三石城の戦い(1579)
天正七年、三石城の戦いは宇喜多直家が毛利から織田へ転じる戦略的転換点。直家は美作三星城を謀略で落とし、三石城を無血開城させた。これは直家の謀略の真骨頂であり、織田の中国攻めを加速させた。
天正七年、三石城の戦い ― 宇喜多直家、備前統一を賭した謀略の最終章
序論:天正七年、備前国境 ― 忘れられた攻防戦の実像を求めて
天正七年(1579年)、備前国にその人ありと謳われた梟雄・宇喜多直家が、西国の雄・毛利氏の牙城であった三石城を攻略し、備前一国の支配を確立した。これは、のちの豊臣政権下で五大老にまで昇り詰める宇喜多家の飛躍に直結した、決定的な戦いであったと語られる。しかし、この「三石城の戦い」は、その歴史的重要性にもかかわらず、同時代の他の著名な合戦に比して、具体的な戦闘経過を伝える一次史料に乏しいという奇妙な特徴を持つ。
備前市に残る公式な記録を紐解いても、浦上宗景が天神山城へ本拠を移した天文二十三年(1554年)に三石城は一度放棄されたとされ 1 、さらに天正五年(1577年)の天神山城落城をもって「歴史の表舞台から消える運命となった」との記述すら見受けられる 2 。一方で、同年の宇喜多直家の軍事行動は、むしろ美作国に位置する三星城の攻略に主眼が置かれていたことが複数の資料から示唆されている 3 。
この「記録の空白」と周辺状況との齟齬こそが、本稿が探求する核心である。本レポートは、通説として語られる「三石城の戦い」を、単独の攻城戦としてではなく、宇喜多直家が毛利氏から織田氏へとその旗幟を鮮明にした戦略的大転換に伴う、より広範な軍事行動、すなわち「備前・美作国境平定作戦」の最終局面として捉え直す試みである。これにより、三石城という要害が持つ真の戦略的価値と、力攻めだけでなく謀略と心理戦を駆使した宇喜多直家の戦術の神髄を解き明かし、合戦の実像に迫ることを目的とする。
第一部:戦乱の序曲 ― 織田と毛利、中国地方を巡る覇権争い
1-1. 天下布武と西国の雄
天正年間、織田信長による天下統一事業は最終段階に差し掛かっていた。近畿一円を平定し、北陸、東海、甲信の敵対勢力を次々と打ち破った信長の視線は、必然的に西国、すなわち中国地方の覇者・毛利氏へと向けられた 6 。
毛利氏は、安芸国の一国衆から、智将・毛利元就一代で中国地方の大半を手中に収めた巨大勢力である。元就の孫・輝元が当主となったこの時代においても、元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景の「毛利両川」が輝元を補佐し、その勢力は山陽・山陰十ヶ国に及んでいた。信長にとって、毛利氏は天下布武を完成させる上で避けては通れない最後の、そして最大の障壁であった。
両者の対立を決定的にしたのは、将軍・足利義昭の存在である。信長によって京を追われた義昭は、毛利氏を頼って備後国鞆の浦に下向し、「鞆幕府」とも称される亡命政権を樹立した。これにより毛利氏は、信長に敵対する勢力にとっての旗頭となり、両者の軍事衝突は不可避となったのである 8 。
1-2. 羽柴秀吉の中国方面軍
天正五年(1577年)、信長は腹心の将・羽柴秀吉を総司令官に任命し、中国方面軍を編成、播磨国へと進駐させた 9 。秀吉は姫路城を拠点とし、巧みな外交手腕で播磨の国衆を次々と味方につけていく。しかし、毛利氏との長年の関係や織田家の苛烈な支配を恐れる者も少なくなく、播磨の情勢は極めて流動的であった。
天正六年(1578年)、毛利方についた赤松政範の上月城を攻略した秀吉は、尼子氏再興を悲願とする山中幸盛(鹿介)に城を守らせた 6 。だが、毛利本隊の来援により上月城は落城し、尼子勝久・幸盛らは悲劇的な最期を遂げる。さらに、織田方についていたはずの三木城主・別所長治や摂津の荒木村重が相次いで毛利方に寝返り、秀吉は一転して窮地に陥った 6 。
この別所氏の離反に端を発する「三木合戦」は、二年近くにも及ぶ壮絶な兵糧攻めとなり、播磨戦線は完全に膠着状態に陥る 4 。この戦況は、播磨の西隣、備前国の国衆たちの動向に決定的な影響を与えることになった。彼らは、巨大な二つの勢力の狭間で、自家の存続を賭けた究極の選択を迫られていたのである。
1-3. 渦中の備前国
播磨国と備中国に挟まれた備前国は、織田・毛利両軍が激突する最前線であった。この地を実質的に支配していたのが、戦国乱世を象徴する下剋上の体現者、宇喜多直家である。この時点での直家は、毛利氏に従属する有力な国衆という立場であり、播磨における織田軍との戦いに、毛利方として兵を出すことを求められていた 8 。しかし、彼の心中には、両勢力の力を見極め、より有利な側につくことで宇喜多家を更なる高みへと導こうとする、冷徹な計算が働いていた。
第二部:備前の梟雄、宇喜多直家 ― 下剋上から大国間の選択へ
2-1. 下剋上の体現者
宇喜多直家の生涯は、謀略と裏切りに満ちた下剋上の物語そのものであった。彼の祖父・宇喜多能家は、備前守護代・浦上氏の重臣として三石城などで活躍したが、内紛の末に非業の死を遂げ、幼い直家は流浪の身となった 12 。この不遇な少年時代が、彼の猜疑心と、目的のためには手段を選ばない冷徹な性格を形成したと考えられている。
やがて主君・浦上宗景に仕える身となった直家は、その智謀と胆力で頭角を現していく。彼の戦術の根幹は、正面からの武力衝突を極力避け、暗殺や調略といった謀略を駆使して敵を内側から崩壊させることにあった 14 。
2-2. 謀略の連鎖と備前平定
直家の謀略の中でも特に知られるのが、縁戚関係を利用した暗殺である。彼は自らの舅である中山勝政や、備中三人衆の一人であった三村家親などを次々と謀殺・暗殺し、その所領を奪っていった 16 。これらの行為は、後世に彼が「戦国三大悪人」の一人に数えられる所以となったが、単なる残虐非道な行為として片付けることはできない。彼の行動は常に、宇喜多家の勢力拡大と領国支配の安定化という、極めて合理的かつ明確な戦略目標に基づいていた 18 。彼は、敵対する者を容赦なく排除する一方で、一度味方に取り込んだ家臣は手厚く遇し、その結束力は非常に強固であったと伝えられている 20 。
2-3. 主家簒奪 ― 天神山城の戦い(1575-1577年)
家臣の身でありながら、その実力で主家を凌駕するようになった直家は、ついに主君・浦上宗景との全面対決に至る。直家は西の毛利氏と結び、宗景をその本拠地・天神山城に追い詰めた。天正五年(1577年)、重臣・明石飛騨守らの裏切りもあり、難攻不落を誇った天神山城は落城。宗景は備前を追われ、ここに守護代・浦上氏は滅亡した 11 。
この戦いの結果、直家は備前国と美作東部を完全に手中に収め、名実ともに戦国大名となった。そして、この主家簒奪を後押しした毛利氏に対し、直家は従属的な同盟者として、その東方戦線の中核を担うことになったのである。
2-4. 決断の時 ― 毛利からの離反
毛利氏の傘下に入った直家であったが、彼の忠誠は絶対的なものではなかった。彼は常に、中国地方を巡る織田と毛利の力関係を冷静に分析し、自家の生存と発展にとって最善の道を探り続けていた。そして天正七年、その決断の時が訪れる。
直家の離反は、突発的な裏切りではなく、複数の戦略的要因が絡み合った末の、必然的な帰結であった。
第一に、毛利氏の軍事力の限界が露呈し始めていた。毛利水軍は第二次木津川口の戦いで織田方の鉄甲船に敗れ、大坂湾の制海権を失った 4。陸上でも、播磨戦線において秀吉の巧みな戦術の前に苦戦を強いられ、決定的な勝利を掴めずにいた。三木城攻めの様子をうかがっていた直家は、毛利の力が織田に及ばないことを見極めつつあったのである 4。
第二に、織田方からの執拗な圧力と懐柔工作があった。秀吉は三木城の兵糧攻めを徹底し、播磨平定を着実に進める一方で、商人であった小西弥九郎などを通じて、直家への降伏勧告を秘密裏に進めていた 4 。織田につけば備前一国の安堵を約束するという秀吉の提案は、直家にとって非常に魅力的であった。
そして第三に、彼の行動原理そのものが、この決断を後押しした。弱き者は滅び、強き者のみが生き残るのが戦国の掟である。沈みゆく毛利と運命を共にするよりも、日の出の勢いの織田に付くことこそが、宇喜多家を守り、繁栄させる唯一の道であると、直家は判断したのである 18 。
天正七年(1579年)6月頃、宇喜多直家は毛利氏との手切れを決め、秀吉を通じて信長に恭順の意を示した 3 。しかし、信長はこれまでの直家の裏切りの数々を知っており、すぐには信用しなかった。秀吉が安土城で直家の赦免を願ったが、信長の正式な承認を得るまでには一ヶ月以上を要したという 17 。このことは、直家が自らの忠誠心を、具体的な「戦功」という形で早急に示す必要に迫られていたことを意味する。毛利方についた備前・美作国境の諸城を攻略すること。これこそが、彼が織田方として踏み出すべき、最初の、そして最も重要な一歩であった。
表1:天正年間における宇喜多直家と周辺勢力の動向年表(1575年~1582年)
年月 |
場所 |
宇喜多家の動向 |
毛利家の動向 |
織田家(秀吉軍)の動向 |
意義 |
天正3年 (1575) |
備前 |
浦上宗景との対立激化。毛利氏の支援を得て天神山城を包囲。 |
宇喜多直家を支援し、浦上宗景を攻撃。 |
- |
直家、毛利との協調により備前平定を最終段階へ。 |
天正5年 (1577) |
備前 |
天神山城を攻略。 浦上宗景を追放し、備前・美作東部を掌握。 |
支援により浦上氏を滅亡させ、宇喜多氏を従属下に置く。 |
中国攻め開始。 秀吉、播磨に着陣。 |
直家が備前の実質的支配者となり、毛利の東方戦線の中核を担う。 |
天正6年 (1578) |
播磨 |
毛利方として上月城攻めに参陣。 |
上月城を攻略し、尼子勝久・山中幸盛を滅ぼす。 |
別所長治・荒木村重の離反により苦境に。三木城包囲を開始。 |
毛利氏、播磨で優位に立つも、秀吉の粘り強い抵抗に遭う。 |
天正7年 (1579) |
備前・美作 |
毛利氏から離反し、織田氏に降伏。 美作 三星城 、備前 三石城 を攻略。 |
宇喜多氏の離反により東方戦線が崩壊。 |
秀吉、直家の調略に成功。播磨戦線での優位を確立。 |
本レポートの主題。 直家の戦略的転換と、中国攻めの大きな転換点。 |
天正8年 (1580) |
播磨 |
織田方として毛利勢力と戦う。 |
- |
三木城を攻略。 播磨を完全に平定。 |
秀吉、因幡・伯耆への進攻準備を整える。 |
天正9年 (1581) |
因幡 |
- |
吉川元春、因幡で防戦。 |
鳥取城を兵糧攻め(渇え殺し)で攻略。 |
山陰方面でも織田方が優勢となる。直家、岡山城で病没。 |
天正10年 (1582) |
備中 |
秀家が家督を継承。秀吉軍に属す。 |
輝元、元春、隆景が備中に大軍を集結。 |
備中高松城を水攻め。 |
本能寺の変 発生。秀吉、毛利と和睦し「中国大返し」を敢行。 |
第三部:国境の要害、三石城 ― その構造と戦略的価値
3-1. 備前・播磨の喉元
三石城が築かれた備前市三石は、古代から山陽道が通過する交通の要衝であり、西の備前国と東の播磨国を分かつ国境地帯に位置する。標高291メートルの天王山に拠るこの城は、播磨から備前へ侵攻する敵軍を食い止める、まさに喉元に突き付けられた刃のような存在であった。この地理的条件こそが、三石城が長きにわたり戦略拠点として重視され続けた最大の理由である。
3-2. 浦上氏の栄枯盛衰の舞台
三石城の歴史は古く、南北朝時代の元弘三年(1333年)、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した伊東大和二郎によって築かれたと伝わる 25 。室町時代に入り、赤松氏が備前守護となると、その重臣であり守護代であった浦上氏がこの城を与えられ、以後、浦上氏累代の居城となった 26 。
特に、戦国時代の幕開けを告げる下剋上の象徴的な出来事も、この城を舞台に繰り広げられた。永正十六年(1519年)、浦上村宗は主君である赤松義村と対立し、三石城に籠城。義村は大軍を率いて城を包囲したが、村宗はこれを撃退し、ついには義村を討ち取り、浦上氏は戦国大名として独立を果たした 12 。まさに三石城は、浦上氏の栄光と下剋上の歴史そのものを体現する城であった。
3-3. 堅城の構造
三石城は、天然の地形を巧みに利用した連郭式の山城である 1 。山頂に本丸を置き、そこから南に伸びる尾根筋に二の丸、三の丸を階段状に配置した縄張りは、攻め手が一度に大軍を投入することを困難にさせる 2 。
城の防御施設は、戦国期の改修を経て、極めて堅固なものとなっていた。特筆すべきは、尾根を断ち切るように掘られた巨大な堀切である。これは天然の岩盤を削って造られたもので、その深さと急峻さは、敵兵の侵攻を物理的に遮断する 2 。また、大手門周辺や曲輪の要所には石垣が用いられており、高い防御力を誇っていたことが窺える 26 。城内には井戸や池も複数確認されており、長期の籠城戦にも耐えうる設計となっていた 25 。これらの構造から、三石城が備前東部における屈指の堅城であったことは疑いようがない。
3-4. 天正七年、城に誰がいたのか?
浦上宗景が天文二十三年(1554年)に、より内陸の天神山城へ本拠を移して以降、三石城は浦上氏の政治的中心地としての役割を終えた 1 。しかし、これは城が軍事拠点として完全に放棄されたことを意味しない。国境の要衝という戦略的価値は何ら変わることはなく、天神山城の東方を守る重要な支城として機能し続けていたと考えるのが自然である 27 。
問題は、天正五年(1577年)に浦上宗景が宇喜多直家によって追放された後、この城が誰の手に渡っていたかである。備前一国を掌握した直家は、毛利氏の同盟者となった。この国境の城を、毛利氏が何の備えもなく放置したとは考えにくい。
最も蓋然性の高いシナリオは、天正七年の宇喜多直家離反の時点で、三石城には毛利氏に忠実な城兵、もしくは宇喜多直家の支配に反感を抱く浦上氏の旧臣たちが立て籠もっていたというものである。有力な武将が城主としていたというよりは、国境警備のための城代や守備隊が駐屯していたと推測される。彼らは、直家の裏切りを知り、毛利本隊からの援軍を信じて、あるいは旧主への義理から、宇喜多氏に抵抗する道を選んだのであろう。この「旧勢力の残滓」を一掃し、播磨国境を完全に封鎖することこそ、直家の作戦目的の一つであった。
第四部:天正七年の攻防 ― 「備前・美作国境平定作戦」のリアルタイム再現
宇喜多直家の毛利からの離反は、静かな宣言では終わらなかった。それは、即座に具体的な軍事行動へと転化された。彼の狙いは、旧主・浦上氏の残党が潜み、毛利方の拠点となっている備前・美作国境地帯を電光石火の速さで制圧し、自らの新たな立場を内外に示威すると同時に、東方からの脅威を完全に除去することにあった。
4-1. 作戦開始(1579年5月~6月)― 標的は美作・三星城
直家が最初の標的として定めたのは、備前との国境に近い美作の要衝・三星城であった 3 。この城は、毛利方に与する後藤勝基が守り、宇喜多氏に滅ぼされた浦上宗景の旧臣たちが多数籠城していた 4 。ここを叩くことは、毛利への明確な敵対行動であると同時に、旧浦上家臣団の抵抗の芽を摘むという意味も持っていた。
緒戦の苦闘: 直家は、重臣の花房職秀、延原家次らを大将とする部隊を三星城へ派遣した。しかし、宇喜多軍の進撃を知った後藤勝基と浦上旧臣らは、城から打って出て巧みな伏兵戦術を展開。油断していた宇喜多軍は奇襲を受けて総崩れとなり、手痛い敗北を喫して湯郷村まで一時撤退を余儀なくされた 4 。この敗戦は、旧浦上家臣団の士気が高く、その抵抗が極めて根強いことを直家に痛感させた。
直家の真骨頂 ― 謀略戦への転換: 緒戦の苦戦の報を受けた直家は、力攻めが最善の策ではないと即座に判断した。彼は宇喜多詮家(後の坂崎直盛)を援軍の大将として派遣し、城への圧力を強める一方で、水面下では得意の謀略戦を開始した。軍記物によれば、直家は忍びの者を城内に潜入させ、兵糧庫や武具蔵に次々と放火させたとされる 4 。内部からの破壊工作は、籠城兵の間に動揺と不信感を植え付け、その団結を徐々に蝕んでいった。
三星城陥落: 絶え間ない軍事的圧力と、内部からの切り崩しという二正面作戦の前に、三星城の士気はついに限界に達した。同年5月、城は陥落。城主・後藤勝基は城を脱出して敗走するも、追撃の末に自害して果てた 5 。宇喜多直家は、緒戦の失敗を謀略によって鮮やかに覆し、美作における最大の抵抗拠点を制圧することに成功したのである。
4-2. 東方戦線の安定化 ― 三石城の無血開城(1579年6月以降、推定)
美作の三星城という難敵を、最終的には得意の謀略で下した直家の次なる目標は、東の国境、播磨を見据える三石城の確保であった。しかし、ここでの「戦い」は、三星城のような血なまぐさい攻防戦とは様相を異にした可能性が極めて高い。それは、武力衝突を伴わない、静かなる戦いであったと推測される。
この推論は、当時の戦略的状況から導き出される。西の三星城が落ちたという情報は、瞬く間に三石城の守備隊にもたらされたであろう。彼らは、毛利方の主要な友軍拠点を失い、備前国内で完全に孤立無援の状態に陥った。背後には勢いに乗る宇喜多の大軍が迫り、頼みの毛利本隊は播磨の三木城で秀吉軍に釘付けにされており、援軍を送る余裕など全くない。この絶望的な状況は、城兵に計り知れない心理的圧力を与えたはずである。
無駄な損害を何よりも嫌う合理主義者である直家が、この状況で力攻めを選択したとは考えにくい 15 。彼はまず間違いなく、降伏を勧告する使者を送ったであろう。使者は、三星城の悲惨な末路を語り、抵抗すれば城内の者は一人残らず撫で斬りにするが、速やかに城を明け渡せば生命は保証するといった、巧みな飴と鞭を使い分けた交渉を行ったと想像される 18 。
城内では、降伏か、玉砕かの激しい議論が交わされたに違いない。「三星城は落ちたぞ!」「毛利様からの援軍はもはや期待できぬ!」「直家は裏切り者だが、降る者を許すという。その言葉を信じるべきか…」。連日連夜の評定の末、城代は苦渋の決断を下す。数日後、三石城の城門は内から静かに開かれ、宇喜多軍は一兵の血も流すことなく、播磨国境の堅城を接収した。
これが、「三石城の戦い」の最も蓋然性の高い実像である。華々しい合戦記録が残されていないのは、そもそも大規模な戦闘が行われなかったからに他ならない。敵を戦う前に屈服させる。これこそが宇喜多直家の戦いの真骨頂であり、三石城の無血開城は、彼の謀略家としての能力が最大限に発揮された、静かなる大勝利であった。
第五部:戦いの帰結 ― 備前統一と新たな秩序の誕生
5-1. 備前・美作の完全掌握
美作の三星城と備前の三石城という、国境地帯の二大拠点を相次いで手中に収めたことにより、宇喜多直家は旧浦上領における反抗勢力を完全に一掃した。これにより、彼の備前国と美作東部における支配は盤石のものとなり、名実ともに領国は統一された 29 。彼の長年にわたる下剋上の野望は、ここに完成を見たのである。
5-2. 中国攻めへの貢献
宇喜多直家の離反と、それに続く備前平定は、織田信長と羽柴秀吉が進める中国攻め全体に計り知れないほどの戦略的利益をもたらした。毛利氏にとって、宇喜多氏は東方における最大の防波堤であり、播磨への兵站を支える重要な拠点であった。そのすべてを失った毛利氏は、戦線を大きく後退させざるを得なくなり、以後、中国攻めの主導権は完全に織田方に移った 17 。
秀吉は、背後の憂いであった宇喜多氏を味方につけたことで、播磨の三木城攻めに全戦力を集中させることが可能となった。天正八年(1580年)の三木城落城、そしてそれに続く天正九年(1581年)の因幡鳥取城の「渇え殺し」、天正十年(1582年)の備中高松城の「水攻め」といった、秀吉の戦史を飾る華々しい勝利は、すべて宇喜多直家のこの決断があったからこそ可能になったと言っても過言ではない 30 。
5-3. 宇喜多家の未来への布石
この一連の戦功により、当初は直家を疑っていた信長も、その実力と忠誠を認めざるを得なくなった。直家は織田政権下でその地位を確固たるものとし、備前57万石の大名として公認された 4 。天正九年(1581年)、直家は岡山城で病没するが、彼が築き上げたこの盤石な基盤と、織田政権(そしてその後継である豊臣政権)との強固な関係があったからこそ、息子の秀家はわずか9歳で家督を継承し、その後も豊臣秀吉の厚い庇護のもとで大領を維持することができたのである 20 。直家の最後の戦いは、宇喜多家の未来を切り拓くための、最も重要な布石となった。
結論:歴史の中の一点 ― 「三石城の戦い」が持つ真の意味
天正七年(1579年)の「三石城の戦い」は、その名から想起されるような、両軍が激しく火花を散らした大規模な攻城戦として歴史に記録されているわけではない。むしろ、その実像は、宇喜多直家という稀代の戦国武将が、織田と毛利という二大勢力の狭間で自家の生き残りを賭けて行った、周到かつ冷徹な「国境平定作戦」の最終局面として理解すべきである。
この作戦の成功は、単に宇喜多氏による備前統一事業を完成させただけでなく、羽柴秀吉が指揮する織田信長の中国攻め全体の力学を、不可逆的に織田方優位へと傾ける決定的な転換点となった。美作三星城では武力と謀略を、そして備前三石城では戦わずして勝つという心理戦を駆使した一連の軍事行動は、宇喜多直家の謀略家・戦略家としての能力が最も鮮やかに発揮された事例であり、彼の波乱に満ちた生涯を象徴する戦いであったと言えよう。
もし、三石城の「戦い」が、一滴の血も流れることなく、敵の戦意を砕くことによって終結したのだとすれば、それこそが宇喜多直家にとっての最大の勝利であったのかもしれない。歴史の表舞台から消えたかに見えた堅城は、その静かなる開城をもって、一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げたのである。
引用文献
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- 宇喜多直家⑤ - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page019.html
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- 中国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
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- 宇喜多直家・浦上宗景、梟雄たちの戦い/ 備中兵乱・天神山城の戦い - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=5W1THCGWu90&pp=0gcJCa0JAYcqIYzv
- 中国征伐 - 全知识 https://m.allhistory.com/detail/59104a1055b542257a00df8f
- 「 秀吉の中国攻め 」 http://takuwakai.la.coocan.jp/main/self_praise/endou_trip/trilogy/hideyoshi_picture.pdf
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- 岡山の基礎をつくった戦国武将 宇喜多直家と砥石城 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xw6rNghIkCg
- 裏切りと身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/132798/2
- 備前 沼城(亀山城) 宇喜多直家の興隆と秀家の誕生の地 | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-659.html?sp
- 宇喜多直家と城 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622717.html
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- 宇喜多直家(うきた なおいえ) 拙者の履歴書 Vol.43 ~謀略と外交の果てに - note https://note.com/digitaljokers/n/nb36565c729fd
- 宇喜多直家伝説-恐るべき策略家、梟雄(きょうゆう)ではない- | ITプラン・ツーリズム・センター | 岡山の体験型・着地型・産業観光に特化した旅行会社 https://tourism.itplan-global.com/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%AA%AC/
- 【岡山の歴史】(2)戦国宇喜多の再評価・・・宇喜多直家は、本当はどんな人物だったのか | 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000071248.html
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- 三石城 富田松山城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/okayama/bizensi.htm
- 三石城の見所と写真・100人城主の評価(岡山県備前市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1478/
- 裏切りと身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/132798
- 備中高松城の水攻め古戦場:岡山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/bichutakamatu/
- 幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る https://www.torican.jp/feature/eiyu-sentaku-tottorijou
- 宇喜多氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F
- 宇喜多秀家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6