最終更新日 2025-09-05

与賀城の戦い(1585)

天正十三年、沖田畷で隆信討死後、肥前は島津の侵攻に晒された。与賀城の戦いは物理的攻防でなく、龍造寺氏支配の象徴地を巡る無形の戦い。秀吉の惣無事令が九州の勢力図を変え、鍋島氏への権力移譲を決定づけた。

天正十三年・肥前国の秩序再編 ―「与賀城の戦い」の歴史的文脈の解明―

序章:肥前の天動説 ― 沖田畷の衝撃と権力の真空

天正十三年(1585年)の肥前国(現在の佐賀県・長崎県)を理解するためには、時計の針を一年巻き戻し、九州の勢力図を根底から覆した天正十二年(1584年)3月24日の出来事から始めなければならない。この日、島原半島の沖田畷において、肥前の戦国大名・龍造寺隆信は、薩摩の島津家久と地元領主・有馬晴信の連合軍と激突した 1 。結果は龍造寺軍の惨敗であった。しかし、これは単なる一合戦の敗北ではなかった。総大将である隆信自身をはじめ、一門の龍造寺康房、重臣の成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤といった、文字通り龍造寺氏の中枢を成す武将二百三十余名が一挙に討ち死にするという、国家の首脳部が物理的に消滅するに等しい壊滅的打撃を受けたのである 1

「肥前の熊」と畏怖された隆信は、その圧倒的な武威と恐怖政治によって、肥前・筑後から肥後の一部にまで及ぶ広大な版図を一代で築き上げたカリスマであった 3 。彼の支配体制は、多くの国人衆(在地領主)を力で従属させることで成り立っており、隆信個人の存在そのものが、龍造寺氏の求心力の源泉であった。その彼が戦場の露と消えた瞬間、龍造寺氏という巨大な権力構造を支えていた重しは失われ、肥前国には巨大な権力の真空が生じた。

隆信の死後、家督は嫡男の龍造寺政家が継承した。しかし、凡庸であったとされる政家には、父のような威光も統率力もなく、突如として指導者を失った家臣団の動揺と混乱を収拾することは不可能であった 5 。この未曾有の国難に際し、事実上の最高権力者として事態の収拾に奔走したのが、宿老の鍋島直茂である 1 。彼は崩壊寸前の龍造寺領を維持すべく、外交と内政の両面で全力を尽くすが、その権力基盤はまだ盤石ではなかった。天正十四年(1586年)に至り、政家から直茂へ領国支配を正式に委任する起請文が交わされることになるが 6 、天正十三年は、その権力移譲が水面下で進行する、極めて不安定な過渡期に位置づけられる。

一方で、沖田畷の勝利者である島津氏は、九州の覇権争いにおいて最大の障壁の一つであった龍造寺氏を事実上無力化したことで、その勢威を飛躍的に増大させた 1 。当主・島津義久とその弟である義弘、歳久、そして沖田畷の英雄・家久ら島津四兄弟が掲げる九州統一という壮大な目標にとって、弱体化した肥前・龍造寺領は、次なる征服の標的として眼前に横たわっていた 8

このように、天正十三年の幕開けは、龍造寺氏内部の権力構造の崩壊と、外部からの島津氏による軍事的圧力の増大という、二つの危機が同時進行する状況下にあった。隆信個人の死がもたらした支配の正統性の喪失は、従属していた国人衆の離反を誘発する連鎖的崩壊の引き金となった。本報告書で詳述する「与賀城の戦い」とは、この権力の真空状態を背景に、肥前国の秩序が再編されていく一連の過程そのものを指し示す象徴的な出来事なのである。

第一章:島津の影 ― 肥前への侵攻と国人衆の動揺(天正十三年初頭~夏)

沖田畷の戦勝の余韻が冷めやらぬ天正十三年、島津氏による肥前経略は本格的に始動した。その主導権を握ったのは、沖田畷において寡兵で龍造寺の大軍を打ち破り、隆信を討ち取った張本人、島津家久であった 9 。戸次道雪や高橋紹運といった敵将からも「軍事のみに注力する、とても尖った人物」と評された家久は、戦の天才としての武名と、沖田畷の勝利者という威光を背景に、肥前国に強烈な圧力を加えていく 9

島津氏の戦略は、単なる武力行使に留まらなかった。彼らはまず、龍造寺氏から離反し島津方に寝返った有馬晴信を介して、肥前国内の他の国人衆への調略を活発化させた 4 。これは、所領の安堵を条件に相手を従属させる、島津氏の得意とする戦術であった。沖田畷で龍造寺氏の軍事的中核が壊滅した今、多くの国人衆にとって、強大な島津氏に従うことは、自らの家を存続させるための最も現実的な選択肢となっていた。

この調略は絶大な効果を発揮した。沖田畷の戦いの後、龍造寺傘下の国人衆は、あたかも雪崩を打つかのように次々と島津方へと寝返り始めた 1 。これにより、龍造寺氏の支配領域は、物理的な戦闘を経ることなく、佐賀平野を中心とした中核部分へと急速に縮小していく。これは、城を一つずつ攻め落とす古典的な侵攻ではなく、支配下の領主を丸ごと寝返らせることで、地図が塗り替えられていく「無血の侵攻」であった。家久の軍事行動は、実際に戦闘を行うこと以上に、彼の武名を背景とした心理的な威圧によって相手を屈服させるという、極めて効率的な征服活動だったのである。

この圧倒的な島津氏の攻勢に対し、龍造寺氏の実権を握る鍋島直茂が取り得た戦略は、極めて限定されていた。正面からの軍事抵抗が破滅を意味することは明らかであり、彼の選択は、佐賀城を中心とする中核部の防衛体制を固めつつ、外交交渉によって時間を稼ぎ、状況の変化を待つというものであった。この時期、直茂は島津氏に対して表向きは従属的な姿勢を示し、決定的な軍事侵攻の口実を与えないよう細心の注意を払っていたと考えられる。

天正十三年前半における肥前国の「戦い」の主戦場は、実際の戦場ではなく、国人衆の寝返りを誘う調略戦と、侵攻を回避するための外交戦であった。島津氏にとっての勝利が版図の拡大である一方、鍋島直茂にとっての勝利は、龍造寺家の存続そのものであった。この非対称な状況下で、肥前国の秩序は刻一刻と島津優位の形に再編されていったのである。

第二章:佐賀平野の攻防 ― 「与賀城」を巡る無形の戦い

ご依頼の核心である「与賀城の戦い」の実態を解明するにあたり、まず「与賀城」そのものの歴史的変遷を正確に把握する必要がある。与賀城は、もともと肥前の名族・少弐氏が、大内氏に追われた際に拠点とした城館であった 11 。その後、龍造寺氏も村中城(後の佐賀城)、水ヶ江城と並ぶ初期の重要拠点の一つとして利用した記録が残っている 12

しかし、天正十三年(1585年)の状況を考察する上で、決定的に重要な史実が存在する。それは、龍造寺隆信が 永禄六年(1563年)に、この与賀城の跡地に一族の菩提寺である龍泰寺を建立した という事実である 13 。これは、ご依頼の時点から遡ること22年も前に、与賀城が軍事拠点としての城郭機能を失い、寺院となっていたことを強く示唆している。したがって、天正十三年に与賀城を舞台とした具体的な籠城戦や攻城戦が発生した可能性は、史実として極めて低いと結論付けられる。

では、なぜ「与賀城の戦い」という呼称が後世に伝わったのであろうか。その答えは、「与賀」という土地が持つ象徴性にある。与賀は、龍造寺氏が勃興した佐賀平野の中心地であり、一族の支配の正統性を象徴する揺り籠とも言うべき場所であった 12 。天正十三年、島津氏の勢力圏が龍造寺領の外縁部から徐々に内側へと浸透し、ついにこの佐賀平野の中心部、すなわち「与賀」を含む地域にまで及んできた。この状況こそが、「与賀城の戦い」という言葉で後世に伝わった事象の本質である。それは物理的な城を巡る攻防ではなく、

龍造寺氏の支配の象徴、その心臓部を巡る無形の攻防 だったのである。

この無形の戦いを規定したのが、佐賀平野特有の地理的景観であった。この地域には「クリーク」または「江湖(えご)」と呼ばれる水路網が、網の目のように張り巡らされている 16 。これらは元来、干拓地の灌漑排水を目的としたものであったが、同時に大軍の移動を著しく阻害する天然の防御施設としても機能した 17 。島津家久は、沖田畷において湿地帯という地形を巧みに利用して龍造寺の大軍を破った将である 4 。彼が誰よりも、クリークが広がる佐賀平野で大軍を動かすことの危険性を理解していたことは想像に難くない。騎馬や歩兵の大規模な展開は困難であり、細い道と水路で分断された部隊が各個撃破されるリスクは極めて高い。

この地理的要因が、島津方をして佐賀平野中心部への直接的な大規模侵攻を躊躇させ、より低コストで確実な調略を主戦術とさせた。一方で、鍋島方にとっては、このクリーク網こそが、籠城せずとも時間を稼ぐことを可能にした最大の味方であった。

したがって、天正十三年を通じて佐賀平野で繰り広げられた「要衝再編」の実態は、以下のようなものであったと推測される。島津方の使者が平野周辺の国人領主のもとを訪れ、威圧と懐柔を交えて降伏を促す。龍造寺方からの有効な後詰め(援軍)を期待できない領主たちは、次々と降伏文書を提出し、島津の支配下に入っていく。鍋島直茂は、抵抗不可能な外縁部を見捨て、佐賀城とクリーク網に守られた中核防衛圏の維持に全力を注ぐ。この「選択と集中」こそが、彼の現実的な生存戦略であった。

「与賀城の戦い」とは、特定の戦闘を指すのではなく、島津の圧力が龍造寺氏の心臓部である与賀地区にまで及び、その支配権が事実上喪失したという、この一連の政治的・戦略的プロセスを後世の人々が象徴的に名付けたものなのである。

第三章:天下人の介入 ― 惣無事令と九州の未来(天正十三年後半)

肥前一国で繰り広げられていた攻防は、天正十三年の後半、日本全土を巻き込む巨大な地政学的変動の渦に飲み込まれることとなる。九州という一地方の論理で動いていた事態に、中央の覇者である羽柴秀吉が介入したのである。

この年、秀吉の天下統一事業は最終段階に入っていた。紀州、四国を相次いで平定し、天正十三年七月には関白に任官、名実ともに天下人としての地位を確立した 19 。彼の次なる目標が九州であることは、誰の目にも明らかであった。島津氏による急速な勢力拡大と九州統一の野望は、秀吉にとって自らの天下統一事業に対する看過できない挑戦と映った。

そして、天正十三年十月二日、秀吉は九州の情勢に決定的な一石を投じる。彼は関白の権威をもって、島津義久と、島津に追われる大友宗麟に対し、戦闘を停止し、領土問題の裁定を秀吉に委ねるよう命じた。これが「惣無事令」である 19 。これは、大名間の私的な戦闘を禁じ、日本の全ての土地に対する最高裁定権が自らにあることを天下に宣言するものであった。

九州統一を目前にしていた島津氏にとって、この命令はまさに青天の霹靂であった。源頼朝以来の名門たる島津氏が、彼らの目には「成り上がり者」と映る秀吉の命令に素直に従うことは、その誇りが許さなかった 19 。島津義久はこの命令を事実上黙殺し、宿敵・大友氏を滅ぼすべく、豊後への侵攻準備を続行する。

一方で、滅亡寸前にまで追い詰められていた龍造寺・鍋島方にとって、惣無事令は一筋の光明であった。鍋島直茂は、目前に迫る島津という現実的な脅威に屈するか、遠大ではあるが強大な中央政権である秀吉に賭けるか、という究極の選択を迫られた。彼の卓越した政治的嗅覚は、この千載一遇の好機を見逃さなかった。島津氏が秀吉に対して反抗的な態度を取ったことで、龍造寺・鍋島方が秀吉に味方することの正当性は増し、そのリスクは大幅に低下した。

天正十三年という年は、九州という「地域紛争」の舞台が、日本の「天下統一戦争」という、より大きな政治的文脈へと組み込まれる転換点であった。これ以降、九州の諸大名の行動は、九州内でいかに勝利するかではなく、秀吉政権とどう向き合うかという新たな基準で判断されなければならなくなった。島津氏が惣無事令を無視して豊後侵攻(豊薩合戦)を激化させたことで、秀吉による九州征伐(天正十四年開始)は不可避となり、九州の運命は中央政権の手に委ねられることとなったのである。


表1:天正13年(1585年)における肥前国および周辺の主要動向年表

時期(天正13年/1585年)

島津氏の動向

龍造寺・鍋島氏の動向

肥前・筑後の国人衆の動向

中央(羽柴秀吉)の動向

1月~3月

沖田畷の勝利を受け、肥前・筑後方面への調略を本格化。島津家久が最前線で指揮。

龍造寺政家の新体制が発足するも機能不全。鍋島直茂が実権を掌握し、防衛体制の再構築に着手。

龍造寺氏の権威失墜により動揺。有馬晴信は完全に島津方となり、他の国人衆も島津への接近を模索。

四国攻めの準備を本格化。九州情勢の報告を受け、情報収集を強化。

4月~6月

筑後国の諸城へ圧力を強め、龍造寺方の国人を切り崩す。軍事的な示威行動を活発化。

佐賀平野中心部の防衛に専念。島津に対し従属的な姿勢を見せ、時間稼ぎを図る。

筑後の蒲池氏など、龍造寺方の有力国人が島津氏に降伏。離反が連鎖的に発生。

四国平定戦を開始。九州への介入を視野に入れ始める。

7月~9月

肥前・筑後の大半を勢力圏に収める。島津の九州統一が現実味を帯びる。

存亡の危機。鍋島直茂は中央の動向を注視し、新たな活路を模索。

ほぼ全ての国人衆が島津氏の支配下に入る。

関白任官(7月)。四国を平定し、天下統一事業が最終段階に入る 19

10月~12月

10月2日、秀吉より惣無事令が届く。 これを黙殺し、大友領(豊後)への侵攻準備を進める 19

惣無事令の到来を歓迎。秀吉との連携を本格的に検討し始める。

島津氏の指揮下に入り、対大友戦への動員準備を進める。

10月2日、九州惣無事令を発令。 島津氏の動向を「逆徒」として警戒を強める 19


結論:天正十三年の歴史的意義 ― 虚構の合戦と実像の権力移譲

本報告書を通じて検証した結果、天正十三年(1585年)における「与賀城の戦い」は、特定の城郭を巡る物理的な戦闘ではなく、沖田畷の戦いを直接的な契機として発生した肥前国の支配構造の激変、すなわち**「佐賀平野の要衝再編」という一連の政治・軍事プロセス**を、後世の人々が象徴的に表現した言葉であると結論付けられる。城は既に存在せず、記録に残る大規模な戦闘も確認できない。しかし、龍造寺氏の支配の心臓部が、島津氏の威光の前に事実上屈服したこの年の出来事は、一つの「戦い」として記憶されるに値するほどの重大な転換点であった。

この天正十三年の動乱は、龍造寺氏の内部に決定的な変化をもたらした。当主・政家の無力さを内外に露呈させ、対照的に、国難に対処する鍋島直茂の政治的・軍事的手腕を際立たせた。家臣団や国人衆の信頼は急速に直茂へと集まり、翌天正十四年における彼への正式な国政委任へと繋がる地ならしが完了した年として、後の佐賀藩の歴史において極めて重要な意味を持つ 6 。龍造寺氏から鍋島氏への実質的な権力移譲は、この年に決定づけられたと言っても過言ではない。

さらに、九州全体の歴史においても、天正十三年は大きな転換点として位置づけられる。島津氏にとっては、九州統一が最も現実味を帯びた栄光の年であると同時に、中央政権の介入によってその野望が挫折する端緒となった年でもあった。秀吉による惣無事令は、九州が独自の力学で動いた戦国時代の終焉と、豊臣政権という新たな統一的秩序の到来を告げる号砲であった。

天正十三年は、九州が戦国的な地域秩序から脱却し、天下統一の奔流へと飲み込まれていく、まさにその分水嶺であった。それは、肥前における一つの旧勢力の黄昏と新勢力の黎明が、九州の覇権を巡る争い、そして天下統一という巨大な歴史のうねりと交錯した、激動の一年として記憶されるべきである。

引用文献

  1. 沖田畷の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 【合戦解説】沖田畷の戦い 島津・有馬 vs 龍造寺 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VyHw2AK6XdM&pp=0gcJCf8Ao7VqN5tD
  3. 一家の命運を左右した龍造寺隆信の「決断力」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/46454
  4. 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
  5. 江里口信常(えりぐち のぶつね) 拙者の履歴書 Vol.274~龍造寺が地を這う - note https://note.com/digitaljokers/n/n4af1d5017eec
  6. 居住し天満宮と何かの縁故があった経秀が、蠣久荘に来住した理由は推測されないこともない。その子経直は「父 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads_/34631_20130124125517.pdf
  7. 一次史料に見る、龍造寺家から鍋島直茂への御家裁判の委任と状況 - 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/460383912.html
  8. 島津と戦国時代>肥前侵攻 ついに激突!龍造寺 - 電子書籍サイト コンテン堂 https://contendo.jp/store/contendo/Product/Detail/Code/J0019002BK0041447001/
  9. 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/03/07/155220
  10. Site of the Battle of Okitanawate | Search Details | Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R2-00440.html
  11. 与賀町のはじまり - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2505
  12. 第 1 章 佐賀市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads_/31121_20120320070356.pdf
  13. 与賀城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%B3%80%E5%9F%8E
  14. 戦国時代と佐賀地方 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130321113942.pdf
  15. 古城の歴史 水ヶ江城 https://takayama.tonosama.jp/html/mizugae.html
  16. 低平地を潤し守る工夫「佐賀平野のクリーク」 https://www.jcca.or.jp/kaishi/302/302_toku6.pdf
  17. 灌漑排水用として設けたもの。平野部に広く分布する。(解説省略) - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130124122220.pdf
  18. 殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/258456/
  19. 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  20. テーマ展 御家交代の実像 龍造寺から鍋島へ - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/sagajou/exhibition/limited/2022/04/003881.html