最終更新日 2025-09-04

与謝・加悦谷の戦い(1579)

天正七年、丹後動乱 ―織田信長「天下布武」のなかの与謝・加悦谷の戦い―

序章:黄昏の守護大名

天正七年(1579年)、織田信長による天下統一事業が最終段階へと向かうなか、日本海に面した丹後の国は、歴史の大きな転換点を迎えようとしていた。この地で繰り広げられた「与謝・加悦谷の戦い」は、単なる一地方の合戦ではない。それは、旧時代の権威が新時代の秩序に飲み込まれていく、戦国乱世の縮図であった。この戦いの主役の一方、丹後守護・一色氏は、その栄光の歴史に幕を引くことになる。

名門一色氏の栄光と翳り

一色氏は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府においては三管領(斯波・畠山・細川)に次ぐ家格を誇る四職(赤松・一色・京極・山名)の一角を占めた名門であった 1 。丹後国には、南北朝時代から守護として君臨し、加佐郡の建部山城を本拠として、その支配体制を盤石なものとしていた 2 。応仁の乱以降、幕府の権威が失墜し、全国で下剋上が頻発するなかにあっても、一色氏は守護大名としての権威を保ち、丹後一国を実効支配し続けていた。

しかし、戦国時代の荒波は、丹後の静かな海にも容赦なく押し寄せていた。隣国若狭の武田氏との長年にわたる抗争は国力を疲弊させ、中央の政治動向からの孤立は、徐々にその権威に翳りを落としていく 2 。そして、時代の中心に躍り出た織田信長との関係が、一色氏の運命を決定づけることになる。

当主・一色義道の人物像と統治

この時代の当主、一色義道は、旧来の価値観に忠実な武将であった。彼は、信長によって京を追われた室町幕府第十五代将軍・足利義昭を庇護し、さらに元亀二年(1571年)の比叡山焼き討ちで追われた延暦寺の僧侶たちを領内に匿うなど、明確に反信長的な姿勢を示した 2 。これは、義道が足利一門としての誇りと、旧体制への義理を重んじた結果であったが、信長から見れば、自身の「天下布武」に対する許されざる挑戦であった。丹後は、単なる未征服地ではなく、信長が打倒を目指す「旧勢力」の残党が潜む、敵対的拠点と見なされるに至ったのである。

細川家の記録などには「義道は悪政にして国人順わず」との記述が見られる 2 。しかし、この評価は慎重に検討する必要がある。これは、丹後侵攻を正当化するために、勝者である織田・細川方によって後世に記されたプロパガンダである可能性を否定できない。戦いの過程で丹後の国人衆が次々と織田方に寝返ったのは、義道の人望の欠如というよりは、織田信長という抗いがたい新時代の奔流に対する、戦国武将としての現実的かつ冷徹な生存戦略であったと見るべきであろう。

この丹後侵攻の背景には、より大きな戦略的文脈が存在する。天正七年という時期は、信長が長年の宿敵であった石山本願寺との戦いを優位に進め、摂津の荒木村重の反乱を鎮圧するなど、畿内近国の反信長勢力をほぼ制圧し終えた段階にあった 5 。この視点に立てば、丹後侵攻は単なる領土拡大ではなく、かつて信長を苦しめた「反信長包囲網」の残滓を一掃し、畿内の完全安定化を成し遂げるための総仕上げであった。一色義道が庇護した足利義昭や比叡山の僧侶は、まさにその「旧時代の残滓」の象徴であった。信長にとって、この戦いは過去を清算し、新たな時代を確固たるものにするための、必然の戦いであったのである。


表1:合戦前夜の丹後国周辺勢力図

勢力圏

主要勢力

拠点

丹後への影響

織田勢力圏

明智光秀

丹波国・亀山城

丹後侵攻の司令塔であり、直接の進軍路を確保

細川藤孝

南山城国・勝竜寺城

丹後侵攻の実戦部隊を率いる主将

一色氏支配域

一色義道

丹後国・建部山城

丹後五郡(加佐、与謝、中、竹野、熊野)を支配

西方勢力

毛利輝元

安芸国・吉田郡山城

但馬国の山名氏を通じて、一色氏の背後から影響力を行使


第一章:侵攻前夜 ―亀山から宮津へ―

丹後への鉄槌が振り下ろされる前、その隣国・丹波では、数年にわたる壮絶な平定戦が終結を迎えようとしていた。丹後侵攻は、この丹波平定という壮大な序曲のクライマックスとして計画されていたのである。

丹波平定の完了

織田信長の命を受け、丹波方面軍司令官として攻略を担っていた明智光秀は、天正三年(1575年)以来、丹波の国人衆の頑強な抵抗に苦しめられてきた。しかし、天正七年(1579年)に入ると戦局は大きく動く。同年六月には、波多野秀治ら三兄弟が籠る八上城を兵糧攻めの末に陥落させ 6 、八月には「赤鬼」の異名で知られた赤井(荻野)直正亡き後の黒井城を攻略した 8 。これにより、丹波国はほぼ織田家の支配下に入り、丹後への進軍路は完全に開かれた 6

この丹波平定戦は、単に丹後への道を開いただけではなかった。数年にわたる戦いは、光秀と、その与力として常に付き従ってきた細川藤孝にとって、山国での兵站線の維持、ゲリラ的な抵抗への対処、そして何よりも織田軍の圧倒的な物量と組織力を周辺国に見せつける、絶好の機会となった。困難を極めた丹波での戦いは、来るべき丹後侵攻のための壮大な「演習」であり、その完了は、次なる作戦開始の狼煙であった。

信長の命令と両将の役割

丹後侵攻は、決して場当たり的な作戦ではなかった。信長はすでに天正五年(1577年)の段階で、明智光秀に丹波を、そして細川藤孝に丹後を与えることを約束していたとされる 2 。これは、信長の周到な戦略眼を示すものである。光秀を山陰方面全体の司令官と位置づけ、その与力であり、かつ室町幕府以来の名門で文化人としても名高い藤孝を、同じく守護大名である一色氏攻略の実行部隊長に任じる。これは、武力と権威の両面から丹後を切り崩そうとする、巧みな人事であった 6

しかし、一色氏の抵抗は侮れなかった。天正六年(1578年)、細川藤孝・忠興父子は一度丹後への侵攻を試みたが、一色方の武将、小倉播磨守や野村将監らの激しい抵抗に遭い、猪の岡山に築いた陣を放棄して丹波へ撤退するという苦杯を嘗めていた 2 。この失敗は、藤孝に一色氏の底力を再認識させ、翌年の侵攻をより万全なものにするための教訓となった。

侵攻軍の編成

天正七年、丹波平定を終えた光秀の支援を受け、細川藤孝は満を持して丹後へと軍を進める。主将は藤孝、そして初陣以来、父と共に各地を転戦し武勇を高めていた嫡子・忠興が副将を務める。その軍勢は、細川家の兵に加え、光秀からの援軍三百騎を含む総勢三千余であったと伝えられるが、一説には一万を超える大軍であったともいう 2 。丹波亀山城に集結した軍勢は、旧守護大名一色氏の息の根を止めるべく、丹後国境へと向かった。


表2:織田方・一色方 主要武将一覧

陣営

役職

人物名

備考

織田方

総司令官

明智光秀

丹波・丹後方面軍司令官。調略を主導。

侵攻軍主将

細川藤孝(幽斎)

元室町幕府幕臣。丹後攻略の実質的な指揮官。

副将

細川忠興

藤孝の嫡男。勇猛果敢な武将として知られる。

与力

松井康之

後に細川家重臣。調略のキーパーソンとなる。

与力

有吉将監

丹後の国人。織田方に寝返り、道案内役を務める。

一色方

当主

一色義道

丹後守護。反信長の姿勢を貫く。

後継者

一色義定(義俊)

義道の子。父の死後、抵抗を続ける。

一門

一色義清

義定の叔父。弓木城で最後の抵抗を試みる。

家臣

稲富伊賀守直家

弓木城将。稲富流砲術の祖として知られる鉄砲の名手。

家臣

沼田幸兵衛

中山城主。義道を裏切り、その運命を決定づける。

家臣

大江越中守

一色家譜代の勇将。中山城で奮戦する。


第二章:鉄槌 ―本拠・建部山城の陥落―

天正七年五月、丹波の山々を越えた細川・明智連合軍は、ついに丹後国へとその姿を現した。彼らの最初の目標は、一色氏数百年の治世の象徴であり、その本拠地である加佐郡八田の建部山城であった。しかし、この戦いは単なる武力の衝突ではなかった。それは、情報と心理を巧みに操る、新しい時代の戦争の幕開けでもあった。

侵攻開始と調略戦

細川軍は、前年の失敗を繰り返さなかった。今回は真正面から建部山城の麓、八田の地に大軍を押し寄せ、一色氏に圧倒的な軍事的圧力を見せつけた 2 。だが、真の攻撃は、戦場の後方で静かに、しかし着実に進行していた。総司令官である明智光秀は、武力行使と並行して、丹後の国人衆に対する徹底的な調略を開始したのである。

信長の権威を背景にした光秀の揺さぶりは、絶大な効果を発揮した。まず、丹後沿岸部に勢力を持つ日置城主・松井康之に対し、細川藤孝の娘を嫁がせるという破格の条件を提示し、味方に引き入れることに成功した 2 。さらに、丹後の内陸部、加悦谷に勢力を持つ算所の安良城主・有吉将監父子も説得し、寝返らせた 2 。丹後の地理と内情に精通した彼らが織田方についたことは、一色氏にとって致命的であった。これにより、一色氏の築いた防衛網は内側から崩壊し、建部山城は外部からの支援を断たれた裸の城と化したのである。

この戦法こそ、織田信長が得意としたものであった。圧倒的な軍事力(ハードパワー)で敵を威圧しつつ、同時に調略や情報戦(ソフトパワー)を駆使して敵の内部を切り崩す。この軍事と政治を融合させた「ハイブリッド戦争」とも言うべき戦術の前には、旧来の価値観に縛られた守護大名には抗する術がなかった。文化人としての顔を持つ細川藤孝もまた、この新時代の非情な戦法を忠実に実行する、冷徹な戦国武将であった。一色氏は、鬨の声が上がる前に、この目に見えない第二の戦線で既に敗北していたのである。

建部山城の攻防と陥落

丹後の国人衆の相次ぐ離反により、一色義道・義定父子が籠る建部山城は完全に孤立した。それでも城兵たちは、名門一色家の誇りをかけて奮戦した。江戸時代に成立した軍記物『一色軍記』には、その激しい攻防の様子が描かれている 13 。しかし、兵力差は歴然としており、外部からの援軍も期待できない状況では、落城はもはや時間の問題であった。地元の伝承には、この時の戦いで亡くなった武将たちのものとされる火葬墓の存在が伝えられており、戦闘の凄まじさを今に伝えている 13

天正七年七月には、細川藤孝が田辺城を攻撃した記録も残っており 14 、丹後各地で一色方の城が次々と攻略されていったことがうかがえる。そして同年九月頃、ついに義道父子は建部山城を支えきれず、再起を期して城を放棄し、丹後奥地へと退却する苦渋の決断を下した 2

『信長公記』によれば、同年十月二十四日、明智光秀は安土城の信長に対し、丹波・丹後両国の平定が完了した旨を報告している 5 。これは、この時点までに丹後における大規模な抵抗が終息し、主要な城が織田方の手に落ちたことを示している。一色氏の本拠陥落は、丹後国の支配者が交代したことを天下に示す、象徴的な出来事であった。

第三章:絶望の城 ―中山城の攻防と義道の最期―

本拠・建部山城を失った一色義道の軍勢は、大雲川(現在の由良川)を下り、ひとまず中山城へと退却した 2 。この城は、再起を図るための拠点となるはずであった。しかし、義道を待ち受けていたのは、希望の光ではなく、裏切りという名の深い絶望の闇であった。

裏切りの密約

中山城主・沼田幸兵衛(後に勘解由とも)は、主君である義道を城に迎え入れた。だがその裏では、既に細川方と密かに通じていたのである 2 。沼田は、滅びゆく一色家に見切りをつけ、新時代の覇者である織田方につくことで、自らの生き残りを図ろうとしていた。義道は、最も信頼すべきはずの家臣の城で、知らぬ間に袋の鼠となっていた。

細川忠興・興元兄弟が率いる一万数千の軍勢は、寝返った松井康之、有吉将監らを道案内に、二手に分かれて中山城に殺到した 2 。しかし、城内には義道と共に退いてきた大江越中守をはじめとする、一色家譜代の勇将たちがまだ数多く残っていた。彼らは沼田の裏切りを知らぬまま、絶望的な状況下で獅子奮迅の働きを見せる。

『一色軍記』によれば、その抵抗は凄まじく、細川・明智の大軍をもってしても、中山城を三ヶ月にわたって攻めあぐねたという 2 。力攻めでは多大な犠牲が出ると判断した細川方は、再び調略に活路を見出す。謀将・松井康之は、城内に密使を送り、沼田幸兵衛と連携。ある夜、沼田が守備する一角から火の手が上がった。城内が混乱に陥ったその瞬間を突き、細川軍は総攻撃を開始した。内と外からの同時攻撃に、さしもの勇将たちも持ちこたえることはできなかった。

義道の最期 ―二つの伝承―

中山城の陥落に際し、一色義道がどのような最期を遂げたかについては、二つの異なる伝承が残されている。これは、歴史が誰によって、どのような意図で語られるかによって、その姿を大きく変えることを示す、興味深い事例である。

一つは、『一色軍記』などに描かれる、悲劇的な「自害説」である。これによれば、義道は混乱に乗じて城から脱出したものの、もはや再起の見込みがないことを悟り、川原の秋草の陰で自害して果てたとされる 2 。この時、彼に付き従った主従三十八騎もまた、主君の後を追い、あるいは討死したという。これは、滅びゆく名門の当主の悲壮な最期として、後世の人々の涙を誘う物語である。

もう一つは、勝者である細川家の公式記録『細川家譜』に残された、簡潔な「病死説」である。そこには、義道は「丹後平定戦の最中に病死した」とだけ記されている 4 。この記述は、沼田幸兵衛の裏切りや、主君を謀略にかけたといった、細川方にとって不名誉となりかねない事実を隠蔽する意図があったと考えられる。新たな丹後の支配者として、その統治の正当性を内外に示すためには、旧支配者は「戦のなかで病により天命を全うした」という形が最も都合が良かったのである。

中山城で実際に何が起こったのか、その真相は歴史の闇の中である。しかし、この二つの異なる「死」の物語は、歴史記述における「勝者の論理」と「敗者の物語」の相克を浮き彫りにしている。我々が今日触れる歴史とは、単一の客観的な事実ではなく、こうした様々な立場からの解釈が幾重にも重なり合って形成された、多層的な物語なのである。

第四章:不屈の炎 ―弓木城の若き当主―

父・義道の悲劇的な死は、丹後守護一色家の終焉を意味するものではなかった。その不屈の魂は、若き後継者へと受け継がれ、与謝の地で最後の輝きを放つことになる。

後継者・一色義定

父の訃報に接した嫡男・義定(史料によっては義俊、満信とも記される 15 )の行動は迅速であった。彼は、父を陥れた沼田の裏切りと、その無念の死に憤激し、かねてから伏せていた手勢を率いて細川軍の背後を強襲した 2 。不意を突かれた細川軍は混乱し、義定はその隙に見事な采配で軍をまとめ上げると、敵の追撃を振り切り、与謝郡の要害・弓木城へと撤退することに成功した。その鮮やかな戦いぶりは、敵将である細川忠興らも感嘆させたという 2 。父の死という絶望的な状況下で見せたこの行動は、彼が単なる名門の御曹司ではなく、優れた器量を持つ武将であったことを示している。

弓木城の籠城戦と稲富流砲術の威力

義定が最後の拠点として選んだ弓木城は、現在の京都府与謝野町に位置し、平野部に突き出た丘陵を利用した天然の要害であった 18 。義定率いる一色家の残党は、この城に立てこもり、丹後平定の総仕上げにかかる細川軍を迎え撃った。

細川軍は、圧倒的な兵力をもって弓木城に幾度となく攻撃を仕掛けた。しかし、その猛攻はことごとく撃退される 19 。この籠城戦の帰趨を左右したのが、当時の最新兵器である「鉄砲」であった。弓木城の城将を務めていた稲富伊賀守直家(後の祐直)は、後に「稲富流砲術」の始祖として天下にその名を轟かせる、当代随一の鉄砲の名手であった 19

稲富の指揮する鉄砲隊は、城の防衛において絶大な威力を発揮した。巧みな射撃術と効果的な運用により、城に殺到する細川勢に甚大な損害を与え、その力攻めを不可能にしたのである。この弓木城での戦いは、戦国時代末期において、鉄砲という新技術が、単なる兵器の一つではなく、戦全体の様相を覆しうる戦略的に極めて重要な要素となっていたことを示す好例である。

この戦況は、一つの重要な事実を物語っている。それは、技術や戦術が、時に兵力という物量的な優位を凌駕しうるということである。稲富の鉄砲隊という「技術的優位」は、細川軍の「兵力的優位」を一時的に無効化し、一色義定に局地的な「戦術的勝利」をもたらした。

しかし、この勝利は、滅びゆく者が見せた最後の抵抗に過ぎなかった。彼らが対峙しているのは、単なる細川軍ではない。その背後には、織田信長という、天下統一を目指す巨大な政治的・軍事的システムが存在する。丹後一国という狭い舞台での戦術的勝利が、この大きな時代の流れ、すなわち「戦略的敗北」という非情な現実を覆すことはできなかった。弓木城で鳴り響いた銃声は、技術や個人の武勇だけでは抗うことのできない、戦国乱世の現実を象徴する、悲壮な挽歌であった。

第五章:束の間の和平 ―血と婚姻の狭間で―

弓木城での一色方の頑強な抵抗、とりわけ稲富伊賀守率いる鉄砲隊の前に、細川藤孝は力攻めの限界を悟った。これ以上の兵と時間の損耗は、信長から与えられた丹後平定という任務の遅延を意味し、自身の評価を損なうことになりかねない。ここで藤孝は、武将から謀将へとその貌を変え、武力から政略へと、解決の手段を大きく転換させる決断を下した。

藤孝の決断と光秀の仲介

この方針転換には、丹波・丹後方面の総司令官である明智光秀の助言、あるいは仲介があったとされる 1 。光秀と藤孝は、長年、織田家臣として苦楽を共にしてきた盟友であり、その連携は丹後平定戦においても緊密であった。力攻めの非効率性を共有した両将は、一色氏を武力で滅ぼすのではなく、政治的に取り込むことで丹後を平定するという、より高度な戦略を選択したのである。

和睦の条件 ―政略結婚と丹後分割―

細川方から一色義定へ示された和睦の条件は、破格のものであった。藤孝は、自らの娘・伊也(『一色軍記』では菊の方と伝わる)を、父の仇であるはずの敵将・義定に嫁がせるという、驚くべき提案を行ったのである 1 。これは、単なる停戦協定ではなく、両家が姻戚関係を結ぶことによる、恒久的な和議を目指すものであった。

さらに、丹後国の領有権についても、大幅な譲歩が示された。加佐郡・与謝郡といった南半国を細川氏が領有する一方、中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる「奥丹後三郡」は、引き続き一色氏の所領とすることが認められた 1 。これにより、一色義定は滅亡を免れるどころか、織田政権下における丹後北半国の領主として、その存続を公式に認められることになった。事実、義定は天正九年(1581年)に信長が京都で催した大規模な軍事パレード(京都御馬揃え)にも、丹後の大名として参加している 1

表面的に見れば、この和睦は、小勢力ながらも奮戦した一色氏が、その武勇によって勝ち取った名誉ある講和であった。しかし、その内実を深く見れば、全く異なる様相が浮かび上がってくる。

細川藤孝にとって、この和睦は善意や妥協の産物では断じてなかった。それは、文化人・幽斎の仮面の下に隠された、戦国武将としての冷徹な現実主義の表れであった。弓木城攻略に固執し、無駄な血を流すよりも、政治的解決によって一時的に事を収める方がはるかに効率的である。娘を人質同然に送り込むことで義定の動向を監視下に置き、丹後の南半国を確保することで、信長に対して「丹後平定」という任務の完了を報告することができる。

つまり、この和睦は、一色氏を完全に滅ぼすための、より確実で低コストな次の一手を打つまでの「戦略的タイムアウト」に過ぎなかった。藤孝は、婚姻という血の絆さえも、目的を達成するための道具として利用したのである。一色義定が手にした束の間の平和は、巨大な権力構造の中に組み込まれた、極めて脆い砂上の楼閣であった。

終章:本能寺の変、そして謀殺

天正十年(1582年)六月二日、京・本能寺。日本史を揺るがす大事件は、丹後の地で結ばれた束の間の和平を、根底から覆す激震となった。明智光秀による主君・織田信長への謀反は、丹後で対峙していた細川氏と一色氏の運命を、無慈悲に引き裂いた。

運命の分岐点

本能寺の変の報に接した時、両家の当主は、それぞれ重大な決断を迫られた。一色義定にとって、明智光秀は和睦を仲介し、自身の丹後北半国の領有を認めてくれた直接の上司であった。義理を重んじた彼は、光秀に味方することを決断する 16 。これは、当時の主従関係からすれば、自然な選択であったかもしれない。

一方、細川藤孝・忠興父子の立場は、より複雑であった。藤孝は光秀の長年の盟友であり、忠興は光秀の娘・玉(ガラシャ)を正室に迎えていた。彼らは、光秀にとって最も頼りとすべき存在であった。しかし、藤孝は信長への恩義を理由に剃髪して「幽斎」と号し、子の忠興に家督を譲ると、田辺城に隠居して喪に服した 22 。忠興もまた、岳父である光秀には与せず、中立を保った。そして、光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れると、彼らは速やかに秀吉に接近し、新時代の覇者の麾下に入ったのである 23 。この決断が、両家の未来を決定的に分けた。

宮津城の惨劇と一色氏の滅亡

光秀の敗死により、「逆賊」に与した一色義定の立場は、完全に失われた。細川忠興は、この千載一遇の好機を逃さなかった。羽柴秀吉から「義定に謀反の企てあり」との報を受けた、あるいはそれを口実として、忠興は丹後から一色氏の勢力を一掃するための行動を開始する。

彼は、妹婿である義定を、祝宴と称して自らの居城・宮津城へと招いた。何の疑いも抱かずに城を訪れた義定を待ち受けていたのは、酒宴の席での無慈悲な刃であった。義定は謀殺され、同時に城内にいたその家臣ら百人余りも、ことごとく討ち取られたという 16

忠興は、義定を誘殺すると同時に、軍勢を弓木城へと派遣していた。城では、義定の叔父にあたる一色義清が残党を率いて最後の抵抗を試みた。彼は城から打って出て壮絶な戦いを繰り広げたが、衆寡敵せず、宮津の海岸で自刃して果てた 16 。ここに、丹後国に数百年君臨した守護大名・一色氏は、歴史の舞台から完全に姿を消した。

この一連の出来事は、中央政権の空白化(パワーバキューム)が、地方の権力構造再編の絶好機となることを如実に示している。細川氏にとって、信長の命令によって生かされていた一色氏は、かねてよりの懸案事項であった。信長の死、そして義定が「逆賊」光秀に与したという大義名分を得たことで、彼らを排除する全ての障害が取り除かれた。宮津城での謀殺は、中央の政変が即座に地方の権力闘争に波及し、より強大な者がより弱い者を呑み込んでいく、戦国時代の権力移行のダイナミズムを鮮やかに体現するものであった。

この戦いの結果、細川藤孝・忠興父子は、丹後一国十一万石余の完全な領有を達成し、宮津城を本拠として、新たな支配体制を築き始めたのである 11

補論:史料に見る「与謝・加悦谷の戦い」

本報告書で詳述した「与謝・加悦谷の戦い」の経緯は、複数の歴史的史料に基づいて再構成されたものである。しかし、これらの史料は、それぞれ成立した時代や編纂者の立場が異なり、その記述を鵜呑みにすることはできない。歴史を探求する上では、史料の特性を理解し、批判的に検討する視点が不可欠である。

『一色軍記』の価値と限界

本報告書における合戦の具体的な描写、特に中山城の攻防や一色義道の最期、義定の奮戦といった劇的な場面の多くは、江戸時代に成立したとされる軍記物語『一色軍記』に依拠している。この種の軍記物は、歴史的事実を伝えつつも、読者の興味を引くために物語的な脚色や創作が加えられている可能性が極めて高い 13 。したがって、『一色軍記』は、当時の人々がこの戦いをどのように記憶し、物語として消費したかを知る上で貴重な史料であるが、その記述の全てを史実と見なすことには、慎重でなければならない。

勝者の記録との比較

一方、細川家の公式記録である『細川家譜』や、それを基に編纂された『綿考輯録』は、勝者の視点からこの戦いを記録している 22 。例えば、一色義道の死因について、『一色軍記』が悲劇的な「自害」を描くのに対し、『細川家譜』は「病死」と簡潔に記す。この相違は、前述の通り、細川氏による丹後支配の正当性を主張するための政治的意図を反映している可能性が高い。これらの史料を比較検討することで、一つの出来事が、立場によっていかに異なって解釈され、記録されるかが見えてくる。

一次史料の不在と研究の困難さ

最も信頼性が高いとされる同時代の一次史料は、この戦いに関しては極めて乏しい。例えば、太田牛一が記した『信長公記』は、織田信長の動向を知る上での基本史料であるが、丹後侵攻については、天正七年十月に明智光秀が平定完了を報告したという記述があるのみで、個々の戦闘の詳細は全く記されていない 5 。この一次史料の欠如こそが、「与謝・加悦谷の戦い」の研究を困難にし、後世の軍記物への依存度を高めている大きな要因である。

我々がこの戦いについて知ることができるのは、断片的な記録と、後世に編まれた物語の隙間から垣間見える、歴史の朧げな姿に過ぎない。しかし、それらの史料を丹念に読み解き、その背後にある人々の意図を考察することによって、歴史の深層に迫ることは可能である。この戦いの物語は、史料批判の重要性を我々に教えてくれる、格好の教材と言えるだろう。


表3:一色義定の異名対照表

呼称

主な使用史料・文献

備考

義定

Wikipedia, Nobuwikiなど

近年の研究やウェブサイトで一般的に使用される呼称。

満信

Wikipedia, Nobuwikiなど

義定の別名とされる。義道から家督を譲られた際の名前か。

義俊

『一色軍記』, 3780session.comなど

軍記物語やそれを基にした記述で多用される呼称。

義有

Wikipedia, Nobuwikiなど

義定の別名とされる。

五郎

Wikipedia, Nobuwikiなど

義定の通称(幼名)。

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引用文献

  1. 一色義道 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
  2. 宮津へようこそ、丹後の守護一色氏 https://www.3780session.com/miyazuiltushikiuji
  3. 一色義道(いっしき よしみち)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93-1054775
  4. 一色義道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
  5. #174『信長公記』を読むその24 巻12 後編 :天正七(1579)年 | えびけんの積読・乱読、できれば精読 & ウイスキー https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12792084946.html
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  22. 歴史の目的をめぐって 細川忠興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-30-hosokawa-tadaoki.html
  23. 宮津へようこそ、細川家とのつながり https://www.3780session.com/blank-19
  24. 丹後の守護一色義俊の謀殺は密かに進められていった - 宮津へようこそ https://www.3780session.com/miyazuiltushikiujibousatu
  25. 「1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原攻めの際に、キリシタン大名の高山右近が、仲間の戦国大名... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000143287