最終更新日 2025-09-02

与坂の戦い(1570)

元亀元年、織田信長が摂津で三好勢と対峙中、浅井・朝倉連合軍が京都へ進軍。森可成は宇佐山城でこれを迎え撃ち、織田信治、青地茂綱と共に討死する激戦となるも、城は落城せず。この死闘は信長が摂津から帰還する時間を稼ぎ、信長包長網の本格化と「志賀の陣」へと繋がる重要な転換点となった。

元亀元年の死闘:宇佐山城の戦いと志賀の陣の序曲 ― 「与坂の戦い」の実像に迫る

第一部:序論 ― 「与坂の戦い」の実像の探求

元亀元年(1570年)に近江国で繰り広げられた「与坂の戦い」に関する徹底的な調査というご依頼は、戦国時代の複雑な戦況の一断面を深く掘り下げる、極めて意義深いものである。しかしながら、ご提示いただいた「与坂」という合戦名は、『信長公記』をはじめ、『言継卿記』や『多聞院日記』といった当代を代表する一級史料には見出すことができない 1

この名称の謎を解き明かす鍵は、合戦の舞台となった地理的呼称の多義性にあると考えられる。最も有力な仮説は、主要な戦闘が発生した「坂本(さかもと)」、あるいは織田方の拠点となった城「宇佐山(うさやま)」が、記録の過程で転訛、あるいは誤記された可能性である。特に、当時の記録において宇佐山城が「志賀の城」とも呼称されていた事実は、地名や城名が必ずしも一意に定まっていなかった当時の状況を物語っている 1

以上の論証に基づき、本報告書ではご依頼の戦いを、元亀元年九月十六日から二十日にかけて近江国滋賀郡で発生し、織田信長の重臣・森可成の壮絶な死闘が繰り広げられた「宇佐山城の戦い」として同定する。この戦いは、単なる前哨戦ではなく、信長の天下布武を揺るがした大局、「志賀の陣」の序曲を奏でる極めて重要な攻防であった。本稿では、その全貌を時系列に沿って克明に描き出し、歴史の深層に迫ることを目的とする。

第二部:戦略的背景 ― 信長包囲網の胎動

姉川の戦い後の膠着

元亀元年六月二十八日、織田信長は徳川家康と共に臨んだ姉川の戦いにおいて、浅井・朝倉連合軍に辛勝した 2 。しかし、この勝利は決定的なものではなかった。浅井長政の居城・小谷城は標高約400メートルの険しい山城であり、信長はその堅固さを前にして深追いを断念せざるを得なかったのである 4 。結果として、浅井・朝倉氏の勢力は温存され、近江における戦線は膠着状態に陥った。信長にとって、北近江の脅威は依然として眼前に残り続けていた。

信長、摂津へ:西方の火種と背後の脆弱性

姉川の戦いから二ヶ月後の同年八月、信長は次なる標的として、摂津国で蜂起した三好三人衆の討伐へと向かう。主力を率いて野田城・福島城を包囲したこの軍事行動は、信長の天下布武を推進する上で不可欠なものであったが、同時に大きな戦略的リスクを伴うものであった 5 。すなわち、信長の本拠地である岐阜と、政治の中心地である京都を結ぶ生命線、近江国の防備が手薄になるという脆弱性を露呈したのである。

石山本願寺の蜂起という変数

信長が摂津の地で三好勢と対峙し、戦況が動かなくなった九月十二日の夜、事態を急変させる出来事が起こる。かねてより信長と対立していた摂津石山本願寺が、突如として蜂起したのである 5 。本願寺門徒は織田軍の背後を突き、補給路を脅かした。これにより信長は三好勢と本願寺勢力に挟撃される形となり、摂津の戦線に完全に釘付けにされてしまった。

浅井・朝倉の決断:絶好の機会到来

この一連の動きは、息を潜めていた浅井・朝倉の両氏にとって、まさに千載一遇の好機であった。信長が西方の泥沼に足を取られ、身動きが取れない。この機を逃さず、手薄となった近江から京へ進軍し、信長の政治的基盤を根底から覆す。この判断の下、浅井長政と朝倉義景は約三万と号する大軍を動員し、琵琶湖西岸を南下する軍事行動を開始した 5 。これが、後に約三ヶ月にわたって信長を苦しめることになる「志賀の陣」の幕開けであった。

宇佐山城の戦いは、このように畿内、北陸、近江という複数の戦線が複雑に連動した結果として引き起こされた、必然の衝突であった。それは、信長の急速な勢力拡大に対して各地の反抗勢力が、石山本願寺という宗教勢力を一種の触媒として連携し始めた「信長包囲網」が、初めてその牙を剥いた象徴的な戦いだったのである 7

第三部:戦いの舞台 ― 要害・宇佐山城

戦略拠点としての宇佐山城

浅井・朝倉連合軍の前に立ちはだかった宇佐山城は、元亀元年の初頭、織田信長の命を受けた重臣・森可成によって築かれたばかりの新しい城であった 8 。その立地は、京都と東国を結ぶ二つの主要街道、山中越と今道越(白鳥越)を見下ろす戦略的要衝に位置していた。当時の公家・多聞院英俊の日記『多聞院日記』には、元亀元年三月の時点で、これらの旧街道が織田軍によって封鎖され、宇佐山城の麓を通過する新道が建設中であったという生々しい記録が残されている 10 。これは、宇佐山城が単なる軍事拠点ではなく、交通と物流を支配下に置くための戦略的インフラとして計画されたことを示している。

先進的城郭としての構造

宇佐山城は、標高336メートルの峻険な山容を利用した天然の要害であった 11 。しかし、その真価は単なる地形の利に留まらない。この城は、信長が後に築く安土城に先駆けて、近江の地に本格的な石垣普請を導入した初期の城郭の一つであり、一時的な陣城ではなく、恒久的な支配拠点として設計されていた 10

その縄張り(城郭の設計)は、山頂の尾根筋に沿って本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪を直線的に配置し、それらを巨大な堀切(尾根を断ち切る空堀)や竪堀(斜面を垂直に下る空堀)、帯曲輪(斜面に設けられた細長い平場)で厳重に固めていた 1 。特に、主郭部と北の三の丸を完全に分断する大堀切は、敵の侵攻を阻む上で絶大な効果を発揮する構造であった 11 。宇佐山城の築城は、信長の戦略思想が、敵を打ち破る「点」の戦いから、交通路と情報を支配する「線」と「面」の戦略へと移行しつつあったことの物理的な証左と言える。

城将・森可成と守備兵力

この重要な拠点を任されたのは、織田家の宿老中の宿将、森可成であった。彼は槍の名手として知られ、その勇猛果敢な戦いぶりから「攻めの三左」の異名をとった猛将である 17 。しかし、彼が率いる宇佐山城の守備兵力は、信長の弟である織田信治、そして元六角家臣であった近江の国人・青地茂綱らの援軍を合わせても、わずか三千程度に過ぎなかった 7 。彼らは、十倍に及ぶ敵の大軍を、この新城で迎え撃つことになったのである。

第四部:死闘の五日間 ― 宇佐山城攻防戦のリアルタイム詳報

この攻防戦の前提となる両軍の戦力差は、絶望的とも言えるものであった。その状況をまず以下の表で確認したい。

【表1】宇佐山城の戦い 主要参戦武将と兵力比較

勢力

総兵力(推定)

主要指揮官

備考

織田軍(宇佐山城守備隊)

約3,000

森可成 (†) , 織田信治 (†) , 青地茂綱 (†) , 各務元正

(†)は戦死者

浅井・朝倉連合軍

約30,000

浅井長政, 朝倉義景, 朝倉景鏡, 浅井対馬守, 浅井玄蕃允, 山崎吉家, 阿波賀三郎

後に比叡山延暦寺僧兵、近江一向一揆が加勢

九月十六日:緒戦 ― 「攻めの三左」、動く

午前: 浅井・朝倉連合軍三万の軍勢が、琵琶湖西岸を南下し、坂本口へと進軍を開始した。宇佐山城に籠もる織田勢は、一説には千余りであったとも伝えられる 9

午後: 城主・森可成は、圧倒的な兵力差を前にしても、単純な籠城策を選択しなかった。「攻めの三左」の異名に違わず、彼は僅か千の兵を率いて城外へ打って出るという大胆な決断を下す 10 。これは無謀な突撃ではなく、敵の進軍の勢いを削ぎ、その京都への到達を一日でも遅らせることを目的とした、極めて合理的な積極的防御戦術であった。

戦闘: 坂本の町はずれで、可成の部隊は連合軍の先鋒と激突した。寡兵ながらも織田勢は奮戦し、敵に一撃を加えていくつかの首級を挙げることに成功。緒戦の目的を達した可成は、深追いすることなく兵を城へと引き揚げた 5

九月十九日:暗雲 ― 聖域からの援軍

緒戦以降、戦況は膠着状態にあったが、十九日、事態は織田方にとって最悪の方向へと転回する。石山本願寺の法主・顕如からの檄文に応じ、これまで中立を保つと見られていた聖域、比叡山延暦寺の僧兵が、公然と浅井・朝倉連合軍への加勢を表明したのである 5 。さらに、これに呼応して近江国内の一向一揆勢も蜂起し、連合軍の兵力はさらに膨れ上がった 7 。これにより宇佐山城は完全に孤立無援となり、その戦況は絶望的なものとなった。

九月二十日:激戦と落日

早朝~午前: 数において絶対的な優位を確立した連合軍は、この日、総攻撃を開始した。森可成、織田信治、青地茂綱ら織田方の将兵は、再び城から打って出て、坂本の下、瀬田の在家(集落)あたりで敵の大軍を迎え撃った 17

戦闘序盤: 織田方は決死の覚悟で奮戦し、朝倉軍の先鋒である朝倉景鏡の部隊を一度は押し返すほどの凄まじい抵抗を見せた 10

戦局転換: しかし、浅井対馬守・玄蕃允が率いる二千の別動隊が、激戦を繰り広げる織田方の側面に回り込み、痛烈な横槍を入れた 10

午後~夕刻: 側面を突かれて陣形が崩れたところへ、朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の部隊、さらには浅井長政の本隊までもが、波状攻撃を仕掛けてきた 10 。多勢に無勢、織田方の前線はついに崩壊した。

三将の最期: 終日にわたる激闘の末、織田軍を率いた森可成、信長の弟・織田信治、そして近江の将・青地茂綱の三将は、下坂本の地で壮絶な討死を遂げた 10 。この時、森可成は享年48であった 17

九月二十日夜~二十四日:血戦の果ての籠城戦

夜: 野戦での勝利に勢いづいた連合軍は、同日のうちに宇佐山城本体へと殺到。城の「端城」と呼ばれる出丸(あるいは城外の建造物)まで攻め上り、火を放った 9

籠城戦の指揮: 城内では、総大将と主要指揮官三名を一度に失うという壊滅的な状況下にあったが、討死した森可成の筆頭家老・各務元正(かがみ もとまさ)と肥田直勝らが残存兵力を掌握。即座に指揮系統を再構築し、決死の防衛戦を展開した 10

連合軍の焦燥: 連合軍は宇佐山城の頑強な抵抗に攻めあぐね、力攻めを諦め、周辺地域への破壊活動へと戦術を転換した。二十一日には大津の港町である馬場や松本、さらには京都の喉元である山科にまで兵を進めて放火し、朝廷と京の都に威圧を加えた 10

耐え抜いた四日間: しかし、各務元正らの巧みな指揮と、城の堅固な構造、そして主君の仇を討たんとする城兵の高い士気により、宇佐山城は信長本隊の救援が到着する二十四日まで、ついに落城することはなかった 10

この攻防において、森可成の城外への出撃は、単なる武勇の誇示や無謀な突撃ではなかった。それは、敵の進軍を物理的に遅延させ、主戦場を京都から遠ざけるための、極めて合理的な「時間稼ぎ」の戦術であった。彼は自らの命と引き換えに、信長が摂津から帰還するための貴重な数日間を稼ぎ出したのである。戦術的には敗死したが、大局的な戦略目標は達成されたと言えよう。

また、主将三名が討死するという絶望的な状況下で宇佐山城が持ちこたえた事実は、森可成という一個人の武勇だけでなく、各務元正に代表される有能な家臣団の質の高さと、織田軍の強固な指揮系統の存在を証明している。これは、織田軍が単なる独裁的なトップダウンの組織ではなく、有能な中間管理職(家老層)が現場を支える、近代的な組織構造を持ち始めていたことを示唆している。

【表2】宇佐山城攻防戦 詳細年表(元亀元年九月十六日~二十四日)

日付

織田軍の動向

浅井・朝倉連合軍の動向

備考

9月16日

森可成、約1,000の兵を率いて出撃。緒戦に勝利し帰城。

坂本口へ進軍。先鋒が織田方と交戦。

可成の積極的防御戦術が功を奏す。

9月19日

宇佐山城に籠城。完全な孤立状態に陥る。

比叡山延暦寺の僧兵、一向一揆勢が合流。兵力が膨張。

戦力バランスが決定的に崩れる。

9月20日

森可成、織田信治、青地茂綱らが再度出撃し、坂本で激戦。三将ともに討死。

総攻撃を開始。激戦の末、織田方の野戦部隊を壊滅させる。

戦闘のクライマックス。

9月20日夜

各務元正らが指揮を執り、宇佐山城での籠城戦を開始。

宇佐山城へ猛攻。端城を焼き払う。

戦いは籠城戦へ移行。

9月21日

籠城を継続。

宇佐山城を攻めあぐね、大津・松本・山科を放火。

連合軍の狙いが京都への威圧にシフト。

9月22日

籠城を継続。

宇佐山城への攻撃を継続。

摂津の信長に凶報が届く。

9月23日

籠城を継続。

宇佐山城への攻撃を継続。

信長、摂津からの撤退を完了し京都へ。

9月24日

信長の救援部隊が到着。籠城成功。

信長の接近を知り、比叡山方面へ撤退を開始。

織田軍の戦略的勝利が確定。

第五部:戦場の主役たち ― 武将たちの肖像

【織田方】

  • 森可成(もり よしなり): もとは美濃の斎藤氏に仕えていたが、後に織田信長に帰属。信長の弟・信行との家督争いである稲生の戦いや桶狭間の戦いなど、信長の尾張統一時代から数々の戦で武功を挙げた宿将である 17 。槍の名手として「攻めの三左」の異名を誇り、信長からの信頼も厚かった。この戦いでは、絶望的な状況を理解した上で、自らの命を賭して主君の危機を救うための遅滞戦術を敢行した、忠臣の鑑とも言うべき武将であった。
  • 織田信治(おだ のぶはる): 織田信長の弟(信秀の五男または七男と伝わる)。尾張国・野府城主であった 21 。兄・信長の天下布武を支えるため、援軍として近江の防衛線に加わったが、この宇佐山城の戦いで命を落とした。享年26という若さであった。彼の死は、信長にとって戦略的な損失であると同時に、計り知れない個人的な悲しみをもたらした。
  • 青地茂綱(あおち しげつな): もとは南近江の雄・六角氏に仕える重臣であり、名将・蒲生定秀の次男として生まれた 22 。永禄11年(1568年)の信長上洛を機に織田家に降り、兄の蒲生賢秀と共に信長に仕えた。この戦いで壮絶な討死を遂げた際、その首を検分したところ、喉から濡れた手拭いが出てきたという逸話が伝わっている 23 。これは、激しい戦闘の最中、口の渇きを癒しながら最後まで戦い続けた彼の凄まじい執念を物語っている。
  • 各務元正(かがみ もとまさ): 森可成の筆頭家老。この戦いにおける影の功労者である。主君をはじめとする三将が討死するという、部隊崩壊に直結しかねない危機的状況下で、即座に指揮権を掌握。動揺する城兵をまとめあげ、十倍の兵力差がある敵を相手に四日間にわたり城を守り抜いた、不屈の指揮官であった 10 。彼の冷静な判断と卓越した統率力がなければ、宇佐山城は落城し、歴史は大きく変わっていた可能性が高い。彼が後年に残したとされる自伝的書物『兵庫覚書』の存在も知られている 25

【浅井・朝倉方】

  • 浅井長政・朝倉義景: 姉川の戦いの雪辱を果たすべく、信長不在という最大の好機を捉えて大軍を動員した。しかし、森可成らの果敢な抵抗と宇佐山城の頑強な防御に遭遇し、京都への迅速な進軍という最大の戦略目標を達成することができなかった。好機を活かしきれなかった指揮官として、その戦略には疑問符が付く。
  • 朝倉景鏡(あさくら かげあきら): 朝倉家の一門衆であり、この戦いでは先鋒部隊を率いた。緒戦では森可成に一度は押し返されるものの、最終的には野戦での勝利に貢献した。しかし、彼は三年後の天正元年(1573年)、刀禰坂の戦いで織田軍に寝返り、主君・朝倉義景を自害に追い込むことになる 26 。この宇佐山での戦いは、後に主家を滅ぼす男の、最後の忠勤であったのかもしれない。

第六部:戦局の転換 ― 信長の神速の帰還と「志賀の陣」へ

凶報と決断

元亀元年九月二十二日、摂津・天王寺に布陣する織田信長のもとに、近江からの急使が到着した。もたらされた報は、浅井・朝倉連合軍の南下、そして宇佐山城における森可成、織田信治らの討死という、信長の根幹を揺るがす凶報であった 5 。信長は、このまま連合軍が京都に雪崩れ込めば、将軍・足利義昭を奪われ、自らが築き上げた政治的立場が完全に崩壊することを瞬時に理解した。彼は即座に、目前の三好・本願寺勢力との戦いを中断し、全軍を京都へ反転させるという重大な決断を下した 5 。この神速ともいえる意思決定が、戦局を大きく左右することになる。

電光石火の転進

決断は直ちに行動に移された。九月二十三日の夜、信長は柴田勝家らを殿(しんがり)として、全軍をまとめ上げ、京都へ向けて撤退を開始した 5 。この信長主力軍の予期せぬ帰還の報は、京都に迫っていた浅井・朝倉連合軍に衝撃を与えた。彼らは、信長との直接対決という危険を避け、これまで味方として振る舞っていた比叡山延暦寺を頼り、その広大な山中へと退避・籠城する策を選んだ 5

攻守の逆転

九月二十四日、京都に到着した信長は、休む間もなく軍を東へ進め、逢坂の関を越えて近江国坂本へと進軍した。そして、この戦いの帰趨を決定づける劇的な場面が訪れる。信長は、かつて味方が血で守り抜いた宇佐山城に、今度は自らが本陣を構えたのである 8 。数日前まで絶望的な籠城戦の舞台であった城が、反撃の拠点へと姿を変えた瞬間であった。

信長は宇佐山城を司令部とし、比叡山に籠もる浅井・朝倉連合軍に対する巨大な包囲網を敷いた。これにより、戦いの舞台は宇佐山城をめぐる攻防戦から、約三ヶ月にも及ぶ長期にわたる対陣、すなわち「志賀の陣」へと完全に移行したのである 5

宇佐山城の戦いは、「志賀の陣」という長期戦の序章であると同時に、その後の戦いの構図そのものを決定づけた。もし宇佐山城が早期に落城していれば、連合軍は信長帰還前に京都へ到達し、信長は政治的に再起不能の危機に陥っていた可能性が高い。しかし、宇佐山城が時間を稼ぎ、信長が迅速に帰還したことで、連合軍は攻勢から防御へと転じざるを得なくなった。比叡山への籠城は、短期的には安全な策であったが、長期的には信長に包囲され、完全に戦略的主導権を明け渡す結果となった。宇佐山城でのわずか数日間の攻防が、戦全体の流れを決定付けたのである。

第七部:総括 ― 宇佐山城の戦いが歴史に刻んだもの

織田方にとっての代償と成果

宇佐山城の戦いは、織田信長にとって痛恨の損失を伴うものであった。森可成という、尾張統一時代から苦楽を共にしてきた創業以来の宿将、そして織田信治というかけがえのない肉親を同時に失ったのである 17 。信長の悲しみは深く、この損失が後の苛烈な報復へと繋がる一因となったことは想像に難くない。

しかし、その代償と引き換えに得た成果は、計り知れないほど大きかった。森可成らの自己犠牲的な奮戦は、浅井・朝倉連合軍の京都への進撃を阻止し、信長主力が摂津から帰還するための決定的に重要な時間を稼ぎ出した。宇佐山城は、戦術的には将を失う敗北を喫したが、大局的な視点では、織田家の命運を繋ぎとめるという戦略的勝利を掴んだ戦いであった。

浅井・朝倉方にとっての逸機

対照的に、浅井・朝倉連合軍にとってこの戦いは、信長を打倒する最大の好機を逸した、致命的な戦略的失敗であった。信長が畿内から遠く離れ、かつ本願寺との新たな戦端を開いたこの瞬間以上に、彼らにとって有利な状況は考えられなかった。しかし、宇佐山城という一つの城の頑強な抵抗によって京都を目前にしながら足止めを食らい、主導権を握る機会を永遠に失った。この後、彼らが再びこれほどの好機を得ることはなかった。

比叡山焼き討ちへの道程

そして、この戦いはもう一つの重大な帰結をもたらす。浅井・朝倉連合軍に安易に加担し、その聖域を軍事拠点として提供した比叡山延暦寺の行動である。彼らが連合軍を迎え入れたことで、信長の弟や重臣が討死にする直接的な原因が作られた。この「裏切り」は、信長の宗教的権威に対する不信感を決定的なものとし、彼の胸中に消えることのない怒りの炎を灯した 5 。翌年の元亀二年(1571年)九月に行われる未曾有の宗教弾圧、比叡山焼き討ちは、この宇佐山城の戦いにおける延暦寺の選択に対する、苛烈極まる報復という側面を色濃く持っていたのである。

戦国史における再評価

宇佐山城の戦いは、姉川の戦いや比叡山焼き討ちといった、より劇的な事件の間に埋もれ、その歴史的重要性が見過ごされがちである。しかし、本報告書で詳述した通り、この戦いは信長包囲網の形成期において、織田家の命運を左右した極めて重要な防衛戦であった。森可成の自己犠牲に満ちた決断と、各務元正ら名もなき城兵たちの不屈の奮戦がなければ、信長の天下布武の道は元亀元年の秋、近江の地で潰えていたかもしれない。この戦いは、戦国史の転換点に咲いた徒花として、再評価されるべきである。

引用文献

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  7. 【解説:信長の戦い】志賀の陣(1570、滋賀県大津市) 信長がもっとも苦しんだ戦い?浅井・朝倉と長期の対峙。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/487
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  11. 宇佐山城>森可成討ち死に後、比叡山焼き討ちに成功した”明智光秀”のお城に https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12840208284.html
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  27. 第Ⅰ章 湖東編⑥ 宇佐山城 - 三宅 勝 公式ブログ https://miyakemasaru.hatenablog.jp/entry/2019/07/25/080000
  28. 【滋賀県】宇佐山城の歴史 短命ながら、森可成・明智光秀が守った近江の織田軍重要拠点! https://sengoku-his.com/942
  29. 【どうする家康の別視点】「志賀の陣」は浅井・朝倉氏滅亡の道の始まり【姉川合戦から小谷落城3】合戦S2-3 戦国千一夜物語 ~びわ湖・長浜からの歴史絵巻 太田浩司歴史チャンネル - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vOAvJSVfuhM
  30. 攻めの三佐と呼ばれた森可成!信長に尽くした猛将は宇佐山城に散る! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=At8rRAiAHKE