最終更新日 2025-09-10

上田合戦(1600)

第二次上田合戦(慶長五年)― 智将・真田昌幸、天下分け目の大軍を翻弄す ―

序章:慶長五年の激動 ― 天下分け目の序曲

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、日本は再び大きな動乱の時代へと突入した。秀吉が遺した幼い秀頼を頂点とする豊臣政権は、五大老・五奉行制度によってその安定が図られたが、その均衡はあまりにも脆かった。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じて急速にその影響力を拡大していく 1 。これに対し、五奉行の一人である石田三成は、豊臣家への忠義を掲げて家康と鋭く対立。政権内部の亀裂は、もはや修復不可能な段階に達していた。

慶長五年(1600年)六月、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いての「会津征伐」を敢行する 2 。しかし、これは景勝討伐そのものよりも、家康が関東へ兵を進めることで、三成ら反徳川勢力を畿内で挙兵させるための壮大な陽動であったとの見方が強い。家康の思惑通り、彼が江戸に入ると、三成は毛利輝元を総大将に擁立し、西軍を組織して挙兵。ここに、天下の覇権を賭けた東西両軍の対立構造が完成した。

同年七月、家康が下野国小山(現在の栃木県小山市)に布陣していた際、三成挙兵の報が届く。家康はすぐさま諸将を集めて軍議を開き(小山評定)、多くの大名が家康への忠誠を誓った。こうして天下は名実ともに関ヶ原へと向かう東軍と西軍に二分され、日本全土が戦乱の渦に巻き込まれていく。この国家的な動乱は、信濃国小県郡を本拠とする小大名・真田家にも、一族の存亡を賭けた運命の決断を迫ることになるのであった。

第一章:犬伏の別れ ― 存亡を賭けた一族の決断

会津征伐のため、徳川軍に従軍していた真田昌幸、長男・信幸(後の信之)、次男・信繁(幸村)の親子三人のもとに、石田三成からの西軍への参加を促す密書が届いたのは、慶長五年七月二十一日のことであった。天下の形勢が定まらぬ中、一族が進むべき道を定めるべく、彼らは下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)の薬師堂に集い、密議を開いた 3 。世に言う「犬伏の別れ」である。

この密議は、単なる感情的な親子・兄弟の別離の場ではなかった。それは、武田家滅亡後の「天正壬午の乱」を巧みな外交と軍略で生き抜いた老練な智将・昌幸ならではの、真田家の存続を絶対目的とした、極めて高度な戦略的判断が下された場であった。

三者三様の立場と論理

薬師堂に集った三者には、それぞれに背負うものがあり、拠って立つべき義理も異なっていた。

長男の信幸は、徳川四天王の一人である本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えており、家康とは姻戚関係にあった。彼の立場からすれば、舅である家康に与力することは当然の義理であった 2 。一方、父・昌幸は秀吉から直接所領を与えられた豊臣恩顧の大名であり、家康の天下簒奪の動きに対して強い反感を抱いていた。次男の信繁もまた、西軍の主将の一人である大谷吉継の娘を正室としており、豊臣方との縁が深かった 2

この三者三様の立場は、一族の分裂を必然的なものとした。しかし、その背景には、単なる義理や人間関係を超えた、冷徹な計算があった。

決断の深層 ― リスク分散という生存戦略

この一族の分裂は、東西どちらの陣営が勝利を収めても、必ず真田の家名を存続させるための、計算され尽くしたリスク分散戦略であった 3 。戦国の世を小大名として生き抜くためには、時に非情とも思える選択をしなければならない。昌幸は、信幸を東軍に、自らと信繁は西軍に身を投じることで、真田家という「組織」の破滅という最悪の事態を回避しようとしたのである。

ここで注目すべきは、彼らの個人的な縁戚関係が、この戦略的正当性を内外に示すための「大義名分」として巧みに利用された点である。信幸が「内府はわが舅にございまする」と主張し、昌幸・信繁が豊臣家への恩義を掲げることで、彼らの分裂はそれぞれの陣営から見れば「義理堅さ故の当然の選択」と映る。これにより、一族が分裂しても敵味方双方から疑念を抱かれにくくなり、それぞれの陣営内での立場を確保しやすくなる。個人的な関係性を、一族全体の生存戦略という大局的な目的を達成するための潤滑油であり、正当化の論理として活用したこの決断は、昌幸の「表裏比興の者」と評された面目躍如たる、高度な政治判断であったと言えよう。

こうして真田家は袂を分かった。信幸は徳川軍に残り、昌幸と信繁は密かに軍を率いて居城である信濃上田城へと帰還。来るべき徳川軍との決戦に備え始めたのである。

第二章:両雄、信濃にて対峙す

犬伏で父弟と別れた信幸が沼田城へ向かった一方、昌幸と信繁は上田城へと帰還し、西軍としての立場を鮮明にした。これに対し、徳川家康は中山道を進む別働隊を率いる嫡男・秀忠に対し、西上する途上で真田を討伐するよう命じた。慶長五年九月、信濃国上田の地を舞台に、徳川と真田、二度目の激突の幕が切って落とされた。

徳川秀忠軍 ― 3万8千の中山道本隊

徳川秀忠が率いる軍勢は、榊原康政、大久保忠隣といった徳川譜代の重臣たちに加え、仙石秀久、森忠政ら諸大名を合わせた総勢約3万8千という大軍であった 1 。秀忠は八月二十三日付の書状で、兄となった信幸に対し「信州真田表仕置のため」出馬すると伝えており、当初から真田征伐が西上の主要な目的の一つであったことがわかる 7 。従来、功を焦った秀忠の独断とされてきた上田攻めは、実際には家康の既定路線であった可能性が高い。

秀忠軍は、中山道と北国街道が交差する交通の要衝・小諸城に本陣を構えた 1 。これは兵站線を確保し、上田城に圧力をかける上で絶好の拠点であった。しかし、この大軍には構造的な問題を抱えていた。総大将の秀忠は当時22歳と若く、大規模な実戦経験に乏しかった 8 。そのため家康は、自らの謀臣である本多正信を軍監として秀忠に付けた。しかし、武功よりも謀略で知られる正信が実質的な指揮を執ったことは、榊原康政ら歴戦の武将たちの反感を買い、軍内部に不協和音を生じさせていた 8 。この指揮系統の乱れと士気の低調は、後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。

真田昌幸・信繁軍 ― 寡兵の籠城策

徳川の大軍を迎え撃つ真田軍の兵力は、諸説あるものの2,500から3,500程度とされ、その兵力差は10倍以上という絶望的な状況であった 6 。しかし、彼らにはそれを補って余りある強みがあった。

その一つが、拠点である上田城である。この城は、天正十三年(1585年)の第一次上田合戦において、7,000の徳川軍をわずか2,000の兵で退けた実績を持つ難攻不落の城であった 12 。城そのものの堅固さに加え、城下町の構造や周囲の地形を知り尽くしていることは、籠城戦において最大の武器となる。

そして何より、軍を率いるのが老練な智将・真田昌幸その人であった 14 。第一次上田合戦の経験から徳川軍の戦い方を熟知しており、圧倒的な兵力差を覆すための策謀を幾重にも巡らせていた。昌幸と、その薫陶を受けた信繁が率いる真田軍は、数では劣るものの、地の利と将の智謀において徳川軍を凌駕していたのである。

陣営

総大将

主要武将

総兵力(推定)

拠点

東軍(徳川軍)

徳川秀忠

本多正信、榊原康政、大久保忠隣、牧野康成

約38,000

小諸城

西軍(真田軍)

真田昌幸

真田信繁(幸村)

約2,500~3,500

上田城

第三章:攻防のリアルタイム詳解 ― 慶長五年九月三日~九月十日

圧倒的な兵力で上田城に迫る徳川秀忠軍と、それを迎え撃つ真田昌幸・信繁軍。ここからの数日間、両軍の策略と意地が激しくぶつかり合う、息詰まる攻防戦が繰り広げられた。

九月三日:偽りの降伏勧告受諾

上田城を完全に包囲した秀忠軍は、昌幸に対して降伏と開城を勧告した 6 。これに対し、昌幸は驚くべきことに、あっさりと降伏勧告を受諾する旨の返答を送った 10 。しかし、これは昌幸の老獪な時間稼ぎの策であった。降伏交渉と見せかけて敵を油断させ、その間に城内の防御態勢を万全に整えるための巧妙な罠だったのである 6

九月四日:宣戦布告

籠城の準備が完了したのを見計らい、昌幸は態度を豹変させる。「開城の準備をする」との名目で徳川方から派遣された使者を追い返し、徹底抗戦の意思を表明した 10 。完全に面目を潰された秀忠は激怒し、力攻めによる上田城攻略を決意する。昌幸の狙い通り、秀忠は冷静な判断力を失い、感情的な行動へと駆り立てられていった。

九月五日:砥石城の無血開城

総攻撃に先立ち、秀忠は別働隊を編成し、上田城の重要な支城である砥石城へと進軍させた。この部隊には、兄として父弟を討つ立場となった真田信幸の軍も含まれていた 10

砥石城は、かつて武田信玄の大軍をも二度にわたって退けた、天下に知られる難攻不落の山城であった 15 。誰もが激しい攻防戦を予想したが、城を守っていた真田信繁は、ほとんど抵抗することなく城を放棄し、兵をまとめて上田城へと退却してしまった 10 。信幸は戦わずして砥石城を占領し、大きな手柄を立てた形となった 16

この信繁の行動は、単なる戦力集中のための戦略的撤退ではなかった。そこには、昌幸・信繁父子による二重三重の深謀遠慮が隠されていた。第一に、敵方である兄・信幸に意図的に「手柄」を立てさせることで、徳川軍内での彼の立場を確保し、戦後の真田家全体の保身に繋げるという政治的配慮があった 16 。第二に、難攻不落で知られる砥石城をいとも簡単に明け渡すことで、徳川軍に「真田は恐るるに足らず」という油断と驕りを生じさせる軍事的狙いがあった 18 。この無血開城は、上田城での決戦を前に、敵の心に隙を作るための見事な布石だったのである。

九月六日:戦端開かる ― 刈田挑発と大手門前の激闘

砥石城の容易な占領で気を良くした秀忠は、九月六日、ついに上田城への攻撃を開始した。

まず、秀忠は牧野康成・忠成父子に命じ、上田城下の田の稲を強制的に刈り取る「刈田」を行わせた 10 。これは兵糧を奪うと同時に、城兵を挑発して城外へおびき出すための常套手段であった 20

この挑発に対し、昌幸は数百の兵を城から出撃させた。真田兵は果敢に戦うも、衆寡敵せず、敗走を装って上田城へと退却を始める 6 。勢いに乗った徳川軍の将兵は、手柄を立てようと我先にと追撃し、雪崩を打って上田城の大手門前まで殺到した 10 。それこそが、昌幸が仕掛けた最大の罠であった。

徳川軍が城壁の直下に密集し、逃げ場のない状態になった瞬間、戦況は一変する。城壁の櫓や塀、無数の狭間から、真田軍の鉄砲隊が一斉に火を噴き、矢が雨のように降り注いだ 22 。さらに、城下に潜んでいた伏兵が側面から襲いかかり、徳川軍は混乱に陥る。追撃時には気にも留めなかった城下町の柵(千鳥掛け)が、今や退路を阻む恐るべき障害物と化し、将兵は右往左往するばかりであった 24 。昌幸の術中にはまった徳川軍は甚大な被害を出し、秀忠は屈辱的な撤退を命じざるを得なかった 10

九月七日~十日:膠着状態と屈辱の撤退

六日の手痛い敗戦により、徳川軍は力攻めを躊躇し、戦線は膠着状態に陥った。秀忠は焦っていた。彼は東海道を進む父・家康の本隊に対し、「真田を仕置し、近日中に合流する」と報告しており、これ以上の上田での遅滞は許されない状況だった 10

そして九月九日、小諸城の本陣で軍議を開いていた秀忠のもとに、ついに父・家康からの使者、大久保忠益が到着した 8 。使者がもたらした書状には、「上田城攻めは中止し、直ちに中山道を西上せよ」という厳命が記されていた。この命令は八月二十九日に江戸で発せられたものであったが、折からの悪天候で利根川が増水し、使者の到着が10日以上も遅延するという不運が重なっていた 8

父の命令は絶対である。秀忠は上田城の攻略を断念し、九月十日、城の包囲を解いて美濃関ヶ原へ向けて急ぎ進軍を開始した 10 。しかし、時すでに遅し。彼の軍勢が天下分け目の決戦に間に合うことはなかった。真田昌幸は、わずか数千の兵で3万8千の大軍を数日間にわたって完全に足止めするという、離れ業を成し遂げたのである。

第四章:智将・真田昌幸の戦術分析

第二次上田合戦は、圧倒的な兵力差を覆した戦術の妙技として、戦国史にその名を刻んでいる。真田昌幸が駆使した戦術は、第一次上田合戦の経験に裏打ちされた、計算され尽くしたものであった。

城と城下町を一体化した立体防衛網

昌幸の戦術の根幹は、上田城という「点」だけでなく、城下町全体を「面」として捉えた立体的な防衛思想にあった。上田城は平城であるが、その防御力は城郭だけに依存していなかった 19 。城下には、敵を意図した場所へ誘い込むための道筋が作られ、退路を断つための柵(千鳥掛け)が巧みに配置されていた 24 。家々の陰は伏兵やゲリラ戦を展開するための絶好の潜伏場所となり、町全体が巨大な罠として機能したのである 11 。徳川軍は、城を攻めているつもりが、いつの間にか真田軍が構築した巨大なキルゾーンに足を踏み入れていたのだ。

敵の心理を突いた挑発と誘引戦術

昌幸は、敵将・徳川秀忠の心理を完全に見抜いていた。秀忠が家康の嫡男として、初陣に近いこの戦で手柄を立てたいと功を焦っていること 8 、そして若さ故に侮辱に耐えられないであろうこと 10 を的確に把握していた。

偽りの降伏で一度は相手を安堵させ、その直後に裏切ることで秀忠の面子を徹底的に潰し、怒りで冷静な判断力を奪う 6 。そして「刈田」という挑発に対し、あえて少数で打って出て負けてみせることで、敵に「勝てる」という錯覚を抱かせ、深追いさせる 20 。これら一連の行動は、すべて敵をこちらの望む戦場、すなわち大手門前の殲滅地点へとおびき寄せるための、計算され尽くした心理戦であった 18

軍民一体の総力戦

上田城の強さは、軍事施設としての機能だけではなかった。昌幸の善政により、領民が心から領主を支持し、一丸となって戦った点にこそ、その真の強さがあった。この合戦では、正規の城兵だけでなく、城下に住む猟師、農民、町人、さらには女子供までもがそれぞれの立場で戦闘に参加した 11

猟師は日頃から使い慣れた鳥銃で徳川兵を狙撃し、農民たちは鋤や鍬を手に徳川軍の後方から奇襲をかけた 24 。女子供は石を運んだり、熱湯を沸かして城壁から浴びせかけるなどの後方支援に徹した 23 。これはまさに、領国全体が一体となった「総力戦」の様相を呈していた。昌幸の智謀は、軍事戦術のみならず、領民の心を掴む統治能力にまで及んでいたことの証左である。

第五章:戦後の影響 ― 遅参と真田家の行く末

上田での数日間の足止めは、関ヶ原の戦いそのものと、戦後の真田家の運命に決定的な影響を及ぼした。

秀忠軍の「世紀の大遅参」

秀忠率いる徳川本隊は、九月十五日に行われた関ヶ原の戦い本戦に間に合わなかった。この「世紀の大遅参」は、徳川の次期将軍としての秀忠の経歴に大きな汚点を残し、父・家康から激しい叱責を受けたと伝えられている 21 。結果として、関ヶ原での東軍の勝利は、福島正則や黒田長政といった外様大名の活躍に負うところが大きくなった。このことが、戦後の論功行賞において、家康が彼らに大きな恩賞を与えざるを得なくなった一因とも言われている 21

敗軍の将、昌幸・信繁の処遇と真田家の存続

関ヶ原で西軍が敗れたことにより、西軍に与した真田昌幸と信繁は、本来であれば敗軍の将として死罪を免れない運命であった 25 。しかし、ここで「犬伏の別れ」における昌幸の深謀遠慮が真価を発揮する。

東軍として参戦し、砥石城の占領などの功績を挙げていた長男・信幸が、舅である本多忠勝と共に、父と弟の助命を家康に必死に嘆願したのである 5 。「父弟を斬るならば、まず私を斬られよ」とまで迫ったという信幸の必死の訴えは、家康の心を動かした。その結果、昌幸と信繁は死罪を免れ、紀州九度山への配流という処分に減刑された。

これにより、真田家は信幸が家督を継いで存続することが許された。東西どちらが勝っても家名を残すという、犬伏で下された苦渋の決断は、見事にその目的を達成したのである 5

終章:第二次上田合戦が歴史に刻んだもの

第二次上田合戦は、関ヶ原の戦いという巨大な歴史の奔流の中で起きた一つの局地戦に過ぎないかもしれない。しかし、この戦いが歴史に刻んだ意義は決して小さくない。

第一に、この戦いは戦国時代最後期における籠城戦の最高傑作として評価される。圧倒的な兵力差を、地形の利、巧みな戦術、そして敵将の心理を突いた謀略によって覆した様は、まさに戦術の教科書とも言うべきものであった。

第二に、この戦いは「表裏比興の者」と称された智将・真田昌幸の軍事的才能が最も輝いた瞬間であった 14 。武田信玄から受け継いだ智謀と、激動の時代を読み切る鋭い洞察力は、徳川の次期将軍率いる大軍を完全に手玉に取った。

そして最後に、この戦いは若き日の真田信繁にとって、父・昌幸から戦術の神髄を学ぶ絶好の実戦経験となった。上田城で徳川の大軍を翻弄したこの経験は、後の大坂の陣において、彼が「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられる伝説の序章となったのである 14 。第二次上田合戦は、真田昌幸という稀代の智将の最後の輝きであると同時に、真田信繁という伝説の武将が誕生する揺り籠でもあったのだ。

引用文献

  1. 慶長 5 年(1600) 「第二次上田合戦」の幕開け そのとき、小諸城は? https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part3_01654717.pdf
  2. 犬伏の別れ~真田昌幸、信幸、幸村。三者三様、漢たちの決断 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1242
  3. 戦国時代の最後をしめくくった真田幸村。 - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/101.shtml
  4. バイクで行く歴史探訪!真田親子の「犬伏の別れ」の地、栃木県新町薬師堂ツーリング - NAHKI Blog http://nahkiblog.blog9.fc2.com/blog-entry-671.html
  5. 真田昌幸の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36824/
  6. 2度にわたって徳川軍を苦しめた【上田城の歴史】をまるっと解説! https://japan-castle.website/history/uedacastle/
  7. 【徳川秀忠軍の上田攻め】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096320
  8. 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/
  9. 【信州の城】徳川秀忠が上田攻めの本陣を構えた! 小諸城二の丸|小諸市・懐古園 | 信州Style https://shinshu-style.com/karuizawa-region/city-komoro/tokugawahidetada/
  10. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の ... https://sengokumap.net/history/1600-2/
  11. 歴史を動かした真田昌幸の智謀 「上田城」で徳川の大軍を苦しめたゲリラ戦術 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/388465/2
  12. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  13. 上田城の歴史 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2378.html
  14. 小諸城は、かつて 徳川軍の本陣だった https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part4_60314913.pdf
  15. 砥石城攻略 :: 紙本墨書生島足島神社文書 https://museum.umic.jp/ikushima/history/shinano-toishijyo.html
  16. 砥 石 (戸石)城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/297/297shiro.pdf
  17. 砥石城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/toishijo/
  18. 上田合戦での真田の戦法 - 小諸市 https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part5_19508154.pdf
  19. 上田合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
  20. 「第二次上田城の戦い(1600年)」2度目の撃退!真田昌幸、因縁の徳川勢を翻弄する https://sengoku-his.com/465
  21. 歴史を動かした真田昌幸の智謀 「上田城」で徳川の大軍を苦しめたゲリラ戦術 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/388465/3
  22. [合戦解説] 10分でわかる上田合戦 「徳川軍を翻弄する真田昌幸の智謀」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=omvO4qENJj8
  23. 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818?p=1
  24. 上田の歴史を学ぶ講演会 https://www.umic.jp/video/image/haihusiryo02.pdf
  25. 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/