丸子城の戦い(1569)
永禄十二年、武田信玄の駿河侵攻において、丸子城は山県昌景の拠点として機能。今川残党を牽制し、信玄の小田原攻めを支える戦略的要衝となった。直接の激戦なくとも、駿河平定に貢献した。
駿河争奪戦における戦略拠点・丸子城の全貌:永禄12年(1569年)の軍事動態に関する時系列的再構築
序章:二つの「丸子城」― 史実の正確な理解のために
日本の戦国史において、「丸子城の戦い」という言葉は、時に二つの異なる事象を指し示すため、歴史を詳らかにする上でまずその区別を明確にする必要がある。一つは信濃国(現在の長野県上田市)に存在した丸子城であり、天正13年(1585年)の第一次上田合戦に際し、徳川家康の大軍を真田昌幸が迎え撃った「丸子表の戦い」の舞台として知られる 1 。
しかし、本報告書が対象とするのは、利用者様がご指定された駿河国(現在の静岡市駿河区)に位置した山城、丸子城である 4 。この城は、永禄12年(1569年)を中心とする武田信玄の駿河平定戦において、極めて重要な戦略的役割を担った。
注意すべきは、この駿河国の丸子城において、永禄12年(1569年)に大規模な籠城戦や特定の名称を持つ合戦が単独で発生したという明確な記録は、主要な軍記物や一次史料には見出されない点である。したがって、本報告書は「丸子城という城で起こった一つの合戦」を解説するのではなく、より高度で史実に即したアプローチ、すなわち**「永禄12年(1569年)という時間軸の中で、武田信玄の駿河平定戦における最重要拠点の一つであった丸子城が、いかに機能し、その周辺でどのような軍事行動が展開されたか」**を、あたかもリアルタイムで観測するかのように時系列で再構築することを目的とする。これにより、「駿河争奪戦の要衝攻防」という表層的な理解を超え、丸子城が果たした真の戦略的意義を立体的に解明する。
第一部:崩壊する秩序 ― 駿河侵攻に至る地政学的力学
桶狭間の残響と今川氏の落日
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにおける今川義元の討死は、東海地方に覇を唱えた今川氏の権威に致命的な打撃を与えた 6 。義元という強力な求心力を失った今川家は、後継者・今川氏真の治世下で急速にその結束力を失っていく。三河国では松平元康(後の徳川家康)が独立して織田信長と同盟を結び、遠江国では国人衆の離反が相次ぐなど、領国の内側から崩壊が始まった 8 。かつて「海道一の弓取り」と謳われた義元の威光は消え去り、今川氏の落日は誰の目にも明らかであった。
甲相駿三国同盟の瓦解
この今川氏の衰退を、千載一遇の好機と捉えたのが甲斐国の武田信玄である。長年、北信濃において宿敵・上杉謙信と川中島で死闘を繰り広げてきた信玄にとって、国力増強は喫緊の課題であった。海を持たず、経済的に豊かな駿河国は、武田家がさらなる飛躍を遂げるために不可欠な領土であった。
信玄は、長年の同盟関係であった今川氏を見限り、駿河侵攻へと舵を切る。その準備は周到かつ冷徹であった。侵攻に反対した嫡男・武田義信(母は今川義元の姉妹である定恵院)を切腹に追い込み、その正室であった氏真の妹・嶺松院を駿河へ送り返すことで、同盟破棄の既成事実を積み重ねていった 10 。さらに信玄は、西の脅威を取り除くため、三河の徳川家康と密約を交わす。大井川を境として、東の駿河を武田が、西の遠江を徳川が領有するという分割案であった 12 。これは、北の上杉、東の北条という二大勢力と対峙する信玄にとって、背後の安全を確保するための極めて現実的な戦略的判断であった。
義理と実利の狭間で揺れる北条氏
信玄の駿河侵攻は、もう一つの同盟国である相模国の北条氏との関係をも破綻させた。今川氏真の正室・早川殿は、北条氏康の娘であり、時の当主・北条氏政にとっては実の姉(または妹)にあたる 12 。この強固な姻戚関係により、北条氏には氏真を救援する大義名分と道義的責任があった。
さらに問題を複雑にしたのは、氏政の正室が信玄の娘・黄梅院であったことだ 16 。つまり、武田と北条もまた婚姻によって結ばれた同盟関係にあった。信玄の駿河侵攻は、今川との盟約を破るだけでなく、北条との同盟をも一方的に踏みにじる行為であり、当代随一の名将と謳われた北条氏康を激怒させるに十分な理由となった 10 。この戦いは、単なる領土紛争ではなく、戦国時代の基盤であった婚姻同盟が崩壊する過程で生じた、義理、人情、そして裏切りが複雑に絡み合った人間ドラマの側面も色濃く持っていたのである。
電撃侵攻と駿府陥落(永禄11年12月)
永禄11年(1568年)12月6日、信玄は2万5千ともいわれる大軍を率いて甲府を出陣した 18 。武田軍は、事前に調略を進めていた瀬名氏や葛山氏といった今川氏の重臣たちを次々と寝返らせ、今川方の防衛線は内部から瓦解していく 11 。
12月12日、今川軍本隊は薩埵峠の戦いで武田軍に敗北 12 。翌13日には、今川氏の本拠地である駿府が抵抗を受けることなく陥落した。当主の氏真は、正室・早川殿の駕籠を用意する暇さえなく、命からがら遠江国の掛川城へと逃亡した 12 。この電撃的な駿府陥落により、今川氏の駿河支配は事実上終焉を迎えた。
【表1】駿河侵攻における主要登場人物と関係性
人物名 |
所属・役職 |
推定兵力・立場 |
主要人物との関係 |
武田 信玄 |
甲斐・武田家当主 |
約25,000 |
駿河侵攻の主導者。北条氏政の舅。 |
山県 昌景 |
武田四天王 |
武田軍の中核部隊 |
信玄の重臣。後に丸子城の城代となる。 |
今川 氏真 |
駿河・今川家当主 |
不明(支配力弱体化) |
北条氏政の義兄弟。武田信玄の元同盟者。 |
大原 資良 |
今川家臣 |
花沢城主 |
西駿河における抵抗勢力の中心人物。 |
長谷川 正長 |
今川家臣 |
徳一色城主 |
西駿河における抵抗勢力の一人。 |
徳川 家康 |
三河・徳川家当主 |
約5,000以上 |
信玄と今川領分割の密約を結び、遠江へ侵攻。 |
北条 氏康 |
相模・北条家前当主 |
北条軍の総帥 |
氏政の父。信玄の裏切りに激怒し、今川救援を決断。 |
北条 氏政 |
相模・北条家当主 |
北条軍の指揮官 |
氏真の義兄弟であり、信玄の娘婿。複雑な立場に置かれる。 |
第二部:駿府防衛の要 ― 山城・丸子城の構造と戦略的価値
地理的優位性:駿府の喉元を扼する城
丸子城は、今川氏の本拠地・駿府の西の入口、旧東海道が通過する丸子宿の背後にそびえる、通称「三角山」と呼ばれる標高約140メートルの山に築かれた山城である 4 。この地は、西の遠江方面や、焼津・藤枝といった「山西」地方(高草山の西側地域の呼称)から駿府へ侵攻する敵を食い止めるための、まさに喉元を扼する戦略的要衝であった 4 。丸子城を抑えることは、駿府の西側防衛線を掌握することを意味した。
今川氏時代の縄張り:伝統的な山城の姿
城の歴史は古く、応永年間(14世紀末~15世紀初頭)に今川氏の家臣であった斎藤安元によって築かれたと伝えられている 5 。今川氏の治世下では、山の北側に位置する「北曲輪」が本丸として機能していたと考えられており、尾根筋を削平して複数の郭(曲輪)を直線的に配置した「連郭式」の縄張りを特徴としていた 22 。この時代の丸子城は、堀切(尾根を断ち切る堀)や土塁といった、中世山城の基本的な防御施設を備えた、駿府を守るための純粋な防衛拠点であった。
武田氏による占拠と新たな役割
永禄11年(1568年)12月の駿府陥落に伴い、この戦略的要衝である丸子城は、大規模な戦闘の記録なく武田軍によって速やかに占拠された 25 。信玄は、この重要な拠点に、武田四天王の一人に数えられ、「赤備え」を率いる猛将として名高い山県昌景を城代として配置した 24 。
この瞬間、丸子城の戦略的価値は180度転換した。今川氏にとっての「駿府防衛の最終防衛線」という受動的な役割から、武田氏にとっての「西駿河攻略および対徳川の最前線拠点」という能動的な役割へと変貌を遂げたのである 17 。もはや城は、敵の攻撃を受け止める「盾」ではなく、未だ抵抗を続ける西駿河の今川残党を制圧し、さらには遠江の徳川家康を睨むための「矛」の基部となった。この役割の変化こそが、後に施される武田流の大改修の根本的な動機となる。
第三部:時系列で見る「丸子城の戦い」― 永禄12年(1569年)の駿河平定戦
永禄12年(1569年)の丸子城を巡る動向は、単一の戦闘としてではなく、駿河全域、さらには関東、遠江をも巻き込んだ広域的な戦役の一部として捉える必要がある。以下の年表は、三つの主要戦線における各勢力の動きを並行して示しており、丸子城が置かれた複雑な戦略的状況を浮き彫りにする。
【表2】駿河侵攻関連年表(1568年12月~1570年1月)
年月 |
丸子城・西駿河戦線(対今川残党) |
東駿河・伊豆戦線(対北条) |
遠江戦線(対徳川・今川) |
1568年 |
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12月 |
駿府陥落。山県昌景が丸子城に入城。花沢城、徳一色城の今川勢と対峙。 |
北条氏康・氏政が今川救援のため出兵。蒲原城周辺に布陣し武田軍の背後を脅かす。 |
徳川家康が遠江へ侵攻。曳馬城を攻略し、今川氏真が籠る掛川城を包囲。 |
1569年 |
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1月~4月 |
山県昌景、丸子城を拠点に西駿河の今川勢を牽制。膠着状態が続く。 |
薩埵峠などで武田軍と北条軍が対峙。信玄は甲斐へ一時撤退。 |
家康、掛川城の包囲を継続。 |
5月 |
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17日、氏真が掛川城を開城。北条氏を頼り伊豆へ退去。今川氏滅亡。 |
6月~7月 |
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武田軍、大宮城を攻略し富士郡を制圧。 |
家康、遠江の支配を固める。 |
8月~9月 |
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武田軍、北条方の韮山城を攻撃するも撃退される。 |
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10月 |
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信玄、陽動作戦として関東へ侵攻。1日、小田原城を包囲。北条軍は駿河から撤退。 |
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11月~12月 |
信玄、駿河へ再侵攻。西駿河の掃討作戦準備。 |
北条軍を駿河から排除。蒲原城を攻略。 |
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1570年 |
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1月 |
信玄自ら出陣し花沢城を総攻撃。27日、激戦の末に陥落。徳一色城も無血開城。駿河平定完了。 |
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フェーズ1:拠点確保と対峙(1568年12月~1569年初頭)
駿府を電撃的に制圧した武田軍であったが、駿河全土の掌握は容易ではなかった。山県昌景は丸子城に入り、西駿河に残る今川方の二大拠点、すなわち大原資良が守る花沢城(現・焼津市)と、長谷川正長が守る徳一色城(後の田中城、現・藤枝市)を監視・牽制する任務に就いた 4 。丸子城は、駿府とこれらの城を隔てる日本坂の山塊の東麓に位置し、まさに対峙する最前線基地となった 4 。
一方で、東方からは今川氏真の舅である北条氏康・氏政が、大軍を率いて救援に駆け付けた。北条軍は薩埵峠や蒲原城周辺に布陣し、武田軍の補給路を脅かす姿勢を見せた 17 。さらに西方では、徳川家康が掛川城に籠る氏真を包囲しており、武田・徳川間の密約も、信玄が遠江にまで手を伸ばしたことで早くも不協和音が生じていた 10 。
これにより信玄は、西に今川残党、東に北条本隊、そして南西に動向不透明な徳川軍という、三方面に敵を抱える困難な状況に陥った。このため、永禄12年の前半、丸子城を中心とする西駿河戦線は、山県昌景が今川勢を封じ込める一方で、武田軍本体は東の北条軍への対応に追われ、戦況は完全に膠着した。
フェーズ2:膠着と陽動(1569年中盤~後半)
この膠着状態において、丸子城は大規模な攻城戦の舞台ではなく、山県昌景が西駿河の敵情を監視し、その動きを封じ込めるための「前線指揮所」兼「兵站基地」として静かに、しかし確実に機能した。城から出撃した偵察部隊による小競り合いは続いたであろうが、戦局を動かす決定的な戦闘は起こらなかった。
戦況が動いたのは、信玄がこの膠着状態を打破するために放った、戦国史に残る大胆な一手によるものであった。東の北条軍が駿河から撤退しない限り、西の今川残党を掃討できないと判断した信玄は、驚くべき陽動作戦を決行する。永禄12年(1569年)9月、信玄は主力を率いて突如関東へ侵攻。上野国(群馬県)から武蔵国(埼玉県・東京都)へと南下し、北条氏の重要拠点である鉢形城、滝山城を次々と攻略した 17 。そして10月1日、ついに北条氏の本拠地・小田原城を包囲するに至る 34 。
この予期せぬ本国への攻撃に、北条氏康・氏政は震撼した。彼らは慌てて駿河に派遣していた主力軍を関東へ呼び戻さざるを得なかった 17 。これこそが信玄の真の狙いであった。駿河から北条軍という最大の障害を排除することに成功したのである。
時を同じくして、西の遠江戦線でも大きな転機が訪れる。徳川家康による半年に及ぶ包囲の末、5月17日、今川氏真はついに和議を受け入れ、掛川城を開城した 12 。氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼って伊豆へと退去し、ここに戦国大名としての今川氏は事実上滅亡した 9 。この出来事は、未だ西駿河で抵抗を続ける大原資良らにとって、主君も援軍の望みも絶たれたことを意味し、心理的な死刑宣告に等しかった。
フェーズ3:西駿河の掃討(1569年末~1570年初頭)
小田原攻めという陽動作戦を成功させ、北条軍を駿河から排除した信玄は、満を持して駿河の完全平定に着手する。永禄12年11月、信玄は再び駿河へ侵攻 11 。もはや武田軍を阻むものはなかった。
永禄13年(元亀元年、1570年)正月、信玄は自ら大軍を率い、孤立無援となっていた花沢城への総攻撃を開始した 11 。城主・大原資良は、絶望的な状況下で約1ヶ月にわたり勇猛に抵抗したが、衆寡敵せず、1月27日に花沢城は陥落した 21 。この戦いは熾烈を極め、武田方の穴山信君の重臣・万沢遠江守が討死するなど、武田軍にも少なくない損害が出たと記録されている 11 。
花沢城の落城を知った徳一色城主・長谷川正長は、これ以上の抵抗は無意味と判断し、戦わずして城を明け渡し、徳川家康を頼って遠江へと退去した 31 。
これにより、駿河国内における今川方の組織的抵抗は完全に終焉した。武田信玄による駿河国の実効支配が確立され、丸子城に与えられた「西駿河攻略拠点」としての当初の任務は、ここに完了したのである。この一連の動きの中で、丸子城は直接攻められることなく、山県昌景が西の戦線を安定させ続けたことが、信玄が東の北条に対して大胆な陽動作戦を展開することを可能にした。丸子城の1569年における真の価値は、攻防戦の有無ではなく、この戦略的安定化機能にあったと言える。
第四部:城郭の変容 ― 武田流築城術による丸子城の大改修
山県昌景による改修:対西方への徹底防御
西駿河の平定後、武田氏の次の脅威は西の徳川家康となった。丸子城は、今川残党を制圧するための拠点から、対徳川の最前線基地へとその役割を再び変えることになった。この新たな戦略的要請に応えるため、城代・山県昌景の指揮の下、大規模な改修工事が行われたと考えられている 17 。
この改修の最大の特徴は、防御の主眼が西側、すなわち徳川軍の侵攻が予想される方面に徹底的に集中された点にある 23 。城の縄張りそのものが、武田信玄の「脅威認識の変化」を物理的に記録した歴史的文書と化したのである。今川時代には北や東からの脅威を想定していたであろう城が、その防御機能を圧倒的に西側へシフトさせたことは、駿河の地政学的状況が劇的に変化したことを雄弁に物語っている。
武田流縄張りの粋:遺構から読み解く防御思想
現在、丸子城跡に残る遺構の多くは、この武田氏による改修の跡であり、戦国期屈指の築城技術の粋を今に伝えている 24 。
- 長大な横堀と竪堀: 城の西側斜面には、南北100メートル以上にも及ぶ長大な横堀(空堀)が掘削された 23 。これは敵兵の自由な横移動を完全に遮断し、攻撃箇所を限定させるためのものである。さらに、斜面を垂直に分断する複数の竪堀が設けられ、敵兵が斜面を登ることを物理的に不可能にしている 23 。
- 丸馬出と三日月堀: 虎口(城の出入り口)の前には、武田流築城術の代名詞ともいえる「丸馬出」が設置された 23 。これは、虎口を守るために独立して設けられた円形の曲輪であり、敵の直線的な突撃を防ぎ、馬出の土塁上から側面攻撃を加えることを可能にする。その外側には、防御をさらに固めるための「三日月堀」(三日月形の堀)が配置され、多重の防御線を形成している 22 。
- 枡形虎口: 曲輪への入口は、土塁で四角く囲み、直進できないようにした「枡形虎口」となっている 23 。ここに侵入した敵兵は動きを制約され、周囲の土塁上から弓や鉄砲による集中攻撃を受けることになる。
これらの高度な防御システムを組み合わせることで、丸子城は、比較的単純な構造だった今川時代の姿から、いかなる攻撃をも寄せ付けない武田流の堅固な要塞へと生まれ変わったのである 17 。
結論:戦略拠点としての丸子城の歴史的意義
本報告書で詳述してきた通り、永禄12年(1569年)における「丸子城の戦い」とは、単一の籠城戦や会戦を指すものではなく、武田信玄による駿河平定作戦という、より広範で長期的な軍事行動全体を指し示す言葉として捉えるのが最も正確である。
この一連の戦役において、丸子城は直接的な攻防の舞台としてではなく、戦局全体を支える能動的な「軍事拠点」として、以下の三つの極めて重要な役割を果たした。
- 封じ込めの拠点: 永禄12年前半、山県昌景が率いる部隊の駐留拠点として、西駿河に籠る今川残党の動きを完全に封じ込め、戦線を膠着させた。
- 陽動作戦の支柱: 丸子城が西の戦線を安定させたからこそ、信玄は安心して主力を率いて東の北条氏に対する小田原攻めという大胆な陽動作戦を決行できた。丸子城の「動かなかった」ことが、信玄本体の「動き」を可能にしたのである。
- 対徳川の最前線: 駿河平定後は、新たな脅威である徳川家康に備えるための最前線基地へとその役割を変え、武田流築城術の粋を集めた大改修が施された。
丸子城の歴史は、今川氏の「駿府防衛の要」から、武田氏の「西駿河攻略の拠点」、そして「対徳川の最前線基地」へと、戦局の変化に応じてその戦略的価値を見事に変容させていった過程そのものである。
そして、その変容の歴史は、現在も良好な状態で残る遺構、特に西側に集中配置された長大な堀や丸馬出といった縄張り自体に刻み込まれている。丸子城跡は、武田信玄の駿河支配という歴史的事実と、その後の戦略的思考の変遷を、土と地形が証明する貴重な史跡なのである。この城の歴史を深く理解することは、戦国時代の戦略と思想を読み解く上で、欠かすことのできない重要な鍵となる。
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