三田城の戦い(1579)
天正七年、摂津三田城の攻防 ―織田信長「荒木村重討伐」における羽柴秀吉の支城攻略戦・時系列再構築―
序章:天正六年の激震
天正年間、織田信長の「天下布武」は最終段階を迎えつつあった。長篠の戦いで武田氏の脅威を削ぎ、越前の石山本願寺勢力を掃討した信長は、畿内における支配体制を盤石なものとしていた。その中で、摂津国は織田政権にとって極めて重要な戦略拠点であった。西国への玄関口であると同時に、依然として抵抗を続ける石山本願寺との最前線でもあったからである 1 。この枢要の地、摂津一国を信長から託されていたのが、荒木村重であった。
村重は、摂津の国人領主である池田氏の家臣から身を起こし、下剋上によって主家を掌握、その過程で信長に見出された人物である 1 。信長は村重の才幹と豪胆さを高く評価し、摂津守護に任じるなど破格の待遇で遇した 1 。信長が差し出した串刺しの饅頭を、刀の切っ先を恐れず平らげたという逸話は、両者の信頼関係を象徴するものとして知られている 3 。村重は信長の期待に応え、石山合戦や紀州征伐などで武功を重ね、織田家中の方面軍司令官として不動の地位を築いていた。
しかし、天正6年(1578年)10月、その蜜月は突如として終わりを告げる。播磨国の三木城を攻略中であった村重が、何の前触れもなく戦線を離脱し、居城である有岡城(伊丹城)に帰還、信長に対して反旗を翻したのである 2 。謀反の理由は諸説あり、石山本願寺への兵糧横流しの露見を恐れた説、中国地方の雄・毛利氏との内通説、そして信長の猜疑心と冷酷さへの恐怖説などが挙げられているが、真相は定かではない 4 。一説には、一度は弁明のために安土城へ向かおうとした村重を、与力であった中川清秀が「信長は一度疑いを持てば必ず滅ぼそうとする」と諫言し、翻意させたとされる 4 。
腹心中の腹心による予期せぬ裏切りは、信長に大きな衝撃を与えた。当初、信長は謀反の報を信じず、明智光秀や松井友閑らを派遣して村重の真意を問い、翻意を促した 1 。さらに、村重と旧知の仲であった羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛が単身で有岡城に乗り込み説得を試みたが、村重はこれを聞き入れず、逆に官兵衛を土牢に幽閉するという挙に出た 1 。ここに、両者の決別は決定的となった。
信長の対応は迅速かつ苛烈であった。自ら大軍を率いて摂津に出陣すると、村重が籠る有岡城を数万の兵で幾重にも包囲した 5 。有岡城は、伊丹城を村重自身が大改修した、広大な総構えを持つ当代屈指の堅城であった 5 。力攻めが困難と見た信長は、城の周囲に多数の付城(攻撃用の砦)を築かせ、兵糧攻めによる長期戦の構えを取った 5 。この信長の戦略は、単に有岡城を孤立させるに留まらなかった。有岡城を手足のように支える摂津国内の支城群を一つずつ、計画的に無力化していくという、面的制圧戦術でもあった。
この巨大な戦略の中に組み込まれていたのが、摂津北部の要衝・三田城であった。三田城の戦いは、単独で発生した局地戦ではなく、信長が描いた「荒木村重討伐」という壮大な絵図の一部を構成する、計画的な支城攻略戦だったのである。その攻防は、信長の組織的かつ合理的な制圧戦術と、それに抗おうとした荒木方の防衛網の脆弱性を象徴する戦いであったと言える。
【表1】有岡城の戦い 主要年表
年月日(天正) |
出来事 |
6年(1578年)7月 |
荒木村重、播磨・三木城攻めの陣から戦線を離脱 5 。 |
6年10月21日 |
村重の謀反が確定。信長、明智光秀らを派遣するも説得失敗 4 。 |
6年11月 |
織田軍が有岡城を包囲。高槻城主・高山右近、茨木城主・中川清秀が織田方に降伏 4 。 |
7年(1579年) |
羽柴秀吉の軍勢が三田城を包囲し、これを攻略(落城) 8 。 |
7年9月2日 |
村重、妻子や家臣を有岡城に残し、僅かな供回りと共に城を脱出。嫡男・村次の守る尼崎城へ移る 4 。 |
7年10月15日 |
織田軍、有岡城への総攻撃を開始。内応者により城内へ突入 5 。 |
7年11月19日 |
城兵の抵抗が終結し、有岡城が開城 5 。 |
7年12月13日 |
尼崎近郊の七松にて、人質となっていた荒木方の家臣家族ら122名が磔に処される 4 。 |
7年12月16日 |
村重の妻・だしをはじめとする一族36名が、京の六条河原にて斬首される 4 。 |
第一章:戦域の中の三田城
三田城の戦いを理解する上で、まずその舞台となった城と、城を守った将の存在を把握する必要がある。三田城は、摂津国北部の有馬郡に位置し、武庫川沿いの舌状台地に築かれた平山城であった 9 。この地は、摂津の中心部から、織田軍が攻略中の播磨国・三木城方面、そして独立勢力が割拠する丹波国へと通じる街道が交差する交通の要衝である。
荒木村重にとって、三田城は二重の戦略的価値を有していた。第一に、本拠地である有岡城の北方、背後を固める重要な防衛拠点である。第二に、反信長勢力である播磨の別所長治や丹波の波多野秀治らとの連携を維持し、さらには西国からの毛利氏の援軍や補給を受け入れるための中継基地としての役割が期待されていた 10 。この城の確保は、村重が描く対信長防衛網の成否を左右する鍵の一つであった。
この重要な城の城主を務めていたのが、荒木平太夫重堅(あらき へいだゆう しげかた)という武将である 9 。重堅の出自については、村重の小姓であったとする説や、村重の兄の子、すなわち甥であったとする説など諸説あるが、いずれにせよ村重の寵臣であり、側近中の側近であったことは間違いない 12 。
特筆すべきは、重堅が三田城主となった経緯である。もともと三田周辺は有馬氏が治めており、村重の謀反当時は有馬国秀が城主であった。国秀は村重と縁戚関係にあったにもかかわらず、天正6年(1578年)の謀反に際して「不義の疑い」をかけられ、村重によって自刃に追い込まれた 9 。そして、その後釜として送り込まれたのが、腹心である重堅だったのである 9 。
この城主交代劇は、単なる人事異動以上の意味を持つ。村重が、既存の在地領主の忠誠心を完全には信用していなかったことの表れである。謀反という非常事態において、自領の安堵を最優先するであろう国人領主よりも、自らの運命と一蓮托生である直臣を配置することで、三田城を完全に掌握し、反信長戦略の駒として機能させようという強い意志が窺える。この措置は、村重が自らの謀反が摂津国衆を二分する深刻な事態を招くと予期していた証左であり、その計画性と同時に、孤立への焦燥感をも示唆している。
三田城は、高槻城(高山右近)、茨木城(中川清秀)、多田城(塩川国満)など、摂津国に張り巡らされた荒木方の支城ネットワークの一翼を担っていた 5 。これらの城が相互に連携し、有岡城を中心とした一大防衛圏を形成する。それが村重の描いた構想であった。しかし、その構想は信長の巧みな切り崩しによって、戦いが本格化する前にもろくも崩れ去ることになる。
【表2】三田城の戦い 関係人物一覧
勢力 |
人物名 |
役職・立場 |
動向 |
織田方 |
織田信長 |
天下人・総大将 |
荒木村重の討伐を厳命。自ら摂津に出陣し、有岡城を包囲 5 。 |
|
羽柴秀吉 |
播磨方面軍司令官 |
三木城を包囲しつつ、三田城を含む摂津北部の荒木方支城の攻略を担当 8 。 |
|
織田信忠 |
織田家嫡男 |
有岡城包囲軍の総指揮官の一人として前線に布陣 5 。 |
荒木方 |
荒木村重 |
摂津守護 |
信長に謀反を起こし、有岡城に籠城。摂津諸城に抗戦を命じる 2 。 |
|
荒木平太夫重堅 |
三田城主 |
村重の寵臣。謀反に際して三田城主に任じられ、籠城戦を指揮 9 。 |
周辺勢力 |
高山右近 |
高槻城主 |
当初は村重方。信長の説得に応じ、天正6年11月に織田方へ降伏 5 。 |
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中川清秀 |
茨木城主 |
当初は村重方。信長の調略に応じ、高山右近に続き織田方へ降伏 5 。 |
|
塩川国満 |
多田・山下城主 |
荒木方の与力であったが、早期に信長に通じ、有岡城攻めに参加したと見られる 15 。 |
第二章:包囲網の収縮
三田城が羽柴秀吉の軍勢によって物理的に包囲される以前に、その運命は戦略的な包囲網によって、ほぼ決定づけられていた。信長の戦術は、力と力のぶつかり合いだけでなく、調略や心理戦を駆使して敵の戦闘力を内部から削いでいく点に真骨頂があった。
信長は、有岡城を大軍で取り囲み、外部との連絡を遮断する一方で、方面軍を組織して各支城への圧力を同時に強める「面」の戦略を展開した 5 。これは、支城群が有岡城への援軍となったり、兵站基地として機能したりすることを未然に防ぎ、各個撃破を狙う極めて合理的な戦術であった。この戦略の前に、村重が築いた支城ネットワークは瞬く間に機能不全に陥っていく。
その決定打となったのが、天正6年(1578年)11月、荒木方の最有力与力であった高山右近と中川清秀の相次ぐ離反である。高槻城主の高山右近は熱心なキリシタンであり、信長は宣教師オルガンティノを通じて、降伏しなければ畿内の教会を破壊し、信徒を虐殺すると脅迫、説得した。信仰と主君への忠誠の狭間で苦悩した右近は、最終的に城を明け渡し、信長に降伏した 4 。
右近の降伏に続き、茨木城主の中川清秀もまた信長に寝返った 4 。これにより、有岡城の南方を固めていた防衛線は完全に崩壊した。地理的に見れば、高槻城と茨木城は、有岡城と、その北方に位置する三田城との中間に存在する。この二城が敵の手に落ちたことは、三田城から有岡城への連絡路、補給路が完全に遮断されたことを意味した。三田城は、主城から切り離された「孤島」と化したのである。援軍の望みは絶たれ、主君からの指示も届きにくくなる。この戦略的孤立は、籠城する兵士たちの士気に計り知れない打撃を与えたであろうことは想像に難くない 17 。
この状況下で、摂津北部へと進軍してきたのが羽柴秀吉の軍団であった。もともと播磨の三木城攻めを担当していた秀吉は、村重の謀反によって、いわば背後を突かれた形となった 10 。秀吉は三木城への包囲を継続しつつ、一部の部隊を摂津に転用し、荒木方の支城群の制圧に着手した。三田城の攻略は、この秀吉の作戦行動の一環として実行されたのである 8 。
つまり、秀吉軍が三田城下に姿を現した時、三田城はすでに戦略的に敗北していた。物理的な包囲が始まる前に、信長の巧みな調略による「戦略的包囲」は完成していたのである。秀吉の軍事行動は、この戦略的勝利を物理的に確定させるための、いわば最後の仕上げであった。三田城の戦いの勝敗を決した真の「戦場」は、城壁の外での物理的な衝突ではなく、その前段階で繰り広げられた情報戦、心理戦、そして調略戦にあったと言えよう。
第三章:三田城の戦い ―攻防のリアルタイム再構築―
三田城における具体的な戦闘経過を詳細に記した一次史料は、残念ながら現存していない。しかし、断片的な記録と当時の戦術の定石を組み合わせることで、その攻防のリアルタイムな様相を再構築することは可能である。その過程は、おおよそ四つのフェーズに分けて考察することができる。
【フェーズ1:戦備】天正7年初頭? ― 羽柴軍、前線基地の設営
天正7年(1579年)に入ると、羽柴秀吉の軍勢が三田城攻略のため、その周辺地域に進出した。『信長公記』によれば、織田方は三田城を攻めるにあたり、道場河原と三本松に城(付城)を築き、これを拠点としたと記録されている 8 。道場河原城は三田城の南東、三本松城は南西に位置しており、秀吉軍が三田城の南方から圧力をかけ、外部との交通を完全に遮断しようとした戦術的意図が明確に読み取れる 18 。これらの付城は、単なる監視拠点ではなく、兵糧や武器を集積し、攻撃部隊を発進させるための前線基地として機能した。この段階で、三田城は物理的にも外部から遮断され、包囲網が完成した。
【フェーズ2:包囲】天正7年初頭〜中期 ― 兵站線の遮断と三田城の孤立化
包囲網の完成後、秀吉軍がただちに総攻撃をかけた形跡はない。むしろ、当時の秀吉が得意とした戦術は、敵の兵糧や弾薬の補給を断ち、城内の士気が低下するのを待つ「兵糧攻め」であった。三田城においても、付城を拠点とした厳重な包囲網によって、城への補給ルートは完全に断たれたと推測される。城外では、秀吉軍による周辺地域の懐柔や制圧が進み、三田城は日に日に孤立を深めていった。城内では、食料が減り、援軍が来ないという絶望的な状況が続き、兵士たちの士気は徐々に、しかし確実に蝕まれていったであろう 17 。
【フェーズ3:対峙】天正7年中期〜 ― 膠着状態と散発的な攻防
大規模な戦闘の記録が欠落していることから、両軍は長期間にわたって睨み合いを続けた可能性が高い。織田方としては、主目的は有岡城の攻略であり、三田城のような支城に無用な損害を出す必要はない。時間をかければ、いずれ城は内部から崩壊すると計算していたはずである。一方、城主の荒木平太夫重堅は、籠城を続けつつも、主君・村重からの指示や、毛利軍の来援という万一の可能性に最後の望みを託していたのかもしれない。この間、城外への偵察部隊の派遣や、それを迎撃する織田方との小規模な衝突は散発的に発生していたと考えられるが、戦況を大きく左右するような動きには至らなかった。
【フェーズ4:落城】天正7年(おそらく秋頃) ― 決断の時
この膠着状態を破る決定的な出来事が、城外で発生する。天正7年9月2日、大将である荒木村重が、妻子や多くの家臣を有岡城に残したまま、僅か数名の供回りを連れて城を脱出、嫡男・村次の守る尼崎城へ移ったのである 4 。これは、毛利氏への援軍要請を目的とした行動であったとも言われるが、籠城を続ける将兵にとっては、総大将の「逃亡」としか映らなかったであろう。
この報は、遅かれ早かれ三田城にも届いたはずである。主君に見捨てられたという事実は、籠城を続ける兵士たちから抗戦の大義名分と最後の希望を完全に奪い去った。この状況に至り、城主・荒木平太夫重堅は、これ以上の籠城は無意味であり、城兵の命を救うことこそが将としての最後の務めであると判断したと見られる。重堅は羽柴秀吉軍に降伏の意を伝え、城を明け渡した。これが「三田城の落城」の真相であろう。
三田城落城の正確な日付が史料に明記されていないという事実は、この戦いの実像を逆説的に物語っている。もし、壮絶な攻城戦の末に多くの死傷者を出して陥落したのであれば、その武功や損害はより詳細に記録されたはずである。日付が「天正7年頃」と曖昧にしか伝わっていないのは 8 、この出来事が当時、特筆すべき激戦とは見なされなかったことを示唆する。それは、羽柴秀吉の得意とする、敵の戦意を削いで降伏に導く兵糧攻めと心理戦が効果的に機能した結果であり、力攻めによる「陥落」ではなく、戦況の変化に伴う静かな「開城」であったことの証左と言えるだろう。
第四章:戦後の帰趨
三田城の開城は、城主・荒木平太夫重堅、そして三田城そのものの運命を大きく変えた。同時に、この戦後処理は、織田信長と羽柴秀吉という二人の天下人の統治スタイルの違いを鮮明に映し出すことになった。
城主・荒木平太夫重堅の決断と再出発
城を明け渡した荒木平太夫重堅は、主君・村重の一族のように処刑されることはなかった。それどころか、敵将であった羽柴秀吉にその能力を認められ、家臣として迎え入れられる 9 。これは、敵であっても有能な人材は登用し、自らの力に変えていくという秀吉の現実主義的かつ度量の大きい一面を示す好例である。信長であれば、反逆者の重臣として一族共々処刑した可能性も否定できない。しかし、現場の司令官であった秀吉は、無用な流血を避けてスムーズに城を接収し、さらに地域情勢に詳しい有能な武将を自軍に加えるという、実利的な選択をした。
秀吉の配下となった重堅は、木下姓を与えられ、「木下平太夫重堅」と名乗り、新たな道を歩み始める 12 。彼はその後、秀吉の子飼い衆の一人として、鳥取城攻めなど中国地方の戦役で数々の武功を挙げた 12 。その功績により、最終的には因幡国若桜城主となり、大名へと立身出世を遂げるのである 12 。三田城での降伏という一つの決断が、彼の運命を劇的に好転させた。
三田城の新たな役割
一方、主を失った三田城は、織田方の支配下に入った。本能寺の変後の天正10年(1582年)、秀吉の与力大名であった山崎片家が新たな城主として入城する 20 。これにより、三田城は旧荒木勢力の北方の抑えという役割を終え、新たな織田(豊臣)政権下における摂津北部の支配拠点として再編されていった。
有岡城の悲劇との対比
木下重堅のその後の華々しい活躍は、旧主君である荒木一族の悲劇的な末路と、あまりにも鮮やかな対照をなしている。有岡城は村重脱出後の天正7年11月に開城したが、信長の怒りは収まらなかった。村重が尼崎城で抵抗を続けたことへの見せしめとして、有岡城に残された村重の妻・だしをはじめとする一族、そして重臣たちの家族ら600名以上が、京都の六条河原や尼崎の七松で惨殺されたのである 4 。
この凄惨な処刑は、反逆者は一族郎党に至るまで根絶やしにするという、信長の「恐怖による支配」を象徴するものであった。それに対し、三田城で降伏した重堅を登用した秀吉の処遇は、後の豊臣政権下で頻繁に見られる、敵将をも吸収し再編していく「実利による支配」の萌芽であったと言える。三田城の戦後処理は、戦国時代の過酷な現実と、時代の転換点における二人の巨人の統治思想の違いを、如実に物語っている。
結論:歴史における三田城の戦いの意義
天正7年(1579年)の三田城の戦いは、有岡城の戦いという大きな歴史の潮流の中に埋もれ、その詳細が語られることは少ない。しかし、この一見小規模な局地戦は、戦国時代の終焉期における重要な特質をいくつも内包している。
第一に、この戦いは織田信長が確立した方面軍団システムが、極めて効果的に機能したことを証明する実例である。総大将である信長が有岡城という主戦場に睨みを利かせ、その指揮下で羽柴秀吉ら方面軍司令官が、担当区域の支城を計画的に、かつ効率的に制圧していく。この組織的な戦いの遂行能力こそが、織田軍の強さの源泉であった。そして、秀吉が兵糧攻めや調略を駆使して、最小限の損害で目的を達成する卓越した戦務遂行能力の持ち主であったことも、この戦いは示している。
第二に、戦国期における「支城攻略」の典型例としての価値を持つ。戦国時代の合戦というと、川中島や長篠のような大規模な野戦が想起されがちだが、実際の戦いの多くは城をめぐる攻防であった。特に戦国後期には、三田城の戦いのように、主城を孤立させるために、まずその周囲の支城ネットワークを methodical に破壊していくという戦術が主流となる。派手な戦闘ではなく、調略、包囲、兵糧攻めを組み合わせた、冷徹で合理的な作戦の積み重ねが、全体の戦況を決定づけていったのである。
最後に、この戦いは歴史の主戦場から見過ごされがちな局地戦の重要性を我々に教えてくれる。有岡城の陥落という大事件は、三田城をはじめとする無数の支城が一つ、また一つと陥落していった結果に他ならない。そして、荒木平太夫重堅が木下重堅として新たな人生を歩んだように、一つの局地戦における個人の決断が、その後の歴史に新たな潮流を生み出すきっかけともなり得た。歴史とは、著名な英雄たちの物語だけで構成されるのではなく、名もなき城で繰り広げられた無数の攻防と、そこに生きた人々の選択の総体であることを、三田城の戦いは静かに物語っているのである。
引用文献
- 人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/131201
- 荒木村重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
- 荒木村重 大阪の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-murashige/
- 美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82923/
- 有岡城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 歴史の目的をめぐって 伊丹城(摂津国) https://rekimoku.xsrv.jp/3-zyoukaku-02-itamizyou.html
- #170『信長公記』を読むその22 巻12 前編 :天正七(1579)年 | えびけんの積読・乱読、できれば精読 & ウイスキー https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12791809123.html
- 中世の兵の跡 - 三田市 https://www.city.sanda.lg.jp/material/files/group/16/160315.pdf
- 三田城 - 古城址探訪 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.sanda.htm
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- 三田城(兵庫県三田市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/5688
- 武家家伝_能勢氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html
- 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第30回「荒木の乱」の塩川長満は“風見鶏”だった? ~誰かさんがWikipediaを“憶測”で書き換えていた~|利右衛門 - note https://note.com/tohbee_/n/nc4a471220e46
- 武家家伝_塩川氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/siokawa_k.html
- 「歴史×ミステリー」で旅をした話|米澤穂信『黒牢城』を読んで|わだ せう|フリーライター - note https://note.com/inga0h0/n/nb7ce97529825
- 松原城の現説と三田城 - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-189134.html
- 淡河城 天正寺城 淡河城西付城 滝山城 福谷城 池谷城 萩原城 道場河原城 蒲公英城 宅原城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/hyogo/koubesi01.htm
- 三田城 / 三田陣屋(兵庫県三田市) - 滋賀県の城 - WordPress.com https://masakishibata.wordpress.com/2017/10/15/arima-sanda/
- 山崎片家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%89%87%E5%AE%B6