最終更新日 2025-08-31

三隅城の戦い(1566)

石見・三隅城の戦い(元亀元年)全史:ある国人領主の滅亡と毛利氏の西国支配確立

序章:石見の風雲―戦いの舞台と主要な登場人物

戦国時代の日本列島において、中国地方は、東の出雲国を本拠とする尼子氏と、西の安芸国から興った毛利氏という二大勢力が覇を競う、長きにわたる動乱の舞台であった。その係争地のひとつが、日本海に面し、当時世界有数の産出量を誇った石見銀山を擁する石見国である。この国の覇権を巡る争いは、単に大名同士の領土拡大競争に留まらず、在地に根を張る国人領主たちの存亡を賭けた選択を否応なく突きつけるものであった。本報告書で詳述する「三隅城の戦い」は、そうした戦国時代の非情な現実を象徴する合戦であり、その背景には、大名の戦略的意図と、在地領主の複雑な人間関係が深く絡み合っていた。

石見国人衆の誇りと苦悩:益田氏と三隅氏、同族でありながら宿敵へと至る道

この戦いの主要な当事者である三隅氏と益田氏は、元をたどれば同じ先祖を持つ一族であった 1 。鎌倉時代初期、石見国の地頭であった御神本兼高の子らが分かれ、長男の系統が益田庄を本拠として益田氏を、次男・兼信が三隅庄を本拠として三隅氏を称したのが、両氏の始まりとされる 2 。彼らは当初、福屋氏や周布氏といった他の国人衆と共に領主連合を形成し、外部勢力に対抗するために協力関係を築いていた時期もあった 2

しかし、その関係は時代が下るにつれて変質していく。特に南北朝の動乱期において、本家である益田氏が北朝方に、分家である三隅氏が南朝方についたことで、両者の間には決定的な亀裂が生じた 3 。三隅氏は一時期、本家である益田氏を凌ぐほどの勢力を誇り、その独立志向と反骨の精神は、代々受け継がれていった 3

戦国時代に入ると、この対立構造は中国地方の二大勢力、大内・毛利氏と尼子氏の代理戦争の様相を呈する。益田氏は周防の大内氏、そしてその後継者である毛利氏に与し、一方で三隅氏は出雲の尼子氏を後ろ盾とした 3 。天文24年(1555年)には、益田藤兼が三隅氏を攻撃し、その所領の一部である三隅川河口部を攻略するなど、両者の敵対関係は抜き差しならないものとなっていた 2 。したがって、元亀元年の三隅城の戦いは、単に「毛利氏による石見平定戦」という大局的な側面だけでなく、その根底には「本家(益田)と分家(三隅)による、数百年にわたる地域の覇権を巡る最終戦争」という、極めて根深い対立構造が存在していたのである。毛利氏の石見侵攻は、益田氏にとって、巨大な外部権力を利用して長年の宿敵を完全に排除する、またとない好機であった。

要害・三隅城(高城)の地政学的価値

三隅氏の本拠地である三隅城は、標高約362メートルの高城山に築かれた、石見国を代表する堅固な山城であった 7 。地元では「高城(たかじょう)」とも呼ばれ、その名の通り、山頂部には本丸、東の丸、西の丸といった複数の曲輪が巧みに配置され、石垣や畝状竪堀群などの高度な防御施設が施されていた 1 。その堅牢さは、南北朝時代の武将・三隅兼連の活躍を記した軍記物『太平記』においても、「山は険しく用心深く、たとえ力攻めにしても叶わず」と称賛されるほどであった 9

この城の戦略的価値は、単なる軍事的な堅固さに留まらない。城からは眼下に三隅川が形成した平野と、それが注ぐ日本海を一望でき、陸路と海路の交通を完全に掌握できる地政学的に極めて重要な位置にあった 1 。この立地は、三隅城の支配が、石見銀山から産出される銀の海上輸送ルートと、日本海を通じた交易の利権を直接的にコントロールすることを意味していた。戦国大名にとって、石見銀山は巨大な富の源泉であり、その経済圏を安定的に支配することは領国経営の根幹をなすものであった 11 。毛利氏にとって三隅城の攻略は、尼子方の軍事拠点を排除するという軍事目的と同時に、石見銀山を中心とする経済圏を完全に掌握し、その富を安定的に吸収するための最後の仕上げという、経済的にも極めて重要な意味を持っていたのである。

第一章:永禄九年(1566年)の激震―尼子本宗家の降伏と石見への余波

利用者から当初提示された「1566年」という年は、三隅城が直接落城した年ではない。しかし、この年は三隅氏の運命を決定づける上で、極めて重要な転換点となった年であった。永禄9年(1566年)11月、毛利元就による長期間の兵糧攻めの末、尼子氏の本拠地である月山富田城は開城し、当主・尼子義久は降伏した 13 。これにより、戦国大名としての尼子氏本宗家は事実上滅亡し、中国地方の勢力図は毛利氏の優位で確定的なものとなった。

これに先立ち、毛利氏は石見国内の平定を着々と進めていた。永禄5年(1562年)には、石見銀山を支配する尼子方の拠点・山吹城の城主であった本城常光を調略によって寝返らせ、銀山の支配権を掌握 11 。石見国内の他の尼子方国人衆も次々と毛利氏に降伏、あるいは滅ぼされており、尼子本宗家が降伏する頃には、石見における毛利氏の支配はほぼ確立されていた 2

この尼子本宗家の降伏は、最後まで尼子氏との関係を保っていた三隅氏のような国人衆にとって、外交的・軍事的な「後ろ盾」の完全な喪失を意味した。彼らは、巨大化した毛利氏と、その同盟者であり年来の宿敵でもある益田氏という二つの強大な勢力の前に、孤立無援で晒されることになったのである。この時点で三隅氏に残された道は、毛利氏への服属以外になかった。しかし、それはあくまでも表面的なものであり、一族の誇りと独立への渇望を胸に秘めた彼らが、水面下で再起の機会を窺う、極めて不安定で屈辱的な平和であったと推察される。この永禄9年(1566年)の状況こそが、4年後の元亀元年(1570年)に三隅氏が反旗を翻す、直接的な土壌となったのである。

第二章:尼子再興の旗―反毛利勢力の決起

永禄12年(1569年)、毛利氏の主力が九州北部で大友宗麟との戦いに釘付けになっている隙を突き、山中鹿介幸盛をはじめとする尼子氏の旧臣たちが、尼子勝久を擁立して出雲国に上陸、尼子家再興の兵を挙げた 13 。この動きは、毛利氏の支配下で雌伏していた旧尼子方の勢力に瞬く間に伝播し、各地で反毛利の狼煙が上がった。

この好機を、三隅氏が見逃すはずはなかった。元亀元年(1570年)、当主・三隅隆繁とその弟・国定は、尼子再興軍の蜂起に呼応する形で、ついに毛利氏に対して反旗を翻した 15 。これは、単に旧主への忠義や感情的な反発から出た行動ではない。毛利氏が九州(大友氏)と出雲(尼子再興軍)という二正面作戦を強いられている状況を絶好の機会と捉えた、計算された戦略的判断であった。三隅氏の狙いは、石見国で毛利の兵力を引きつけ、出雲で戦う尼子再興軍への圧力を軽減させると同時に、石見と長門・周防を結ぶ毛利の重要な連絡線・補給線を遮断することにあった。もしこの作戦が成功すれば、出雲と石見における反毛利戦線が連結し、戦局を大きく転換させる可能性を秘めていたのである。

しかし、毛利方の対応は迅速かつ的確であった。毛利元就は、この石見での反乱鎮圧の総大将として、一門きっての驍将であり、山陰方面の軍事を統括していた次男・吉川元春を派遣した 2 。さらに、実際の攻略部隊の主力として、三隅氏の地理と内情を熟知し、かつ彼らへの敵愾心に燃える益田藤兼・元祥親子を動員した 15 。奇しくもこの元亀元年は、父・藤兼が家督を嫡男・元祥に譲った年でもあり、この戦いは新当主・元祥にとって、その力量を毛利家中に示す極めて重要な意味を持つ戦いとなった 2 。毛利氏は、吉川元春という絶対的な重石を置いた上で、地域の事情に精通した益田氏に実働部隊を任せるという、効率的かつ確実な方法で、反乱の芽を摘み取ろうとしたのである。

第三章:三隅城攻防戦―リアルタイム戦闘序列

元亀元年(1570年)、石見国三隅の地で、毛利氏の西国支配を盤石にするための、そして石見の名族・三隅氏の存亡を賭けた最後の戦いの火蓋が切られた。

【表1:三隅城攻防戦における両軍の編成(推定)】

項目

攻撃側:毛利軍

防御側:三隅軍

総大将

吉川元春

三隅隆繁

陸上部隊 主将

益田元祥、益田藤兼

三隅国定

水軍部隊 主将

児玉氏

(なし)

推定兵力

数千(詳細不明)

数百~千程度(詳細不明)

主要拠点

周辺制圧後の包囲陣

三隅城(高城)及び11の支城

特記事項

陸海からの完全包囲

孤立無援

この編成表が示すように、両軍の戦力差は歴然としていた。特に、毛利方が児玉氏率いる水軍を動員できたのに対し、三隅方には海からの支援や脱出路を確保する手段がなかった点が、この戦いの帰趨を決定づける上で極めて重要な要素となった。

開戦:毛利軍の進軍と周辺支城の掃討(元亀元年 夏頃)

吉川元春を総司令官とし、益田元祥を主力とする毛利軍は、三隅領へ侵攻すると、まず本城である三隅城を孤立させるための作戦行動を開始した。三隅城は、その周囲に一族が守る11もの支城ネットワークを有しており、これらを一つずつ潰していく必要があった 10 。毛利軍はまず、三隅川南岸に位置する茶臼山城や、美都町方面の四ツ山城といった外郭の拠点を次々と攻撃し、陥落させた 19 。また、三隅氏の一族である井村氏が守る井村城も、この初期段階の攻撃によって落城したと伝えられている 20 。これにより、三隅方の防衛ラインは外側から徐々に削り取られ、三隅城は裸城にされていった。

包囲:陸海からの完全包囲網の形成(元亀元年 夏~秋)

周辺の支城群を掃討し、後顧の憂いを断った毛利軍は、いよいよ三隅城(高城)本体への包囲に取りかかった。

  • 陸路の封鎖: 益田元祥率いる陸上部隊は、高城山の四方の麓に陣を敷き、城へ通じる全ての道を遮断した。これにより、城内への兵糧や物資の搬入は完全に不可能となった 21
  • 海路の封鎖: これと並行して、この戦いの勝敗を事実上決定づける動きがあった。児玉氏が率いる毛利水軍の船団15艘が三隅湾に展開し、海上を完全に封鎖したのである 21 。これにより、籠城側にとって最後の望みであった、海上からの兵糧搬入、外部からの救援、そして城兵の脱出という全ての可能性が断たれた。

この陸と海からの同時包囲作戦は、毛利氏の軍事組織としての先進性を示すものであった。単に兵力で押し潰すのではなく、兵站と地理的条件を完全に掌握し、敵の戦略的選択肢を奪うという、極めて合理的かつ近代的な包囲戦術が展開されたのである。三隅城は、文字通り「籠の中の鳥」となった。

籠城:三隅城の防衛戦(元亀元年 秋)

完全な包囲下に置かれた三隅城では、城主・三隅隆繁と弟の国定が、城の堅固な地形と防御施設を頼りに徹底抗戦の構えを見せた。麓の湊口城(針藻砦)や古市城といった砦でも、三隅方の守備隊が陣を構え、絶望的な状況下で最後の抵抗を試みた 21 。しかし、兵力、物資、そして補給の全てにおいて圧倒的に劣る三隅方は、時間の経過とともに徐々に追い詰められていく。城内の兵糧や矢弾は日に日に尽き、兵たちの士気も低下していった。毛利方は焦って力攻めを仕掛けることなく、敵が内部から崩壊するのを冷静に待ち続けた。

総攻撃と落城(元亀元年9月)

数ヶ月にわたる包囲の末、籠城側の疲弊が頂点に達したと判断した吉川元春は、ついに総攻撃の命令を下した。

毛利軍の兵士たちが鬨の声を上げ、高城山の四方から城内へとなだれ込んだ。城内では各所で激しい白兵戦が繰り広げられた。この乱戦の中、最後まで奮戦を続けていた城主の弟・ 三隅国定が討死 した 18 。弟の死によって勝敗は決し、これ以上の抵抗は無意味であると悟った城主・

三隅隆繁は、燃え盛る城内で自刃して果てた 4

こうして、元亀元年(1570年)9月、三隅城は落城。鎌倉時代から約350年にわたり、石見国にその名を轟かせた名族・三隅氏は、ここに滅亡した 18

第四章:戦後の石見と三隅城の運命

三隅城の落城と三隅氏の滅亡は、石見国、ひいては中国地方全体の政治・軍事状況に決定的な影響を与えた。

毛利氏による石見支配の完全確立

三隅氏という、石見国内における最後の組織的な反毛利勢力が一掃されたことにより、毛利氏による石見国の支配は盤石なものとなった。これにより、毛利氏は本拠地である安芸・周防・長門から、山陰の出雲国に至る連絡線を完全に確保し、領国の一体的な経営が可能となった。さらに、日本の経済を左右するほどの価値を持っていた石見銀山の支配も安定し、そこから産出される莫大な銀は、毛利氏の軍事費や領国経営を支える重要な財源として、その後の勢力拡大に大きく貢献した 12 。石見の完全平定は、毛利氏の戦略的重心が、中国地方内の抗争から、東から迫る織田信長との天下を巡る争いへと移行するための、国内基盤を固める上で決定的に重要な意味を持ったのである。背後の憂いを完全に断ち切ったことで、毛利輝元は安心して東方戦線に兵力を注力できる体制を整えることができた。

論功行賞と新たな支配体制

この戦いで最大の軍功を挙げた益田氏は、毛利体制下でその地位を飛躍的に向上させた。戦後、当主の益田元祥は、総大将であった吉川元春の娘を妻に迎えることが許された 2 。これは、益田氏が単なる服属国人から、毛利一門に準ずる破格の待遇を受ける存在へと昇格したことを意味しており、彼らの毛利家中における影響力を決定づけた 2

一方、激戦の舞台となった三隅城は、戦後に廃城となり、その軍事拠点としての長い歴史に幕を下ろした 1 。興味深いことに、毛利氏は一度滅亡させた三隅氏の家名を、後に庶流の者に継がせる形で「復興」させている 2 。これは、武力による徹底的な制圧(三隅氏滅亡)と、婚姻政策による懐柔(益田氏の厚遇)、そして在地権威の再利用(三隅氏の復興)という、硬軟織り交ぜた巧みな統治術の表れであった。毛利氏は単なる征服者として振る舞うのではなく、地域の秩序を巧みに再編する為政者として、石見国をその支配体制に組み込んでいったのである。

結論:三隅城の戦いが戦国史に刻んだもの

三隅城の戦いは、永禄9年(1566年)の尼子氏本宗家の降伏という、中国地方の勢力図の地殻変動を直接的な背景として発生した。それは、旧尼子方の国人領主であった三隅氏が、山中鹿介ら尼子再興軍の蜂起に連動して起こした、最後の組織的抵抗であった。

この戦いの終結は、毛利氏による石見国の完全平定を画し、石見銀山を中心とする経済圏と、山陰地方の交通路を安定させるという、戦略的に極めて大きな成果をもたらした。それは、毛利氏が織田氏という新たな時代の覇者と対峙するための国内基盤を確立する上で、不可欠な一歩であったと言える。

しかし同時にこの戦いは、巨大な権力闘争の波に翻弄され、同族でありながら敵味方に分かれて血で血を洗う争いを繰り広げ、そして歴史の舞台から消え去っていった在地領主の悲劇を、鮮烈に物語っている。三隅隆繁の最後の決起は、滅びゆく者としての意地と誇りをかけた戦いであったのか、あるいは一縷の望みに賭けた冷静な戦略的判断だったのか。その答えは、今や静寂に包まれた三隅・高城山の史跡の中に、深く眠っている。

引用文献

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