最終更新日 2025-09-04

丸山城の戦い(1581)

天正六年、織田信雄は伊賀に丸山城を築城するも、伊賀衆の奇襲で敗走。この敗戦が信長の怒りを買い、天正九年の第二次天正伊賀の乱の引き金となった。伊賀惣国一揆は滅亡した。

天正伊賀の乱(1581年)の全体像:丸山城の戦いを起点とする伊賀焦土作戦の全貌

序章:問いの再定義 - 「丸山城の戦い(1581年)」の真相

日本の戦国時代における「丸山城の戦い(1581年)」という特定の戦闘について調査する際、まず歴史的な文脈を正確に捉えることが不可欠である。利用者が提示した「1581年の丸山城の戦い」は、第二次天正伊賀の乱における局地戦として認識されているが、詳細な史料を検証すると、伊賀国における丸山城をめぐる主要な軍事衝突は、1581年の第二次天正伊賀の乱そのものではなく、その直接的な原因となった 第一次天正伊賀の乱 (1578年-1579年)の導火線であったことが明らかになる。

1581年の織田信長による伊賀侵攻は、この第一次の戦いにおける織田軍、特に信長の次男・織田信雄(北畠信雄)が喫した屈辱的な敗北に対する、周到に計画された大規模な報復戦であった。したがって、「丸山城の戦い」の歴史的意義は、1581年の戦役における一戦闘としてではなく、織田信長という天下人をして伊賀一国の完全殲滅を決意させた 政治的・個人的な発火点 として理解されねばならない。この視点の転換こそが、天正九年(1581年)に伊賀を襲った悲劇の本質を解き明かす鍵となる。

なお、日本の城郭史において「丸山城」という名の城は複数存在する。例えば、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際に陣城が置かれた因幡国(現在の鳥取県)の丸山城 1 や、小早川隆景が四国征伐の際に攻略した伊予国(現在の愛媛県)の丸山城 3 などが知られているが、本稿で扱うのは、天正伊賀の乱の舞台となった伊賀国(現在の三重県伊賀市)の丸山城である 4

この報告書では、まず問いを再定義し、丸山城での出来事がなぜ信長の怒りを買い、伊賀の運命を決定づけたのかを明らかにする。その上で、本題である天正九年(1581年)の第二次天正伊賀の乱について、侵攻作戦の全貌を詳細な時系列に沿って再現し、戦国史上類を見ない徹底的な殲滅戦の実態を解明する。

第一章:衝突の根源 - 織田中央政権と伊賀惣国一揆

天正伊賀の乱は、単なる領土紛争ではなく、戦国時代末期における二つの対立する統治イデオロギーの激突であった。一方は、織田信長が推進する中央集権的な武家政権。もう一方は、伊賀国に根付いた地侍たちによる共同体自治、すなわち「惣国一揆」である。この両者の根本的な価値観の違いが、破滅的な戦争へとつながる土壌を形成した。

独立国家「伊賀惣国一揆」の実像

戦国時代の伊賀国は、特定の戦国大名が支配する領国ではなく、地侍と呼ばれる在地領主たちが共同で統治する、事実上の独立共和国であった 6 。この統治システムは「伊賀惣国一揆」と呼ばれ、国全体の重要事項は、有力な地侍から選出された十二人の代表者(伊賀十二人衆)による評定で決定されていた 7

彼らは「惣国一揆掟之事」として知られる成文法を持ち、その中には他国からの侵略に対する集団的防衛義務が明確に定められていた 9 。例えば、「他国勢の侵入には惣国一味同心して防戦すべきこと」「侵入の注進があれば里々の鐘を鳴らし直ちに出陣すること」といった条項があり、17歳から50歳までの男子には出陣義務が課せられていた 9 。また、戦功を挙げた百姓を侍身分に取り立てる規定もあり 11 、領主層だけでなく農民層までをも軍事力として動員する体制が整っていた 12

この構造は、伊賀が単なる地理的な単位ではなく、強固な共同体意識と防衛体制を持つ政治的実体であったことを示している。彼らの抵抗は、特定の領主への忠誠心からではなく、自分たちの土地と自治を守るという共通の目的から生まれていた。信長が目指す「天下布武」、すなわち日本全土を単一の絶対的な権力の下に統一しようとする構想にとって、伊賀惣国一揆のような自律的な存在は、看過できない障害であり、排除すべきイデオロギー的挑戦でもあった。

序曲としての第一次天正伊賀の乱(1578年-1579年)

信長の伊賀に対する直接的な介入は、伊勢国司・北畠家を養子として継いだ次男・信雄を通じて始まった。この信雄の軽率な行動が、伊賀衆の警戒心を一気に高め、第一次天正伊賀の乱を引き起こすことになる。

天正6年(1578年):丸山城築城と伊賀衆の蜂起

天正6年(1578年)、伊賀の郷士であった日奈知城主・下山平兵衛が信雄を訪れ、伊賀侵攻の手引きを申し出た 13 。この内通者の情報を得た信雄は、かつて北畠具教が隠居城として築こうとしていた伊賀南部の丸山城の修築を家臣の滝川雄利(滝川三郎兵衛とも呼ばれる)に命じた 4 。伊賀の中心部を見渡せる戦略的要地に織田方の拠点ができることは、伊賀衆にとって死活問題であった。

危機感を抱いた伊賀衆は、丸山城の西に位置する無量寿福寺に拠点を構え、築城の様子を監視した 15 。そして、城が完成に近づいた同年10月、彼らは総攻撃を敢行。白昼堂々、油断していた滝川軍と人夫衆に襲いかかった。不意を突かれた織田方は大混乱に陥り、城は焼き払われ、滝川雄利は命からがら伊勢へと敗走した 13 。これは伊賀惣国一揆の防衛システムが効果的に機能した最初の事例であった。

天正7年(1579年):信雄の惨敗

丸山城での敗北に激怒した信雄は、父・信長の許可を得ることなく、独断で伊賀への全面侵攻を開始した 7 。天正7年(1579年)9月16日、信雄は8,000から10,000と推定される軍勢を率い、三方から伊賀に攻め込んだ 17 。しかし、これは無謀な試みであった。

伊賀衆は地の利を最大限に活用し、得意のゲリラ戦術を展開した。山中からの奇襲、夜襲、伏兵を駆使して、規律ある集団戦に慣れた織田軍を翻弄した 10 。織田軍は伊賀の地形と戦術に対応できず、各地で撃破された。この戦いで信雄は重臣の柘植保重を討ち取られるなど甚大な被害を出し、伊勢松ヶ島城へと惨めな敗走を遂げた 15

この敗戦の報は、当時畿内の諸勢力との戦いに忙殺されていた信長の耳にも届いた。息子の独断専行と、小国であるはずの伊賀に対する歴史的な大敗という二重の屈辱に、信長は激怒した。『信長公記』には、信長が信雄に「言語道断曲事の次第に候」と述べ、親子の縁を切るとまで記した書状を送ったと伝えられている 13 。この個人的な怒りと、織田家の権威に対する公然の挑戦が、2年後の伊賀殲滅戦、すなわち第二次天正伊賀の乱の直接的な動機となったのである。

第二章:伊賀、焦土と化す - 第二次天正伊賀の乱・リアルタイム戦記

第一次天正伊賀の乱から2年後、石山本願寺を屈服させ、武田氏との戦いにも目途をつけた織田信長は、ついに伊賀の完全制圧へと乗り出した。天正9年(1581年)9月に開始されたこの戦役は、単なる征服ではなく、伊賀という共同体の存在そのものを地上から抹消することを目的とした、凄惨な殲滅戦であった。

作戦準備と包囲網の形成(1581年4月~9月初旬)

信長の伊賀侵攻は、周到な準備の上に成り立っていた。天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆と河合村の耳須弥次郎具明という二人の伊賀有力者が安土城の信長を訪れ、伊賀攻略の際の道案内役を買って出た 13 。彼らの内応は、信長に侵攻の口実と、伊賀内部の地理・軍事情報という計り知れない利点をもたらした。

この情報を基に、信長は雪辱を期す信雄を総大将に据えつつも、織田軍団の主力を投入する大規模な動員令を発した。その総兵力は、『伊乱記』などの後代の軍記物では誇張が見られるものの、信頼性の高い史料を総合すると約4万4千から5万に達したと推定される 21 。これは、第一次侵攻時の信雄軍の実に4倍から5倍の規模であり、信長の伊賀殲滅にかける並々ならぬ決意を物語っている。

作戦の骨子は、伊賀を四方から完全に包囲し、一斉に侵攻することで、伊賀衆のゲリラ戦術を封じ、逃げ場をなくし、ローラーをかけるように制圧するというものであった。このため、軍は6つの主要な侵攻部隊に編成され、伊賀国境の各要衝に配置された。

織田軍侵攻部隊一覧(天正9年9月)

侵攻口

総大将・主要武将

兵力(推定)

伊勢路口

織田信雄、津田信澄

約10,000 13

柘植口

丹羽長秀、滝川一益

約12,000 13

玉滝口

蒲生氏郷、脇坂安治

約7,000 13

笠間口

筒井順慶、筒井定次

約3,700 13

初瀬口

浅野長政

約2,300(多羅尾口と合わせて) 13

多羅尾口

堀秀政、多羅尾弘光

約2,300(初瀬口と合わせて) 13

この布陣は、伊賀の地理を熟知した上で練られたものであった。主戦力が投入された北の柘植口と玉滝口 26 、東の伊勢路口、西の大和方面からの笠間口・初瀬口、そして甲賀と接する多羅尾口。まさに鉄の包囲網であり、伊賀衆に残された道は、圧倒的な兵力差の中での絶望的な籠城戦のみであった。

侵攻開始(9月3日~5日)

『信長公記』および奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』によれば、天正9年9月3日、織田軍の伊賀侵攻が正式に開始された 13 。この日を期して、6つの軍団が伊賀国内へ向けて一斉に進軍を開始した。

伊賀の各地では、惣国一揆の掟に従い、敵襲を告げる鐘が鳴り響いた 10 。地侍たちはそれぞれの城砦や屋敷に立てこもり、農民兵も武器を手に防衛体制に入った。しかし、四方八方から押し寄せる織田の大軍の前に、初動の抵抗は局所的なものに留まらざるを得なかった。

9月4日から5日にかけて、織田軍は伊賀北部の各所に陣を敷き、制圧の足掛かりを築いた。『多聞院日記』は4日の時点で「国中大焼ケブリ見(国中から大いに焼き討ちの煙が見える)」と記しており、侵攻開始と同時に、村々を焼き払い、抵抗する者を無差別に殺害する焦土作戦が実行されたことを示唆している 27 。これは、伊賀衆のゲリラ戦の基盤となる地域社会そのものを破壊する、冷徹な戦略であった。

北伊賀の激闘と陥落(9月6日~10日)

9月6日、織田軍による本格的な攻撃が開始された 13 。伊賀衆の主だった抵抗勢力は、北伊賀の二大拠点に集結した。一つは、現在の上野城跡にあった平楽寺で、約1,500人が籠城した 13 。もう一つが、難攻不落の山城とされた比自山城で、非戦闘員を含めると10,000人近く、戦闘員だけでも約3,500人が立てこもった 13

平楽寺の陥落

平楽寺は、伊賀の地侍たちが軍議を開く重要な拠点であった 28 。ここに籠城した伊賀衆は、蒲生氏郷や堀秀政が率いる玉滝口・多羅尾口からの部隊と激しく戦った。彼らは得意のゲリラ戦術で織田軍を手こずらせたが、柘植口から進軍してきた滝川一益の援軍が到着すると、戦況は一変した 20 。数に勝る織田軍の猛攻の前に平楽寺は陥落。寺は焼き払われ、抵抗した僧侶700人余りが斬首されたと伝えられており、織田軍の容赦ない姿勢が示された 13

比自山城の攻防

一方、第二次天正伊賀の乱における最大の激戦地となったのが比自山城であった 21 。丹羽長秀、蒲生氏郷、筒井順慶といった織田軍の主力がこの城を幾重にも包囲した。百田藤兵衛らに率いられた伊賀衆は、天然の要害を利用して徹底抗戦した 22

彼らは単に籠城するだけでなく、夜陰に乗じて包囲陣に果敢な夜襲を仕掛けた。特に蒲生氏郷と筒井順慶の陣は大きな被害を受け、一時的な混乱に陥った 13 。この戦いにおける伊賀武士の勇猛さは、「比自山の七本槍」という言葉で後世に伝えられるほどであった 13 。これは、賤ヶ岳の戦いで活躍した豊臣秀吉の家臣たち 31 になぞらえた呼称であり、その抵抗がいかに激しかったかを物語っている。

しかし、英雄的な奮戦も、織田軍の圧倒的な物量の前には限界があった。織田軍が総攻撃の準備を整える中、城内の伊賀衆指導部は絶望的な状況を認識する。このまま玉砕するよりも、戦力を温存し、最後の拠点である南伊賀の柏原城で決戦に臨むことを決断した。

総攻撃の前夜、城内の全兵員は闇に紛れて比自山城を脱出。南へと向かった。翌朝、織田軍が城内に突入した時、そこはもぬけの殻であった 13 。この見事な撤退劇は、伊賀衆の組織力と規律の高さを示すものであったが、同時に北伊賀の防衛線が完全に崩壊したことも意味していた。

制圧と掃討(9月11日~27日)

『信長公記』は9月11日をもって、伊賀国がほぼ平定されたと記録している 13 。比自山城という最大の抵抗拠点が放棄されたことで、北伊賀における組織的抵抗は終焉した。ここから、織田軍による伊賀全土の制圧と、抵抗勢力の徹底的な掃討作戦が開始された。

この掃討作戦は、戦国時代の合戦の中でも類を見ないほど苛烈なものであった。織田軍は伊賀の村々を焼き払い、神社仏閣も例外ではなかった 18 。伊賀国一之宮である敢国神社もこの時に放火されている 33 。『多聞院日記』は、9月17日の時点で「霊仏以下聖教数多、堂塔悉く破滅」と記し、伊賀の文化的・宗教的中心地がことごとく破壊された様子を伝えている 27

さらに悲惨だったのは、非戦闘員を含む住民への無差別な殺戮であった。織田軍は女子供の区別なく殺害し 13 、『蓮成院記録』によれば、捕らえられた人々は日に数百人単位で首を刎ねられ、その惨状は「言語道断浅間敷き次第」であったと記されている 27 。伊賀の総人口9万人のうち、3万人以上がこの戦いで命を落としたという記録もあり 13 、これが単なる征服ではなく、意図的な大量虐殺、すなわちジェノサイドに近い様相を呈していたことを示している。

この間、織田軍の各部隊は南下を続け、比自山から脱出した伊賀衆の残存兵力が集結する最後の砦、柏原城へと迫っていった 22

最後の砦・柏原城開城(9月28日)

伊賀衆の最後の希望は、名張郡にある柏原城に託された 34 。城主は伊賀十二人衆の一人、滝野吉政 35 。比自山城からの脱出組や各地の敗残兵が合流し、その数はおよそ1,600人であった 22 。彼らは討死を覚悟し、城に立てこもった。

織田信雄を総大将とする織田軍の全軍が柏原城を包囲した。最初の総攻撃は、城兵の必死の抵抗によって頓挫し、織田方に多くの死傷者が出た 22 。これを見た信雄は、力攻めから兵糧攻めに戦術を転換し、城の補給路を完全に遮断した 22

籠城が続き、城内の絶望が深まる中、事態を動かす人物が現れた。奈良の申楽太夫、大倉五郎次である 18 。彼は和睦の仲介役として城内に入り、滝野吉政と交渉した。大倉は、城兵の命の保証を条件に開城するよう説得した 13

全ての抵抗が無意味であることを悟った滝野吉政は、この条件を受け入れた。天正9年9月28日の早朝、滝野吉政は惣名代として信雄に謁見し、降伏。柏原城は無血開城された 13 。この瞬間をもって、伊賀惣国一揆による組織的抵抗は完全に終わりを告げ、第二次天正伊賀の乱は終結した。

第三章:乱後の伊賀と忍者たちの行方

柏原城の開城により、伊賀国は完全に織田家の支配下に入った。しかし、それは伊賀の物語の終わりではなかった。故郷を失った伊賀の者たちは、その類稀なる戦闘技術を携えて全国に離散し、皮肉にも「忍者」という存在を戦国史に深く刻み込むことになる。

織田信長による戦後処理

乱の終結から間もない10月9日、織田信長自身が伊賀国を視察に訪れた 13 。これは、この戦役が信長にとって個人的にも政治的にも極めて重要なものであったことを示している。信長は国見山などの高台から、焦土と化した伊賀の地を見下ろしたと『信長公記』は伝えている 27

信長による戦後処理は、伊賀惣国一揆という自治システムの完全な解体を目指すものであった。伊賀国は分割され、阿拝郡、伊賀郡、名張郡の三郡は織田信雄に、山田郡は信長の弟である織田信包に与えられた 13 。これにより、伊賀は織田家の一族による直接的な支配地へと変貌した。生き残った抵抗の指導者たちは捕縛され処刑されたが、滝野吉政や百地丹波(百田藤兵衛と同一人物説がある)をはじめとする多くの指揮官は、他国へ逃亡し、潜伏した 7

しかし、織田家の支配は長くは続かなかった。翌天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、伊賀の支配体制は動揺する。これに乗じて潜伏していた伊賀衆が再び蜂起し、伊賀に駐留していた織田方の城を襲撃した(第三次天正伊賀の乱) 13 。一度は自治を取り戻そうとする動きも見られたが、最終的には羽柴秀吉の勢力下に組み込まれ、伊賀がかつての独立を取り戻すことは二度となかった。

伊賀者の離散と「忍者」神話の拡散

第二次天正伊賀の乱は、800年にわたる伊賀の荘園制度と自治共同体を終焉させた、歴史上唯一の壊滅的な打撃であった 14 。故郷と生活の基盤を失った伊賀の地侍や農民たちは、生きるために諸国へと離散していった 14

彼らは、戦国乱世で培われた独自の戦闘技術、特に諜報、奇襲、潜入といったいわゆる「忍術」を商品として、各地の戦国大名に仕えるようになった。徳川家康に仕えた服部半蔵正成(ただし彼自身は伊賀出身ではないが、伊賀者を統率した)の配下で活躍した伊賀者たちは特に有名である。彼らの存在と活躍が、伊賀者を「忍者」という特殊技能集団として定着させ、その名を全国に轟かせた。

つまり、天正伊賀の乱という故郷の滅亡が、結果として伊賀の「忍び」の技術と伝説を日本中に拡散させるきっかけとなったのである。伊賀惣国一揆の解体は、自律的な共同体としての「伊賀武士団」の死を意味したが、同時に、個人または小集団として活動するプロフェッショナルな「伊賀忍者」の誕生を促したと言える。

歴史記述に見る二つの「伊賀の乱」-『信長公記』と『伊乱記』

天正伊賀の乱の実像を理解する上で、主要な二つの史料の性格を比較検討することは極めて重要である。それは、織田方の視点から書かれた『信長公記』と、伊賀方の視点を色濃く反映した『伊乱記』である。

**『信長公記』**は、織田家の家臣であった太田牛一によって書かれた、信頼性の高い同時代史料である 26 。この記録における伊賀攻めは、反抗的な勢力を制圧する、効率的で正当な軍事行動として描かれている。侵攻の日付や部隊編成など、作戦の骨子を把握する上で不可欠な情報を提供するが、織田軍による残虐行為の詳細は抑制的に記されており、あくまで信長の天下統一事業の一環として位置づけられている 26

一方、**『伊乱記』**は、乱から数十年以上が経過した江戸時代初期に成立したとされる軍記物語である 26 。こちらは伊賀の地侍たちの英雄的な抵抗や、織田軍の非道さを劇的に描写することに重点が置かれている。比自山城での奮戦や、各地での悲劇的なエピソードが詳細に語られるが、その記述には文学的な脚色が多く含まれており、史実としての正確性には慎重な検討が必要である 26 。例えば、織田軍の兵力や伊賀方の被害者数が誇張されている可能性が高い。

この二つの史料は、いわば勝者の公式記録と、敗者の記憶が昇華された物語という対照的な性格を持つ。真実はおそらく、その両者の間に存在する。『信長公記』が示す戦略的な冷徹さと、『伊乱記』が伝える民衆の絶望と抵抗の記憶。両者を突き合わせることで初めて、天正伊賀の乱という歴史的事件の多角的で深層的な理解が可能となるのである。

結論:戦国史における天正伊賀の乱の歴史的意義

天正伊賀の乱、特に天正九年(1581年)の第二次侵攻は、日本の戦国史において特異な位置を占める。それは単なる領土拡大戦争ではなく、織田信長が推し進める中央集権化の過程で、最後まで抵抗した独立自治共同体が、圧倒的な軍事力の前に根絶やしにされた象徴的な事件であった。

本稿で詳述したように、この悲劇の直接的な引き金は、織田信雄による丸山城の修築と、それに続く第一次天正伊賀の乱での惨敗であった。この敗北は、織田家の権威に対する許しがたい挑戦であり、信長個人の怒りを買った。その結果、第二次侵攻は、伊賀惣国一揆という社会システムそのものを破壊し、その担い手である伊賀の民を抹殺することを目的とした、徹底的な殲滅戦となった。

六方向から同時に侵攻する周到な作戦、平楽寺や比自山城での激戦、そして北伊賀制圧後に行われた無差別な殺戮と破壊。この一連の流れは、信長の「天下布武」が、異なる統治形態や価値観の存在を許さない、非情な一面を持っていたことを如実に物語っている。伊賀惣国一揆の敗北は、戦国時代を通じて各地に存在した「国人」と呼ばれる在地領主たちの自治が、中央集権という新たな時代の潮流の前に終焉を迎える運命にあったことを示唆している。

しかし、この乱の歴史的意義は、伊賀の滅亡だけに留まらない。故郷を追われた伊賀の者たちが、その卓越した戦闘技術を携えて全国に離散したことで、「伊賀忍者」という伝説が生まれ、後世に語り継がれることになった。彼らは徳川家康をはじめとする新たな権力者の下で活躍し、その名は日本の歴史と文化に深く刻まれた。

したがって、天正伊賀の乱は、一つの独立した世界の終わりであると同時に、新たな伝説の始まりでもあった。それは、戦国という時代の激しい変革の中で、共同体が破壊され、個人がその技能を頼りに生き抜いていかざるを得なかった人々の、悲劇的でありながらも強靭な物語なのである。

引用文献

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  32. 本当は9人だった賤ヶ岳の勇士は、なぜ「7本槍」にされたのか? https://www.rekishijin.com/13011
  33. 信長公記|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2030
  34. 伊賀 柏原城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/iga/kashiwara-jyo/
  35. 滝野吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E9%87%8E%E5%90%89%E6%94%BF
  36. 柏原城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kashiwara.htm
  37. 柏原城 (伊賀国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%9F%8E_(%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%9B%BD)
  38. 伊賀忍者 と 伊賀忍軍 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/iganin.htm
  39. 忍術、忍者とは | 伊賀流忍者屋敷と忍者博物館 https://www.iganinja.jp/ninja/ninja/index.html