最終更新日 2025-09-02

三雲城の戦い(1568)

永禄十一年、織田信長は上洛の途上、南近江の六角氏を観音寺城で破る。六角父子は甲賀の三雲城へ逃れゲリラ戦を展開するも、元亀元年、野洲河原で織田軍と激突し大敗。三雲城は陥落し、六角氏の軍事力は壊滅。信長は南近江を平定した。

永禄十一年、近江動乱 ― 織田信長の上洛と三雲城の戦略的役割

序章:天下布武への道程 ― 永禄十一年、織田信長上洛の背景

永禄十一年(1568年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。尾張・美濃を平定し、「天下布武」の印を掲げた織田信長が、足利義昭を奉じて京を目指すという、戦国の世の勢力図を根底から覆す軍事行動を開始したのである。この上洛戦は、単なる一地方大名の領土拡大戦争ではなく、室町幕府の再興という大義名分を伴う、周到に計算された政治的・軍事的事業であった。

その発端は、三年前の永禄八年(1565年)に遡る。三好三人衆と松永久秀らが将軍御所を襲撃し、第十三代将軍・足利義輝を殺害するという「永禄の変」が勃発した 1 。これにより、室町幕府の権威は地に堕ち、京周辺は混沌の渦に巻き込まれた。義輝の弟であり、当時は僧籍にあった覚慶(後の足利義昭)は、細川藤孝らの手引きで奈良を脱出し、幕府再興の悲願を胸に、有力大名の庇護を求める流浪の旅に出る 1

義昭が最初に頼ったのは、近江の六角氏や越前の朝倉義景といった名門大名であった。しかし、六角氏は義昭の受け入れを無情にも拒絶し、朝倉義景もまた、一向一揆などの国内問題を理由に、上洛の兵を挙げることに消極的であった 1 。諸大名が既存の秩序の維持や自国の安定を優先する中、義昭の上洛は遅々として進まなかった。この状況は、信長にとって千載一遇の好機であった。

美濃斎藤氏を滅ぼし、尾張・美濃二国を完全に掌握した信長は、次なる目標を天下に定めていた。彼にとって、将軍家の正統な後継者である義昭を庇護することは、自らの軍事行動を「私戦」から「公戦」へと昇華させるための、またとない大義名分をもたらすものであった 1 。信長は義昭を美濃の立政寺に丁重に迎え入れると、永禄十一年七月、その上洛を全面的に支援することを約束した 2 。信長のこの決断は、単なる善意や忠義心からではない。足利将軍家の権威を政治的な道具として利用し、天下統一への道を切り拓こうとする、極めて高度な政治戦略であった。かつて義昭を拒絶した六角氏は、この時点で、信長が描く壮大な政治劇における「幕府再興を妨げる逆賊」という役割を、図らずも与えられることになったのである。

第一章:近江の壁 ― 名門・六角氏の抵抗

信長の上洛ルートのほぼ中央に位置し、京への道を塞ぐように横たわっていたのが、南近江の広大な領域を支配する守護大名・六角氏であった。当主は六角義賢(出家して承禎)とその子・義治。彼らが信長の上洛に協力するか否かは、計画の成否を左右する極めて重要な要素であった。

佐々木源氏の名跡と誇り

六角氏は、鎌倉時代から続く佐々木源氏の嫡流であり、室町幕府において四職に数えられる京極氏と並び、近江守護職を代々務めてきた名門中の名門であった 3 。彼らは長年にわたり幕政の中枢に関与し、近江一国に絶対的な権威を誇ってきた。その誇りは、織田氏のような新興勢力に対する強い自負と排他性となって現れた。織田氏は守護代・斯波氏のさらに家臣という家格であり、六角氏から見れば格下の存在に過ぎなかった 5 。そのような織田氏が、将軍候補者を擁して自国の領内を通過し、天下に号令しようとすること自体が、六角氏が守ってきた既存の秩序と権威に対する挑戦であり、到底容認できるものではなかったのである 3

観音寺騒動の爪痕と内憂

しかし、その名門の誇りとは裏腹に、当時の六角氏の内部は深刻な問題を抱えていた。永禄六年(1563年)、当主の六角義治が重臣であった後藤賢豊・清綱父子を観音寺城内で謀殺するという事件が発生した。これを「観音寺騒動」と呼ぶ 6 。この理不尽な粛清は、家臣団の間に義治への深刻な不信と反発を招き、家臣らは義治を観音寺城から追放する挙に出た 7

この内乱は、六角氏の支配体制に致命的な亀裂を生じさせた。最終的に家臣団と和解し、彼らの要求を呑む形で『六角氏式目』という分国法を制定することで事態は収拾されたが、これは当主の権力が家臣団によって著しく制限されたことを意味していた 8 。つまり、信長の侵攻を目前にした六角氏は、君主と家臣団の間に深い溝を抱え、一枚岩の結束を欠いた、極めて脆弱な状態にあったのである。この内部の不和は、圧倒的な軍事力を持つ織田軍を前にした時、家臣たちが主家のために命を懸けて戦うよりも、自らの生き残りを優先して降伏を選ぶという、後の急速な崩壊の遠因となった。

上洛要請の断固たる拒絶

永禄十一年八月、信長は佐和山城に着陣すると、足利義昭の家臣・和田惟政らに自らの家臣を添え、観音寺城の六角義治に使者を送った。その内容は、義昭の上洛を助けるよう協力を求めるものであり、見返りとして所司代の地位を約束するという、破格の条件であった 2

しかし、六角義賢・義治父子はこの申し出を断固として拒絶した 9 。この背景には、名門としてのプライドに加え、当時畿内の実権を握っていた三好三人衆との連携があったとされる 9 。彼らは織田軍の侵攻に備え、三好方と評議を行っていたのである。七日間にわたる説得も空しく交渉は決裂し、信長は武力による近江平定を決意。こうして、織田信長の天下布武の最初の戦いと、名門・六角氏の存亡を賭けた戦いの火蓋が切って落とされることとなった。

第二章:観音寺城の電撃戦 ― 織田軍、南近江を席巻す(永禄十一年九月)

交渉決裂を受け、織田信長は迅速に行動を開始した。彼の近江侵攻は、戦国時代の合戦の常識を覆すほどの驚異的な速度で展開され、六角氏の防衛網を瞬く間に粉砕した。

【表1】南近江侵攻における時系列表(永禄十一年九月)

日付 (永禄11年)

織田軍の動向

六角方の動向

出典

9月7日

信長、岐阜を出陣。美濃平尾村に着陣。

観音寺城にて籠城、防衛体制を固める。

11

9月8日

近江高宮に着陣。愛知川周辺を放火。

防衛網の支城群で迎撃準備。

11

9月12日

箕作城、和田山城など支城群への総攻撃を開始。

箕作城、和田山城などで防戦するも、一日で陥落。

9

9月13日

観音寺城へ進軍。

義賢・義治父子、観音寺城を放棄し甲賀郡へ退却。

4

9月14日以降

佐久間信盛らを永原城などに配置し、南近江の支配体制を構築。信長は京へ進む。

三雲城に籠城し、抵抗の拠点とする。

11

両軍の戦力差

開戦に先立ち、両軍の戦力には絶望的なまでの差が存在した。信長は尾張・美濃の兵を中核に、同盟者である三河の徳川家康、北近江の浅井長政、そして北伊勢の諸豪族の軍勢をも動員し、その総兵力は六万に達したと記録されている。対する六角軍は、かき集めても一万一千程度であり、その兵力差は五倍以上であった。

【表2】観音寺城の戦いにおける両軍の兵力・主要武将比較

勢力

総兵力

主要武将

出典

織田連合軍

約50,000~60,000

総大将 : 織田信長 部隊長 : 柴田勝家, 丹羽長秀, 木下秀吉, 佐久間信盛 同盟軍 : 徳川家康, 浅井長政

4

六角軍

約11,000

当主 : 六角義賢 (承禎), 六角義治 重臣 : 三雲成持, 進藤賢盛, 後藤高治など

4

この圧倒的な兵力差を前にして、六角方が野戦での決戦を避け、観音寺城を中心とした十八の支城群に拠る籠城策を選択したのは、戦略的に当然の帰結であった。しかし、彼らが誇るこの堅固な防衛網は、信長の革新的な戦術の前に、あまりにも脆く崩れ去ることになる。

箕作城・和田山城の攻防 (九月十二日)

九月十二日、織田軍の総攻撃が開始された。信長は兵力を分散させることなく、観音寺城防衛の最重要拠点である箕作城と和田山城に攻撃を集中させた 4

『信長公記』によれば、箕作城攻めの大将には丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らが任じられた。彼らは城兵の予想を遥かに超える猛攻を仕掛け、難攻不落と謳われた山城は、わずか一日にして陥落した 4 。この箕作城の一日での陥落は、単なる戦術的な勝利以上の意味を持っていた。それは、六角氏が絶対の自信を持っていた伝統的な山城の防衛システムが、信長の圧倒的な兵力と集中投入という新しい戦術の前には全く通用しないという事実を、六角方の全ての将兵に突きつける、強烈な心理的打撃であった。この衝撃は瞬く間に他の支城へと伝播し、六角氏の防衛線は内部から崩壊を始めた。

観音寺城の無血開城 (九月十三日)

箕作城陥落の報は、観音寺城の本陣にいた六角義賢・義治父子を震撼させた。防衛の要がこれほどまでに呆気なく破られたことで、彼らは本城での籠城戦そのものが無意味であると悟った。他の支城も、織田軍の勢いに恐れをなして戦わずして降伏するところが相次いだ 3

翌九月十三日、六角父子は決断を下す。彼らは観音寺城に火を放つこともなく、城を放棄し、一族の伝統的な退避路である甲賀郡方面へと落ち延びていった 4 。これにより、日本五大山城の一つに数えられ、六角氏数百年の栄華の象徴であった観音寺城は、一戦も交えることなく織田信長の手に渡ったのである 6 。信長の上洛戦における最大の障害は、開戦からわずか数日で、ほぼ無傷のまま取り除かれた。

第三章:甲賀への遁走 ― 三雲城、六角氏最後の拠点となる(永禄十一年九月十三日以降)

観音寺城を放棄した六角義賢・義治父子の敗走は、単なる無秩序な逃亡ではなかった。それは、一族が過去幾度となく用いてきた、伝統的な抵抗戦略への移行を意味していた。そして、その新たな戦略の拠点として選ばれたのが、甲賀の山中に聳える三雲城であった。

なぜ三雲城だったのか ― 「詰めの城」としての役割

三雲城は、六角氏の重臣であり甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城であった 15 。この城は、平時に政務を執る観音寺城に対し、有事の際に主君が逃げ込み、最後の抵抗を行うための「奥城」あるいは「逃げ城」として明確に位置づけられていた 15 。事実、観音寺騒動の際にも、六角父子は一時この城に退避している 16

六角氏にとって、本拠地を捨てて甲賀の山中に潜み、ゲリラ戦を展開するという戦術は、お家芸とも言えるものであった。過去、室町幕府の討伐軍に攻められた際にも、六角高頼は観音寺城をあっさりと放棄し、甲賀武士団と共にゲリラ戦で幕府軍を疲弊させ、最終的に近江守護の地位を回復している 17 。つまり、義賢・義治父子の三雲城への退却は、圧倒的な戦力を持つ織田軍との正面対決という、勝ち目のない土俵から降り、自らが最も得意とする非正規戦闘の土俵へと戦いの舞台を移すための、計算された戦略的後退だったのである。彼らが頼みとしたのは、甲賀の険しい地形と、この地に根を張り、六角氏に忠誠を誓う甲賀武士団の存在であった 20

(コラム)三雲城の縄張り ― ゲリラ戦を支える堅城

三雲城がゲリラ戦の拠点として最適であった理由は、その地理的条件と堅固な構造にあった。標高334メートルの山上に築かれたこの城は、天然の要害に囲まれていた 21 。麓を流れる野洲川が自然の堀となり、対岸の敵の動きを一望できる戦略的な立地を誇る 22

城の防御施設は、中世山城の典型的な特徴を備えつつ、高度な技術が用いられていた。特に注目すべきは、城の大手口に設けられた「枡形虎口」である 15 。これは、巨大な石垣で四角く囲んだ空間を作り、進入路を折り曲げることで敵兵の直進を阻み、三方向から集中攻撃を浴びせるための防御施設である 24 。この虎口の存在は、三雲城が高い防御力を有していたことを示している。さらに、城内の一角には「八丈岩」と呼ばれる高さ8メートルを超える巨岩が聳え立ち、天然の物見台として機能していた 22 。これらの堅固な縄張りは、少数の兵力で長期間の籠城を可能にし、甲賀の山中から出撃するゲリラ部隊の拠点として、まさに理想的な城であったと言える。

1568年時点の織田軍の動向

一方、六角父子を甲賀の山中に追い込んだ信長であったが、彼らを深追いすることはなかった。信長のこの時点での最優先目標は、あくまで足利義昭を奉じて速やかに上洛し、京を制圧することにあったからである 9 。六角氏の残党狩りに時間を費やすよりも、政治的な目的を達成することを優先した。

信長は、南近江の支配を固めるため、観音寺城の支城であった永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家といった譜代の重臣を配置し、六角方の動きを監視する体制を整えた 13 。そして自身は本隊を率いて京へと進軍し、九月二十六日には東寺に入り、畿内の制圧に着手した 11 。この信長の戦略的判断により、1568年の時点では三雲城への本格的な攻撃は行われず、六角氏は抵抗の準備を整えるための貴重な時間を得ることになった。

第四章:抵抗の狼煙 ― 甲賀衆と六角氏のゲリラ戦

三雲城に拠点を移した六角義賢は、息を潜めるどころか、直ちに反撃の狼煙を上げた。彼の指揮のもと、甲賀の地に根差した武士団が組織され、織田氏の支配に対する執拗なゲリラ戦が開始されたのである。

甲賀の地に根差した抵抗運動

六角氏の抵抗の中核を担ったのは、「甲賀五十三家」に代表される甲賀武士たちであった 20 。彼らは六角氏とは主従関係にありながらも、「惣」と呼ばれる独自の自治組織を持つ半独立の存在であり、山中での戦闘や諜報活動に長けた特殊技能集団であった 19 。義賢は彼らを率いて三雲城から出撃し、織田軍が支配下に置いた南近江の各地で散発的な攻撃を繰り返した 28

このゲリラ戦は、信長にとって看過できない問題であった。それは、美濃と京を結ぶ東山道(後の中山道)を脅かし、織田軍の兵站線を危険に晒すものであったからだ。六角氏の抵抗は、南近江における織田氏の支配を不安定にし、信長が畿内の平定に専念することを妨げる、背後の脅威として存在し続けた 28

信長の対抗策

この厄介なゲリラ活動に対し、信長は南近江の要所を譜代の重臣で固めるという封じ込め策を採った。特に、近江支配の拠点として永原城に配置された佐久間信盛は、対六角氏戦線の司令官として重要な役割を担うことになった 13 。佐久間軍は、六角方のゲリラ部隊と幾度となく衝突し、菩提寺城や石部城などを巡って激しい攻防を繰り広げた 28

六角方は、封鎖された城から夜間に打って出て織田軍の陣を奇襲するなど、ゲリラ戦術を駆使して頑強に抵抗した 28 。こうして、永禄十一年の観音寺城陥落後も、南近江の山中では、織田方の制圧軍と六角方のゲリラ部隊による、一進一退の攻防が長期間にわたって続くことになった。この根深い対立構造が、二年後の元亀元年(1570年)に行われる、織田軍による本格的な六角氏討伐戦、そして三雲城の最終的な攻略へと繋がっていくのである。

終章:三雲城の落日と六角氏の終焉

永禄十一年(1568年)に三雲城へ退いて以降、六角義賢は甲賀衆を率いて粘り強い抵抗を続けた。しかし、天下統一へと突き進む織田信長の圧倒的な力の前に、その抵抗もやがて限界を迎える。

元亀元年(1570年)の攻防

元亀元年(1570年)四月、信長は若狭の武田氏を討伐し、さらに越前の朝倉義景を攻めるため、大軍を率いて北上した。この信長本隊の不在は、六角義賢にとって千載一遇の好機であった。彼は甲賀の地で再編した軍勢を率いて大規模な反攻作戦に打って出る。しかし、同年六月四日、野洲川の河原で柴田勝家と佐久間信盛が率いる織田軍と激突(野洲河原の戦い)。この戦いで六角・甲賀連合軍は大敗を喫し、三雲父子や高野瀬といった譜代の重臣を含む多数の将兵を失った 28 。この敗戦は、六角氏の組織的な抵抗力に致命的な打撃を与えた。

佐久間信盛による三雲城攻略

野洲河原の戦いでの勝利に乗じ、織田軍は六角氏の最後の拠点である三雲城への本格的な攻撃を開始した。攻略の大将を任されたのは、この地域の守備を担ってきた佐久間信盛であった 16 。堅城を誇った三雲城も、度重なる敗戦で士気を失い、兵力も枯渇した状況では、もはや織田軍の猛攻を防ぎきることはできなかった。

壮絶な攻防の末、三雲城はついに陥落。城主であった三雲成持は降伏し、開城した 21 。これにより、六角氏が再起を賭けた最後の砦は、その歴史的役割を終えたのである。降伏した三雲成持は、その後、織田信雄、蒲生氏郷に仕え、最終的には徳川家康の家臣となり、江戸時代には旗本として三雲の地に戻り家名を存続させている 21

戦国大名・六角氏の事実上の滅亡

最後の拠点である三雲城を失ったことで、鎌倉時代から近江に君臨してきた名門・六角氏は、戦国大名としての歴史に事実上の終止符を打った 29 。六角義賢はその後もなお、石山本願寺や甲斐の武田氏と連携し、信長への抵抗を続けたとされるが、もはや天下の趨勢に影響を与える力を持つ存在ではなかった。

振り返れば、永禄十一年(1568年)の織田信長の上洛戦は、六角氏にとって決定的な転換点であった。観音寺城からの退却と三雲城への籠城は、単なる一合戦の敗北ではなく、旧来の名門勢力が、天下布武を掲げる革新的な勢力の前に屈し、歴史の表舞台から姿を消していく時代の大きなうねりを象徴する出来事であった。1568年の時点では直接の戦闘は行われなかったものの、三雲城は、滅びゆく名門・六角氏が最後の意地を見せた、終焉の舞台として、戦国史にその名を刻むこととなったのである。

引用文献

  1. 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡市安土町) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/384
  2. 121『信長公記』を読むその6 巻1:永禄11(1568)年、信長、義昭公を奉じて上洛する https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12784864873.html
  3. 観音寺城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannonjijo/
  4. 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
  5. 「桶狭間合戦時に織田信長と六角義賢が同盟していた説」読売新聞より - 肝胆ブログ https://trillion-3934p.hatenablog.com/entry/2017/08/04/000253
  6. 観音寺城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/70/memo/4277.html
  7. 三雲城 丸岡城・丸岡東城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/siga/konansi.htm
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  9. 観音寺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 観音寺城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11093/
  11. 歴史の目的をめぐって 佐久間信盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sakuma-nobumori.html
  12. 織田政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9
  13. 七三)年には石部城・鯰江城も陥落 - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/secure/5949/vol7mihon_furoku.pdf
  14. 觀音寺城之戰- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%A7%80%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E4%B9%8B%E6%88%B0
  15. 三雲城の見所と写真・300人城主の評価(滋賀県湖南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1844/
  16. 第278回:三雲城(六角氏が逃げ込んだ三雲氏の城) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-299.html
  17. 観音寺城をめぐる議論 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.turedure4.htm
  18. 長享・延徳の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
  19. 52.鈎の陣と甲賀忍者(栗東市) - 近江史を歩く https://biwap.raindrop.jp/details1062.html
  20. 甲賀古士 - 遠藤 潔オフィシャルサイト http://kiyoshi-endo.com/information/detail.php?id=637
  21. 近江 三雲城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/mikumo-jyo/
  22. 三雲城跡・八丈岩(みくもじょうし・はちじょういわ) | 滋賀県湖南市観光ガイド ぶらりこなん https://www.burari-konan.jp/kanko/meisho/mikumojoushi-hachijoiwa/
  23. 三雲城址 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/880/
  24. 三雲城址ハイキングコース - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/uploads/doc/pamphlet/bc8dda339853fd1acce7b1dacf4950dd.pdf
  25. 三雲城 [1/2] 巨大石垣で築かれた枡形虎口を持つ甲賀武士の山城。 https://akiou.wordpress.com/2016/10/13/mikumo/
  26. 湖南市・三雲学区の城址紹介 https://mikumo-gakku.jp/smarts/index/102/
  27. 信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ - 京都府京都文化博物館 https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/nobunagazyouraku450/
  28. 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
  29. カードリスト/玄/第4弾/玄133_六角義賢 - 英傑大戦wiki https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/1873.html
  30. 【六角軍と織田軍】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030450
  31. 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
  32. 三雲城の穴太衆初期作品 (J limited 01 / smc PENTAX-D FA MACRO 50mmF2.8) - note https://note.com/2378tcdf/n/n696267b761b9