱であった 10 。奥州とは縁もゆかりもない中央の権力者が、自分たちの序列を一方的に決定づける。この事態は、政実が抱いていた「奥州の事は奥州の者が決めるべきだ」という地域的自立の誇りを根底から覆すものであった 3 。地域内の長きにわたるパワーバランスに中央権力が直接介入したことこそ、一族内の私的な確執を、天下人への公然たる反逆へと昇華させた決定的な転換点であった。政実の抵抗は、もはや信直個人への反発に留まらず、中央集権化という時代の大きな潮流に対する、奥州武士の最後の抵抗という側面を帯びることになる。

第三章:決起の狼煙(天正19年3月)

天正19年(1591年)3月、ついに九戸政実は約5,000の兵を率いて挙兵し、南部信直との全面戦争に突入した 6 。精鋭で知られる九戸軍は緒戦で信直軍を圧倒し、その支配領域へと侵攻を開始する 11 。九戸軍の勢いは凄まじく、信直の家臣の中からも政実方に寝返る者が続出する有様で、信直は自力での鎮圧が極めて困難な状況に追い込まれた 10

この状況は、信直にとって絶体絶命の危機であると同時に、政実を完全に排除する好機でもあった。窮地に陥った信直は、秀吉に援軍を要請するという最後の手段に打って出る 6 。この要請は、単なる一地方の反乱鎮圧という枠組みを大きく超え、豊臣政権による大規模な軍事介入を招く直接的な引き金となった。政実の矛先は、信直を通じて、その背後にいる天下人・豊臣秀吉へと向けられることになったのである。

第二部:天下、軍を動かす ― 九戸城攻防戦・時系列詳解

第一章:討伐軍の編成と進路 ― 史上最大級の奥州遠征

南部信直からの救援要請を受け、豊臣秀吉の対応は迅速かつ苛烈を極めた。これは単なる援軍派遣ではなく、「奥州再仕置」と称する国家事業として、自身の甥である豊臣秀次を総大将に据えた大討伐軍の編成を命じたのである 14

その陣容は、わずか5,000の九戸軍を殲滅するには明らかに過剰ともいえる、豪華絢爛なものであった。打手大将(実質的な現場司令官)には会津の蒲生氏郷、そして豊臣政権の中枢を担う浅野長政、石田三成、堀尾吉晴、さらには徳川家康の重臣である井伊直政といった、当代一流の武将たちが名を連ねた 14 。これに伊達政宗、上杉景勝、佐竹義重ら関東・奥州の諸大名も動員され、総兵力は6万とも6万5千ともいわれる未曾有の大軍勢となった 14

この常軌を逸した「過剰戦力」の投入には、明確な政治的意図があった。第一に、先行する葛西・大崎一揆などで露呈した奥州仕置の不徹底さを完全に払拭し、豊臣政権の権威を奥州全土に改めて誇示すること。第二に、動員した奥州諸大名に反乱鎮圧への加担を強いることで、豊臣への忠誠を試す「踏み絵」とすること。そして第三に、豊臣家の後継者である秀次に大規模な軍事指揮の経験を積ませ、その威光を高めることである。これは単なる鎮圧戦ではなく、天下統一の総仕上げとして、抵抗勢力への最終通告を叩きつけるための「見せるための戦争」であった。

天正19年7月24日、蒲生氏郷率いる中央軍は会津若松城を出発し、一路、北の九戸を目指して進軍を開始した 9

役職

武将名

兵力(推定)

総大将

豊臣 秀次

-

打手大将

蒲生 氏郷

約25,000

主要武将

浅野 長政

-

井伊 直政

-

石田 三成

-

堀尾 吉晴

-

大谷 吉継

-

奥州・関東諸将

伊達 政宗

-

上杉 景勝

-

佐竹 義重

-

南部 信直

約30,000(合流後)

津軽 為信

-

小野寺 義道

-

秋田 実季

-

松前 慶広

-

総兵力

約60,000 - 65,000

第二章:前哨戦の火花(天正19年8月23日~9月1日)

巨大な討伐軍が北進する中、九戸方は果敢な抵抗を見せる。

天正19年8月23日 、九戸方の武将・小鳥谷摂津守は、わずか50名の寡兵を率いて美濃木沢にて討伐軍の先鋒に奇襲を敢行した 1 。地形の利を活かした巧みな戦術により、約480名の敵兵に損害を与えたと伝えられる 1 。これは、豊臣の大軍に対する九戸方の最初の、そして意気軒昂たる一撃であった 20

しかし、大軍の前では局地的な戦術的勝利も焼け石に水であった。討伐軍は進撃の手を緩めず、九戸城へと迫る。

天正19年9月1日 、討伐軍は九戸城の前衛拠点である姉帯城と根反城に猛攻を仕掛けた 1 。城を守る姉帯兼興・兼信兄弟らは激しく抵抗したものの、圧倒的な兵力差の前に衆寡敵せず、両城は同日のうちに陥落した 10 。この前哨戦の敗北により、九戸城は外郭の防御拠点をすべて失い、孤立無援の「裸城」として、迫りくる大軍と直接対峙せざるを得ない状況に追い込まれたのである。

第三章:九戸城、絶体絶命の包囲網(9月2日)

天正19年9月2日 、ついに討伐軍の主力が九戸城下に到達。総勢6万を超える大軍が、政実率いる5,000の兵が籠る城を完全に包囲した 1

討伐軍の布陣は、九戸城を物理的にも心理的にも圧殺するものであった。

  • 西側 には、津軽為信、松前慶広、秋田実季、小野寺義道ら、北奥州の諸将が配置された 21
  • 北側 には、この乱の当事者である南部信直が陣を敷いた 21
  • 東側 には、徳川最強の猛将・井伊直政と、豊臣政権の実務を担う浅野長政が布陣 21
  • そして、城の正面玄関である 大手門が位置する南側 には、総大将格の蒲生氏郷と堀尾吉晴が控え、主攻を担った 21

この厳重な布陣は、九戸政実を生かして逃がすつもりがないという豊臣方の断固たる意志を示すものであった。同時に、北奥州の諸将を包囲の一翼に組み込むことで、彼らに豊臣方への忠誠を行動で証明させるという、巧みな政治的計算も含まれていた。見渡す限りの敵の旗指物に取り囲まれ、九戸城は文字通り、蟻の這い出る隙間もない絶望的な状況に置かれたのである。

四章:血戦の二日間(9月2日~3日)

包囲下におかれた九戸城であったが、その守りは決して脆弱ではなかった。城は西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川という三方の河川を天然の要害とし、火山灰が固まった特殊な土壌を垂直に削り出して作られた「切岸」と呼ばれる断崖絶壁によって守られていた 2 。その堅固さは、難攻不落と謳われるにふさわしいものであった。

9月2日、討伐軍による総攻撃が開始されると、九戸政実率いる5,000の籠城兵は、鉄砲隊を効果的に活用するなどして、死に物狂いの抵抗を見せた 10 。浅野長政が後に記した書状では、九戸方があっさりと降伏したかのような印象を与える記述があるが 2 、城の堅固な構造や後世の記録を鑑みれば、実際には極めて激しい攻防戦が繰り広げられたと推察される。数に任せて押し寄せる討伐軍に対し、籠城兵は地の利を活かして頑強に戦い、攻め手には多くの死傷者が出た 10 。この戦いは、決して政実一人の戦いではなく、彼に最後まで付き従った一族・家臣団の結束の賜物であった。

役職

人物名

備考

総大将

九戸 政実

南部家庶流、九戸城主。

副将

九戸 実親

政実の弟。南部家家督候補。

一族

久慈 政則

政実の弟。久慈氏へ養子。

中野 康実

政実の弟。後に南部家家老となる。

主要家臣

七戸 家国

南部一族の有力者。

櫛引 清長

櫛引城主。

小鳥谷 摂津守

緒戦で奇襲を成功させる。

大湯 昌次

大湯館主。

工藤 業綱

鉄砲の名手と伝わる。

第五章:偽りの和睦と開城(9月4日)

二日間にわたる猛攻にもかかわらず、九戸城を容易に陥落させられないことに、討伐軍の首脳陣は焦りを募らせていた。戦いが長引けば天下人の威信に傷がつき、また北国の厳しい冬の到来も目前に迫っていた 21 。そこで蒲生氏郷や浅野長政らは、力攻めによる正攻法から、謀略による早期解決へと戦術を転換する 10

討伐軍は、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を仲介役として城内へ派遣した 7 。和尚を通じて提示された和議の条件は、「政実ら反乱の主導者たちが投降すれば、城に残る兵士たちの命は保証する」というものであった 6

城内では、これが謀略ではないかと疑う声も上がった 6 。しかし、これ以上の籠城は無益な犠牲を増やすだけであると判断した政実は、苦渋の決断を下す。「敵の二万を殺すより、手前に尽くしてくれた五千を生かすことの方が大事」と述べ、一族郎党の命を救うために、この降伏勧告を受け入れた 21

天正19年9月4日 、九戸政実、弟の実親、七戸家国、櫛引清長ら主だった武将たちは、死を覚悟した姿である剃髪した上で白装束をまとい、静かに城門を出て討伐軍に投降した 7 。これをもって九戸城は開城され、熾烈を極めた攻防戦は一応の終結を見たのである。

第三部:約束の反故、血に染まる大地 ― 惨劇と終焉

第一章:二の丸の悲劇 ― 語り継がれる撫で斬り

九戸政実らの投降によって戦闘は終わったかに見えた。しかし、それはさらなる惨劇の始まりに過ぎなかった。討伐軍が提示した「城兵の助命」という約束は、初めから守るつもりのない、完全な偽りであった 22

開城後、城内に残っていた兵士たちはもちろんのこと、戦いには関与していない女性や子供、老人までもが二の丸に集められた 10 。そして、そこで豊臣軍による一方的な殺戮が始まった。人々は容赦なく斬り殺され(撫で斬り)、二の丸は血の海と化したと伝えられている 10 。さらに討伐軍は二の丸に火を放ち、その劫火は三日三晩、夜空を焦がし続けたという 21

この撫で斬りの伝承は、単なる後世の誇張ではない。近年に実施された九戸城跡・二の丸の発掘調査では、その悲劇を裏付ける物的な証拠が発見されている。首のない人骨や、無数の刀傷を負った女性のものを含む複数の人骨が出土しており、城内で非戦闘員を含む人々が惨殺されたという伝承の信憑性を極めて高いものとしている 2 。この考古学的発見は、豊臣政権による奥州平定が、抵抗勢力を根絶やしにするという冷徹な方針のもと、凄惨な暴力によって成し遂げられたことを物語っている。間近に控えた朝鮮出兵を前に、国内に少しでも不安の芽を残すことを許さないという、秀吉の非情な決意の表れであった。

第二章:首級、三ノ迫に消ゆ ― 九戸一族の最期

城兵の助命を信じて投降した九戸政実ら主導者たちを待っていたのも、また裏切りであった。彼らには反乱に至った経緯を弁明する機会すら与えられず、捕縛されたまま総大将・豊臣秀次の本陣が置かれていた三ノ迫(現在の宮城県栗原市)へと送致された 9

天正19年9月20日(西暦1591年11月6日) 、秀次の命令により、九戸政実、実親ら一族の主だった者たちは、その地で斬首に処された 6 。政実は享年56歳であった。

政実の首は、秀吉の元へ送られた後、京都の一条戻橋に晒され、天下への反逆者の末路として世に知らしめられたと公式には伝わる 21 。しかし、その一方で、忠義ある家臣が密かに主君の首を故郷の九戸まで持ち帰り、山中に手厚く埋葬したという伝承も、地元では固く信じられている 18

第三章:仲介者の悲哀 ― 薩天和尚の末路

この一連の悲劇の中で、もう一人の犠牲者がいた。善意から和議を仲介した長興寺の薩天和尚である。彼は豊臣方の言葉を信じ、一族を救うべく主君・政実を説得した。しかし、その結果は、自らが九戸一族を破滅に導く手引きをしてしまったという、耐え難いものであった 21

深い自責の念に苛まれた薩天和尚は、政実の死から四十九日が過ぎた日、驚くべき行動に出る。彼は単身、南部信直の居城である三戸城へ向かい、雪が降り積もる大手門の前で、自らの舌を噛み切って壮絶な自害を遂げたと伝えられている 21

彼が死に場所に、討伐軍の本陣ではなく、全ての元凶となった南部信直の居城前を選んだことは極めて象徴的である。それは、豊臣軍の非道に対する最大限の抗議であると同時に、中央権力を引き入れて同族を滅ぼした信直に対する、最も痛烈で沈黙の非難であったに違いない。

終章:戦国時代の終焉と遺されたもの

九戸政実の乱の鎮圧は、日本の歴史における一つの時代の終わりを明確に印した。この戦いをもって、豊臣秀吉の天下統一事業に対する全国規模での組織的抵抗は完全に終息し、群雄が割拠した戦国時代は名実ともに終わりを告げたのである 3 。それは、地方の論理が中央の論理に飲み込まれ、日本が「群雄割拠」から「中央集権」へと大きく舵を切る、最後の画期的な出来事であった。

乱の終結後、南部信直は中央の力を借りて最大の宿敵であった九戸氏を排除し、南部領内における支配体制を盤石なものとした。信直はその後、居城を九戸城(福岡城と改名)へ一時的に移し、最終的には盛岡城を築城して本拠とした 3 。これが近世大名としての盛岡藩の礎となり、南部氏は江戸時代を通じてこの地を治めることとなる。

一方、豊臣政権への反逆者として歴史に断罪された九戸政実であったが、その評価は時代と共に変化している。近年では、中央からの理不尽な支配に屈することなく、一族と故郷の誇りを守るために、圧倒的な敵に立ち向かった悲劇の英雄として再評価される動きが活発である 6 。彼の生き様と壮絶な戦いは、天下統一という大きな物語の陰に埋もれた、地方の最後の抵抗の記憶として、今なお地域のアイデンティティを象徴する物語として語り継がれている。九戸城跡に吹く風は、戦国という時代の終焉を告げた、奥州武士たちの誇りと悲哀を、現代に静かに伝えているのである。

引用文献

  1. 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
  2. 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/2318
  3. 九戸政実(くのへ まさざね) 拙者の履歴書 Vol.151~義に殉じた叛臣 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf65a22bd17cf
  4. 武家家伝_九戸氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/9he_k.html
  5. 【岩手県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 九戸政実の乱〜豊臣秀吉の天下統一最後の戦い https://www.youtube.com/watch?v=xhOlAowsdFc
  6. 九戸政実とは 豊臣秀吉天下統一最後の相手 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/kenpoku/nino_chiiki/1053577/1053578/index.html
  7. 「九戸政実」分家ながら南部宗家と並ぶ家柄。天下人秀吉と南部 ... https://sengoku-his.com/40
  8. 九戸政実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F
  9. Untitled - 九戸村 https://www.vill.kunohe.iwate.jp/brand/map/kunohe-map.pdf
  10. 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
  11. 【漫画】九戸政実の生涯~6万の豊臣軍と戦った武将の末路~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v9fDYraZDJ8
  12. 岩手県二戸市九戸城跡 https://www.city.ninohe.lg.jp/info/2324
  13. 九戸政実・天下人に盾ついて負け戦にあえて挑む! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=N99CtGolhJ4
  14. 九戸政実 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/251.html
  15. 九戸政実とは 秀吉の奥州征伐に挑む反骨の武将 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kunohemasazane.html
  16. 九戸城跡 - 二戸市 https://www.city.ninohe.lg.jp/Link/Pdf/213
  17. 戸城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/279/279shiro.pdf
  18. 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
  19. 九戸政実ガイドブック - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/053/589/guidebook.pdf
  20. 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再 ... https://sengoku-his.com/122
  21. 九戸城跡〜高橋克彦さんの『天を衝く』の舞台に行ってきたので ... https://hojo-shikken.com/entry/2017/07/01/104257
  22. 六万の軍勢に耐えた九戸城が持つ秘密とアイヌ語地名 - note https://note.com/aokomaki/n/n71134dd99735
  23. 岩手から秋田への内陸部夏祭り旅(六日目完)~戦国時代の終焉となった九戸政実の乱の舞台、九戸城。天下統一の新しい時代に潰された悲惨な結末です~ (二戸・一戸) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11532559
  24. 天正19年(1591)9月4日は蒲生氏郷、浅野長政らが奥州で起きた九戸政実の乱を鎮圧した日。もともとは奥州南部氏の後継者を巡る一族内の争いから起きた反乱。秀吉による奥州仕置が終わった後に起きた最後の - note https://note.com/ryobeokada/n/n96fbe8b108d1
  25. 九戸政実と豊臣秀吉-奥州再仕置 http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/kunohejo/masazane-hideyosi.html
  26. 二戸市の九戸城主・九戸政実が,天正19年9月20日に栗駒で処刑されたという説があるそうです。9月20... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000117705&page=ref_view
  27. 九戸政実プロジェクト概要 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/kenpoku/nino_chiiki/1053577/1053605/index.html