最終更新日 2025-09-02

久能城の戦い(1569)

永禄十二年、武田信玄は駿河侵攻の要衝、久能城を攻略。駿府の東南に位置するこの堅城を、武田四天王の馬場信春らが迅速に要塞化。信玄の駿河支配を盤石にし、後の徳川家康との対峙における重要な拠点となった。

久能城の戦い(1569年):戦国史の転換点 ― 武田信玄の駿河侵攻と要衝確保の全貌

序章:三国同盟の黄昏

永禄12年(1569年)に語られる「久能城の戦い」は、単に一つの城の帰趨を決した局地戦ではない。それは、十数年にわたり東国の勢力均衡を支えてきた甲相駿三国同盟の完全な崩壊と、それに続く新たな動乱時代の幕開けを象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。この戦いの本質を理解するためには、まず、なぜ武田信玄が長年の盟友であった今川氏を滅ぼすという、重大な決断に至ったのか、その背景を深く掘り下げる必要がある。

甲相駿三国同盟の成立と変質

天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元という当代屈指の戦国大名三者の間で成立した甲相駿三国同盟は、それぞれの婚姻関係によって固く結ばれた、東国における一大安定装置であった 1 。信玄にとってこの同盟は、背後の憂いを断ち、北の宿敵である越後の上杉謙信との信濃を巡る死闘に全精力を傾けるための生命線であった 2 。しかし、この種の同盟は、加盟する三者のパワーバランスが維持されて初めて機能する、危うい均衡の上に成り立っていた。その均衡が、ある一つの事件をきっかけに、回復不能なまでに崩れ去ることになる。

均衡の崩壊 - 桶狭間の衝撃

永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張に侵攻するも、桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという衝撃的な事件が発生した 1 。今川家の絶対的な支柱を失ったこの敗戦は、単に一人の大名の死に留まらなかった。それは、東海の地政学的バランスを根底から覆す「構造変動」の引き金となったのである。今川家の威信は地に落ち、その支配体制は急速に動揺を始める。特に、長年今川家の人質となっていた三河の松平元康(後の徳川家康)がこれを機に独立を果たし、今川領は西側から蚕食され始めた 3 。この今川家の弱体化は、同盟者である武田信玄と北条氏康の目に、新たな機会と脅威の両面として映った。

信玄の野望と焦燥

甲斐・信濃という内陸国を領する信玄にとって、海への出口、とりわけ塩や各種物資の集散地である駿河の港を領有することは、父・信虎の代からの悲願であった。弱体化し、もはや同盟者としての価値を失いつつある今川家の領国は、その長年の野望を達成するための、またとない標的となった。さらに、この時期、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすなど、中央の情勢も大きく動き始めていた。この新たな勢力の台頭は、信玄に強い焦燥感を抱かせた。今川領を併呑し国力を増強することは、来るべき信長との対決に備えるための、避けては通れない戦略的布石でもあったのである。

侵攻への代償 - 武田家中の亀裂

しかし、この駿河侵攻という大胆な方針転換は、武田家内部に深刻な亀裂を生じさせた。信玄の嫡男・武田義信は、今川義元の娘を正室に迎えており、舅の家を滅ぼすという信玄の計画に猛然と反対した 4 。この対立は単なる政策論争に留まらず、謀反の疑いにまで発展し、最終的に信玄は義信を廃嫡し、幽閉の末に死に至らしめるという、非情な決断を下さざるを得なかった。嫡男を犠牲にするという大きな代償は、この駿河侵攻が信玄にとって、そして武田家にとって、いかに重大な、そして後戻りのできない賭けであったかを物語っている。

呉越同舟 - 徳川との密約

周到な信玄は、今川領を単独で攻めることの危険性を熟知していた。そこで彼は、同じく今川領を西から狙う徳川家康に接近する。永禄11年(1568年)、両者の間で密約が締結された。その内容は、大井川を境として、東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川が得るという、今川領の分割協定であった 5 。しかし、これは互いの野心を満たすための一時的な協力関係に過ぎず、その根底には深い不信感が渦巻いていた。この呉越同舟とも言うべき脆弱な同盟は、やがて来るべき破綻の種を内包したまま、今川家への侵攻を開始することになるのである。

【表1】久能城の戦い 主要関連武将一覧

氏名

所属勢力

当時の主な役職・立場

備考

武田信玄

武田家

当主

駿河侵攻の総大将 8

今川氏真

今川家

当主

武田軍に駿府を追われ、掛川城へ逃れる 3

徳川家康

徳川家

当主

武田と密約を結び、遠江国へ侵攻 10

北条氏康

北条家

前当主(隠居)

娘婿である氏真を救援するため、武田との同盟を破棄 11

北条氏政

北条家

当主

父・氏康と共に駿河へ出兵し、武田軍と対峙 7

朝比奈泰朝

今川家

重臣

掛川城主。最後まで氏真に忠誠を尽くし、籠城戦を指揮 4

馬場信春

武田家

重臣

武田四天王の一人。久能山の要塞化(縄張り)を担当 12

山県昌景

武田家

重臣

武田四天王の一人。馬場信春と共に久能山の縄張りを担当 12

今福浄閑斎

武田家

家臣

攻略後の久能城の初代城代に任命される 13

榊原康政

徳川家

家臣

遠江国内の今川方拠点、久野城などを攻略 16


第一章:電光石火の駿府陥落

永禄11年(1568年)12月、信玄の駿河侵攻は開始された。その進軍速度と駿府陥落に至るまでの手際の良さは、周到な準備と、軍事行動と並行して進められた巧みな調略の成果であった。それは、今川氏の支配体制が、物理的な戦闘が本格化する以前に、内部から崩壊していたことを示している。

永禄11年(1568年)12月6日 - 進軍開始

この日、武田信玄率いる約2万ともいわれる大軍が、甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 6 。長年見据えてきた駿河の地へ、遂にその第一歩を踏み出したのである。進軍経路は複数用意されており、敵の意表を突く形で駿河中枢部への最短距離を狙うものであった 18

二正面作戦の展開

信玄の戦略は、単純な一点突破ではなかった。彼は軍を二手に分け、今川方の防衛線を攪乱し、無力化することを狙った。

  • 本隊: 信玄自らが率いる本隊は、甲駿国境の要衝である薩埵峠(さったとうげ)を越え、今川氏の本拠地・駿府を直接目指すルートを取った 7 。これは今川氏の中枢に直接打撃を与える、作戦の主眼であった。
  • 別働隊: これと同時に、別働隊が駿河東部の富士郡へ進出。同地の有力国衆であり、今川方の重鎮であった富士信忠が籠る大宮城を攻撃した 17 。この攻撃は、大宮城を落とすこと自体が目的というよりも、今川方の兵力を東部に引きつけ、本隊が進撃する薩埵峠方面への増援を阻止する陽動の役割を担っていた。

今川家臣団の瓦解

今川氏真は武田軍接近の報を受け、迎撃のために興津の清見寺まで出陣し、薩埵峠に防衛線を敷こうと試みた 6 。しかし、この時すでに、今川家の屋台骨は内部から崩れ落ちていた。信玄は軍事行動に先立ち、長期間にわたって今川家臣団への調略を水面下で進めていたのである。瀬名氏、葛山氏、朝比奈氏の一部といった譜代の重臣たちが、戦わずして次々と武田方へ内通、あるいは離反した 21 。義元という絶対的なカリスマを失った今川家臣団は、もはや国衆の連合体としての結束力を維持できず、信玄の揺さぶりに抗う術を持たなかった。組織的な抵抗が不可能となった今川軍は、事実上、戦う前に敗北していたのである。

12月13日 - 駿府陥落と炎上

家臣団の離反により防衛線が崩壊したことで、武田軍の駿府への道が開かれた。わずかな抵抗を試みた岡部正綱らも降伏し、武田軍は雪崩を打って駿府へ侵入した 7 。進軍開始からわずか一週間後のことであった。かつて「海道一の弓取り」と謳われた今川氏の栄華を象徴した今川館、そして京を模して造られた壮麗な城下町は、侵攻軍によって火を放たれ、その大半が灰燼に帰した 22

氏真の逃避行

本拠地を失った今川氏真は、最後まで忠義を尽くした数少ない重臣の一人、朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城を目指して落ち延びていった 6 。この敗走は凄まじい混乱を極め、正室である早川殿(北条氏康の娘)の乗り物である駕籠を用意する暇すらなかったと伝えられている 6 。この屈辱的な逸話は、戦国大名今川氏の権威が、いかに急速かつ決定的に失われたかを物語っている。

【表2】駿河侵攻と久能城の戦い 主要関連年表(永禄11年12月~永禄12年5月)

年月日(西暦換算)

武田家の動向

徳川家の動向

今川・北条家の動向

永禄11年(1568年)

12月6日

信玄、甲府を出陣し駿河侵攻を開始 7

12月9日頃

別働隊が富士郡の大宮城を攻撃 20

12月12日

北条氏政、氏真救援のため駿河へ出兵 7

12月13日

駿府を占領、今川館は炎上 7

家康、遠江へ侵攻を開始。曳馬城を攻略 7

氏真、駿府を脱出し掛川城へ逃れる 7

12月中旬~下旬

久能山を確保し、要塞化に着手。

12月27日

掛川城の包囲を開始 26

氏真、掛川城にて籠城を開始。

永禄12年(1569年)

1月

薩埵山に着陣。北条軍と対峙 7

掛川城への攻撃を継続。

北条軍、薩埵山に着陣。武田軍を牽制 7

2月

大宮城を攻撃するが、北条の援軍により失敗 7

遠江国内の今川方拠点(久野城等)を攻略 16

3月

堀川城を攻略 26

4月

北条軍との対峙が続く中、甲斐へ一時撤退 26

堀江城主・大沢基胤が降伏。

5月15日頃

家康と氏真の間で和議が成立。

氏真、掛川城を開城し、北条氏を頼る 26


第二章:要衝・久能城の攻防(時系列詳解)

駿府を制圧した信玄の次なる一手は、新領土の支配を恒久的なものにするための「楔」を打ち込むことであった。そのために彼が着目したのが、駿府の南東に聳える久能山であった。ここに、血で血を洗う攻城戦とは異なる、戦略眼と速度が勝敗を決する、もう一つの「戦い」が展開されることになる。

駿府制圧後の次の一手

駿府を占領した信玄は、一時的な軍事占領に満足することなく、直ちに周辺地域の恒久的支配体制の構築に着手した。その軍議の席で、地図上に示された一つの地形が、彼の鋭い戦略眼を捉えた。駿府の喉元に位置し、駿河湾を一望する久能山である。この地が持つ絶大な戦略的価値を、信玄は見逃さなかった 14

久能山の戦略的価値

久能山が持つ戦略的価値は、その特異な地形にあった。

  • 地理的優位性: 駿府の南東、安倍川の河口近くに位置するこの山は、東、南、西の三方を駿河湾の断崖絶壁に囲まれた、まさに天然の要害であった 13 。ここを拠点とすれば、駿府の町と港、そして駿河湾の海上交通路を完全に掌握・監視することが可能となる。
  • 当時の状況: この地には古くから久能寺が存在し、南北朝時代には城として利用された記録もある 27 。しかし、戦国期においては軍事拠点としての性格は薄れ、永禄8年(1565年)には今川氏真が観音堂を再興するなど 28 、むしろ宗教的聖地としての側面が強かった。駿府が電撃的に陥落したこの時点で、有力な守備隊が駐留していたとは考えにくい。

「戦い」のリアルタイム再現(推定:永禄11年12月中旬〜下旬)

大規模な戦闘記録が残されていない「久能城の戦い」の実態は、断片的な情報から論理的に再構築することで、その本質が浮かび上がってくる。それは物理的な衝突ではなく、戦略的な空間の奪い合いであった。

【第一局面:発見と評価】

駿府に入城した信玄、あるいはその幕僚(馬場信春や山県昌景ら)が、軍議の席で地図を広げ、周辺の地勢を検分する。その中で、駿府の防衛と駿河湾の制圧という二つの戦略目標を同時に達成しうる、久能山の特異な地形的価値が即座に見出される。「この地を押さえれば、駿府の守りは盤石となり、海からの敵にも備えられる。何より、敵にここを反撃の拠点とされる前に、我らが確保せねばならぬ」。このような戦略的判断が、迅速に下されたであろう。

【第二局面:派遣と確保】

信玄の命令一下、築城の名手として名高い馬場信春や山県昌景を含む一隊が、久能山へと派遣される 12 。彼らに与えられた任務は、まず第一に久能山の物理的な占拠、そして第二に、この地を軍事要塞へと変貌させるための縄張り(設計)を行うことであった。時間は一刻も猶予できない。東からは北条の、西からは徳川の圧力が迫りつつある中、迅速な行動が求められた。

【第三局面:無血占拠】

久能山に到着した武田軍の先遣隊は、おそらく大規模な抵抗に遭遇することはなかったと推測される。本拠地である駿府がわずか一週間で陥落したという衝撃的な報は、すでにこの地にも届いていただろう。山内にいた寺僧や、今川方が配置していたかもしれない少数の見張り役は、戦意を喪失して投降したか、あるいは武田軍の接近を知って逃亡していた可能性が高い。いわゆる「久能城の戦い」とは、この抵抗なき「確保」という迅速な軍事行動そのものを指していると考えられる。鬨の声や刃鳴りの音ではなく、静寂の中、武田の旗が立てられることで、この「戦い」は決着したのである。

【第四局面:要塞化の開始】

部隊から占拠完了の報告を受けた信玄は、直ちに本格的な築城を命じる。馬場信春らの指揮の下、動員された兵員や人夫によって、急ピッチで土塁が盛られ、空堀が掘られ始めた 12 。久能山は、その瞬間から宗教施設としての歴史を一旦閉じ、武田氏の駿河支配を支える軍事要塞へと、その姿を劇的に変え始めたのである。

この一連の動きこそ、「久能城の戦い」の核心である。それは血なまぐさい攻防戦ではなく、信玄の卓越した戦略眼が、一つの聖地を軍事要塞へと転生させた瞬間であった。多くの者が見過ごしていた地理的価値を瞬時に見抜き、敵がその価値に気づく前に確保し、自軍の支配を盤石にする「楔」として打ち込んだ点にこそ、この出来事の真髄がある。後の世に徳川家康がこの地を「駿府城の本丸と思う」とまで評した 29 事実は、信玄のこの着眼がいかに正確無比であったかを、歴史が証明していると言えよう。


第三章:連動する戦線 ― 錯綜する各勢力の動向

久能山の確保は、孤立した出来事ではなかった。それは、駿河・遠江という広大な舞台で繰り広げられる、武田・徳川・北条による三つ巴の巨大なチェス盤における、極めて重要な一手であった。各勢力の動きは互いに連動し、戦局を複雑化させていく。

東部戦線 - 北条の介入と薩埵峠の対峙

武田の駿河侵攻は、甲相駿三国同盟の一角である北条氏の猛烈な反発を招いた。

  • 氏康の激怒と出兵: 今川氏真の正室・早川殿は、北条氏康の娘であった。娘婿が領国を追われ、娘が徒歩で逃避行を強いられたという報は、氏康を激怒させた 7 。彼は武田との同盟を即座に破棄。当主である息子の氏政と共に、一族を総動員し、4万5千ともいわれる大軍を率いて駿河へ出兵した 7
  • 戦線の膠着: 永禄12年(1569年)1月、駿河東部に進出した北条軍は、かつて今川軍が武田軍を迎え撃とうとした薩埵山に布陣した 7 。これにより、駿府に駐留する信玄の軍勢は、興津川を挟んで北条の大軍と直接対峙することになる 30 。両軍は互いに睨み合い、戦線は膠着状態に陥った。この北条軍の圧力が、信玄の西(遠江方面)への進軍を完全に阻害した。久能城の要塞化は、まさにこの東からの強大な軍事的圧力を背後で受けながら、急ピDッチで進められたのである。

西部戦線 - 徳川の遠江平定

信玄と呼応して遠江に侵攻した徳川家康は、着実にその支配領域を広げていた。

  • 掛川城の攻防: 家康の主目標は、今川氏真が籠る掛川城であった。永禄11年12月27日、徳川軍は掛川城を包囲し、本格的な攻撃を開始する 26 。しかし、城主・朝比奈泰朝は今川家随一の忠臣であり、その指揮の下、城兵は徹底抗戦の構えを見せた 4 。掛川城は堅城であり、攻城戦は容易に進まず、実に半年にも及ぶ長期戦となった 7
  • 着実な領土拡大: 家康は掛川城を力攻めする一方で、兵力を分割し、遠江国内に残る今川方の諸城を各個撃破していく。榊原康政らを別働隊として派遣し、久野城(※駿河の久能城とは別の、遠江国袋井市にあった城)などを攻略 16 。これにより、掛川城を孤立させると同時に、遠江一国の平定を着々と進めていった。

武田と徳川の不協和音

当初は協力関係にあった武田と徳川であったが、戦局の進展と共に、その利害は鋭く対立し始める。

  • 同盟の亀裂: 東で北条軍に釘付けにされ、身動きが取れない信玄にとって、西で家康が順調に遠江平定を進める状況は、焦りと警戒心を生んだ。このままでは、今川領の美味しい部分を全て家康に奪われかねない。この焦りが、信玄に致命的な一手を選ばせる。彼は家康との密約を一方的に破り、徳川方の支配下に入っていた遠江の久野城を攻撃したのである 6
  • 同盟の破綻: この信玄による裏切り行為は、両者の脆弱な同盟関係を事実上、完全に破綻させた。家康は信玄への不信感を決定的なものとし、武田との連携を放棄。独自に、包囲下にある今川氏真との和議交渉を開始するという、新たな戦略に舵を切った 32
  • 今川氏の終焉: 長い籠城戦で兵糧も尽きかけていた氏真は、家康から提示された身の安全の保障という有利な条件を受け入れ、永禄12年5月、ついに掛川城を開城した 26 。城を明け渡した氏真は、妻の実家である北条氏を頼って相模へと落ち延びていった 9 。ここに、駿河・遠江に二百年以上にわたって君臨した名門、戦国大名としての今川家は、完全に滅亡したのである。

この三つ巴の複雑な力学の中でこそ、久能城の戦略的価値は最大限に発揮された。東の北条、西の徳川という二正面からの圧力に耐え抜くため、信玄には駿河支配を確固たるものにするためのアンカー(錨)が不可欠であった。久能城こそが、そのアンカーの役割を果たしたのである。そして、この状況下で必然的に生じた武田と徳川の同盟破綻は、後の三方ヶ原の戦いへと至る、両雄の長い抗争の序曲となった。


第四章:武田の楔 ― 攻略後の久能城

確保され、要塞化された久能城は、武田氏の駿河支配において、単なる軍事拠点に留まらない、多岐にわたる重要な役割を担うことになる。それは、信玄の先進的な領国経営術を体現する、軍事と行政が一体化した支配の「楔」であった。

要塞としての完成

馬場信春、山県昌景といった、武田軍が誇る築城の専門家たちの手によって、久能山は宗教施設から、その断崖絶壁という自然地形を最大限に活用した難攻不落の山城へと姿を変えた 12 。急峻な斜面に設けられた曲輪、敵の侵攻を阻むための堀切や土塁が巧みに配置され、堅固な防御システムが構築された。現在、久能山東照宮の境内に残る土塁や堀の遺構は、当時の武田氏の高度な築城技術を今に伝えている 33

城代・今福浄閑斎の統治

この新たな要衝の初代城代として信玄が任命したのは、譜代の家臣である今福浄閑斎(友清)であった 13 。ここで注目すべきは、浄閑斎に与えられた権限である。彼は単に城の防衛を担う司令官ではなく、富士川以西から大井川以東に至る駿河中西部の広範な地域を統括する**「駿東郡司(郡代)」**としての役割を兼ねていた 34 。これは、浄閑斎が軍事指揮権のみならず、広範な行政権をも委ねられていたことを意味する。

駿河支配の拠点として

「郡代」が置かれたことからも明らかなように、久能城は武田氏の駿河統治における複合的な拠点として機能した。

  • 軍事機能: 東で対峙する北条氏との戦線における後方支援基地として、また、西の徳川氏を睨む最前線拠点として、常に臨戦態勢にあった。さらに、駿河湾に直接面しているという立地から、武田水軍の基地としても整備され、兵站輸送や海上警戒の役割を担ったと考えられる。
  • 行政機能: 郡代が常駐する久能城は、周辺地域における検地(土地調査)、年貢の徴収、山林資源の管理、訴訟の裁定などを行う、武田氏の駿河統治における 行政センター そのものであった。信玄は、敵地を占領した際に、軍政と民政を一体化した統治システムを迅速に構築することで、新領土の安定化を図った。久能城は、その先進的な領国経営術を実践するための出先機関だったのである。

武田氏滅亡と久能城の明け渡し

こうして武田氏の駿河支配の要として機能した久能城であったが、その役割は長くは続かなかった。天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康による連合軍が甲斐へ侵攻(甲州征伐)。主君・武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅亡すると、久能城も抗うことなく徳川方に開城された 13 。城代であった今福虎孝(浄閑斎の子)は、この際に自刃したと伝えられている 15


終章:戦いが歴史に刻んだもの

永禄12年(1569年)の久能城を巡る一連の出来事は、戦国時代後期の東海地方における「パンドラの箱」を開けたに等しい、重大な転換点であった。この戦いを経て、一つの名門が歴史の舞台から退場し、残された三つの強国が、より直接的で激しい生存競争の時代へと突入していく。

勢力図の激変と新たな抗争の時代

久能城の確保に象徴される武田信玄の駿河侵攻は、戦国大名今川氏の滅亡を決定づけ、東海地方の勢力図を完全に塗り替えた。これにより、長らく東国の安定装置として機能してきた甲相駿三国同盟は完全に消滅。その結果、武田、徳川、北条という三大勢力が直接国境を接することとなり、互いの領土と覇権を巡って、より激しく、そして複雑に衝突する新たな抗争の時代が幕を開けたのである 32

家康による再評価と継承

武田氏滅亡後、駿河国を手中に収めた徳川家康は、かつての宿敵であった信玄が築いた久能城の戦略的価値を、誰よりも高く、そして正確に評価した。家康は、この城を破壊したり、軽視したりすることはなかった。それどころか、「久能城は駿府城の本丸と思う」と述べ 29 、その重要性を公言してはばからなかった。自らが豊臣秀吉の命により関東へ移封された後も、そして関ヶ原の戦いを経て大御所として駿府に戻ってからも、家康は一貫してこの城を最重要拠点の一つとして整備し続けた。敵の優れた点を冷静に評価し、自らの戦略に組み込む家康の合理性と先見の明が、ここにも表れている。

軍事要塞から神聖な霊廟へ

戦乱の世が終わり、天下人として泰平の世を築いた家康は、自らの死期を悟ると、一つの遺命を残した。「遺体は久能山に葬ること」。この遺言に基づき、元和2年(1616年)に家康が駿府城で薨去すると、その亡骸は速やかに久能山へと移され、壮麗な社殿が造営された。これが現在の久能山東照宮である 12 。かつて武田信玄が軍事拠点として築き、徳川家康が駿府の守りの要とした城は、徳川幕府の権威と平和の象徴である神聖な霊廟へと、その姿を再び大きく変えたのである。

歴史的連続性の妙

武田信玄が純粋な軍事的合理性からその価値を見出した地に、徳川家康が自らの永眠の地、すなわち政治的・精神的な権威の永続を願う場所として選んだことは、単なる偶然ではない。それは、立場こそ違え、戦国の世を生きた二人の英雄が、共にこの地が持つ「要」としての本質的な性質を、寸分違わず見抜いていたことを示唆している。信玄が駿河支配のために打ち込んだ軍事的な「楔」は、十数年の時を経て、家康による天下泰平の世を護る精神的な「楔」へと昇華されたのである。

久能城の戦いは、最終的な勝者である徳川家康が、いかにして今川、そして武田というライバルたちの領土と、そこに蓄積された戦略的遺産を巧みに継承していったかを示す、象徴的な事例でもある。信玄が打ち込んだ一本の楔は、巡り巡って、家康の天下統一の礎石の一つとなった。この歴史の皮肉とダイナミズムこそ、1569年の「戦い」を考察する上での、最大の醍醐味と言えるであろう。

引用文献

  1. 歴史用語コラム 甲相駿三国同盟とは|株式会社アイセレクト - note https://note.com/aiselect0903/n/nb915b5531219
  2. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島 https://shirobito.jp/article/1466
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