最終更新日 2025-08-30

九戸城の戦い(1591)

天正十九年、豊臣秀吉の奥州仕置に対し、九戸政実が南部信直と秀吉に反旗。難攻不落の九戸城に籠城し奮戦するも、謀略により降伏。城兵は撫で斬りにされ、九戸氏は滅亡。天下統一最後の戦い。

天を衝く最後の抵抗:九戸城の戦い(1591)-豊臣天下統一、最終章の真実-

序章:奥州仕置―中央の論理、北の矜持

天正19年(1591年)、陸奥国北部に位置する九戸城(現在の岩手県二戸市)を舞台に、戦国時代の終焉を告げる最後の大規模な武力抵抗が発生した。世に言う「九戸政実の乱」である。この戦いは、単なる一地方豪族の反乱として片付けることはできない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げであり、中央集権という新たな時代の論理が、奥州の地に根付いた旧来の秩序と矜持を力ずくで塗り替えようとする過程で生じた、必然的な激突であった。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を屈服させ、事実上の天下統一を成し遂げた 1 。その直後、秀吉は奥州の支配体制を再編する「奥州仕置」を断行する。これは、参陣した大名の所領は安堵するものの、参陣しなかった者、あるいは秀吉の定めた秩序に服さぬ者を容赦なく改易するという、一方的なものであった 2 。検地、城割り(城の破却)、刀狩りといった政策が強行され、奥州の地は急速に豊臣政権の支配体制へと組み込まれていく 2

しかし、この「上方のルール」の押し付けは、「奥州の事は奥州の者が決めるべきだ」という在地領主たちの強い反発を招いた 1 。彼らにとって、奥州とは無縁の人物である秀吉に領土のあり方を一方的に決められることは、到底承服しがたい屈辱であった 3 。その不満は、奥州仕置軍が引き上げた直後の同年10月、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆といった大規模な抵抗となって噴出する 5 。奥州全域が不穏な空気に包まれる中、これらの反豊臣の動きの最大かつ最後の奔流として、九戸政実が決起することになる。彼の蜂起は、単独で発生した偶発的な事件ではない。それは、秀吉の強引な中央集権化政策に対する奥州全体の構造的な反発が、南部一族内部の権力闘争という「雷管」によって爆発した、歴史の必然であったと言えよう。

第一部:対立の淵源

第一章:南部宗家の内訌 ― 信直と政実、避けられぬ宿命

九戸城の戦いの直接的な引き金は、中央の政治情勢とは別に、南部一族の内部に深く根差した対立にあった。南部信直と九戸政実。同じ南部一族に連なりながら、二人の間には修復不可能な亀裂が生じていた。

その淵源は、天正10年(1582年)に遡る。南部家24代当主・南部晴政が死去し、その後を継いだばかりの幼少の嫡男・晴継までもが急死(一説には暗殺)したことで、南部家は深刻な後継者問題に見舞われた 2 。候補者として二人の名が挙がる。一人は、晴政の養嗣子であり、一族の田子氏を継いでいた田子信直(後の南部信直)。もう一人は、晴政の次女を娶っていた九戸実親、すなわち九戸政実の弟であった 2

家中が二分する中、重臣・北信愛が強引に信直を26代当主として擁立したことで、事態は決着する 2 。しかし、この決定は九戸氏の強い不満と反発を招き、晴継の葬儀の日に信直が襲撃される事件が発生するなど、両者の対立は決定的なものとなった 8

信直にとって、この家督相続は正統性の面で常に不安を抱えるものであり、家中最大の実力者である九戸政実の存在は、自らの支配基盤を揺るがす脅威であり続けた。自らの軍事力だけでは政実を屈服させることが困難であることは、後の緒戦での苦戦が如実に物語っている 9 。この状況を打開するため、信直は極めて戦略的な一手に出る。それは、自らの上に立つ絶対的な権威、すなわち天下人・豊臣秀吉の力を利用することであった。

天正18年(1590年)、信直は秀吉の小田原征伐にいち早く参陣し、臣従の意を示した 4 。そして同年7月、秀吉から正式に「南部内七郡」の所領を安堵する朱印状を拝領する 2 。これは単なる時流への順応ではない。信直は、秀吉という「外圧」を巧みに利用し、自らの脆弱な立場を盤石なものへと変えようとしたのである。この朱印状により、信直は単なる「南部家当主」から「豊臣大名たる南部家当主」へと、その正統性を飛躍的に高めた。これにより、政実が信直に逆らうことは、もはや南部家中の内紛ではなく、豊臣政権そのものへの反逆と見なされる状況が作り出された。政実を激怒させ、後の決起へと追い込む決定的な一撃であった 2

第二章:九戸政実の実像 ― 独立領主か、一族の雄か

通説において「反逆者」の烙印を押されてきた九戸政実。しかし、その実像は、単なる南部家の一家臣という枠には収まらない。彼の決起の背景には、一族の雄としての、あるいは独立領主としての矜持があった。

九戸氏は、南部家の始祖・南部光行の五男・行連を祖とするとされる名門である 11 。しかし、近年の研究では、室町幕府の記録史料『永禄六年諸役人附』において、南部宗家の当主である「南部大膳亮(晴政)」と並び、「九戸五郎・奥州二階堂」と記されていることが指摘されている 12 。これは、当時の幕府が九戸氏を南部宗家と比肩しうる独立した大名格の存在として認識していた可能性を示唆するものである。戦国期の奥州は、単一のピラミッド構造ではなく、複数の有力者が並立する多元的な世界であり、九戸氏はその中で確固たる地位を築いていた。

政実自身、天文5年(1536年)の生まれとされ、武将としての器量に優れていた 8 。永禄12年(1569年)には安東氏の侵攻を撃退して鹿角郡を奪還するなど、その武名は南部家中でも随一であり、彼の代に九戸氏の勢力は宗家を脅かすほどに拡大していた 11

このような背景を持つ政実にとって、秀吉の奥州仕置は二重の意味で受け入れがたいものであった。一つは、奥州の伝統的秩序を無視した中央権力による一方的な介入であること 3 。そしてもう一つは、これまで対等に近い関係であったはずの信直が、秀吉の権威を背景に一方的に自らの上位者として君臨することであった 2 。彼の決起は、信直個人への憎悪だけでなく、秀吉によって踏みにじられた一族の誇りと、独立領主としての地位を守るための戦いという側面を色濃く持っていた。

すなわち、「九戸城の戦い」の本質は、封建的な主従関係における「家臣の主君への反乱」という単純な図式では捉えきれない。それは、中世的な分権体制の中で実力を以て並立していた旧来の秩序が、豊臣政権という新たな中央集権体制の下で序列化され、組み伏せられていく過程で発生した、時代の転換点を象徴する激突であった。戦国時代の論理と、安土桃山時代の論理が最後に衝突した「国家統一戦争の最終局面」だったのである。

第二部:合戦のリアルタイム・クロニクル

第三章:決起 ― 天正十九年、政実、反旗を翻す(1591年1月~8月)

天正19年(1591年)正月。南部信直が本拠とする三戸城で開かれた年賀の儀に、九戸政実の姿はなかった 2 。この意図的な欠席は、豊臣政権とそれに連なる信直への明確な敵対の意思表示であり、事実上の宣戦布告であった。北奥州の空に、戦雲が急速に垂れ込めていく。

同年2月から3月にかけて、政実は行動を開始する。彼は南部宗家への不満を共有する櫛引氏、七戸氏、久慈氏といった周辺の有力一族を糾合。さらに、先の奥州仕置で所領を失った旧和賀・稗貫の浪人衆をも加え、その軍勢は約5,000に膨れ上がった 2

緒戦は、九戸勢の圧倒的な優位に進んだ。政実が率いる軍勢は精強であり、南部信直方の拠点である櫛引清長の苫米地城、伝法寺城、一戸城などを瞬く間に攻略していく 2 。信直は三戸城で防戦一方となり、家中からは九戸方に寝返る者も続出する有様で、完全に窮地に陥った 3

自力での鎮圧はもはや不可能と悟った信直は、最後の望みを託し、嫡男の利直と重臣の北信愛を上方に派遣。天下人・豊臣秀吉に九戸政実討伐の援軍を要請した 2 。この要請が、北奥州の一内乱を、天下を揺るがす大戦へと変貌させることになる。

第四章:見せしめの軍勢 ― 秀次を総大将とする討伐軍の編成と進路

九戸政実の決起と南部信直の窮状は、ただちに秀吉のもとへ届けられた。奥州仕置への反抗が、最大規模の武力蜂起となって再燃したことを重く見た秀吉の対応は、迅速かつ苛烈を極めた。

同年6月、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に任命し、奥州再仕置軍の編成を命じる 2 。その陣容は、およそ一地方勢力の鎮圧には不釣り合いなほど、豪華絢爛かつ巨大なものであった。蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政といった豊臣政権の中核を担う猛将たち 16 。そして、徳川家康、上杉景勝、佐竹義重といった関東・越後の大大名 17 。さらに、奥州からは伊達政宗、津軽為信、最上義光らが動員され、遠く蝦夷地の蠣崎慶広に至っては、アイヌの兵まで率いて参陣した 2

南部信直の軍勢と合流した討伐軍の総兵力は、最終的に6万から6万5千という未曾有の大軍に膨れ上がった 2 。九戸勢の10倍をはるかに超える兵力であり、後に軍勢が集結した九戸盆地は、人馬で埋め尽くされ身動きが取れないほどであったと伝えられている 2

この過剰とも言える戦力投入は、軍事的な合理性だけでは説明できない。そこには、秀吉の冷徹な政治的計算が働いていた。わずか5,000の九戸勢を殲滅するのに、これほどの大軍は不要である 19 。その真の狙いは、奥州の他の勢力に対する強烈な「見せしめ」にあった。特に、伊達政宗や津軽為信といった、少し前まで豊臣政権に完全に従順とは言えなかった奥州の有力大名を討伐軍に組み込むことには、複数の意図が隠されていた。第一に、彼らの軍事力を豊臣政権のために利用させること。第二に、彼らが九戸方に加担する可能性を完全に断ち切ること。そして第三に、彼ら自身の旧来の秩序を自らの手で破壊させることで、「我々は豊臣政権の一員である」という意識を植え付け、忠誠の踏み絵を踏ませることである。これは、抵抗勢力を殲滅すると同時に、奥州の新たな支配秩序を諸大名に体感させる、壮大な政治的パフォーマンスであった。

項目

九戸方(抵抗勢力)

豊臣方(奥州再仕置軍)

総兵力

約5,000人

約60,000~65,000人

総大将

九戸政実

豊臣秀次

主要構成武将

九戸実親、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、姉帯兼興など

[中央軍] 蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政 [東国大名] 徳川家康、上杉景勝、佐竹義重、伊達政宗、最上義光、津軽為信、秋田実季、小野寺義道、蠣崎慶広など

動員基盤

九戸郡を中心とする北奥羽の在地領主連合、反豊臣の浪人衆

豊臣政権の命令による東国諸大名の総動員

第五章:前哨戦の悲劇 ― 姉帯・根反城、落城(9月1日)

天正19年(1591年)8月下旬、奥州再仕置軍は北上を完了し、南部領へと進撃した。8月23日には、九戸方の将・小鳥谷摂津守がわずか50名の兵で討伐軍の先鋒に奇襲をかけ、480人に損害を与えるというゲリラ戦を展開したが、大勢には影響を及ぼさなかった 5 。そして、運命の9月1日、討伐軍は九戸城の喉元に位置する前哨基地、姉帯城と根反城に牙を剥いた 2

馬淵川北岸の断崖上に築かれた山城・姉帯城では、この戦いの悲劇性を象徴する壮絶な戦闘が繰り広げられた 7 。城主は、姉帯兼興・兼信の兄弟。彼らは、雲霞のごとく押し寄せる大軍を前にしても一切怯むことなく、城門を開け放つと、城兵を率いて敵陣の只中へと斬り込んでいった 7

圧倒的な兵力差の中、奮戦も虚しく、弟の兼信は敵兵と刺し違えて討死。兄の兼興もまた、全身に無数の傷を負い、もはやこれまでと覚悟を決めると、乱戦の最中、馬上にて自らの腹を切り裂き、壮絶な最期を遂げたと軍記物は伝えている 7

姉帯城、そして時を同じくして根反城も陥落。この前哨戦の勝利により、討伐軍は九戸城を完全に孤立させることに成功した。姉帯兄弟の死は、九戸方の士気に衝撃を与えたと同時に、豊臣方の容赦ない殲滅の意志を北奥の地に知らしめるものであった。

第六章:三日間の攻防 ― 難攻不落、九戸城の籠城戦(9月2日~4日)

9月2日、前哨戦を制した討伐軍は、ついに九戸政実が籠る本丸・九戸城の完全包囲を完成させ、総攻撃の火蓋を切った 2 。九戸城は、馬淵川と白鳥川が合流する地点の断崖絶壁を天然の要害とし、その周囲を深い空堀と高く切り立った土塁で固めた、当代屈指の堅城であった 2 。特に、本丸へと至る虎口(出入り口)は、直進できないようクランク状に屈曲しており、侵入しようとする敵兵を正面と左右の三方向から集中攻撃できる巧みな設計になっていた 15 。天正期城郭の防御思想を色濃く反映した、まさに難攻不落の要塞である。

城兵の士気は極めて旺盛であった。約5,000の籠城兵は、10倍以上の敵を前にしても臆することなく、鉄砲を効果的に用いて頑強に抵抗した 15 。時には城門を開いて打って出て、城壁に取り付こうとする敵の梯子隊に奇襲をかけるなど、巧みな戦術で討伐軍に多くの死傷者を出した 3

討伐軍を率いる蒲生氏郷や浅野長政といった歴戦の将たちも、この堅固な守りを前に攻めあぐねた。浅野長政が後に発した書状には「塀際まで攻め寄せた」と記されているものの、城を容易に陥落させられなかった苦戦の様子がうかがえる 2

近年の九戸城跡の発掘調査は、籠城側の高い戦闘能力と周到な準備を裏付けている。二ノ丸跡からは、漆や金泥で美しく装飾された鎧の部品(札)が、漆塗りの道具と共に発見されており、城内に武具を生産・修理するための工房が存在した可能性が高い 21 。また、火縄銃の弾丸を鋳造するための鋳型も見つかっており、弾薬の自給体制を整えていたことも示唆される 21 。これらは、九戸勢が単なる烏合の衆ではなく、長期の籠城戦を想定し、高い兵站能力と技術力を有した精鋭であったことを物語っている。三日間にわたる攻防は、討伐軍に力攻めの限界を痛感させるに十分であった。

第三部:終焉と新生

第七章:謀略の降伏勧告 ― 薩天和尚の役割と政実の決断

9月4日、三日間の猛攻にもかかわらず九戸城を陥落させることができず、いたずらに死傷者を増やし続ける状況に、討伐軍の首脳陣は焦りを募らせていた。蒲生氏郷や浅野長政らは、これ以上の力攻めは得策ではないと判断し、武力による攻略から謀略へと戦術を転換する 3

彼らが白羽の矢を立てたのは、一人の僧侶であった。九戸家の菩提寺である長興寺の住職、薩天和尚である 18 。薩天は政実と幼馴染であったとも伝えられ、政実が深く信頼を寄せる人物であった 5 。討伐軍は、この薩天を使者として城内へ送り込み、偽りの和議を持ちかけた。

薩天が政実に伝えた降伏の条件は、破格とも言えるものであった。「政実殿の武勇は実に見事である。これ以上の戦いは無益。もし降伏し開城するならば、城内にいる兵士や女子供の命は一切取らず、安全を保証しよう。また、此度の蜂起についての弁明の機会も設ける」 18

城内では、この申し出を巡って激論が交わされた。謀略を疑い、徹底抗戦を主張する声も少なくなかった 8 。しかし、政実は冷静に戦況を分析していた。兵糧や弾薬には限りがあり、10倍以上の兵力を持つ敵の包囲を突破することは不可能に近い。これ以上の籠城は、いたずらに城内の者たちの命を危険に晒すだけである。政実は、自らの首と引き換えに、一人でも多くの家臣や領民の命を救う道を選んだ。

苦渋の決断を下した政実は、弟の実親に城の守りを託すと、七戸家国ら主だった武将たちと共に、髪を剃り落として出家の姿となり、死を覚悟した白装束を身にまとって、静かに城門を出た 3 。ここに、三日間にわたる九戸城の攻防戦は、一応の終結を見た。

第八章:二ノ丸の惨劇 ― 約束の反故と撫で斬り

九戸政実らが投降し、城門が開かれた瞬間、討伐軍は和議の約束を反故にした。それは、戦国時代の終焉を飾るにあまりにも凄惨な、裏切りと殺戮の始まりであった。

政実らの身柄が確保されるや否や、寄せ手は一斉に城内へと雪崩れ込み、抵抗する術を持たない城兵たちを制圧した 15 。そして、城内に残っていた兵士、その家族、さらには女子供に至るまで、全てを二ノ丸へと追い込んだ 14 。そこで繰り広げられたのは、一方的な虐殺であった。助命の約束は、一片の紙切れよりも軽く扱われた。城兵たちは容赦なく斬り殺され、これを「撫で斬り」という 18

殺戮が終わると、討伐軍は二ノ丸に火を放った。猛火は三日三晩燃え盛り、夜空を焦がしたと伝えられている 15 。この地獄絵図は、豊臣政権に逆らう者がどのような運命を辿るかを、奥州の全ての人々の脳裏に焼き付けるための、残忍な儀式であった。

この「撫で斬り」は、後世の軍記物による誇張ではない。九戸城二ノ丸跡の発掘調査では、おびただしい数の人骨が出土している。それらの骨には無数の刀傷や刺突痕が残されており、中には女性や子供のものも含まれていることが科学的な鑑定で確認されている 15 。考古学は、史料に記された惨劇が紛れもない事実であったことを、無言のうちに証明している。

この撫で斬りという殲滅戦術の採用は、単なる戦後処理の逸脱ではない。それは、織田信長による比叡山焼き討ちや、秀吉自身が行った三木城の「干殺し」にも通じる、抵抗勢力を根絶やしにすることで支配を確立するという、豊臣政権の冷徹な統治思想の体現であった 26 。抵抗勢力そのものを物理的に消滅させると同時に、その凄惨な記憶を恐怖として植え付けることで、将来にわたる反乱の芽を心理的にも摘み取る。軍事行動が、そのまま情報戦・心理戦として機能する、高度な政治的暴力であった。

一方、投降した九戸政実、弟の実親ら首謀者たちは、総大将・豊臣秀次の陣に連行された後、約束された弁明の機会を与えられることもなく、三ノ迫(現在の宮城県栗原市)にて斬首された 8 。政実の首は、その後秀吉のもとへ送られ、京の聚楽第の橋に晒されたと伝えられている 15 。享年56歳であった 8

第九章:戦後処理と北奥州の新秩序 ― 南部信直の盛岡藩創設へ

九戸一族の滅亡をもって、北奥州における豊臣政権への組織的抵抗は完全に終息した。戦後の処理は、新たな秩序の構築へと速やかに移行した。

乱の鎮圧後、討伐軍の中から蒲生氏郷がこの地に残り、戦場となった九戸城を近世的な城郭へと改修する任にあたった 5 。石垣を多用し、防御機能を強化した城は、南部信直へと引き渡される。信直は長年の本拠であった三戸城からこの地へ居城を移し、名を「福岡城」と改めた 3 。これにより、信直は名実ともに南部領の唯一の支配者としての地位を確立した。

しかし、蒲生氏郷や浅野長政は、信直に対し「福岡(九戸)の地は、広大な南部領を治めるには北に偏りすぎている」と助言した 28 。この進言を受け入れた信直は、領国のほぼ中央に位置し、北上川と中津川が合流する水運の要衝でもある不来方(こずかた)の地に、新たな本拠地を築くことを決意する 28

信直の命を受けた嫡男・利直によって、慶長3年(1598年)頃から本格的な築城が開始されたこの城こそが、後の盛岡城である 28 。湿地帯を埋め立てる大規模な工事を経て、城と城下町が建設されていった 31 。この盛岡城への本拠地移転は、南部氏が戦国大名から近世大名へと脱皮し、江戸時代を通じて20万石を治める盛岡藩の礎を築く、歴史的な一大事業となった 16

一方、滅亡した九戸一族であるが、その血脈が完全に途絶えたわけではなかった。政実の弟たちのうち、唯一豊臣方についていた中野康実の家系は、乱後も南部家臣として存続を許された 13 。中野氏は、八戸氏、北氏と共に南部藩の家老職を世襲する「御三家」の一つとして重きをなし、その血筋は幕末まで続いていくことになる 33

終章:歴史的意義と後世への遺産

九戸城の戦いは、豊臣秀吉の天下統一事業における、真の最終章であった。一般には天正18年(1590年)の小田原征伐をもって天下統一の完成と見なされることが多いが、日本国内における大規模かつ組織的な武力抵抗を終結させたという意味において、この九戸城の戦いこそが、事実上の「天下統一最後の戦い」と呼ぶにふさわしい 5 。この戦いの後、秀吉は国内の憂いを完全に取り除き、その野望を朝鮮半島へと向けることになる 3

また、この戦いの歴史的評価も時代と共に変化してきた。かつては、勝者である豊臣・南部側の視点から、政実の行為を主君への反逆と断じる「九戸政実の乱」という呼称が一般的であった 10 。しかし近年では、敗者側の視点や、豊臣政権の強引な政策への抵抗という側面を重視する研究が進み、より中立的な「九戸一揆」や「九戸合戦」といった呼称も用いられるようになっている 10 。これは、歴史が一つの視点からのみ語られるべきではないという、現代的な歴史認識の深化を反映している。

そして何よりも、この戦いは地域に深い記憶を刻み込んだ。岩手県二戸市に残る国指定史跡・九戸城跡は、東北最古級とみられる石垣や、天正期の様式を伝える虎口跡など、往時の激戦を今に伝えている 3 。また、政実の故郷である九戸村には、九戸氏代々の菩提寺である長興寺や、政実が出陣の際に手植えしたと伝わる大イチョウ、そして斬首された首が密かに持ち帰られ葬られたという伝説の地に建つ九戸神社など、ゆかりの地が数多く存在する 3

地元において、九戸政実は単なる謀反人ではない。中央の巨大な権力に対し、郷土の誇りと一族の存亡をかけて最後まで戦い抜いた悲劇の英雄として、今なお語り継がれている 9 。九戸城の戦いは、戦国という時代が終わりを告げ、新たな秩序が誕生する際の、壮絶な産みの苦しみであった。その記憶は、勝者の歴史の陰で、北奥の地に深く、そして静かに息づいているのである。

参考資料

年月日

出来事

関連資料

天正10年 (1582)

南部晴政・晴継が相次いで死去。南部信直が家督を継承し、九戸氏との対立が先鋭化。

2

天正18年 (1590) 7月

南部信直、小田原にて豊臣秀吉に臣従。南部七郡の安堵を受ける。

1

天正18年 (1590) 10月~

葛西大崎一揆など、奥州各地で反豊臣一揆が勃発。

5

天正19年 (1591) 1月

九戸政実、三戸城での年賀挨拶を欠席し、敵対姿勢を明確化。

2

天正19年 (1591) 3月

政実が挙兵。南部信直方の諸城を攻撃し、戦闘が本格化。

2

天正19年 (1591) 6月

秀吉、豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍の派遣を決定。

2

天正19年 (1591) 8月23日

小鳥谷にて、九戸方の奇襲により緒戦が開始。

5

天正19年 (1591) 9月1日

討伐軍、姉帯城・根反城を攻略。

5

天正19年 (1591) 9月2日

討伐軍、九戸城の包囲を開始。攻城戦が始まる。

2

天正19年 (1591) 9月4日

討伐軍の謀略により政実が降伏。城兵の撫で斬りと政実らの処刑。

5

天正19年 (1591) 9月~

蒲生氏郷による九戸城改修。南部信直が居城を移し「福岡城」と改称。

3

文禄元年 (1592)~

信直、不来方(盛岡)への新城建設を計画。

28

引用文献

  1. 九戸政実(くのへ まさざね) 拙者の履歴書 Vol.151~義に殉じた叛臣 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf65a22bd17cf
  2. 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2318
  3. 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
  4. 九戸政実はなぜ、秀吉に喧嘩を売ったのか - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2017/06/24/233000
  5. 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
  6. 【岩手県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 九戸政実の乱〜豊臣秀吉の天下統一最後の戦い https://www.youtube.com/watch?v=xhOlAowsdFc
  7. 九戸政実ガイドブック - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/053/589/guidebook.pdf
  8. 九戸政実とは 豊臣秀吉天下統一最後の相手 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/kenpoku/nino_chiiki/1053577/1053578/index.html
  9. 岩手県二戸市九戸城跡 https://www.city.ninohe.lg.jp/info/2324
  10. 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
  11. 「九戸政実」分家ながら南部宗家と並ぶ家柄。天下人秀吉と南部宗家に挑んだ男! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/40
  12. 「南部氏に反乱」は脚色 - 近世こもんじょ館 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/topics/topics_view.cgi?mode=details&code_no=64&start=
  13. 九戸政実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F
  14. 九戸城〜九戸政実〜 | 陸上競技クラブ オホーツクAC/キッズ監督 金子航太のブログ https://ameblo.jp/kanekouta0511/entry-12781755783.html
  15. 九戸城跡〜高橋克彦さんの『天を衝く』の舞台に行ってきたので感想と備忘録を少々 https://hojo-shikken.com/entry/2017/07/01/104257
  16. 盛岡方面にいったらぜひ立ち寄りたい九戸(くのへ)城、盛岡城と近世南部藩の成立を知る上で欠かせない城の魅力 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/85967
  17. 豊臣秀吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
  18. 九戸政実 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/251.html
  19. 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再仕置と北の精鋭・九戸軍大攻囲 https://sengoku-his.com/122
  20. 楽天トラベル:九戸城跡 つぶやき・クチコミ(たびノート) https://kanko.travel.rakuten.co.jp/iwate/spot/S3000231_review.html
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  24. 九戸政実と九戸党 - 北奥三国物語 https://www.goemonto.rexw.jp/kunohe01.html
  25. 【漫画】九戸政実の生涯~6万の豊臣軍と戦った武将の末路~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v9fDYraZDJ8
  26. 合戦の種類 ~野戦・海戦・攻城戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18695/
  27. 南部藩発祥の地 - 青森県南部町ホームページ https://www.town.aomori-nanbu.lg.jp/page/1842.html
  28. 盛岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E5%9F%8E
  29. 北の名城「盛岡城」に東北屈指の壮大な石垣が築かれた理由とは https://serai.jp/hobby/197197
  30. 「400年の遺恨」とは何だったのか 盛岡城と「三日月の丸くなるまで南部領」といわれた奥州の雄・南部家 | グルメ情報誌「おとなの週末Web」 https://otonano-shumatsu.com/articles/355420/3
  31. 盛岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/moriokajo/
  32. 東北で活躍した武将たち【戦国時代-江戸時代】 | 彡みちのく歴史フォト散歩 彡 https://rekipho.jugem.jp/?eid=24
  33. 九戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%B0%8F
  34. 特集 - 九戸城 - 二戸市 https://www.city.ninohe.lg.jp/Link/Pdf/1048