最終更新日 2025-09-02

三雲寺口・野洲川渡河戦(1568)

永禄十一年、織田信長は上洛の途上、南近江の六角氏を観音寺城で破る。六角父子は甲賀へ逃れゲリラ戦を展開するも、元亀元年、野洲河原で織田軍と激突し大敗。三雲父子ら重臣を失い、六角氏の軍事力は壊滅。信長包囲網下の南近江を安定させた。

近江動乱:観音寺城の崩壊から野洲河原の決戦へ(1568-1570)—六角氏の抗戦と三雲一族の最期—

序章:天下布武の衝撃 — 永禄11年、織田信長の上洛作戦

永禄11年(1568年)、日本の歴史が大きく転換する年である。尾張・美濃を平定した織田信長が、足利義昭を奉じて京を目指したこの軍事行動は、単なる一地方大名の上洛に留まらず、その後の天下統一事業の幕開けを告げるものであった。しかし、その行く手には、近江国南部に盤踞する名門・六角氏という大きな障壁が立ちはだかっていた。本報告書は、ユーザーの提示した「三雲寺口・野洲川渡河戦(1568)」という戦闘名称を手がかりとし、歴史的実証に基づき、1568年の観音寺城の戦いから、六角氏のゲリラ戦、そして1570年に三雲一族の運命を決した野洲河原の戦いに至るまでの一連の動乱を、時系列に沿って詳細に再構築するものである。

足利義昭の擁立と大義名分

この壮大な軍事行動の背景には、室町幕府の権威失墜と、それに伴う将軍家の混迷があった。永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺される「永禄の変」が勃発 1 。義輝の弟であった足利義昭(当時は覚慶)は、細川藤孝らの手引きで奈良を脱出し、幕府再興の悲願を胸に、各地の大名に支援を求める流浪の身となった 1

当初、義昭は越前の朝倉義景などを頼ったが、事態は好転しなかった 2 。この膠着状態を打破したのが、義昭の家臣であった明智光秀の仲介による、織田信長との連携成立であった 2 。美濃を平定し「天下布武」の印を掲げ始めた信長にとって、義昭の存在は、自身の上洛という軍事行動を、単なる勢力拡大ではなく「将軍家を再興し、天下に静謐をもたらす」という政治的正義へと昇華させる、またとない大義名分であった 4 。さらに信長は、正親町天皇からの綸旨(りんじ)も得ており、朝廷と将軍家という二つの最高権威を背景に、盤石の体制で上洛作戦を開始するに至った 5

立ちはだかる名門・六角氏

信長の行く手を阻んだのが、南近江の守護大名・六角氏であった。宇多源氏佐々木氏の嫡流を称する六角氏は、室町幕府において代々近江守護を務めた名門中の名門である 7 。当主の六角義賢(ろっかくよしかた、出家して承禎(じょうてい))と、その嫡男・義治(よしはる)は、父・定頼の代から畿内の政治に深く関与し、将軍家や管領家の争いを調停するなど、大きな影響力を行使してきた 10

この名門としての自負が、彼らに致命的な判断を下させる。信長は上洛に先立ち、義昭の近臣であった和田惟政を使者として派遣し、義昭の上洛を支援するよう再三にわたり協力を要請した 6 。しかし、六角父子、特に当主の義治はこれを断固として拒絶した 7 。その背景には、新興勢力である織田氏が自分たちを素通りして京に入ることは、家の面目にかけて許容できないというプライドがあった 7 。加えて、六角氏はかねてより反信長勢力である三好三人衆と連携しており、信長の申し出を受け入れる選択肢は事実上存在しなかった 6

この六角氏の決定は、単なる戦略的判断ミスに留まらない。それは、自らを畿内の調停者と自負する「過去の栄光」と、信長の圧倒的軍事力という「現在の現実」との間に生じた、致命的な認識の乖離に起因していた。永禄6年(1563年)に重臣の後藤賢豊父子を殺害し、家臣団の離反を招いた「観音寺騒動」や、かつては被官であった北近江の浅井長政の独立を許すなど、六角氏の支配体制は近年著しく弱体化していた 10 。この客観的な自己評価の欠如が、彼らを破滅的な選択へと導いたのである。

開戦前夜の戦略

永禄11年9月、両軍は近江の地で対峙した。

  • 織田軍: 信長直属の尾張・美濃衆を中核に、同盟者である三河の徳川家康(兵1,000)、そして六角氏とは宿敵の関係にある北近江の浅井長政(兵3,000)の軍勢も加わり、その総勢は5万から6万という大軍に膨れ上がった 7 。信長の目的は、六角氏を殲滅することではなく、迅速にこれを排除し、京都への進路を確保することにあった。
  • 六角軍: 対する六角軍の兵力は約1万1,000 14 。彼らは本拠地である観音寺城と、その防衛網の中核を成す支城・箕作城(みつくりじょう)、和田山城に兵力を分散配置した 6 。六角氏の戦略は、これらの堅城で織田の大軍の進撃を食い止め、時間を稼ぐ間に同盟者である三好三人衆の援軍を待つという、典型的な持久戦を想定していた 6

第一部:観音寺城の電撃的崩壊(1568年9月)

進軍と布陣(9月7日〜11日)

9月7日、信長は先遣隊を率いて北近江の佐和山城に着陣した 6 。ここで数日間、軍備を整えつつ、六角氏への最後の降伏勧告を行った。一方、六角方は織田軍が支城から順に攻め寄せてくると予測し、主力を和田山城に6,000、箕作城に3,000、そして義治が自ら守る観音寺城本丸には1,000の馬廻り衆を配置するという防衛態勢を敷いた 6 。これは、伝統的な攻城戦を想定した、教科書通りの布陣であった。

信長の奇策:中枢への直接攻撃(9月12日早朝)

9月12日早朝、信長は六角方の予測を根底から覆す行動に出る。軍を三隊に分け、愛知川(えちがわ)を一斉に渡河させたのである 6

  • 第一隊(稲葉良通ら): 和田山城へ向かい、陽動攻撃を開始。六角軍主力の注意を引きつける。
  • 第二隊(柴田勝家、森可成ら): 観音寺城の正面に布陣。城兵が出撃して他の部隊を側面攻撃することを牽制する。
  • 第三隊(信長本隊、丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉ら): 全軍の主力を、防衛線の要である箕作城ただ一点に集中させる。

この戦術は、敵の防衛拠点間の連携を分断し、指揮系統の中枢を直接叩くことで、戦全体の早期決着を図るという、信長ならではの合理性と速度を重視した電撃戦であった 9

主戦場・箕作城の攻防(9月12日日中〜夜)

信長が主目標と定めた箕作城は、急峻な地形を利用して築かれた堅城であり、城将・吉田出雲守らが率いる城兵の抵抗は熾烈を極めた 6 。木下秀吉(後の豊臣秀吉)率いる2,300の兵と、丹羽長秀率いる3,000の兵が猛攻を仕掛けたが、午後5時頃には一度撃退されるほどの激戦となった 6

日中の力攻めでは攻略が困難と判断した木下秀吉は、軍議の末、夜襲を決行する。闇夜に乗じた織田軍の奇襲は完璧に成功し、あれほどの堅城を誇った箕作城も、同日の夜にはついに陥落した 6 。この攻城戦における丹羽長秀の猛烈な戦いぶりは、「鬼」の異名をとるほどであったと伝えられている 10

観音寺城の無血開城と六角父子の敗走(9月13日)

防衛線の要であり、最後の希望であった箕作城が、わずか一日、それも一夜にして陥落したという報は、六角軍全体に絶望的な衝撃を与えた。和田山城を守っていた主力部隊は、この報を聞くや戦わずして逃亡 13 。観音寺城に籠る六角承禎・義治父子も完全に戦意を喪失し、交戦することなく、父祖伝来の巨大な本拠地を放棄した。彼らは、かつて先祖の高頼がそうしたように、再起を期して地盤のある甲賀郡の山中へと落ち延びていった 6

主を失った観音寺城は、翌13日に無血開城。これに続き、周辺にあった18の支城も次々と降伏し、信長はわずか数日のうちに南近江一帯を完全に手中に収めたのである 15

この戦いは、単なる軍事力の差が生んだ結果ではなかった。信長は開戦以前から、六角氏の有力家臣であった蒲生賢秀などに降伏を働きかけるなど、巧みな調略を行っていた 6 。箕作城への一点集中攻撃という奇策は、六角方の「支城で時間を稼ぐ」という戦略的前提を物理的に破壊すると同時に、既に調略で揺らいでいた家臣団の心理に決定的な一撃を与えた。箕作城の陥落が、即座に全線の総崩れに繋がった事実は、六角軍の士気と結束がいかに脆弱なものであったかを物語っている。信長は、敵の物理的・心理的弱点を的確に見抜く、優れた戦略家であった。

第二部:雌伏の時 — 甲賀における六角氏の抵抗(1568年-1570年)

伝統のゲリラ戦術

観音寺城を追われた六角承禎・義治父子にとって、甲賀郡は単なる逃亡先ではなかった。そこは、六角氏にとって「再起の地」という特別な意味を持つ場所であった。かつて長享元年(1489年)、9代将軍・足利義尚による討伐軍(鈎の陣)に攻められた際、当時の当主・六角高頼は観音寺城を捨てて甲賀に潜伏。甲賀武士団(甲賀衆)の力を借りて巧みなゲリラ戦を展開し、将軍の死という好機を捉えて最終的に本拠地を奪還したという成功体験があった 9

承禎・義治父子もこの先例に倣い、甲賀衆の支援を背景に、南近江における織田方の支配に対する粘り強い抵抗を開始した 9

三雲城と甲賀の拠点

このゲリラ活動の拠点となったのが、甲賀郡三雲(現在の滋賀県湖南市)に位置する三雲城であった。三雲城は、野洲川を眼下に見下ろす交通の要衝に築かれた山城で、六角氏の譜代重臣である三雲氏の居城であった 19 。六角父子はこの三雲城や石部城などを拠点とし、旧領回復の機会を窺った 9

信長の南近江支配体制と情勢の変化

一方、信長は六角氏の抵抗を封じ込めるため、南近江の要所に佐久間信盛や柴田勝家といった重臣を配置して支配体制を固め、自身は上洛後の畿内平定に注力した 18

この状況に劇的な変化が訪れたのが、元亀元年(1570年)4月のことである。信長が越前の朝倉義景を討伐するため出陣したところ、信長の妹・お市の方を娶っていた義弟の浅井長政が、長年の同盟関係にあった朝倉氏との信義を重んじ、突如として信長に離反。織田軍の背後を突いたのである 9 。これにより、浅井・朝倉を筆頭に、本願寺勢力や三好三人衆、そして六角氏が連携する「信長包囲網」が形成され、信長は絶体絶命の窮地に陥った。

この浅井氏の離反は、甲賀で雌伏の時を過ごしていた六角氏にとって、まさに待ち望んだ千載一遇の好機であった。彼らの約2年間に及ぶゲリラ戦は、単なる敗残者の嫌がらせではなかった。それは、信長の急激な勢力拡大が必ずや周辺勢力との深刻な軋轢を生むことを見越し、反信長の気運が高まるのを待つための「戦略的忍耐」であった。浅井長政の離反という外部環境の激変は、彼らにとって旧領回復に向けた大規模な軍事行動を起こすための、完璧な口実となったのである。

第三部:決戦、野洲河原(1570年6月4日)— 合戦のリアルタイム再現

【開戦前夜】 六角軍の蜂起と進出

浅井・朝倉との連携という絶好の機会を得た六角承禎・義治父子は、かねてより関係の深い伊賀・甲賀衆を本格的に動員し、一斉に蜂起した 23 。その勢力は一時2万に達したとも言われ 9 、旧領回復の旗印の下、ゲリラの拠点であった甲賀の山中から、野洲川流域の平野部へと大挙して進出した。

【両軍対峙】 野洲川を挟んで

元亀元年6月4日、両軍は野洲川を挟んで対峙した。

  • 六角軍: 六角父子を総大将に、三雲定持・成持父子、高野瀬氏、水原氏といった譜代の重臣たちが軍の中核を成していた 9 。彼らは野洲川南岸に布陣し、渡河して織田方の拠点を叩く機を窺っていた。
  • 織田軍: 対する織田方は、南近江の守備を任されていた柴田勝家(長光寺城主)と佐久間信盛(永原城主)が迎撃の任にあたった 9 。信長本隊は不在であり、兵力では六角軍に劣っていた可能性が高いが、彼らは信長軍の中でも歴戦の精鋭部隊であった。彼らは野洲川北岸に展開し、六角軍を待ち構えた。
  • 戦場の地理: 当時の野洲川は、上流からの土砂の堆積により川床が周囲の平野より高くなる「天井川」であり、頻繁に氾濫を繰り返していた 25 。そのため、大軍が渡れる地点は限られていた。決戦の地となったのは、野洲川右岸(北岸)に位置する乙窪(おちくぼ)周辺であった。この地は『信長公記』において「落窪の郷」と記されており、地形的に窪地であったことが、後の戦況に大きく影響することになる 27

【戦闘開始:午前】 織田軍の誘引作戦

戦闘の火蓋は、織田方の巧みな戦術によって切られた。『信長公記』には「やす川にて足軽に引付け」と簡潔に記されている 9 。この記述から、戦闘の推移は次のように再現できる。

柴田・佐久間軍は、まず前線に少数の足軽部隊を展開させ、意図的に六角軍に攻撃させた。勢いに乗る六角軍の先鋒は、この足軽部隊に猛然と襲いかかる。織田方の足軽部隊は、短時間の交戦の後、計画通りに秩序を保ちながら後退を開始。これを見た六角軍は、織田軍が早くも崩れたと誤認し、勝利を確信して追撃に移り、野洲川を渡って北岸へと殺到した。

【激突:正午過ぎ】 落窪の郷の罠

織田軍の足軽部隊を追撃した六角軍の主力は、野洲川北岸の「落窪の郷」と呼ばれる地点まで深く誘い込まれた 9 。そこは、まさに織田軍が仕掛けた罠であった。

六角軍の先鋒が窪地に殺到したその瞬間、周囲に伏せていた柴田・佐久間軍の主力が満を持して反撃に転じた。三雲父子らが率いる六角軍の先鋒は、統制を失い、窪地という身動きの取りにくい不利な地形で、万全の態勢で待ち構えていた織田軍の猛攻を正面から受ける形となった。

【決着:午後】 六角軍の崩壊と三雲一族の最期

戦闘は極めて短時間で決着した。両軍が激突してから、わずか2〜3時間後には勝敗が決したとされている 23

乱戦の中、六角軍の中核を担っていた譜代重臣たちが次々と討ち取られていった。三雲城主であった三雲定持・成持父子、そして高野瀬氏、水原氏といった、六角氏の浮沈を支えてきた歴戦の武将たちが、この地で壮絶な最期を遂げた 9

指揮官を失った六角軍は総崩れとなり、組織的抵抗力を完全に失った。織田軍は780余の首級を挙げるという、一方的な大勝利を収めた 9

この戦いは、両軍の指揮官が持つ「経験の質」の差が如実に現れたものであった。柴田勝家や佐久間信盛は、桶狭間の戦い以来、信長と共に数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の将であり、大軍を統制し、機を見て罠を仕掛ける戦術に長けていた。対する六角軍は、約2年間、大規模な野戦から遠ざかり、ゲリラ戦に特化していた。蜂起の勢いに乗りすぎて敵の術中に嵌まったことは、局地的な戦闘能力は高くとも、大軍を組織的に運用する能力が鈍っていたことを露呈したと言える。

【敗走】 再び甲賀へ

生き残った六角承禎・義治父子らは、わずかな手勢とともに再び甲賀の山中へと敗走した 18 。しかし、この敗戦で譜代の家臣団という軍事的中核を失った打撃は致命的であり、もはや彼らに旧領を回復する力は残されていなかった。

終章:戦後の影響と歴史的意義

戦国大名・六角氏の事実上の滅亡

1568年の観音寺城の喪失が、六角氏にとっての政治的権威の失墜であったとすれば、1570年の野洲河原での敗戦は、三雲氏ら譜代家臣団という軍事的中核の完全な壊滅を意味した 9 。これにより、六角氏は組織的な抵抗力を完全に喪失し、戦国大名として歴史の表舞台から事実上姿を消すことになった 23 。以降も散発的な抵抗は続けたものの、もはや信長にとって大きな脅威ではなくなった。

南近江の安定化と信長包囲網への影響

この勝利は、信長にとって計り知れない戦略的価値を持っていた。最大の危機であった信長包囲網の最中、背後である南近江の憂いを完全に断ち切ることができたからである。これにより、信長は全戦力を目前の浅井・朝倉連合軍に向けることが可能となり、野洲河原の戦いからわずか3週間後の6月28日、姉川の戦いで劇的な勝利を収めることに繋がった 23 。もし野洲河原で敗れていれば、信長は南北から敵に挟撃される、より困難な状況に陥っていた可能性が高い。

三雲一族と甲賀衆のその後

野洲河原で当主を失った三雲一族をはじめとする甲賀の土豪たちは、もはや再起不能となった六角氏を見限り、信長に帰順する道を選んだ 24 。これは、甲賀衆が特定の主人に殉じるというよりも、時勢を冷静に読み、自らの組織の生き残りを最優先に考える、自立性の高い武士団であったことを示している 28 。彼らの歴史は、主家と共に滅びるのではなく、新たな強者の下でその特殊な技能を活かし、生き延びていく道を選んだのである。

付属資料

【表1】野洲河原の戦い 両軍の兵力と主要指揮官(元亀元年6月4日)

陣営

総大将

主要指揮官

兵力(推定)

備考

織田軍

(柴田勝家・佐久間信盛)

柴田勝家、佐久間信盛

数千〜一万

南近江の守備軍。信長本隊は不在。

六角軍

六角承禎・六角義治

三雲定持、三雲成持、高野瀬秀隆、水原氏、伊賀・甲賀衆

一万〜二万

甲賀衆を中核とした旧領回復のための蜂起軍。

【時系列表】観音寺城陥落から野洲河原の戦いに至る主要な出来事(1568-1570)

年月

出来事

関連人物

影響

永禄11年 (1568) 9月

織田信長、足利義昭を奉じ上洛開始。

信長, 義昭, 六角義賢

六角氏、信長への協力を拒否し対立。

永禄11年 (1568) 9月12日

観音寺城の戦い。 箕作城が夜襲により陥落。

信長, 秀吉, 丹羽長秀

六角軍の防衛線が一日で崩壊。

永禄11年 (1568) 9月13日

六角父子、観音寺城を放棄し甲賀へ逃亡。

六角義賢, 六角義治

戦国大名としての六角氏の支配体制が崩壊。

1568年〜1570年

六角氏、甲賀郡を拠点にゲリラ戦を展開。

六角義賢, 三雲氏, 甲賀衆

南近江における織田方の支配を妨害。

元亀元年 (1570) 4月

浅井長政が信長から離反。信長包囲網が形成。

浅井長政, 朝倉義景

六角氏にとって旧領回復の好機が到来。

元亀元年 (1570) 6月4日

野洲河原の戦い(落窪合戦)。

柴田勝家, 佐久間信盛, 六角義賢, 三雲定持

六角軍が大敗。三雲父子ら重臣が討死。六角氏の軍事力が壊滅。

元亀元年 (1570) 6月28日

姉川の戦い。

信長, 家康, 浅井長政, 朝倉義景

信長、南近江の憂いなく浅井・朝倉との決戦に臨む。

引用文献

  1. 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡市安土町) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/384
  2. 織田信長の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26141/
  3. 10分で読める歴史と観光の繋がり 足利義昭・織田信長の連立政権、仏教勢力との経済戦争/ゆかりの 茶の湯の発祥、ものづくり都市〝堺〟/西の難攻不落、月山富田城/比叡山延暦寺と坂本城 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2023/03/21/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD%E3%83%BB%E7%B9%94%E7%94%B0/
  4. 室町幕府15代将軍/足利義昭|ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshiaki/
  5. [合戦解説] 10分でわかる観音寺城の戦い 「信長上洛戦は秀吉の奇策で決着、六角氏は没落へ」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=_B3igj8qpjQ
  6. 観音寺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 観音寺城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannonjijo/
  8. 近江六角氏 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/rokkaku
  9. 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
  10. 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
  11. 観音寺城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/70/memo/4277.html
  12. 「六角義賢」戦国武将HEROES - キャラクター制作の AUN https://www.auncle.com/heroes/heroes75.html
  13. 観音寺城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kannonji.htm
  14. 観音寺城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11093/
  15. 信長の上洛戦 :観音寺城陥落。信長、怒涛の進撃! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KqbQx8Q9VT4
  16. 丹羽長秀は何をした人?「米のように欠かせない男が安土城の普請に腕を振るった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagahide-niwa
  17. 52.鈎の陣と甲賀忍者(栗東市) - 近江史を歩く https://biwap.raindrop.jp/details1062.html
  18. 【六角軍と織田軍】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030450
  19. 三雲城址 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/880/
  20. 三雲家ルーツを探る遠足(3年前のお話) | どんぐり工房 こねこねらんどの夢冒険 https://plaza.rakuten.co.jp/dongurikobo/diary/202007100000/
  21. 三雲城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/238891
  22. 六角承禎―負けても勝った、名門大名 | 天野純希 「戦国サバイバー」 | よみタイ https://yomitai.jp/series/sengokusurvivor/03-rokkakuyoshikata/3/
  23. 【解説:信長の戦い】野洲河原の戦い(1570、滋賀県野洲市) 六角氏、せっかくカムバックを果たすも… | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/334
  24. 三雲定持 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9B%B2%E5%AE%9A%E6%8C%81
  25. 5-3 野洲川について(令和元年10月23日) https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5320619.pdf
  26. 野洲川はどんな川 - 服部遺跡 https://hattori-iseki.yayoiken.jp/h-yasugawa.html
  27. 乙窪村(おちくぼむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B9%99%E7%AA%AA%E6%9D%91-3070206
  28. 甲賀忍者の歴史 - 甲賀流忍術屋敷 | 今に残る本物の忍術屋敷 https://www.kouka-ninjya.com/knowridge/rekisi_koga/