丸根砦の戦い(1560)
永禄三年、今川義元の尾張侵攻に際し、松平元康は丸根砦を攻略。佐久間盛重は玉砕するも、この勝利が義元の油断を招き、信長の大逆転勝利の布石となった。
丸根砦の戦い(1560年):桶狭間の奇跡を導いた壮絶なる前哨戦
序章:桶狭間への道 ― 忘れられた前哨戦の重要性
永禄三年(1560年)五月十九日、尾張国桶狭間にて、駿河の太守・今川義元が織田信長によって討ち取られた。日本の歴史上、最も劇的な逆転劇として知られるこの「桶狭間の戦い」は、信長が天下布武への道を切り拓き、戦国時代の勢力図を根底から覆した一大転機であった。しかし、この輝かしい勝利の影には、同日早朝に繰り広げられた、凄惨を極めた前哨戦の存在があったことを忘れてはならない。その一つが、本報告書で詳述する「丸根砦の戦い」である。
この戦いは、単に桶狭間の戦いの「序章」として片付けられるべきものではない。むしろ、今川義元の油断を誘い、織田信長の決断を促し、そして後の徳川家康となる松平元康の運命にも深く関与した、戦いの帰趨を左右する極めて重要な構成要素であった。今川方の大軍に対し、織田方の最前線拠点であった丸根砦では、織田家の宿将・佐久間盛重が、家の存亡と主君への忠義を賭して最後の奉公に臨んだ。対する攻撃軍を率いたのは、今川家の人質という屈辱的な立場から脱し、一個の武将としての己の価値を証明せんと渇望する若き日の松平元康であった。
本報告書は、この丸根砦の戦いを桶狭間の戦いという大局的な文脈の中に正確に位置づけ、特に戦闘中の出来事を可能な限りリアルタイムで追体験できるよう、詳細かつ時系列に沿って再構成することを目的とする。戦術的判断の応酬、将兵たちの心理、そして一つの敗北がいかにして歴史的な大勝利へと繋がっていったのか。その複雑な因果の連鎖を、史料に基づき丹念に解き明かしていく。
第一章:発端 ― 尾張国境の緊張と信長の包囲網
今川氏の尾張侵食と戦略的状況
桶狭間の戦いに至る数年前、尾張国は決して織田信長による一枚岩の支配下にあったわけではなかった 1 。信長の父・信秀の死後、尾張国内の動揺に乗じ、駿河・遠江・三河を支配する「海道一の弓取り」今川義元は、その勢力を着実に尾張へと浸透させていた。
決定的な転機となったのが、天文22年(1553年)頃の鳴海城主・山口教継の寝返りである。元来、織田家の重臣であった教継は、信秀亡き後の織田家を見限り、今川義元に内通した。さらに教継は調略を用いて、鳴海城に隣接する大高城、そして沓掛城をも手中に収め、今川方に引き渡したのである 1 。これにより、今川氏の勢力圏は尾張の中心部である清洲城の間近にまで及び、あたかも織田領の喉元に鋭い楔が打ち込まれたかのような、極めて深刻な戦略的状況が生み出された。
信長の対抗策「付け城」戦略
この危機に対し、若き信長は正面からの力攻めという安易な手段を選ばなかった。彼は、今川方の拠点となった鳴海城と大高城を直接攻撃するのではなく、その周囲に複数の砦、すなわち「付け城」を築城し、両城を兵糧攻めによって枯渇させるという、より高度で持続的な戦略を採用した 4 。
鳴海城に対しては丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、その包囲網を形成。そして、本稿の主題となる大高城に対しては、永禄2年(1559年)、城の東方約800メートルに位置する小高い丘に丸根砦を、さらにその北西、大高城から北東約400メートルの地点に鷲津砦を築いた 7 。これら二つの砦は、大高城へ通じる大浜街道や大高街道といった主要な交通路を見下ろす戦略的要衝に位置しており、城への兵糧や兵員の補給を物理的に遮断する上で決定的な役割を担っていた 9 。
信長が構築したこの砦群は、単なる受動的な監視拠点や防衛線ではなかった。それは、敵の城を経済的・軍事的に麻痺させ、孤立無援の状態に追い込むための、極めて攻撃的な意図を持った「攻勢的包囲網」であった。この信長の挑発的な戦略は、今川義元に対し、「前線の重要拠点が枯渇し、降伏するのを座して待つか、あるいは大軍を動員してこの包囲網を実力で打破しに来るか」という、厳しい二者択一を迫るものであった。義元にとって、永禄3年の尾張出兵は、単なる勢力拡大や上洛への第一歩である以前に、信長によって仕掛けられたこの巧妙な罠を打ち破り、危機に瀕した大高城を救援するという、差し迫った軍事的必要性に駆られた行動でもあったのである 10 。
第二章:両軍の将帥 ― 佐久間盛重と松平元康
砦将・佐久間盛重 ― 信義に生きた宿将
丸根砦の命運を託された守将は、佐久間盛重、通称を大学助(だいがくのすけ)という織田家の宿将であった 11 。彼は尾張国御器所(現在の名古屋市昭和区御器所)の城主であり、織田家の中でも有力な一族の一員であった 13 。
盛重の経歴で特筆すべきは、彼が元々、信長の弟である織田信行(信勝)の家老を務めていたという点である。弘治2年(1556年)、信行が兄・信長に対して謀反を起こした「稲生の戦い」において、柴田勝家をはじめとする信行方の重臣の多くが主君に従う中、盛重は信行を見限り、信長方として戦った 14 。この土壇場での決断と忠誠が信長の深い信任を勝ち取り、敵の最前線に位置する丸根砦の守将という、極めて重い責任を伴う役目を任されるに至ったと考えられる。また、彼の娘は柴田勝家の甥であり、後に「鬼玄蕃」と勇名を馳せる佐久間盛政に嫁いでおり、織田家臣団の中で確固たる地位を築いていたことが窺える 13 。かつて仕えた主君を裏切ったという過去を持つ盛重にとって、この絶体絶命の戦場で信長のために命を懸けて戦うことは、自らの信義を貫徹する最後の機会であったのかもしれない。
攻将・松平元康 ― 試練の若武者
一方、丸根砦に猛攻を仕掛ける今川軍の先鋒を率いたのは、当時19歳、後の天下人・徳川家康こと松平元康であった。三河の小大名の嫡男として生まれながら、8歳で今川家の人質となり、以来、青年期に至るまで駿府で不遇の時代を過ごしていた 16 。その間、今川家の軍師・太原雪斎から兵法を学んだとも伝えられるが、彼の立場は依然として今川家の庇護と監視の下にある、一個の駒に過ぎなかった。
今川義元が尾張へ向けて大軍を発した際、元康はこの遠征軍の先鋒という重要な役割を与えられた。彼に課せられた最初の任務は、信長の包囲網によって孤立した「大高城への兵糧入れ」と、その包囲網の中核である「丸根・鷲津両砦の攻略」であった 16 。これは、元康にとって、単なる人質ではなく、三河武士団を率いる有能な将であることを今川義元とその家臣たちに証明し、自らの未来を切り拓くための絶好の機会であった。この困難な任務を完遂できるか否かは、彼の武将としての評価、そして松平家の将来を左右する、まさに試金石となる戦いであった。
かくして丸根砦の戦いは、織田家への「忠誠」を証明し続けてきた宿将と、今川家への「有用性」を証明しなければならない若き人質大名という、対照的な立場にある二人の武将による、宿命的な対決の舞台となったのである。
【表1】丸根砦の戦いにおける両軍の兵力比較
勢力 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
典拠 |
織田方(丸根砦守備軍) |
佐久間盛重 |
服部玄蕃 |
500余 |
17 |
今川方(丸根砦攻撃軍) |
松平元康 |
大草松平正親、能見松平重則、高力重正 |
約1,000~2,500 |
8 |
この表が示す通り、丸根砦の守備兵は、元康率いる攻撃軍に対して圧倒的な数的劣勢に立たされていた。この絶望的な兵力差こそが、後に佐久間盛重が下す悲壮な決断の背景を物語っている。
第三章:決戦前夜 ― 永禄三年五月十八日の動静
今川本隊の着陣と元康への特命
永禄3年5月17日、今川義元は駿河、遠江、三河から動員した2万5千(一説には4万5千とも)と号する大軍を率い、尾張国の東端に位置する沓掛城に入城した 16 。その威容は尾張全土を震撼させ、織田方にとってはまさに国家存亡の危機であった。
翌5月18日、義元は軍議を開き、作戦の第一段階として、松平元康と今川家の重臣・朝比奈泰朝を別働隊の指揮官に任命し、先発させることを決定した 16 。元康に与えられた特命は、前述の通り、信長の包囲網によって兵糧が枯渇寸前であった大高城へ、 dringend benötigte Versorgungsgüter zu transportieren, was als「兵糧入れ」bekannt ist 16 。これは、翌日の砦攻撃に先立ち、味方の拠点を確保し、士気を高めるための不可欠な事前準備であった。
闇夜の奇襲 ― 兵糧入れの成功
元康はこの困難な任務を遂行するため、大胆かつ緻密な作戦を展開した。18日の夜、彼は三河兵を率いて沓掛城を出陣すると、夜陰に紛れて織田方の厳重な警戒網が敷かれた地域へと静かに進軍した。丸根砦と鷲津砦の監視を巧みにかいくぐり、闇夜を突いて大高城への兵糧搬入を敢行し、見事にこれを成功させたのである 10 。
この作戦の成功がもたらした影響は、単に物理的な補給が完了したというだけに留まらなかった。それは、信長が築き上げた鉄壁の包囲網に最初の亀裂を入れる、象徴的な出来事であった。長らく孤立無援の状態に置かれ、士気が低下していた大高城の城兵たちにとって、元康が届けた兵糧は、今川本隊の到来を告げる希望の光であった。「義元公は我らを見捨ててはいなかった」という安堵と歓喜が城内に満ち溢れ、士気は一気に高揚した。
一方で、丸根・鷲津両砦の織田方守備兵にとっては、自分たちの監視網がかくも容易に突破されたという事実は、深刻な心理的動揺をもたらしたに違いない。「我々は敵中に完全に孤立している」という焦燥感と、目前に迫るであろう大軍の攻撃に対する恐怖が、砦の中に重く垂れ込めていた。物理的な戦闘が始まる前に、この夜の出来事によって、戦いの趨勢は心理的に今川方へと大きく傾いていたのである。この成功体験は、元康と彼が率いる三河兵にも大きな自信を与え、翌朝の猛攻へと繋がる強力な原動力となった。
第四章:死闘の刻 ― 丸根砦、暁に染まる(五月十九日)
運命の日、永禄三年五月十九日の朝は、血と炎によって幕を開けた。桶狭間本体の戦いに先立ち、その帰趨を決定づけることになる二つの前哨戦が、ほぼ同時に火蓋を切ったのである。
【表2】永禄三年五月十九日 午前中の時系列
推定時刻 |
丸根砦(佐久間盛重) |
鷲津砦(飯尾定宗) |
今川軍(義元・元康) |
織田軍(信長) |
夜明け前 (午前3-4時頃) |
松平元康軍による攻撃開始。 |
朝比奈泰朝軍による攻撃開始。 |
元康・朝比奈隊が出撃。義元本隊は大高城を出て漆山へ布陣。 |
清洲城にて出陣準備。 |
午前4-6時頃 |
砦内で激論。打って出ることを決断。清洲へ急使を派遣。 |
籠城戦を展開。門扉や柵に火を放たれる。 |
両砦への総攻撃を継続。 |
「敦盛」を舞い、出陣。 |
午前6-8時頃 |
砦より打って出て、今川軍前衛を突き崩す。激戦となる。 |
激しい攻防が続く。 |
元康軍、一時後退するも態勢を立て直し反撃。 |
熱田神宮へ到着。兵を集結。 |
午前8時頃 |
佐久間盛重以下、玉砕。砦が陥落。 |
抵抗を続ける。 |
**丸根砦を制圧。**元康は大高城へ兵を戻し休息。 |
熱田にて両砦から上がる煙を確認。 |
午前10時頃 |
- |
飯尾定宗ら討死。砦が陥落。 |
**鷲津砦を制圧。**義元、両砦陥落の報に喜び、油断が生じる。 |
善照寺砦へ到着。軍勢を掌握。 |
午前3時頃:夜明け前の同時強襲
夜がまだ明けきらぬ午前3時から4時頃、松平元康率いる三河勢が丸根砦へ、時を同じくして朝比奈泰朝率いる駿遠勢が鷲津砦へと、鬨の声を上げて一斉に襲いかかった 8 。これは、二つの砦が相互に連携して救援活動を行う暇を与えず、各個撃破を狙った、周到に計画された同時攻撃であった。大高城に兵糧を入れ、士気旺盛な元康軍は、休む間もなく砦への攻撃を開始したのである 8 。
砦内の激論と佐久間盛重の決断
突然の強襲を受けた丸根砦内では、今後の戦術を巡って激しい議論が巻き起こった。守将・佐久間盛重は、まず状況の急を知らせるため、主君・信長のいる清洲城へ向けて急使を派遣した 8 。彼の当初の考えは、信長本隊が到着するまでの時間を稼ぎ、最終的には本隊に合流するために砦から戦略的に退去することも視野に入れていたとされる 8 。
しかし、この現実的な判断に対し、部下の服部玄蕃をはじめとする血気盛んな将兵たちが「一戦を遂げるべし」と、籠城ではなく打って出ての決戦を強く主張した 8 。東西36メートル、南北28メートルほどの小規模な砦 22 で、数倍の敵に包囲されれば、籠城してもいずれは圧倒されるのが目に見えている。ならば、敵の意表を突いてこちらから打って出て、一矢報いるべきだという主戦論が、砦内の空気を支配した。この将兵たちの覚悟を受け、盛重は壮絶な決断を下す。すなわち、将兵一丸となって砦の門を開け放ち、今川の大軍に正面から突撃することであった。
最初の激突:織田勢、逆襲の狼煙
織田勢が籠城するものとばかり思い込み、油断していた松平勢の先鋒は、砦から猛然と突撃してきた佐久間勢の凄まじい気迫に完全に意表を突かれた 8 。この捨て身の奇襲は絶大な効果を発揮し、今川軍の前衛部隊は混乱に陥り、一時的に崩れた。この乱戦の中、大草松平正親、能見松平重則、高力重正といった松平一門の有力な将士が次々と討ち取られるという、今川方にとって手痛い損害を与えることに成功したのである 8 。佐久間盛重の決断は、単なる無謀な玉砕ではなく、敵の油断を突き、指揮系統を混乱させることで時間を稼ぐという、合理的な戦術的意図に基づいたものであり、それは緒戦において見事に結実した。
攻防の転換:物量と新兵器の投入
しかし、緒戦の勝利は長くは続かなかった。最初の混乱から立ち直った松平元康は、冷静に部隊を立て直し、圧倒的な兵力差を背景に力強い反撃を開始した。夜が明けてからも、両軍は一進一退の激しい攻防を繰り広げた 8 。
この攻防の転換点において、元康軍が当時最新兵器であった鉄砲を効果的に使用したとの記録が残されている 20 。砦から打って出てきた織田勢に対し、火縄銃による一斉射撃は、その突撃の勢いを削ぎ、隊列を乱す上で絶大な威力を発揮したと考えられる。数に勝るだけでなく、技術的にも優位に立つ今川軍の前に、佐久間勢は次第に押し返されていった。
午前8時頃:落日の砦 ― 佐久間盛重、玉砕
数時間にわたる死闘の末、衆寡敵せず、佐久間盛重をはじめとする丸根砦の守備隊約500名は、そのことごとくが討ち死にし、玉砕した 8 。午前8時頃、ついに丸根砦は陥落し、松平元康の手に落ちたのである。任務を完遂した元康は、兵馬を休ませるため、一旦大高城へと兵を戻した 8 。
第五章:もう一つの戦場 ― 鷲津砦の陥落
対照的な戦術:鷲津砦の籠城戦
丸根砦で繰り広げられた壮絶な出撃戦とは対照的に、鷲津砦では、守将・飯尾定宗(いのお さだむね)によって徹底した籠城戦が選択された 24 。砦を守るのは、定宗とその弟・信宗、そして信長の大叔父にあたる織田秀俊らで構成される約400余の兵であった 9 。彼らは、砦の防御施設を最大限に活用し、今川の大軍を迎え撃つ覚悟を決めていた。
朝比奈泰朝の猛攻
鷲津砦に攻め寄せたのは、今川家の重臣・朝比奈泰朝が率いる約2,000の軍勢であった 21 。彼らは夜明け前の暗闇の中から攻撃を開始すると、砦の門扉や周囲を固める柵に次々と火を放ち、力攻めによる短期決戦を図った 21 。火炎と黒煙が立ち上る中、砦の内外で熾烈な白兵戦が繰り広げられた。
午前10時頃:鷲津砦の陥落
数時間にわたり、織田勢は必死の防戦を続けたが、圧倒的な兵力差と火計による猛攻の前には抗しきれなかった。守将の飯尾定宗、織田秀俊らはことごとく討ち死にし、生き残った兵も散り散りとなって清洲方面へと敗走した 21 。午前10時頃までには、鷲津砦もまた完全に陥落したのである。
丸根砦の「出戦策」と鷲津砦の「籠城策」、この二つの対照的な戦術は、いずれも「守備隊の全滅」という同じ結末を迎えた。この事実は、信長が築いた「付け城」が、大軍による計画的な総攻撃に対しては、本質的に時間を稼ぐ以上の役割を果たし得ないという、当時の戦術上の限界を冷徹に示している。しかし、彼らの死は決して無駄ではなかった。砦の将兵たちは、その命と引き換えに、敵主力の位置と動きを特定し、信長本体が動くための決定的に重要な情報を、二筋の狼煙となって主君に届けたのである。
第六章:前哨戦の帰結 ― 桶狭間への序曲
義元の油断 ― 勝利の美酒
その頃、沓掛城から本隊を率いて前進していた今川義元のもとに、丸根・鷲津両砦が立て続けに陥落したという捷報が届けられた。わずか半日で織田方の重要拠点を二つも抜き去ったという圧倒的な勝利に、義元は大いに喜び、松平元康の働きを「あっぱれな働きじゃ」と賞賛したと伝えられる 8 。そして、元康にはそのまま大高城の守備を命じた。
この前哨戦におけるあまりにも一方的な勝利が、義元と今川本隊全体に「織田軍、恐るるに足らず」という致命的な油断と慢心を生じさせたことは、想像に難くない 27 。この心理的な弛緩こそが、義元を桶狭間山での休息と酒宴へと導き、信長に千載一遇の好機を与える最大の要因となったのである。
信長の覚悟 ― 二筋の狼煙
一方、夜明けと同時に数騎の供回りのみで清洲城を飛び出した信長は、午前8時頃には熱田神宮に到着し、兵力の集結を図っていた。その時、信長は自らの目で、南東の空に立ち上る二筋の黒煙をはっきりと確認した 8 。それは、丸根・鷲津両砦が陥落し、佐久間盛重をはじめとする忠臣たちが討ち死にしたことを意味する、絶望的な光景であった。
しかし、信長はこの敗報に微塵も動じることはなかった。むしろ、それは彼にとって、敵主力の位置が確定し、行動を起こすべき時が来たことを告げる合図であった。彼は集結した兵を前にして有名な訓示を行い、士気を極限まで高めると、今川本陣への直接攻撃という、常識を遥かに超越した作戦の敢行を決断するのである 30 。
歴史的意義 ― 敗北が紡いだ大逆転
戦術的に見れば、丸根砦の戦いは織田方の一方的な大敗北であった。しかし、より大きな戦略的視点に立てば、この敗北こそが、後の桶狭間の奇跡を呼び込む最大の要因となったのである。
第一に、佐久間盛重らの壮絶な抵抗と玉砕は、今川方の勝利をより価値あるものに見せかけ、義元の油断を決定的なものにした。第二に、この戦いで松平元康が砦攻略と大高城守備という任務を完遂した結果、彼と精強な三河武士団は義元本隊とは別行動を取ることになり、桶狭間の本戦には参加しなかった。もし元康の部隊が義元の本陣近くに控えていれば、信長の奇襲は成功しなかった可能性が極めて高い。
信長は、丸根・鷲津砦という「駒」を犠牲にすることを、当初から計算に入れていたのかもしれない。彼は、砦の玉砕という「コスト」を支払うことで、敵将・今川義元の心理を巧みに誘導し、その行動を予測可能な範囲に限定させた。物理的な兵力差という絶対的な不利を、情報と心理操作によって覆す。丸根砦の悲劇は、この壮大な戦略を成功させるために支払われた、計算され尽くした犠牲であったと結論付けることができる。佐久間盛重らの死は、信長に決断の時を知らせ、義元に油断という名の毒を盛り、そして歴史を大きく動かすための、尊い礎となったのである。
終章:歴史のもしも ― 丸根砦が残した教訓
丸根砦の戦いは、桶狭間の戦いという巨大な歴史劇の中で、しばしば見過ごされがちな一幕である。しかし、その詳細を紐解けば、この小規模な戦闘が、戦国時代の趨勢を決定づけた一日において、いかに重要な役割を果たしたかが明らかになる。それは、忠誠と武勇、戦略と心理戦、そして勝利と敗北の複雑な関係性を凝縮した、戦国合戦の縮図であった。
歴史に「もしも」は許されないが、敢えていくつかの可能性を考察することで、この戦いの重要性はさらに際立つ。もし、佐久間盛重が籠城に徹し、数時間でも長く砦を持ちこたえさせていたら、義元の進軍計画は乱れ、桶狭間での休息はなかったかもしれない。もし、松平元康が砦の攻略に手間取り、信長本隊の到着と鉢合わせになっていたら、あるいは義元本隊と合流してしまっていたら、信長の奇襲作戦そのものが成立しなかったであろう。
佐久間盛重の決死の抵抗は、織田家への揺るぎない忠誠の証として記憶されるべきである。そして、松平元康がこの戦いで示した将器は、彼が単なる人質ではなく、やがて天下を治める器であることを予感させる最初の閃光であった。
最終的に、丸根砦の戦いは、敗北が必ずしも終わりを意味するのではなく、より大きな勝利への布石となり得るという、戦略上の深遠な教訓を我々に示している。一つの砦の陥落と引き換えに、信長は天下を手繰り寄せるための最も重要な情報、すなわち「敵将の油断」を手に入れた。この冷徹なまでの現実主義と大局観こそが、彼を時代の覇者へと押し上げた原動力であった。丸根砦跡に立つとき、我々は桶狭間の輝かしい勝利の裏に散った将兵たちの魂と、彼らの犠牲の上に築かれた歴史の巨大な転換点に、思いを馳せるのである。
引用文献
- 桶狭間合戦への前哨戦 動乱が続いていた尾張と織田信長 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/8361/3
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- 織田信長 苦難の尾張統一への戦いが始まる【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/390334
- お城で勝利を呼びこんだ織田信長の【桶狭間の戦い】 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/battle/okehazama/
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- 前田慶次の自腹でお城めぐり【第5回】凸大高城と鷲津砦と丸根砦【桶狭間の要】 https://shirobito.jp/article/1095
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- 桶狭間の戦い 大高城/鳴海城と5つの砦めぐり - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%80%E5%A4%A7%E9%AB%98%E5%9F%8E-%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%9F%8E%E3%81%A8%EF%BC%95%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%A0%A6%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A/
- 織田信長と桶狭間の戦い突出した個の能力で圧倒的不利な戦いに勝利! - Okamura Live : ) https://live.okamura.co.jp/post/id45
- 桶狭間の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7145/
- 織田信長のセオリーを無視した戦い方が勝利を引き寄せた 伊東潤 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/21319/
- 信長公記』「首巻」を読む 第39話「今川義元討死の事 - note https://note.com/senmi/n/nd7f28bfc3ed9
- 【信長公記】桶狭間の戦い - 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents1/