上和田原の戦い(1563)
永禄六年、三河一向一揆で家臣団が分裂し、家康は最大の試練に直面。上和田原の激戦で自ら出陣し戦局を転換、一揆を鎮圧し統治基盤を確立した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
永禄六年 上和田原の戦い - 分裂する家臣団、若き家康の試練と三河統一への道程
第一章: 序論 - 「上和田原の戦い」とは何か
日本の戦国史において、徳川家康の生涯は数多の合戦と政治的危機によって彩られているが、その中でも彼の人間性と統治の根幹を形成したとされるのが、「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」と並び称される「徳川家康の三大危機」である 1 。本報告書が主題とする永禄6年(1563年)の「上和田原の戦い」は、この三大危機の一つ、「三河一向一揆」という未曾有の内乱において、その趨勢を決定づけた極めて重要な戦闘であった。
しかしながら、「上和田原の戦い」を単一の日に発生した決戦として捉えることは、その本質を見誤る可能性がある。この戦いは、特定の戦場における一度きりの衝突ではなく、永禄6年秋から翌7年初頭にかけ、松平家康の本拠地・岡崎城の南方を守る要衝、上和田砦(現在の愛知県岡崎市)を巡って繰り広げられた、一連の熾烈な攻防戦の総称と理解するのがより正確である。
この戦いの特異性は、敵が外部の侵略者ではなく、昨日まで同じ釜の飯を食らった譜代の家臣、そして領内の民であったという点にある。宗教的信仰と主君への忠誠という、相容れない二つの正義が激突し、松平家臣団は父子、兄弟が敵味方に分かれるという深刻な分裂に見舞われた 3 。若き家康は、領主として初めて、自らの領国と家臣団が内側から崩壊していくという恐怖に直面したのである。
したがって、本報告書は上和田原の戦いを、単なる軍事衝突の記録としてではなく、より広範な歴史的文脈の中に位置づけることを目的とする。すなわち、中世以来の権威であった寺社勢力の特権と、戦国大名による近世的な一元支配体制への移行期に生じた構造的矛盾が、三河国という舞台で噴出した象徴的事件として分析する。この内乱を、家康がいかにして乗り越え、その経験が後の彼の統治手法、そして「三河武士」と謳われる強固な家臣団の形成にいかなる影響を与えたのかを解明することこそが、本報告書の目指すところである。この試練の克服なくして、後の徳川幕府の礎が築かれることはなかったであろう。
第二章: 発端 - 三河動乱、その必然と偶然
背景:若き領主の野心と焦燥
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという激震が走ると、長らく今川氏の人質であった松平元康(後の家康)は、故地である岡崎城への帰還を果たし、独立への道を歩み始める 4 。時に19歳。彼の目前には、祖父・清康以来の悲願である三河国統一という壮大な目標が広がっていた 5 。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。独立したとはいえ、彼の支配基盤は依然として脆弱であり、東からは今川氏真が失地回復を狙って圧力をかけ続けていた 1 。家康は織田信長と清洲同盟を結ぶことで背後の安全を確保しつつ、三河国内の反抗勢力や今川方の国人衆との戦いに明け暮れる日々を送る。この長期化する対外戦争は、領内の経済的疲弊を深刻化させ、民衆や国人たちの間に、先の見えない戦いに対する厭戦気分と、若き領主の性急な政策への不満を鬱積させていた 1 。家康の三河統一事業は、まさに薄氷を踏むような状況下で進められていたのである。
対立の火種:不可侵の「聖域」と大名の論理
この不安定な情勢に、構造的な対立要因として拍車をかけたのが、三河国に深く根を張る浄土真宗(一向宗)本願寺教団の存在であった。三河地方は古くから真宗信仰が盛んな地であり、特に本證寺(安城市)、上宮寺(岡崎市)、勝鬘寺(岡崎市)は「三河三ヶ寺」と称され、広大な寺領と多数の門徒を擁する強大な勢力を形成していた 5 。
これらの有力寺院は、時の権力者から「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を認められていた 7 。これは、たとえ罪人の追捕や徴税のためであっても、領主の役人(守護使)が寺の敷地内に立ち入ることを拒否できる権利である。この特権により、寺院とその門前町(寺内町)は、領主の課税権も警察権も及ばない、一種の治外法権を有する独立自治体と化していた 6 。
三河国全土を完全に掌握し、兵糧の徴発や家臣の動員を一元的に管理しようとする家康にとって、この「国家内国家」とも言うべき寺社勢力の存在は、領国経営上の看過できない障害であった。戦国大名として、領国内のあらゆる土地と人民を直接支配下に置くという近世的な統治原理と、中世以来の伝統的権威である寺社の特権とは、もはや両立し得ない段階に達していた。三河一向一揆の根本原因は、特定の圧政や宗教弾圧というよりも、この新しい時代の論理と古い時代の論理との間に横たわる、構造的な矛盾そのものにあったのである。この対立は、家康が今川氏の従属的な立場から脱却し、自立した戦国大名として「国家」を形成していく過程で、避けては通れない産みの苦しみであったと言えよう。
直接的導火線:一粒の籾が燃え上がらせた大火
鬱積した不満と構造的な対立という、一触即発の状況下で、ついに火種が投じられる。一揆勃発の直接的な引き金については、当時の一次史料が乏しいため諸説存在するが、いずれも家康の家臣が寺院の不入権を侵害したという点で共通している 1 。
『松平記』などが伝える「上宮寺発端説」によれば、家康の家臣が上宮寺に備蓄されていた兵糧米を、寺側の拒絶を無視して強引に徴収しようとしたことが原因とされる 6 。一方、『三河物語』が記す「本證寺発端説」では、家康の家臣が、本證寺にかくまわれていた無法者を追って寺内に踏み込んだことが発端であったとされる 2 。
いずれの説が真実であったにせよ、この家康方による「聖域」への土足での介入は、寺社勢力とその門徒たちの憤激を爆発させるのに十分であった。永禄6年9月、本證寺の空誓上人を中心に、三河三ヶ寺は一斉に蜂起。寺院に帰依する武士、経済的苦境にあえぐ農民、そして家康の台頭を快く思わない旧来の国人領主たちを巻き込み、反乱の炎は瞬く間に西三河全域へと燃え広がったのである 8 。
第三章: 内なる敵 - 信仰と忠誠の狭間で
分裂する家臣団:昨日までの同胞が今日の敵
三河一向一揆が家康を最大の窮地に陥れた理由は、その敵が、信仰という強固な紐帯で結ばれた家臣団の内部に存在したからである。三河武士の中には、熱心な一向宗門徒が数多く含まれていた 6 。一揆の勃発は、彼らに対して「主君・家康への忠誠」か、それとも「阿弥陀如来への信仰」かという、あまりにも過酷な選択を突きつけた 8 。
この究極の選択を前に、松平家臣団は根底から揺さぶられた。譜代の重臣ですら次々と家康に背き、一揆方へ馳せ参じた。中には、父子や兄弟が一族内で敵味方に分かれる悲劇も生まれ、家臣団は深刻な分裂状態に陥った 3 。家康にとってこの戦いは、領土を争う戦であると同時に、自らの求心力が試される、孤独な闘争でもあった。
一揆方に馳せ参じた者たち
家康に反旗を翻した家臣の中には、後に徳川家中で重きをなすことになる有能な人材が多数含まれていた。
- 本多正信 : 後年、家康の「知恵袋」として幕政の中枢を担うことになる稀代の謀臣。当時は家康の性急な政策への不満と、熱心な信仰心から一揆方に参加。その智謀で一揆勢の中核的な軍師として活躍したと伝えられている 1 。
- 渡辺守綱 : 「槍半蔵」の異名を取り、その武勇を謳われた猛将。彼の一族は熱心な門徒であり、信仰を優先して家康と敵対した 1 。岡崎城南方の針崎勝鬘寺に立てこもり、ゲリラ的な戦術で家康軍を大いに苦しめた 14 。
- 夏目吉信(広次) : 後に三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死する忠臣として知られるが、この時点では信仰の道を選び、一揆方に与した 8 。
- 蜂屋貞次 : 渡辺守綱と共に勝鬘寺に籠城した武将。彼もまた、後に徳川十六神将に数えられることになる 14 。
- 石川康正 : 譜代の重臣である石川数正の父。一揆勢の総大将格として家康に敵対した。宗教的な理由よりも、家康への個人的な反感が動機であったとする見方が強い 1 。
- 吉良義昭・荒川義広ら : 家康の三河統一過程で所領を奪われた旧来の領主たち。彼らはこの内乱を、失地回復の好機と捉え、一揆勢と結託して反家康の旗を掲げた 6 。
家康方に踏みとどまった者たち
一方で、信仰と忠誠の狭間で苦悩しつつも、最終的に主君への忠義を貫いた家臣たちもいた。彼らの奮戦なくして、家康がこの危機を乗り越えることは不可能であった。
- 大久保一族 : 譜代の忠臣である大久保一党は、一族を挙げて家康への忠節を貫いた。彼らは一揆勢に対する最前線となった上和田砦の守備を担い、筆舌に尽くしがたい苦戦を強いられることになる。大久保忠世は、この戦いで目を射られる重傷を負いながらも、最後まで砦を守り抜いた 17 。
- 本多忠勝 : 叔父の正信が一揆方の中心人物となる中、当時まだ16歳の忠勝は、迷うことなく主君への忠義を選んだ。この内乱は、彼の生涯にわたる忠節の原点となった 6 。
- 石川数正・家成 : 父の康正や一族の多くが一揆方につくという苦境の中、彼らは主君への忠誠を誓い、一説には改宗までして家康に味方したとされる 6 。数正は西三河の旗頭として、一揆鎮圧に尽力した 17 。
- 酒井忠次 : 徳川四天王筆頭。彼の一族からも一揆参加者が出たが、忠次自身は家康方の中核として、西三河の平定に奔走した 11 。
三河一向一揆における主要家臣の動向一覧
この複雑な敵味方の構図を整理するため、以下に主要な家臣の動向を一覧表として示す。この表は、個々の武将がどのような決断を下し、それが後の運命にどう影響したかを浮き彫りにする。
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氏名 |
所属陣営 |
一揆参加の理由(推定) |
後の処遇 |
関連資料 |
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本多 正信 |
一揆方 |
熱心な門徒、家康の政策への不満 |
追放後、大久保忠世のとりなしで帰参。老中として重用。 |
1 |
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渡辺 守綱 |
一揆方 |
熱心な門徒、一族の同調 |
帰参を許される。「徳川十六神将」の一人。 |
1 |
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夏目 吉信 |
一揆方 |
熱心な門徒 |
帰参を許される。三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなり討死。 |
8 |
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蜂屋 貞次 |
一揆方 |
熱心な門徒 |
帰参を許される。「徳川十六神将」の一人。 |
14 |
|
石川 康正 |
一揆方 |
一揆勢の総大将格。家康への反感 |
不明(子の数正は家康方に留まる) |
1 |
|
吉良 義昭 |
一揆方 |
旧領回復を目指す反家康勢力 |
敗走後、上方へ逃れる。 |
6 |
|
大久保 忠世 |
家康方 |
譜代としての忠誠 |
上和田砦防衛で戦功。後の小田原城主。 |
17 |
|
本多 忠勝 |
家康方 |
主君への忠誠 |
徳川四天王。生涯を通じて活躍。 |
6 |
|
石川 数正 |
家康方 |
主君への忠誠(改宗したとされる) |
西三河の旗頭。後に出奔。 |
1 |
|
酒井 忠次 |
家康方 |
譜代筆頭としての忠誠 |
東三河の旗頭。徳川四天王筆頭。 |
11 |
第四章: 上和田砦の死闘 - 合戦の時系列分析
三河一向一揆における戦いは、西三河の各地で散発的に、かつ連続的に発生したが、その中でも戦局の帰趨を左右する主戦場となったのが、上和田砦を巡る攻防戦であった。
序盤:一揆勢の進撃と上和田砦の孤立(永禄6年10月~11月頃)
永禄6年秋、蜂起した一揆勢は、岡崎城の南方に位置する針崎勝鬘寺や野寺本證寺、佐々木上宮寺などを拠点として、瞬く間に勢力を拡大した 14 。特に岡崎城から至近の勝鬘寺には、渡辺守綱や蜂屋貞次といった勇猛な武将が百余騎を率いて立てこもり、岡崎城を直接脅かす出撃拠点となった 14 。
彼らの最初の戦略目標は、岡崎城の南方防衛線における最重要拠点、上和田砦であった。この砦を落とせば、岡崎城は南から丸裸にされ、一揆勢の優位は決定的となる。数千に膨れ上がった一揆勢は上和田砦に殺到し、これを幾重にも包囲した。砦を守るのは、大久保忠世を筆頭とする大久保一党。しかし、その兵力は一揆勢に対して圧倒的に少なく、彼らは完全に孤立無援の状態に陥った 17 。
中盤:大久保一党の籠城戦(永禄6年11月~永禄7年1月)
包囲下の上和田砦では、絶望的な籠城戦が始まった。一揆勢は昼夜を分かたず波状攻撃を仕掛け、砦の守兵は休む間もなく矢や鉄砲の応酬を強いられた。この激戦の最中、砦の主将である大久保忠世は、敵の放った矢を左目に受け、失明の危機に瀕するほどの重傷を負った 17 。
軍記物の記述によれば、砦の内部では兵糧や矢弾が日に日に尽きていき、負傷者は増え続けた。兵士たちの士気も限界に近づき、落城はもはや時間の問題かと思われた。しかし、大久保一党は主君への忠義一心で、この絶望的な状況を耐え抜いた。彼らの驚異的な粘りが、家康に次の一手を打つための貴重な時間をもたらしたのである。
クライマックス:家康、自ら出陣す(永禄7年1月11日)
年が明けた永禄7年1月、上和田砦の窮状は極限に達していた。この報を受けた家康は、ついに自ら兵を率いて救援に向かうという、大きな賭けとも言える決断を下す。本拠地である岡崎城の守りを手薄にする危険を冒してでも、この最前線を支える忠臣たちを見殺しにはできなかった。
1月11日、家康率いる本隊が上和田原に姿を現すと、戦場の空気は一変した。それまで猛攻を続けていた一揆勢は、家康の「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を目にするや、たちまち動揺し、戦意を喪失した。かつての主君に直接弓を引くことへの心理的な抵抗が、彼らの組織的な戦闘能力を麻痺させたのである。統制を失った一揆勢は、組織的な抵抗を試みることなく包囲を解き、蜘蛛の子を散らすように敗走を始めた 17 。
この乱戦の最中、家康自身も敵の鉄砲隊による狙撃を受け、二発の銃弾がその身に命中したと伝えられる。しかし、いずれも着用していた甲冑に阻まれ、奇跡的に無傷であったという 6 。また、一揆方の将であった蜂屋貞次が家康の姿を見て逃げ出した際、家康方の松平金助なる武士が「戻って戦え」と叫んだという逸話も残されており 21 、かつての主従が刃を交える戦場の混乱と悲壮感を今に伝えている。
この一連の出来事は、上和田原の戦いが単なる兵力や戦術の優劣だけで決したのではないことを示唆している。数で劣勢であった家康軍が戦局を覆すことができたのは、家康自身の個人的な武威や、三河武士団に対して彼が有していたカリスマ的求心力がいかに絶大であったかを物語っている。領主自らが危険を顧みず最前線に立つという行為そのものが、敵味方を問わず、兵士たちの心理に決定的な影響を与えたのである。
終盤:膠着状態へ
家康の決死の出陣により、上和田砦は辛うじて陥落を免れた。しかし、この一戦で一揆勢の勢力を完全に駆逐するには至らなかった。敗走した一揆勢は再び各所の寺院に立てこもり、抵抗を続けた。戦いの舞台は小豆坂など他の地域へも拡大し、内乱は依然として予断を許さない膠着状態へと移行していくのであった。
第五章: 決着とその後 - 偽りの和睦と権力基盤の確立
水面下の交渉と和睦の成立
上和田原での激戦後も、西三河各地での戦闘は続き、内乱は長期化の様相を呈した。半年に及ぶ戦いは、家康方、一揆方の双方に深刻な疲弊をもたらしていた。特に一揆に参加した農民たちは、農作業が滞ることによる生活基盤の崩壊という現実に直面し、厭戦気分が蔓延し始めていた 17 。
この状況を打開するため、仲介役として動いたのが、家康の叔父にあたる刈谷城主・水野信元であった 20 。彼の斡旋により、両者の間で和議交渉が開始される。そして永禄7年(1564年)2月、上和田の成就院(あるいは浄珠院)において、ついに和睦が成立した 17 。その条件は、
- 一揆参加者の罪は一切問わないこと。
-
寺院の守護使不入権を改めて認めること。
など、一見すると一揆方の要求を全面的に受け入れたかのような、極めて寛大な内容であった 8。
家康の非情なる決断:和議の反故
しかし、この和睦は、家康にとって時間を稼ぐための方便に過ぎなかった。彼は、領国支配の根幹を揺るがす寺社勢力の特権を、この先も容認するつもりは毛頭なかったのである。和議が成立し、一揆勢が武装を解き、緊張が緩んだのを見計らうと、家康は突如としてその約束を一方的に破棄した 8 。
家康は配下の軍勢に命じ、一揆の拠点となった本證寺、勝鬘寺、上宮寺などの主要寺院をことごとく打ち壊させた。そして、一揆の指導者であった空誓上人をはじめとする僧侶たちを、三河国から永久に追放するという厳罰に処したのである 8 。さらに、以後約20年間にわたり、三河国における一向宗の信仰そのものを禁制とするという、徹底した宗教弾圧政策を断行した 8 。
この家康の非情ともいえる決断の背景には、彼がこの内乱を乗り越える上で、一つの地政学的な幸運に恵まれていたという事実が存在する。当時、家康にとって最大の外部脅威であった東の今川氏真は、まさに一揆が激化していた永禄6年12月頃、自領の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる大規模な国衆の反乱に直面していた 17 。この内乱の鎮圧に忙殺されていた氏真は、三河の一揆勢や吉良義昭に大規模な援軍を送る余裕がなく、結果として家康は外部からの軍事介入という最悪の事態を免れた 3 。この幸運が、家康に国内の反乱鎮圧に全戦力を集中させ、和議の反故という強硬策を可能にしたのである。
反乱鎮圧がもたらしたもの
一揆に加担した家臣たちに対しては、対照的に寛大な処分が下された。本多正信のように一時的に追放された者もいたが、その多くは後に帰参を許され、その才能を惜しまれる形で再び重用された 1 。
この苛烈な事後処理は、三河国に決定的な変化をもたらした。家康は、領国内のあらゆる反抗勢力を物理的にも精神的にも一掃することに成功した。中世以来の特権を誇った寺社勢力は完全に解体され、三河国における家康の盤石な支配権(一円支配)が確立されたのである 3 。血で血を洗う内乱の末に、三河国は初めて、一人の戦国大名の下に完全に統一されたのであった。
第六章: 総括 - 上和田原の戦いが歴史に刻んだもの
永禄6年から7年にかけて三河国を揺るがした一向一揆、そしてその中核をなした上和田原の戦いは、若き松平家康の生涯において、単なる一合戦以上の深い意味を持つものであった。この試練は、彼の人間性、統治哲学、そして彼が率いる家臣団の在り方を決定的に方向づけた、重大な転換点であったと言える。
家康が得た教訓
第一に、家康はこの内乱を通じて、宗教というものが持つ強大な結束力と、それが領国支配に与える脅威を骨身に染みて学んだ。人の心を束ねるものが、必ずしも主君への忠誠心だけではないという冷徹な現実を、最も信頼すべき家臣たちの裏切りによって突きつけられたのである。この経験は、後の彼の統治における、宗教勢力に対する慎重かつ厳格な姿勢の原点となった。和議を反故にしてまで一向宗を根絶やしにした非情な決断は、二度と自らの領国で同様の事態を繰り返させないという、強い意志の表れであった。彼が掲げた「厭離穢土 欣求浄土」の旗印は、この内乱を経て、争いのない平和な世(浄土)を築くためには、まず領国からあらゆる抵抗勢力(穢土)を力をもって排除せねばならないという、冷徹なリアリズムを帯びるようになったのである 4 。
徳川家臣団への影響
第二に、この危機は徳川家臣団の性質を大きく変容させた。家康は、一度は袂を分かった者たちの多くを許し、再び重用するという度量の大きさを示した。これにより、家臣団の結束は、一度崩壊したからこそ、かえって強固なものへと再編された。この内乱を境に、徳川家臣団の中では、個人の信仰よりも主君への絶対的な忠誠を優先するという価値観が、暗黙の規範として確立されていく。この試練を主君と共に乗り越えたという共通体験は、後の世に「三河武士の結束」として語り継がれる伝説の礎となったのである。
天下人への道程
最後に、三河一向一揆の鎮圧と上和田原の戦いにおける勝利は、家康が単なる三河の一地方領主から、領国を完全に掌握し、天下を目指す戦国大名へと飛躍する上で、不可欠な通過儀礼であった。この内乱を制圧し、後顧の憂いを断ち切ったことで、彼は初めて三河国の力を完全に結集させることが可能となった。この盤石な支配基盤の確立なくして、後の遠江・駿河侵攻、そして織田信長との同盟を基盤とした飛躍的な勢力拡大はあり得なかったであろう。
上和田原の血と涙の中から、若き領主は統治者としての非情さと寛容さを学び、分裂した家臣団はより強固な忠誠共同体として再生した。まさしくこの戦いこそが、250年にわたる泰平の世を築くことになる徳川家康と徳川家臣団の、真の意味での出発点だったのである。
引用文献
- 『三河一向一揆』とは?わかりやすく解説!原因は宗教ではなく ... https://sengokubanashi.net/history/mikawaikkoikki-tokugawaieyasu/
- 「三河一向一揆」の史料|レコの館(やかた) - note https://note.com/sz2020/n/n1fa7336eda09
- 三河一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
- 家康 最大の危機「三河一向一揆」をいかに切り抜けたか!! https://tekuteku-namisaki.jimdofree.com/app/download/14186639389/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%A8%E5%AE%B6%E5%BA%B7.pdf?t=1684385301
- 波乱万丈!若かりし徳川家康が直面した<三大危機>「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」 - 城びと https://shirobito.jp/article/1777
- 家康と三河の寺院 | 三河すーぱー絵解き座 https://www.mis.ne.jp/etokiza/index.php/okazaki2017_page/2028-2/
- www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/tips/97177/#:~:text=%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82-,%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%9F%E5%8E%9F%E5%9B%A0,%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 徳川家康と三河一向一揆(戦国武将イラスト一覧)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/97177/
- 三河一向一揆を辿るコース(約6km/3時間) - 岡崎おでかけナビ https://okazaki-kanko.jp/course/3411
- 家康の最初の危機にして最大の難関、三河一向一揆 - Wedge ONLINE https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29540?layout=b
- 徳川四天王と三河家臣団/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/tokugawaieyasu-aichi-shizuoka/tokusawa-vassals/
- 「三河一向一揆」勃発は家康の挑発によるものだった? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26087
- 「三河一向一揆」の背景・結果を解説|家臣の裏切りで、家康を苦しめた戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1113050
- 『どうする家康』聖地巡礼⑭ 蜂屋貞次や渡辺守綱が籠もって戦った ... https://shirokoi.info/toukai/aichi/ikkouikki/syoumanji
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- 【三河一向一揆と本證寺】家康、三河三ヶ寺を降して西三河を統一する - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=eXZViwXDTYA
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- 一向一揆の和睦の地で三ツ木城主松平信孝の墓が残る岡崎市浄珠院 https://sengokushiseki.com/?p=5359
- 第3章 本證寺及び周辺の概要 - 安城市 https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/documents/03-1.pdf