与賀・神野口の戦い(1585)
天正十三年、隆信討死後の龍造寺家を狙い、離反国人衆が佐賀城下へ侵攻。鍋島直茂はクリーク地帯の地の利を活かし反乱軍を撃退。この勝利で直茂の地位は確立し、後の佐賀藩成立の礎となった。
天正十三年、肥前動乱 — 与賀・神野口の戦いと佐賀平野の攻防 —
序章:崩れ落ちた巨星
天正12年(1584年)3月24日、九州の勢力図を根底から揺るがす激震が走った。島津・大友と並び九州三大勢力の一角を占め、「肥前の熊」と畏怖された龍造寺隆信が、島原半島沖田畷の湿地帯にその巨体を横たえたのである 1 。一代で肥前の一国人から「五州二島の太守」と称されるまでに勢力を拡大した隆信の決断力と武威は、龍造寺という巨大な軍事・政治連合体の求心力そのものであった 3 。
天正12年(1584年)3月24日、沖田畷の悲劇
この日、龍造寺軍は2万5千から6万ともいわれる大軍を擁し、離反した有馬晴信を討伐すべく島原半島に侵攻した 5 。有馬氏の救援に駆け付けた島津家久率いる軍勢は、有馬軍と合わせても1万に満たず、兵力差は歴然としていた 5 。しかし、勝利を確信した隆信の油断と、狭隘な湿地帯という地形の不利、そして島津家久の巧みな伏兵戦術が絡み合い、戦局は龍造寺軍にとってまさかの惨敗に終わる 7 。
この一戦で、龍造寺軍は総大将の隆信のみならず、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、江里口信常といった「龍造寺四天王」を含む重臣二百三十余名を失い、組織として壊滅的な打撃を受けた 9 。総大将の死は、単なる一武将の損失ではなかった。それは、隆信個人のカリスマと恐怖によって辛うじて維持されていた龍造寺支配圏の、秩序の崩壊を意味していた。この敗北は、肥前・筑後地域に巨大な「権力の真空」を生み出し、外部勢力である島津氏の介入を誘引し、内部の国人衆の離反を促す、極めて危険な時限爆弾となったのである。
九州の勢力図の激変
沖田畷の勝利により、九州統一の最大の障壁であった龍造寺氏を事実上無力化した島津氏は、その勢力を一気に筑前・筑後まで拡大させる 9 。九州の覇権は、完全に島津氏の手に傾いたかに見えた。しかし、その視線の先には、もはや大友氏や龍造寺氏といった九州内のライバルだけが存在したわけではない。中央では、羽柴秀吉が紀州征伐(天正13年3月)や四国平定(同年8月)を立て続けに成功させ、天下統一事業を最終段階へと推し進めていた 12 。九州の動乱は、秀吉による介入という、抗いがたい時代の奔流が迫る中での最終局面へと突入していた。与賀・神野口の戦いは、この九州内外の大きな歴史のうねりの中に位置づけられるべき、重要な一戦なのである。
表1:九州情勢年表(天正12年〜15年)
年月 |
龍造寺・鍋島の動向 |
島津の動向 |
中央(秀吉)および他勢力の動向 |
天正12年(1584) |
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3月 |
沖田畷の戦いで龍造寺隆信戦死。政家が家督継承、鍋島直茂が実権掌握。 |
島津家久、龍造寺軍を破る。 |
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天正13年(1585) |
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3月 |
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秀吉、紀州征伐を開始 13 。 |
7月 |
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秀吉、関白に任官。四国平定を完了 12 。 |
日付不明 |
与賀・神野口の戦い。 鍋島直茂、筑紫広門らの反乱軍を撃破。 |
筑紫広門ら龍造寺離反国人を支援。肥後・筑後への圧力を強める。 |
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8月 |
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阿蘇氏を降伏させ、肥後をほぼ平定 15 。 |
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10月 |
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秀吉、九州の諸大名に 惣無事令 を発令 17 。 |
天正14年(1586) |
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7月 |
島津軍の侵攻を受け、立花山城攻めに参加。 |
筑前へ侵攻。岩屋城、宝満城を攻略し、立花山城を包囲 17 。 |
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12月 |
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戸次川の戦いで豊臣先遣隊に勝利 18 。 |
秀吉、九州平定軍の派遣を決定。 |
天正15年(1587) |
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3月 |
鍋島直茂、豊臣方に恭順し、九州平定軍の先導役を務める 19 。 |
豊臣軍の侵攻を受け、豊後から撤退開始。 |
秀吉、九州へ出陣。 |
5月 |
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島津義久、秀吉に降伏 18 。 |
秀吉、九州平定を完了。九州国分けを行う。 |
第一部:龍造寺家の冬 — 内部崩壊の序曲
第一章:残された者たち — 権力構造の変質
隆信の死後、龍造寺家は深刻な指導者不在の危機に直面した。名目上の当主となったのは、隆信の嫡男・龍造寺政家であった。しかし、政家は生来病弱であり、父のような強力なリーダーシップを発揮することは到底望めなかった 10 。このため、国政の実権は、隆信の義弟であり、今山の夜襲などで数々の武功を挙げてきた知将・鍋島直茂(当時は信生)が、政家を補佐するという形で掌握していくことになった 22 。
この「当主・政家」と「実権者・直茂」という二元的な統治体制は、ただでさえ動揺している家中に、さらなる不安定要因をもたらした。直茂は沖田畷の戦場で隆信戦死の報に接した際、一度は自害を考えたが、家臣に制止され、辛うじて柳河へと撤退した 4 。その後、島津側から丁重に申し入れられた隆信の首の返還を、「主君の首を敵の手から受け取ることは武士の恥」として断固拒否した 25 。これは、惨敗にも関わらず龍造寺家の威信を保ち、後の講和交渉を少しでも有利に進めようとする、直茂の政治家としてのしたたかさを示す逸話である。しかし、いかに直茂が智勇兼備の名将であったとしても、彼一人の力で、巨星を失った龍造寺家の崩壊を食い止めることは困難であった。
第二章:忍び寄る島津の影 — 国人衆の離反
沖田畷の勝利は、島津氏に九州統一への道を大きく開いた。彼らは武力による北上と並行して、龍造寺傘下の国人衆に対する調略を活発化させた 7 。これは、敵の戦力を内部から切り崩す、島津氏の得意戦術であった。
この調略に真っ先に応じたのが、筑前の有力国人・筑紫広門である。広門はかつて大友氏に反抗し、龍造寺氏と手を結んだこともあったが、龍造寺氏の弱体化を目の当たりにすると、自家の存続のため、すぐさま島津方へと寝返った 30 。筑後の有力国人である田尻鑑種もまた、隆信による蒲池氏の謀殺といった非道な振る舞いに不信感を抱いており、一度は島津に内通した過去があった 34 。彼らにとって、もはや龍造寺氏への忠誠を保つ義理も実利もなかった。
筑紫氏や田尻氏の動きは、ドミノ倒しのように他の国人衆の離反を誘発した。肥前・筑後の国人衆が、雪崩を打って龍造寺から離れ、次々と島津の傘下へと駆け込んでいったのである 22 。これは、戦国時代の国人領主が、常に自家の安泰と存続を第一に考え、より強力な勢力へと鞍替えする現実主義の現れであった 33 。
この大量離反の背景には、龍造寺隆信が築いた支配体制の構造的な脆弱性があった。隆信の支配は、恩賞や信頼といった求心力よりも、むしろ「恐怖」と圧倒的な「力」によって成り立っていた 4 。蒲池鎮漣を騙し討ちにするなど、その非情な手段は多くの国人に恨みを抱かせていた 35 。沖田畷でその力の源泉が失われた途端、押さえつけられていた遠心力が一気に噴出したのである。鍋島直茂は優れた将であったが、隆信ほどの畏怖の対象ではなかった。国人衆にとって、弱体化した龍造寺に留まるよりも、破竹の勢いの島津に与する方が、自家の将来にとって遥かに有利であることは明白であった。与賀・神野口の戦いに至る反乱は、単なる個々の国人の裏切りではなく、恐怖政治の末路という、必然的な帰結だったのである。
第二部:与賀・神野口の戦い — 佐賀城下の攻防
第三章:戦いの舞台 — クリーク地帯の地政学
与賀・神野口の戦いを理解する上で、その舞台となった佐賀平野の特異な地形を抜きにして語ることはできない。佐賀平野は、有明海の干拓によって形成された広大な低湿地帯である 42 。この平野には、灌漑、排水、そして舟運のための水路、すなわち「クリーク」と呼ばれる濠が網の目のように張り巡らされている 45 。
平時において、このクリーク網は人々の生活と農業を支える生命線であった。しかし、ひとたび戦となれば、それは天然の巨大な防御施設へとその姿を変える。大軍が自由に展開することはできず、移動は狭い道や限られた渡河点に制約される。この地形は、この地で繰り広げられた合戦において、単なる背景ではなく、両軍の戦術を根本から規定する「第三の参戦者」であったと言える。防御側にとっては敵の進軍を阻害し、戦力を分散させる強力な味方となり、攻撃側にとっては克服すべき最大の障害となる。
「与賀」は佐賀城の南西、「神野」は北西から西にかけての地域を指す地名である 47 。「口(くち)」という名称が示す通り、これらの場所は城下町への入り口であり、クリークを渡るための橋や渡し場が集中する交通の結節点であった。ここを敵に抑えられることは、佐賀城が直接的な脅威に晒されることを意味し、防衛側にとっては絶対に死守すべき要衝であった。地の利を熟知していた鍋島直茂にとって、このクリーク網は、兵力で劣る可能性のある自軍が、反乱軍を迎え撃つ上で最大の武器となったのである。
第四章:開戦前夜 — 反旗の狼煙
天正13年(1585年)、沖田畷の敗戦から約1年が経過しても、龍造寺家の混乱は収まらず、島津氏の圧力は増す一方であった 13 。この機を捉え、筑紫広門をはじめとする龍造寺氏から離反した国人衆は、島津氏の後ろ盾を得て、龍造寺家の本拠地である佐賀城への直接攻撃を計画した。彼らの目的は、弱体化した龍造寺家にとどめを刺し、肥前における島津の覇権を確立することにあった。
反乱軍は、佐賀城の防衛網の要である与賀口、神野口に目標を定め、複数の方向から同時に圧力をかけることで、鍋島軍の兵力を分散させ、防衛線を突破しようと試みたと考えられる。龍造寺家の命運を賭けた、佐賀城下での攻防戦の火蓋が切られようとしていた。
第五章:激闘の刻 — 合戦のリアルタイム再現
この合戦に関する詳細な一次史料は限られているが、地形的特徴、参戦武将の性格、そして前後の状況から、その戦闘経過を時系列で再構築することは可能である。
表2:与賀・神野口の戦いにおける両軍の推定兵力と主要武将
陣営 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
龍造寺方 |
鍋島直茂 |
江里口信常、円城寺信胤、成松信勝(子)、百武賢兼(子)など |
数千 |
反乱方 |
筑紫広門 |
肥前・筑後の離反国人衆 |
数千〜一万 |
注:兵力は諸説あり、あくまで推定である。龍造寺方の主要武将には、沖田畷で戦死した重臣の子弟が含まれていた可能性が高い。
第一報と佐賀城の初動
天正13年のある日、筑紫広門を主力とする反乱軍が佐賀城へ向けて進軍中であるという第一報が城にもたらされた。城内はにわかに緊張に包まれる。沖田畷の悪夢が家臣たちの脳裏をよぎったであろうことは想像に難くない。しかし、この危機的状況にあって、事実上の最高指揮官である鍋島直茂は冷静であった 49 。彼は籠城という消極策を選ばなかった。佐賀城は低平な土地に築かれた平城であり、大軍に包囲されれば兵糧攻めに遭う危険性が高い。直茂は、城から打って出て、佐賀平野の地形を最大限に活用した野戦で敵を撃破する決断を下した。これは、かつて6万の大友軍をわずかな手勢による夜襲で打ち破った今山の戦いにも通じる、彼の攻撃的な戦術思想の現れであった 24 。
鍋島直茂の迎撃
直茂は直ちに軍勢を動かし、反乱軍の進撃路にあたる与賀口と神野口に兵力を重点的に配置した。クリークを天然の防御線とし、敵が渡河を試みるであろう狭い地点に鉄砲隊や弓隊を伏せた。道は狭く、橋は少ない。反乱軍は、その兵力の多さにもかかわらず、縦長の隊列で一点に集中して進むことを余儀なくされる。それは、まさに直茂が仕掛けた罠であった。
与賀口、神野口での衝突
やがて、反乱軍の先鋒が与賀口と神野口に到達し、戦闘が開始された。彼らはクリークの渡河点や狭い畷(なわて、田んぼの中の細道)に殺到するが、待ち構えていた鍋島軍の鉄砲や矢の斉射によって次々と討ち取られていく。クリークが障害となり、後続の部隊は前方の味方を助けることも、横に展開して側面を突くこともできない。先鋒は孤立し、一方的に消耗していった。鍋島軍はクリークを天然の堀として利用し、極めて効率的な防御戦を展開したのである。
戦況の転換点
戦闘はしばらく膠着状態が続いたが、やがて戦況は鍋島軍に有利に傾き始める。反乱軍は国人衆の連合体に過ぎず、一枚岩の指揮系統を欠いていた。一部の部隊が損害を受けて後退を始めると、それが他の部隊の士気にも伝播し、統制が乱れ始めた。この好機を直茂が見逃すはずはなかった。彼は温存していた手勢を投入し、敵陣に楔を打ち込む。この突撃の先頭に立ったのは、江里口信常や円城寺信胤といった、沖田畷で父を失った若き猛将たちであったかもしれない。彼らの獅子奮迅の働きが、反乱軍の戦線を崩壊させる決定的な一撃となった可能性は高い 50 。
追撃戦と終結
一度崩れ始めた反乱軍の敗走は早かった。しかし、彼らが来た道は、逃げる際にも同様に障害となった。狭い道で将兵が殺到し、身動きが取れなくなったところを、追撃してきた鍋島軍に討ち取られる者も少なくなかった。
最終的に、鍋島直茂は反乱軍を撃退し、決定的な勝利を収めた。佐賀城の危機は去り、龍造寺家は辛うじてその命脈を保ったのである。
第三部:束の間の勝利、そして時代の奔流へ
第六章:戦後処理と権力の確立
与賀・神野口の戦いにおける勝利は、鍋島直茂の龍造寺家内における地位を不動のものとした。彼は反乱の首謀者たちに厳しい処分を下し、動揺する領内の引き締めを図った。この一戦は、病弱な当主・政家ではこの国難を乗り切れないこと、そして龍造寺家にとって直茂がいかに不可欠な存在であるかを、家臣団や国人衆に改めて強く印象付けた。名実ともに、龍造寺領の支配権は直茂の手に帰したのである 21 。
この戦いの持つ意味は、単なる反乱鎮圧に留まらない。それは、後の佐賀藩(鍋島藩)が誕生する上での「軍事的な創世記」と位置づけることができる。江戸時代を通じて、鍋島藩の成立はしばしば龍造寺家からの「畷奪」という否定的な文脈で語られることがあった 54 。しかし、この合戦に焦点を当てれば、全く異なる側面が浮かび上がる。それは、隆信の死によって崩壊寸前であった龍造寺の領国を、内乱と外部の脅威から軍事的に守り抜いたという紛れもない「実績」である。直茂はこの勝利によって、家臣団から事実上の「信託」を得た。後の豊臣秀吉による九州平定の際、秀吉が龍造寺家の代表者として政家ではなく直茂を交渉相手として扱ったのも 25 、この軍事的実績が大きく影響していたと考えられる。もしこの戦いに敗れていれば、龍造寺家は内部分裂と島津の侵攻によって滅亡し、鍋島家が近世大名として存続する未来はあり得なかったであろう。
第七章:九州平定の序章
与賀・神野口での局地的な勝利は、龍造寺家にとって束の間の安息をもたらしたに過ぎなかった。九州全体における島津氏の圧倒的優位は、何ら揺らいでいなかった。島津軍はその勢いを駆って北上を続け、天正14年(1586年)には大友氏の本拠地である豊後へ侵攻し、立花山城を包囲するなど、九州統一の歩みを止めることはなかった 16 。もはや、九州内の勢力だけで島津の進撃を阻むことは不可能であった。
この窮状に、ついに中央の巨大な権力が動く。大友宗麟からの救援要請を受けた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)、20万ともいわれる大軍を九州へ派遣した。これが九州平定である 57 。いかに精強を誇る島津軍といえども、天下人の圧倒的な物量の前には抗すべくもなく、降伏に至った 18 。
この時代の大きな転換点において、鍋島直茂は極めて的確な判断を下す。彼は島津氏への抵抗を早々に見切り、いち早く秀吉に恭順の意を示して、九州平定軍の先導役を積極的に務めた 26 。この現実的な選択が、戦後の国分けにおいて龍造寺(事実上の鍋島)家の所領安堵に繋がり、近世大名として生き残る道を拓いたのである。
歴史を俯瞰すれば、与賀・神野口の戦いは、九州の戦国時代が、地域内の論理から中央の論理へと塗り替えられる直前の、最後の激しい火花であった。この戦いで鍋島直茂が勝利し、龍造寺家という政治的共同体を存続させたからこそ、彼は「龍造寺家の代表」として秀吉と交渉する主体となり得た。もしこの戦いに敗れ、肥前が島津領の一部として組み込まれていれば、その後の歴史は大きく異なる様相を呈していたに違いない。
結論:ある局地戦が映し出すもの
天正13年(1585年)の「与賀・神野口の戦い」は、日本の戦国史の大きな流れの中では、しばしば見過ごされがちな肥前の一局地戦に過ぎない。しかし、その内実を詳細に分析するとき、この戦いが時代の転換点を象徴する、極めて示唆に富んだ事件であったことが明らかになる。
第一に、本合戦は、龍造寺隆信という傑出した個人の死によって生じた権力の真空状態をめぐる、佐賀平野における秩序再編の動きが軍事衝突として表面化したものであった。それは、隆信の恐怖政治に反発を抱いていた国人衆が、九州の新覇者たる島津氏を後ろ盾に、旧主へ反旗を翻した内乱であった。
第二に、この戦いは、龍造寺家から鍋島家への権力移行を決定づけた、画期的な出来事であった。鍋島直茂は、クリーク地帯という地の利を最大限に活かし、巧みな指揮によって反乱を鎮圧した。この勝利は、龍造寺家の事実上の終焉と、鍋島家による新たな支配体制の萌芽を象徴する。それは、一個人のカリスマに依存した脆弱な支配から、組織力と戦略によって危機を乗り越える、より近代的な権力への移行過程を映し出す縮図であったと言える。
そして最後に、この戦いは、九州という地域ブロック内の覇権争いが、豊臣秀吉という天下人の登場によって終焉を迎える、まさにその前夜に起きた最後の抵抗であった。この局地戦での勝利が、鍋島直茂に九州平定という新たな政治ゲームに参加する資格を与え、近世佐賀藩の礎を築くことを可能にした。
したがって、与賀・神野口の戦いは、単なる一合戦に留まらず、戦国時代のダイナミズム、権力移行の現実、そして時代の転換点における地方勢力の必死の生き残り戦略を我々に教えてくれる、重要かつ象徴的な一戦として再評価されるべきである。
引用文献
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- 一家の命運を左右した龍造寺隆信の「決断力」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/46454
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- 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
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