下田城の戦い(1590)
天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐時、伊豆水軍の拠点・下田城は、老将清水康英が50日以上奮戦するも、豊臣水軍の陸海立体攻撃と大砲の前に開城。制海権の重要性と近世戦術の優位性を示し、天下統一を決定。
天正十八年、伊豆下田城攻防戦全史 ―ある海城の死闘と天下統一の奔流―
序章:天下統一、最後の一片
天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長が切り拓き、豊臣秀吉が継承した天下統一事業は、その最終段階にあった。四国、九州、そして紀伊半島を平定した秀吉の視線の先には、関東に巨大な勢力圏を築く後北条氏と、その先に広がる東北の諸大名が残るのみとなっていた 1 。両者の間に横たわる緊張は、後北条氏の家臣が秀吉方の真田氏が治める名胡桃城を奪取した事件をきっかけに、ついに臨界点に達する。これを口実として、秀吉は後北条氏討伐の勅許を得、天下統一の総仕上げとなる空前の大戦役に踏み切った。これが小田原征伐である。
秀吉が動員した兵力は、総勢21万余という、日本の戦史上でも類を見ない規模であった 3 。その軍勢は三方に分かれ、徳川家康を先鋒とする主力は東海道を、前田利家・上杉景勝らの北国勢は東山道(碓氷峠)を、そして九鬼嘉隆、長宗我部元親らが率いる一万数千の水軍は海上から、後北条氏の領国を三重に包囲する計画であった 3 。対する後北条氏は、当主氏直と隠居氏政の下、巨大な総構えを誇る本拠・小田原城に全軍の主力を集結させ、長期籠城によって豊臣軍の疲弊を待つという伝統的な防衛戦略を採用した。
しかし、この後北条氏の戦略は、秀吉という新しい時代の支配者の前では、その前提から崩れ去る運命にあった。秀吉の動員力は、過去のいかなる戦国大名とも比較にならないものであり、その兵站能力は、陸路のみに頼る旧来の常識を遥かに超えていた。21万もの大軍を長期間にわたって支えるには、海上輸送による補給が不可欠である。この海上補給路を確立し、同時に小田原城への補給を断つためには、相模湾の制海権を完全に掌握する必要があった。そして、その鍵を握っていたのが、後北条氏の水軍、すなわち伊豆水軍の拠点群であった。
したがって、秀吉にとって伊豆半島の制圧は、単なる進軍路の確保以上の、極めて重大な戦略的意味を持っていた。それは、後北条氏の水軍力を無力化し、小田原城を兵糧攻めにするための海上封鎖を完成させ、自軍の生命線である兵站を維持するという、三つの目的を同時に達成するための絶対条件だったのである。本稿で詳述する下田城の戦いは、この巨大な海上戦略の要となる作戦であり、天下の帰趨を決定づけた小田原征伐の序盤において、決定的な一撃となった戦いであった。
第一部:牙城 ―伊豆南端の要塞―
第一章:伊豆水軍の拠点、下田城
戦いの舞台となった下田城は、伊豆半島の南端に位置し、後北条氏の水軍戦略において中核的な役割を担う要衝であった。後北条氏の配下にあった伊豆水軍は、在地の国人や海賊衆を組織したもので、駿河湾を挟んで対峙した武田氏の水軍としばしば激しい海戦を繰り広げた歴史を持つ 5 。その主要な根拠地は、伊豆半島西岸に点在しており、特に沼津の長浜城と、この下田城が二大拠点として機能していた 6 。
下田城の最大の特色は、その地形を巧みに利用した「海城」としての構造にある。下田港の南側に突き出た岬に築かれ、三方を海に、背後を断崖に囲まれた天然の要害であった 9 。港を守るように尾根沿いに防御線が構築されており、海上からの敵の接近を効果的に妨害することができた 12 。
天正17年(1589年)、秀吉との対決が不可避と判断した後北条氏は、来るべき豊臣軍の侵攻に備え、下田城に大規模な改修を施した 13 。この改修は、後北条氏が培ってきた最新の築城技術の粋を集めたものであり、城を純粋な戦闘要塞へと変貌させた。その特徴は、居住性や政庁としての機能を度外視し、徹底した防御思想に貫かれている点にある。
具体的には、城の尾根筋に沿って総延長700メートルを超える巨大な空堀が穿たれ、敵兵の侵入と移動を徹底的に阻害する構造がとられた 10 。特に、堀の内部に土塁(畝)を設けて敵兵の自由な行動を妨げる「畝堀」は、後北条氏流築城術の典型的な特徴であり、下田城でもその痕跡が確認されている 15 。さらに、尾根を分断するように複数の堀切が設けられ、郭(くるわ)と呼ばれる防御区画は、意図的に狭く細長い形状に設計されていた 12 。これは、大軍の展開を許さず、少数の兵力で多数の敵を食い止めるための工夫であった。
ある分析によれば、下田城の構造は「郭が矮小なのに比して横堀が異常に大きく感じられる」と指摘されており、城全体が居住空間ではなく、一つの巨大な「防塁」として認識されていた可能性が高い 17 。この設計思想は、豊臣軍の圧倒的な物量を想定し、「いかに長く持ちこたえるか」という籠城戦に特化した、極めて現実的な判断の産物であった。下田城は、戦国末期の築城技術が到達した一つの極致を示す、防御機能に特化した戦闘マシーンだったのである。
第二章:相見える将星
この絶海の要塞を巡る攻防戦は、後北条氏一筋に生きた老将と、秀吉の下で全国の戦場を渡り歩いた歴戦の将帥たちとの対決となった。両者の経歴と資質の差は、戦いの様相を大きく規定することになる。
守将・清水康英(しみず やすひで)
下田城の守将を任された清水康英は、天文元年(1532年)生まれの、当時59歳になる老将であった 18 。彼は伊豆衆の中でも特に有力な武将であり、後北条氏三代目当主・氏康から偏諱を受けるなど、早くからその実力を認められていた。河越城の北条綱成らと並び称される「五家老」の一人に数えられ、政策立案や訴訟裁決にも関与する評定衆も務めた、まさに後北条氏の宿老と呼ぶべき重臣であった 19 。
その武名は広く知れ渡り、主君である北条氏直からは「豊臣秀吉軍は船働き歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」という内容の判物を与えられるほど、絶大な信頼を寄せられていた 20 。しかし、その生涯は平穏なものではなく、永禄12年(1569年)には嫡男の新七郎が武田軍との戦いで討死するという悲劇に見舞われている 19 。この戦役の時点では、既に家督を次男の政勝に譲り、自身は出家して「上野入道」と号していた 19 。この老将は、一族の存亡を懸け、嫡子・政勝、弟の英吉、そして譜代の家臣である高橋丹波守らと共に、最後の奉公として下田城の守りについたのである 9 。
攻将たち(豊臣水軍)
一方、下田城に押し寄せた豊臣水軍は、まさに当代随一の海の猛者たちを集めた「ドリームチーム」であった。志摩の海賊大名から秀吉直属の水軍大将となった九鬼嘉隆、賤ヶ岳の七本槍に数えられながら水軍の将としても名を馳せた脇坂安治、そして同じく水陸両面で活躍した加藤嘉明といった面々は、織田・豊臣政権下で数々の海戦を潜り抜けてきた、海戦のスペシャリスト集団であった 9 。
これに加え、四国を平定された後に秀吉に臣従し、陸海の兵を率いて参陣した長宗我部元親も、その主力の一角を担っていた 19 。さらに特筆すべきは、毛利家の外交僧であり、秀吉からもその交渉能力を高く評価されていた安国寺恵瓊の存在である 9 。彼の参加は、秀吉がこの戦いを単なる武力による制圧だけでなく、降伏交渉による早期決着も視野に入れた「政戦両略」の一環と捉えていたことを明確に示している。
この対決は、関東という比較的閉じた世界で武名を高めた老将・清水康英と、全国規模の戦争を経験し、多様な戦術と価値観を持つ豊臣方の将帥たちとの衝突であった。康英の戦術が関東の伝統的な城郭防衛術に基づいていたであろうことに対し、豊臣方は石山合戦や四国・九州平定で培った大規模な渡海・上陸作戦、大砲などの新兵器の活用、そして外交交渉という、康英が経験したことのないであろう多角的で柔軟な戦術を展開する能力を有していた。これは単なる兵力差だけでなく、戦略・戦術思想における質的な差でもあった。
【表1】両軍の兵力・指揮官比較
項目 |
後北条方(下田城) |
豊臣方(水軍) |
総兵力 |
約600名 1 |
約14,000名以上 11 |
軍船 |
(伊豆水軍として保有するも、籠城策のため活用されず) |
1,000艘以上 4 (大型の安宅船を含む 23 ) |
総大将格 |
清水康英 |
(羽柴秀長が全体を統括 23 ) |
主要指揮官 |
清水政勝(嫡子)、清水英吉(弟)、高橋丹波守 |
九鬼嘉隆、長宗我部元親、脇坂安治、加藤嘉明、安国寺恵瓊、他 |
特記事項 |
籠城戦に特化した城郭 |
歴戦の水軍指揮官、外交僧、大砲などの新兵器を擁する |
第二部:攻防 ―五十日の死闘、時系列全記録―
下田城を巡る約50日間の攻防は、伊豆西海岸での前哨戦から始まり、陸海からの立体的な包囲、そして最終的な開城交渉へと至る、緊迫した展開を辿った。
【表2】下田城の戦い 主要関連年表
年月日(天正18年) |
出来事 |
2月20日 |
豊臣水軍、志摩に集結 4 |
2月27日 |
豊臣水軍1,000艘以上、駿河・清水湊に到着 4 |
3月初旬 |
豊臣水軍、伊豆・長浜城を占領 4 。西伊豆への侵攻開始 |
3月25日 |
岩殿寺砦の戦い。守将・清水英吉(康英の弟)が討死 23 |
4月1日 |
豊臣水軍主力、下田沖に到達。下田城攻城戦開始 9 |
|
徳川勢、安良里砦・田子砦を攻略 9 |
|
加藤嘉明ら、外ヶ浜に上陸。武山出丸を占拠し、大砲による砲撃を開始 9 |
4月7日 |
籠城方の江戸満頼(江戸朝忠の叔父)が討死 23 |
4月上旬~中旬 |
籠城戦継続。城将・江戸朝忠が討死 9 |
4月23日 |
脇坂安治・安国寺恵瓊より降伏勧告の矢文が届く 9 |
|
清水康英、三か条の起請文を交わし、開城を受け入れる 9 |
4月下旬 |
下田城開城。清水康英は河津の林際寺へ退去 9 |
第一章:黒船、西伊豆に来たる(天正18年3月)
下田城での攻防が始まる前、戦いの火の手はまず伊豆半島西海岸一帯で上がった。天正18年2月27日、駿河の清水湊に集結した豊臣水軍の威容は、後北条方を震撼させた 4 。1000艘を超える大船団が駿河湾を埋め尽くす光景は、これから始まる戦いの規模を雄弁に物語っていた。
3月に入ると、豊臣水軍は計画的な侵攻を開始する。まず、後北条氏水軍の主要拠点であった長浜城を攻撃し、これを無力化した 4 。続いて、水軍の圧倒的な機動力を活かし、小浜景隆や徳川家康配下の本多重次、向井正綱といった諸将が、高谷城、丸山城、安良里城、田子城といった沿岸の砦を次々と攻略していった 9 。この過程で特筆すべきは、松崎に上陸した部隊が、狼藉を禁じ、戦乱で逃れた農民の帰還を促す高札を立てたことである 9 。これは、豊臣軍が単なる破壊者ではなく、新たな統治者として振る舞うことで人心の掌握を図った、高度な占領政策の一環であった。
しかし、すべての拠点が無抵抗で屈したわけではない。子浦に上陸し、陸路で下田を目指す豊臣軍の一部隊に対し、清水康英の弟・英吉が守る岩殿寺砦が敢然と立ちはだかった 9 。妻良衆の小関加兵衛らの奮戦により、一時は豊臣勢を退却させるほどの抵抗を見せたが、衆寡敵せず、3月25日、英吉は壮絶な討死を遂げた 9 。この戦功を北条氏直が賞した記録が残っていることから、後北条氏がこの前哨戦を重視していたことが窺えるが、大局的には豊臣軍の進撃を止めることはできず、むしろ下田城が完全に孤立する過程を早める結果となった。豊臣軍の伊豆侵攻は、水軍の機動力、陸上部隊との連携、そして人心掌握術を組み合わせた、極めてシステマティックな作戦だったのである。
第二章:包囲網完成(天正18年4月1日~)
西伊豆の沿岸防衛網を完全に解体した豊臣水軍は、満を持して本命である下田城へと迫った。天正18年4月1日、九鬼嘉隆、長宗我部元親、脇坂安治らが率いる主力艦隊が、伊豆半島南端の石廊崎を回り込み、下田湾沖に出現した 9 。湾を埋め尽くす大船団の光景は、城兵に筆舌に尽くしがたい絶望感を与えたであろう。
豊臣方は、下田城が海からの直接攻撃が困難な要害であることを見抜くと、無謀な力攻めを避けた 9 。彼らが選択したのは、陸と海からの立体的な共同作戦であった。加藤嘉明らが率いる部隊は、城の正面ではなく、下田湾の対岸にあたる外ヶ浜に上陸 9 。城下の民家を焼き払いながら進軍し、下田城の出丸であった武山(武峰)を占拠した 9 。
ここから、豊臣軍は当時の日本の城郭攻防戦の常識を覆す、画期的な戦術を展開する。軍船から大砲を陸揚げし、占拠した武山の高台まで運び上げ、そこから下田城の本丸に向けて直接砲撃を開始したのである 9 。同時に、別動隊が下田富士の麓から侵攻し、城下に火を放って山下郭に迫った 9 。
この初手の攻撃は、下田城の最大の強みである「海城としての防御力」を完全に無力化するものであった。豊臣方は海で戦うのではなく、「海を使って陸の優位な地点を奪い、そこから新兵器で攻撃する」という、全く新しい次元の戦術を披露した。これは、水軍を単なる戦闘部隊としてではなく、兵站・輸送・火力支援プラットフォームとして活用する、極めて近代的な用兵思想の表れであり、守将・清水康英の想定を遥かに超えるものであった可能性が高い。
第三章:籠城、血と誇り(4月上旬~4月22日)
想定外の方向からの砲撃と、城下からの攻撃という二正面作戦に晒されながらも、下田城は容易には屈しなかった。老将・清水康英の巧みな指揮の下、わずか600余の城兵は、対豊臣用に改修された城の防御機能を最大限に活用し、頑強な抵抗を続けた 9 。
豊臣方も、これ以上の損害を避けるためか、無理な総攻撃は控え、海上封鎖を徹底して城を孤立させる兵糧攻めの側面を強めていった 9 。しかし、断続的な攻防は続き、籠城方には着実に損害が累積していった。この戦いの中で、後北条方の武将・江戸朝忠、そしてその叔父である江戸満頼らが討死している 9 。
籠城戦の途中、豊臣水軍の主力部隊(九鬼、加藤、脇坂ら)は、長宗我部元親の部隊2,500を残して、主戦場である小田原沖へと移動した 4 。これは、下田城がもはや大局に影響を与えない存在と見なされたことを意味していた。戦術的には持ちこたえていたとしても、戦略的には完全に封じ込められていたのである。50日近くに及ぶ籠城は、清水康英の卓越した指揮能力と城の防御力の高さの証明であったが、それは同時に、籠城側にとっては戦えば戦うほど戦略的な絶望感が深まるという、皮肉な状況でもあった。
第四章:落日、開城の決断(4月23日~)
長く続いた籠城戦は、武力によってではなく、交渉によってその幕を閉じる。天正18年4月23日、豊臣方の脇坂安治と安国寺恵瓊の連名で、降伏を勧告する矢文が城内に射ち込まれた 9 。矢文には、開城すれば城兵の生命は保証するという内容が記されていた 9 。一部の記録では、交渉を有利に進めるためか、「小田原城は既に落ちた」という偽情報も流されたと伝えられている 22 。
これ以上の抵抗は無意味であり、兵たちの命を徒に失うだけであると判断した清水康英は、ついに開城の決断を下す。豊臣方との間で三か条からなる起請文が交わされ、城兵の助命が正式に約束された。『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文』という史料には、清水康英と家臣の高橋郷左衛門尉に対し、開城すれば城兵の命を助けると誓った旨が明確に記録されている 9 。
この起請文の交換後、数日内に下田城は開城。西伊豆の攻略開始から50日以上にわたって豊臣の大軍を足止めした死闘は、静かに終結した 9 。この終結の仕方は、戦国時代の価値観の転換点を象徴するものであった。康英は、玉砕して忠義を示すという旧来の武士の美学ではなく、兵の命を救うという現実的な選択をした。そして、そのプロセスを外交僧である安国寺恵瓊が主導したことは、秀吉の天下統一が単なる武力征服ではなく、法と交渉による新しい秩序の再構築であったことを物語っている。
第三部:余波 ―一つの戦いの終わり、時代の転換―
第一章:将の去就
開城後、一人の武将とその家臣団の物語は、静かな終焉を迎える。城を明け渡した清水康英は、まず故郷に近い河津の林際寺に退去した 9 。そこで康英は、籠城の苦労を共にした家臣・高橋丹波守らに宛てて書状を書き送っている。その書状(高橋文書)には、籠城中の労苦への感謝と、後日の証言を約束する言葉が綴られており、一旦家臣団を解散する旨が伝えられた 21 。これは、主従関係が戦闘集団としての機能的結束から、苦難を共にした人間的な情愛の記憶へと昇華されたことを示す、感動的な史料である。
家臣たちと別れた後、康英は自らの菩提寺である三養院に隠棲し、翌天正19年(1591年)6月、静かにこの世を去った 13 。その最期は、滅びゆく者としての悲壮感よりも、責務を全うした者の静かな諦観に満ちていた。
後北条氏という大名は滅びたが、彼らが育んだ伊豆水軍の技術と人の繋がりは、形を変えて新しい時代に受け継がれていった。伊豆水軍を構成した人々の子孫の中には、その卓越した航海技術や造船技術を活かし、江戸時代に徳川幕府の命で南海探索(小笠原諸島の発見)に貢献したり、幕府の御用船方として活躍した者もいたと伝えられている 27 。一つの時代の終わりは、新たな時代の始まりでもあったのである。
第二章:歴史的意義
下田城の戦いは、単なる一地方の城の攻防戦に留まらない、極めて重要な歴史的意義を持っていた。
第一に、軍事的な意義である。下田城の開城により、後北条氏配下の伊豆水軍は組織として完全に無力化された 5 。これにより豊臣方は相模湾の制海権を完全に掌握し、小田原城を海上から封鎖することが可能となった 9 。それ以上に重要だったのは、21万という大軍の兵站を支える海上輸送路が確立されたことである。これにより、豊臣軍は兵糧の心配なく、長期にわたる小田原包囲を遂行することができた。
第二に、戦略的・心理的な意義である。対豊臣用に最新技術で大改修され、名将・清水康英が守る下田城ですら、陸海からの立体攻撃の前に開城したという事実は、関東各地の支城に籠る後北条方の諸将に大きな衝撃を与えた。東海道の陸の玄関口である山中城がわずか半日で落城し 29 、海の玄関口である下田城が開城したことで、小田原城は東西の重要拠点を失い、裸同然の状態で包囲されることになった。これが、後の韮山城の開城(6月24日) 4 や、小田原城内の厭戦気運を高める一因となったことは想像に難くない 1 。外洋に面した要衝である下田を失ったことは、後北条氏が関東という領域に完全に封じ込められ、外部世界との繋がりを断たれたことを象徴する出来事でもあった 9 。
下田城の戦いは、小田原征伐における「終わりの始まり」であったと言える。陸の玄関口・山中城の陥落が「物理的」な包囲網の完成を意味するならば、海の玄関口・下田城の陥落は、兵站と心理の両面から小田原城を締め上げる「戦略的」な包囲網の完成を意味した。この戦いは、戦国時代の伝統的な籠城戦術が、近世的な国家総力戦の前ではもはや通用しないことを証明した、画期的な戦史上の事例となったのである。
結論:寡兵奮戦の教訓と水軍戦略の重要性
天正18年の伊豆下田城攻防戦は、日本の戦国時代の終焉を象徴する多くの教訓を残している。
清水康英率いる下田城守備隊の奮戦は、将の卓越した指揮能力と兵の士気、そして城郭の優れた防御力があれば、20倍以上もの圧倒的な兵力差を相手にしても、長期間の抵抗が可能であることを示した。彼らが50日以上にわたって持ちこたえた事実は、後北条氏の武将と築城術の質の高さを証明するものである。
しかし、その戦術的な成功も、大局的な戦略の前では、最終的な勝敗を覆すには至らなかった。局地的な勝利や善戦が、必ずしも戦争全体の勝利に結びつかないという、時代を超えた普遍的な軍事の原則がここには示されている。
豊臣秀吉の勝利の要因は、単なる兵力の優越だけにあったのではない。水軍を単なる戦闘部隊ではなく、輸送・火力支援にも活用する先進的な戦略思想、そして武力による圧迫と外交による懐柔を巧みに使い分ける政戦両略こそが、その本質であった。大砲を揚陸して高所から城を叩くという戦術は、まさにその象徴であった。
下田城の戦いは、制海権の確保が、大規模な陸上作戦の成否を左右する決定的な要因となることを、日本の歴史上初めて明確に示した戦いの一つであった。この戦いを経て、日本の戦争は、内陸での領土の奪い合いから、海をも含む広域的な支配権の確立へと、その様相を大きく変えていくことになる。一人の老将が守り抜こうとした海城の落日は、新しい時代の軍事思想の夜明けを告げる光でもあったのである。
引用文献
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html
- 【A 小田原合戦】 - ADEAC https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht060660
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- 下田城跡 (鵜島城跡) --- 下田市観光ガイド『駿河湾 百景』 https://www.surugawan.net/guide/240.html
- 下田城 (静岡県 下田市) - ちょっと山城に (正規運用版) - はてなブログ https://kurokuwa.hatenablog.com/entry/37121895
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- 下田城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1526
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- 下田城の郭は水軍港の防塁? https://natchdes3.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
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- 伊豆 下田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/izu/shimoda-jyo/
- 江戸の海防を任された徳川家康の水軍編成のブレーン船奉行・向井正綱とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27921
- 天下軍との圧倒的戦力差には抗えず 遂に終焉の秋(とき)を迎えた伊豆水軍 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/13589
- 北条五代にまつわる逸話 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html