三根山城の戦い(1581)
天正十年、細川忠興は丹後守護一色氏の最後の拠点弓木城を攻略。本能寺の変後、明智光秀に与した一色義定を謀殺し、稲富鉄砲隊の奮戦も空しく城は落城。名門一色氏は滅亡した。
丹後最終決戦史実考:天正九年の偽計と天正十年の弓木城攻防
序章:三根山城をめぐる謎と、丹後最終決戦の実像
天正九年(1581年)、丹後国において細川氏が山城を攻略したとされる「三根山城の戦い」。この合戦名は、戦国時代の丹後国の歴史を紐解く上で、一つの謎を提示する。結論から述べれば、この名称で特定される大規模な戦闘は、同時代の信頼性の高い史料からは確認することができない。しかし、この問いは、丹後国の支配権を巡る最終決戦の核心へと我々を導く重要な導入路となる。
利用者様ご提示の「三根山城」に関する学術的考察
「三根山城」という呼称が指し示す対象については、いくつかの可能性が考えられる。第一に、時代も場所も異なる越後国の「三根山藩」との名称上の混同である 1 。第二に、丹後国に実在した「峰山(みねやま)」地域(現在の京都府京丹後市峰山町)との関連性である 3 。この地域には吉原山城をはじめとする中世城郭が存在したが、天正九年に細川氏による大規模な攻略対象となったという記録は見当たらない 5 。
これらの可能性を排した上で、最も有力視されるのが、ご指定の事象が、丹後平定事業の最終局面、すなわち天正十年(1582年)に繰り広げられた 弓木城(ゆみきじょう) (現在の京都府与謝郡与謝野町)をめぐる一連の攻防を指しているという説である 6 。弓木城は、丹後の旧守護大名・一色氏が最後の拠点とした堅固な山城であり、その陥落は丹後における中世的支配の終焉を告げる画期的な出来事であった 7 。
「三根山城」という名称の曖昧さは、中央政権(織田・豊臣方)の記録と、丹後地方の伝承との間に生じた情報の齟齬や、後世における歴史事象の単純化に起因する可能性がある。中央から見れば「丹後の山城を攻略した」という一つの事実が、その情報が伝播する過程で、地域の象徴的な地名である「峰山」と結びつき、変容したのではないかと考えられる。
報告書の主眼:天正九年の「前史」と天正十年の「決戦」
本報告書では、この「弓木城の戦い」こそが、ご関心の核心である「丹後再編で細川方が山城を攻略」した戦いの実像であると特定し、その全貌を詳述する。
ご指定の天正九年(1581年)は、大規模な戦闘こそなかったものの、細川氏と一色氏の間に政略結婚による「偽りの和睦」が成立した、極めて重要な年であった 10 。この年の政治的駆け引きと水面下での緊張の高まりこそが、翌天正十年(1582年)の本能寺の変を契機とする最終決戦へと直結する。物理的な落城は1582年であるが、丹後の独立勢力としての一色氏がその存続の道を事実上閉ざされたのは、この1581年の和睦の時点であったと言っても過言ではない。
したがって、本報告書は二部構成を採る。第一部では、天正九年に至るまでの丹後の情勢と、偽りの和睦が成立するまでの経緯を「前史」として描き出す。そして第二部では、本報告書の主眼として、天正十年の本能寺の変勃発から一色義定の謀殺、そして弓木城攻防戦の開始から落城に至るまでを、ご要望に沿う形で、あたかもリアルタイムで観測しているかのような時系列で徹底的に再現する。
第一部:戦乱前夜の丹後 ― 支配構造の変容
天正九年の静寂は、嵐の前の不気味な静けさであった。旧支配者である一色氏はその権威を失い、新支配者である細川氏の統治もまだ完全には確立されていない。この「力の真空」ともいえる不安定な状況下で、両者は互いの出方を探り合っていた。この年の出来事が、翌年の悲劇を不可避なものとする重要な序曲となったのである。
第一章:没落する名門、丹後守護・一色氏
一色氏は、室町幕府を開いた足利氏の支流であり、幕府の四職筆頭を務めた名門であった 13 。その権威を背景に丹後守護職を世襲し、長らくこの地を治めてきた。しかし、応仁の乱以降の幕府権威の失墜と、戦国乱世の到来は、一色氏の支配体制を根底から揺るがした。度重なる一族の内紛、若狭武田氏をはじめとする周辺勢力との絶え間ない抗争、そして国内の国人衆の台頭により、その支配力は著しく衰退。「国錯乱」と呼ばれるほどの激しい戦火が繰り返され、守護としての統制力は名目上のものとなりつつあった 14 。
この没落する名門を率いていたのが、当主・一色義道であった。彼は、織田信長の勢力が丹後に及ぶと、旧守護としての意地をかけて激しく抵抗した。しかし、時代の趨勢は彼に味方しなかった。嫡男の義定(史料によっては義俊とも記される)は、父と共に細川・明智連合軍に抗戦し、父の死後は残存勢力を率いて抵抗を続けるなど、気骨ある武将として知られている 14 。彼らの戦いは、丹後という一地域における中世的秩序の最後の抵抗であった。
第二章:織田信長の尖兵、細川藤孝(幽斎)
一色氏と対峙した細川藤孝(後の幽斎)は、まさしく新しい時代の体現者であった。彼自身、足利将軍家に仕える名門の出身であったが、将軍家の衰退と織田信長の圧倒的な台頭という時流を的確に読み、信長の家臣へと転身する 19 。信長は藤孝の持つ旧体制への影響力と文化人としての名声、そして武将としての能力を高く評価し、盟友・明智光秀の与力として丹波・丹後方面の攻略を命じた 12 。
この丹後平定戦は、単なる地域紛争ではなく、「旧体制(室町幕府の権威を背景とする守護大名・一色氏)」と「新体制(織田信長の中央集権化を代行する方面軍司令官・細川氏)」との代理戦争という側面を色濃く持っていた。藤孝は、勇猛な嫡男・忠興と共に丹後へ侵攻。老練な謀略家である父と、血気盛んな武将である息子が巧みに役割を分担し、丹後の国人衆を次々と切り崩していった 14 。
天正八年(1580年)、藤孝は信長から丹後一国を与えられると、新たな本拠として宮津城の築城を開始する 12 。この築城は、単なる居城の移転以上の意味を持っていた。それまでの丹後の拠点が山城であったのに対し、宮津城は海に面した平城(水城)であった。これは、支配体制が防衛中心の中世的発想から、経済・統治を重視する近世的発想へと転換したことを象徴する。海に面した城を築いた背景には、丹後を日本海交易の拠点として再編し、織田政権が目指す広域経済圏に組み込むという、明確な戦略的意図が存在したのである 23 。
第三章:偽りの和睦 ― 天正九年の政略結婚
細川・明智連合軍の侵攻に対し、一色義道は本城の建部山城(八田城)で抗戦するも、天正七年(1579年)、家臣の裏切りもあって自害に追い込まれる 7 。家督を継いだ義定は、残党を率いて、より堅固な山城である弓木城へ退却し、籠城戦を続けた 7 。
弓木城は、阿蘇海と野田川を天然の堀とし、急峻な地形を利用した難攻不落の要害であった 24 。織田軍はこれを攻めあぐね、戦線は膠着状態に陥る 7 。一つの山城に長期間兵力を貼り付けることは、織田軍全体の戦略にとって非効率であった。
この状況を打開するため、丹波・丹後方面軍の総責任者であった明智光秀が仲介に乗り出す。彼の目的は、一色氏を救済することではなく、より効率的に丹後を平定することにあった。すなわち、一色氏を一時的に懐柔し、その間に細川氏の支配基盤である宮津城の完成と領国経営を盤石にさせるための、高度な政治戦略であった。
その結果、天正九年五月(1581年)、和睦の証として細川藤孝の娘・伊也(菊とも)が、一色義定に嫁ぐこととなった 11 。この政略結婚により、丹後における大規模な戦闘は一旦終結し、表面上の平穏が訪れた。義定は細川家の縁者として、信長の甲州征伐にも参陣している 12 。しかし、その裏で細川氏は宮津城の普請と城下町の整備を着々と進め、丹後の実効支配を強化。一方、旧領の回復もままならない一色氏は弓木城に逼塞し、常に細川方の監視下に置かれるという屈辱的な状況にあった 11 。両者の間に渦巻く不信感は、新たな動乱の火種として燻り続けていたのである。
第二部:天正十年、丹後動乱 ― リアルタイム戦闘序列
天正十年(1582年)、歴史は大きく動いた。中央での激震は、丹後で燻っていた火種を一気に燃え上がらせ、偽りの平和を焼き尽くした。名門の誇りをかけた最後の抵抗と、新時代を築くための冷徹な謀略が交錯し、丹後の地は血で染め上げられることとなる。
表1:丹後平定戦 主要年表(天正7年~天正10年)
年月 |
出来事 |
関係者 |
備考 |
天正7年 (1579) |
細川・明智連合軍、丹後侵攻。建部山城落城。 |
細川藤孝、明智光秀、一色義道、一色義定 |
一色義道自害。義定は弓木城へ退く 14 。 |
天正8年 (1580) |
細川藤孝、織田信長より丹後一国を拝領。 |
細川藤孝、織田信長 |
宮津城の築城を開始 12 。 |
天正9年5月 (1581) |
細川藤孝の娘・伊也、一色義定に嫁ぐ。 |
細川藤孝、一色義定、明智光秀 |
光秀の仲介による和睦。表面上の平穏期に入る 11 。 |
天正10年6月2日 (1582) |
本能寺の変。織田信長死去。 |
明智光秀、織田信長 |
丹後の政治バランスが崩壊する契機となる。 |
天正10年6月 |
細川親子、光秀への非協力を表明。 |
細川藤孝、細川忠興、明智光秀 |
藤孝は剃髪し幽斎と号す。丹後の帰趨を決定づける 11 。 |
天正10年9月8日 |
一色義定、宮津城にて謀殺される。 |
細川忠興、一色義定 |
丹後最終決戦の火蓋が切られる 10 。 |
天正10年9月 |
弓木城攻防戦、開始。 |
細川忠興、一色義清、稲富祐直 |
緒戦は稲富鉄砲隊の活躍で籠城側が優勢となる 11 。 |
天正10年9月28日 |
弓木城落城。一色義清自刃。 |
細川忠興、一色義清 |
丹後守護・一色氏の滅亡が確定する 11 。 |
第一章:激震、本能寺の変(天正十年六月二日)
【午前】 京都、本能寺より上がった炎は、瞬く間に日本全土を揺るがす激震となった。織田信長横死の報は、丹後の政治情勢を一変させた。一色義定にとって、自らを追い詰めた信長の死は、旧領を回復し、一色家を再興するための千載一遇の好機と映ったであろう。
【六月上旬】 丹後の細川藤孝・忠興親子のもとに、明智光秀からの使者が到着する。光秀は盟友であり、忠興の舅でもある。味方になれば摂津一国を与えるという破格の条件が提示された 11 。しかし、細川親子の決断は迅速かつ冷徹であった。彼らは光秀の誘いを断固として拒絶。藤孝は信長への弔意を示すため剃髪して「幽斎」と号し、家督を忠興に譲ることで、光秀への非協力の意思を天下に表明した 20 。さらに忠興は、光秀の娘である妻・玉子(ガラシャ)を丹波の山深い味土野(みどの)に幽閉し、縁戚関係を断ち切る姿勢を明確にした 11 。この素早い政治的決断が、羽柴秀吉への接近を可能にし、後の細川家の飛躍の礎となった。
この細川氏の動きは、一色義定を政治的に完全に孤立させた。光秀の仲介で細川氏と和睦していた義定は、その光秀が「逆賊」となった今、細川氏から見れば「逆賊に与する可能性のある、排除すべき危険分子」と見なされるようになったのである 7 。
第二章:宮津城の饗宴 ― 謀殺へのカウントダウン(天正十年九月八日)
【九月上旬】 山崎の戦いで光秀が滅び、羽柴秀吉が織田政権の実権を掌握すると、細川氏は丹後支配を盤石にするための最後の仕上げに取り掛かる。それは、一色義定の完全な排除であった。義定が秀吉軍の戦勝祝いに参上しなかったことや、信長死後に旧領回復を画策するような不穏な動きを見せたことなどが、その口実とされた 11 。
【九月八日、昼】 細川幽斎は、完成間近の宮津城での饗宴に、婿である義定を招待する。表向きは舅と婿の親睦を深めるための宴。しかし、その裏では周到な謀殺計画が練られていた。宮津城には忠興、興元兄弟をはじめ、米田宗堅、松井康之といった重臣たちが一族郎党を率いて集結し、討手を配置していた 10 。
【同日、夕刻】 義定は、警戒しつつも舅の招待を断りきれず、僅かな供回りを連れて宮津城へ入る。城内の重臣・米田氏の屋敷で饗宴が始まった 10 。
【同日、夜】 宴が酣(たけなわ)となり、盃事が進む。義定が盃を口元へ運ぼうとした、まさにその瞬間であった。対座していた細川忠興が電光石火の速さで抜刀し、義定の肩先から脇腹にかけて斬りつけた。不意を突かれた義定は深手を負いながらも脇差を抜こうとするが、襖の陰に潜んでいた討手が一斉に襲いかかり、壮絶な死闘の末、謀殺された。その最期は、襲いかかる敵兵を振り払い奮戦したものの、多勢に無勢で打ち取られたと伝わる 11 。この謀殺は、旧来の武士の道徳観からは非難されかねない「だまし討ち」であったが、丹後を完全に掌握するという政治目的を達成するための、冷徹な現実主義に基づく行動であった。
第三章:最後の牙城、弓木城攻防戦
表2:弓木城攻防戦における両軍の主要武将
陣営 |
役職 |
武将名 |
備考 |
細川軍(攻撃側) |
総大将 |
細川 忠興(ほそかわ ただおき) |
丹後の新支配者。勇猛果敢な指揮官。 |
|
副将格 |
細川 興元(ほそかわ おきもと) |
忠興の弟。別動隊を率い、搦手からの奇襲を成功させる 11 。 |
|
重臣 |
松井 康之(まつい やすゆき) |
細川家の宿老。戦略立案を担う 11 。 |
|
重臣 |
有吉 重則(ありよし しげのり) |
細川家の譜代家臣。水軍などを率いたか 11 。 |
一色軍(籠城側) |
総大将 |
一色 義清(いっしき よしきよ) |
謀殺された義定の叔父。一族の誇りをかけ最後の抵抗を指揮 11 。 |
|
城主/砲術指揮 |
稲富 祐直(いなとみ すけなお) |
弓木城主。「稲富流砲術」の開祖。鉄砲隊を率いて細川軍を苦しめる 28 。 |
|
重臣 |
大江 越中守(おおえ えっちゅうのかみ) |
籠城戦の中核を担うも、搦手からの攻撃で討死 11 。 |
|
重臣 |
杉山 出羽守(すぎやま でわのかみ) |
大江と共に奮戦するも討死 11 。 |
【九月八日、深夜】 主君・義定謀殺の報は、辛くも宮津城を脱出した若武者によって弓木城にもたらされた。城内は激昂と悲嘆に包まれる。義定の叔父にあたる一色義清が残された家臣団をまとめ上げ、総大将として細川氏への徹底抗戦と籠城を決意した 11 。
【戦闘経過:時系列再現】
-
緒戦:稲富鉄砲隊の迎撃(九月九日未明~)
細川方は、義定謀殺と同時に、城内にいる忠興の妹・伊也(菊)を人質に取られる前に奪還すべく、奇襲部隊を弓木城へ派遣した。しかし、彼らを待ち受けていたのは、当代随一の鉄砲術「稲富流」の開祖、城主・稲富祐直(すけなお)であった 28。彼の指揮のもと、城壁から一斉に火縄銃の火線が閃く。闇夜を切り裂く轟音と共に放たれた鉛玉は、密集して押し寄せる細川方の兵を次々と薙ぎ倒した。不意を突かれた奇襲部隊は甚大な損害を被り、混乱のうちに退却を余儀なくされた 11。この緒戦の敗北は、細川方に弓木城の力攻めが不可能であることを痛感させた。それは、鉄砲という新兵器が、防御側においていかに絶大な効果を発揮するかを証明する戦いであった。 -
中盤:水陸両面からの包囲と孤立化作戦(九月中旬~)
力攻めを断念した総大将・細川忠興は、宮津に本陣を構え、戦術を切り替える。短期決戦から、兵站を断ち切る兵糧攻めと、周辺の支城を攻略して弓木城を完全に孤立させる作戦へと移行した。忠興は弟の興元らに水軍を含む別動隊を編成させ、海路から丹後半島の背後へと回り込ませた。この部隊は経ヶ岬を迂回して海岸線から上陸し、一色方の支城を次々と陥落させていった。これにより、弓木城は外部からの補給と援軍の望みを完全に絶たれ、籠の中の鳥となった 11。 -
終盤:搦手からの総攻撃(九月二十八日)
周辺の制圧を完了し、弓木城を完全に孤立させた細川軍は、この日、満を持して総攻撃を開始した。正面の大手口からは忠興の本隊が陽動攻撃を仕掛け、籠城側の兵力を引きつける。その間、丹後半島を制圧して東上してきた興元の別動隊が、城の防御が手薄な背後の搦手、大内峠方面から一気に攻めかかった。この完璧な挟撃により、城内の防御線は瞬く間に崩壊。奮戦していた重臣の大江越中守、杉山出羽守もこの乱戦の中で討死し、城の各所から火の手が上がった 11。 -
落城:一色義清、最後の突撃(同日、夕刻)
もはや落城は時間の問題と悟った総大将・一色義清は、名門としての最後の誇りを胸に、手勢百余騎を率いて城から打って出た。その狙いはただ一つ、敵将・細川忠興の本陣への最後の突撃であった。一色勢は死に物狂いの猛攻で正面の包囲を突破し、宮津川(大手川)の堤で細川本隊と激しい白兵戦を展開した。しかし、その時、弓木城を制圧した松井・有吉の部隊が背後から駆けつけ、一色勢を挟み撃ちにする。衆寡敵せず、将兵のほとんどが討ち死にし、義清自身も数か所に深手を負った。忠興の本陣を目前にしながら力尽きた義清は、海岸を走り、下宮津の漁家の木陰で自刃して果てた 11。
ここに、建武年間に足利尊氏より丹後守護に任じられて以来、240年余りにわたってこの地を治めた名門・一色氏は、完全に滅亡した。
終章:丹後の新秩序と戦いの遺産
弓木城の落城と一色義清の自刃をもって、丹後における細川氏への組織的抵抗は終焉を迎えた。細川藤孝・忠興親子は、織田信長の命を受けてから約5年にわたる戦いの末、名実ともに丹後一国をその手中に収めたのである 12 。
細川氏による丹後一国支配の確立
丹後の新たな支配者となった細川氏は、宮津城を拠点に領国経営を進め、近世大名としての基盤を固めていく。本能寺の変における的確な政治判断は、その後の豊臣政権下、そして徳川政権下においても高く評価された。関ヶ原の戦いでの功績により、忠興は豊前国小倉39万9千石の大名へと飛躍し、その子孫は肥後熊本54万石の藩主として明治維新に至るまで続くことになる 31 。丹後平定は、近世大名・細川家の輝かしい歴史の第一歩となった。
戦後処理と旧一色家臣団の処遇
一色氏滅亡後、その旧臣たちはそれぞれの道を歩むこととなった。その中で特筆すべきは、弓木城で細川軍を最後まで苦しめた鉄砲の名手・稲富祐直の処遇である。彼の卓越した砲術の腕は、敵将であった細川忠興にも高く評価された。忠興は祐直を召し抱え、その技術を細川家のために活用した。祐直の名声はさらに広まり、徳川家康にも珍重され、晩年は尾張徳川家に仕えることとなる 7 。これは、個人の技能が家門や敵味方の別を超えて評価される、戦国乱世の実力主義的な側面を象徴する逸話である。
弓木城跡が物語るもの
丹後守護・一色氏最後の牙城となった弓木城は、現在、城山公園として整備され、往時の面影を偲ばせる曲輪や堀切、土塁などの遺構が今なお残されている 7 。この城跡は、単なる一地方の合戦の場ではない。それは、丹後における中世守護大名の最後の抵抗拠点であり、戦国時代の終焉と、細川氏に代表される近世大名支配の始まりを告げる、画期的な歴史の転換点であった 34 。弓木城の静かな丘は、名門の誇りと共に散った者たちの悲劇と、新たな時代を切り拓いた者たちの冷徹な戦略が交錯した、丹後の歴史そのものを静かに物語っている。
引用文献
- 「米百俵の地」三根山藩 http://www.itech.co.jp/maki/mineyama.html
- 越後 三根山陣屋-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/mineyama-jinya/
- 峰山藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B0%E5%B1%B1%E8%97%A9
- 京丹後市峰山町の町並み http://matinami.o.oo7.jp/kinki1/kyotango-mineyama.htm
- 吉原山城跡 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2096
- 【弓木城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_26462af2170019768/
- 弓木城跡 - 与謝野町観光協会 https://yosano-kankou.net/kankou/%E5%BC%93%E6%9C%A8%E5%9F%8E/
- 弓木城跡 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2099
- 弓木城跡 | スポット一覧 | 京都府観光連盟公式サイト https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/618
- 第119回 一色稲荷の整備 - 宮津市ホームページ https://www.city.miyazu.kyoto.jp/site/citypro/13897.html
- 丹後の守護一色義俊の謀殺は密かに進められていった - 宮津へようこそ https://www.3780session.com/miyazuiltushikiujibousatu
- 宮津へようこそ、細川家とのつながり https://www.3780session.com/blank-19
- 一色氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E6%B0%8F
- 武家家伝_一色氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/1siki_k.html
- 宮津にもあった戦国時代 https://www.3780session.com/miyazurekishi
- 1.中山城跡第5・6次発掘調査報告 http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/G143/143web-1.pdf
- 一色義定(いっしき よしさだ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A-1054769
- 一色義道・義定親子の末路 名家の没落と謀略の犠牲者 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tylbTzMbHVc
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- 細川藤孝と明智光秀が築城!幻の海城「宮津城」の知られざる歴史とは https://miyazu-city.note.jp/n/nd945477e5131
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- 細川ガラシャ悲劇の序曲!本能寺の変後に丹後で何がおきたのか?【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】丹後半島 | サライ.jp https://serai.jp/tour/68450
- 本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nd89c6b34105f
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- 弓木城の見所と写真・100人城主の評価(京都府与謝野町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1258/
- 弓木城 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20yumiki.htm