最終更新日 2025-09-07

亀ヶ城(猪苗代)攻防(1589)

天正17年、伊達政宗は蘆名氏の重臣・猪苗代盛国を調略し、亀ヶ城(猪苗代城)を無血開城させた。これにより会津盆地への道を開き、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした。

天正十七年、亀ヶ城開城:奥州の覇権を動かした無血の攻防と摺上原決戦のリアルタイム分析

序章:天下統一の波と奥州の動乱

天正17年(1589年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えつつあった。中央では関白・豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入り、その権威は遠く東国の諸大名にも及んでいた。秀吉は、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発令し、これに違反する者は容赦なく討伐の対象とする姿勢を明確にしていた 1 。この命令は、秩序をもたらす一方で、現状の勢力図を固定化させるものであり、領土拡大によって自らの存続を図ろうとする戦国の論理とは相容れないものであった。

この巨大な政治的圧力の渦中にあったのが、奥州の若き独眼竜、伊達政宗である。父・輝宗の非業の死を乗り越え、家督を継いだ政宗は、破竹の勢いで南奥州に勢力を拡大していた。しかし、その野望の前には、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏、そして相馬氏といった旧来の有力大名が結託した「反伊達包囲網」が立ちはだかっていた 3 。特に、会津四郡を支配下に置き、南奥州に広大な影響力を持つ蘆名氏の打倒は、政宗がこの地の覇者となるために避けては通れない最大の関門であった 5

一方で、その蘆名家もまた、深刻な脆弱性を内包していた。当主の蘆名義広は、もともと佐竹義重の次男であり、蘆名家の家督継承争いの末に養子として迎えられた経緯があった 7 。このため、家中には義広を支持する佐竹系の家臣団と、本来は政宗の弟・小次郎を後継者として推していた伊達派の譜代家臣団との間に深刻な対立が存在し、組織としての結束力は著しく損なわれていた 4

政宗にとって、この状況は好機であると同時に、大きな焦燥感をもたらすものであった。秀吉の東征軍が関東・奥州に到達するのは時間の問題であり、それまでに蘆名氏を打倒し、南奥州の支配を既成事実化しなければ、自らの野望は潰える。惣無事令という「時限爆弾」を前に、政宗は単なる力押しではない、より迅速かつ決定的な勝利を求める戦略を練り上げる必要に迫られていた。本報告書は、この緊迫した情勢下で、奥州の勢力図を一夜にして塗り替えることになる「亀ヶ城(猪苗代)攻防」と、それに続く「摺上原の戦い」の全貌を、リアルタイムの時系列で詳細に分析するものである。

第一部:亀ヶ城をめぐる胎動 ― 決戦への序曲

第一章:蘆名家の内憂 ― 会津に燻る不満の火種

天正17年当時、蘆名家の当主であった蘆名義広は、まだ15歳の若者に過ぎなかった 8 。彼の若さもさることながら、その出自が家中に根深い不和の種を蒔いていた。彼は北関東の雄・佐竹義重の次男であり、蘆名家の血を引いてはいたものの、外部から迎えられた当主であった 4 。この家督相続は、蘆名家中の総意とは言い難いものであった。

蘆名家では先代当主の死後、後継者を巡って家中が二分した。一方は、伊達政宗の弟・小次郎を推す「伊達派」。もう一方は、佐竹家との連携を重視し、義広を推す「佐竹派」である 4 。最終的に佐竹派が主導権を握り、義広の家督相続が実現したが、この過程で伊達派の重臣たちは強い不満を抱くこととなった。さらに、義広が会津に入る際、彼に付き従ってきた佐竹譜代の家臣たちが、蘆名の旧臣たちを見下すような態度をとったため、両者の間の軋轢は決定的なものとなった 4

この内部対立は、単なる派閥争いに留まらず、蘆名家の軍事・統治機構そのものを蝕んでいた。総大将である義広への忠誠心は希薄で、家臣団は一枚岩とは程遠い状態にあった。伊達政宗という強大な敵を前に、本来であれば総力を挙げて対抗すべき局面において、蘆名家は自らの内なる敵によって、その力を大きく削がれていたのである。この組織的な脆弱性こそが、政宗の調略が付け入る最大の隙となった。

第二章:猪苗代氏の葛藤 ― 裏切りに至る道

亀ヶ城、別名・猪苗代城は、会津盆地の東の入り口、猪苗代湖の北岸に位置し、会津若松に本拠を置く黒川城へと至る街道を扼する、軍事上の極めて重要な拠点であった 3 。この城を代々治めてきた猪苗代氏は、蘆名一門という高い家格を誇りながらも、その歴史は宗家に対する反逆と従属の繰り返しであり、強い自立性を有する一族として知られていた 10

当時の当主・猪苗代盛国は、複雑な個人的事情と政治的不満を抱えていた。まず、深刻な家庭内の不和があった。盛国は嫡男である盛胤と不仲であり、後妻との間に生まれた次男・宗国を溺愛していた 11 。その愛情は常軌を逸し、天正16年(1588年)、盛胤が主君への挨拶のために黒川城へ出仕している留守を狙い、実力で猪苗代城を乗っ取って嫡男を追放するという暴挙にまで及んでいた 11 。この行動は、彼が自らの家と立場を守るためには、いかなる手段も厭わない人物であることを示している。

さらに、政治的な立場も彼の決断に影響を与えた。盛国は、先の蘆名家督相続問題において、伊達派の重鎮として活動していた 3 。そのため、佐竹家から来た義広が当主となった新体制下では、冷遇され、その影響力を削がれていた可能性が高い。個人的な野心と家中の対立が絡み合い、盛国は蘆名家に対して強い不満と危機感を募らせていた。

この状況を、伊達政宗と彼の智謀の臣・片倉景綱が見逃すはずはなかった。彼らは水面下で盛国への調略を周到に進めていた 3 。盛国にとって、伊達への内応は、もはや単なる裏切りではなかった。それは、自らが引き起こした家督問題の正当化と、蘆名家中で失った政治的地位の回復を同時に実現する、まさに起死回生の一手だったのである。

利用者様が問う「亀ヶ城攻防」の本質は、ここにある。それは、城壁を挟んだ物理的な戦闘ではなかった。むしろ、政宗による盛国への執拗な調略という「攻め」と、家臣の離反を未然に防ぐことができなかった蘆名家の組織的欠陥という「守りの脆さ」がぶつかり合った、水面下の情報戦・心理戦であった。政宗は、一兵も損なうことなく、会津攻略の最大の鍵となる戦略拠点を手中に収めようとしていたのである。

第二部:運命の六月五日 ― 摺上原の激闘

第一章:前夜 ― 猪苗代城、動く(天正十七年五月下旬~六月四日)

天正17年4月から5月にかけて、伊達政宗は周到な作戦行動を開始した。まず、相馬領へ侵攻し、次いで蘆名方の安子島城や高玉城を攻撃した 3 。これらの動きは、一見すると散発的な領土拡大作戦に見えたが、その真の狙いは、蘆名・佐竹連合軍を本来の主戦場である会津から引き離し、仙道筋(現在の中通り地方)におびき出すための巧妙な陽動作戦であった 6

政宗の狙い通り、5月27日、蘆名義広と実父の佐竹義重は須賀川に出陣し、伊達方の動きに対応する構えを見せた 6 。彼らが仙道筋に釘付けになっている間に、政宗の計画は最終段階へと移行する。

  • 6月1日 : 運命の日が動く。猪苗代盛国から、伊達への内応を確約する最終的な書状が政宗のもとに届けられた 6
  • 6月1日~3日 : この確約を受け、片倉景綱、原田宗時といった伊達軍の精鋭部隊が、夜陰に紛れて次々と猪苗代城へと密かに集結を開始する 6 。会津盆地の入り口に、伊達の大軍が静かに、しかし着実に橋頭堡を築きつつあった。
  • 6月4日 : 須賀川に布陣していた蘆名・佐竹連合軍のもとに、猪苗代城が伊達の手に落ちたという凶報が届く。義広と義重は驚愕した 6 。自らの本拠地である黒川城の喉元に、敵の大軍が突如として出現したのである。これは作戦の完全な破綻を意味した。連合軍は目標を放棄し、大混乱の中で撤退を開始。佐竹軍は白河へ、そして蘆名軍は猪苗代湖の南岸を迂回する困難なルートで、本拠地・黒川城へと潰走に近い形で引き返していった 6
  • 同日深夜 : 敵が混乱のうちに撤退する中、政宗は好機を逃さなかった。自ら本隊を率いて夜間行軍を強行し、猪苗代城に入城した 12 。ここに、蘆名家の心臓部への扉は、完全に開かれたのである。

第二章:決戦、摺上原(六月五日)

黒川城に帰還した蘆名義広に、選択の余地はなかった。喉元に突きつけられた刃を放置することはできない。彼は疲弊した兵を再編し、決戦を挑むべく出陣する。一方、猪苗代城で全軍の集結を終えた政宗も、これを迎え撃つべく進軍を開始した。両軍は、磐梯山の南麓に広がる摺上原で対峙することとなる。奥州の覇権を決する戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。

摺上原の戦い:両軍の兵力と主要武将

伊達軍

総兵力: 約23,000 6

総大将

伊達政宗

一番隊(先陣)

猪苗代盛国

二番隊

片倉景綱

三番隊

伊達成実

四番隊

白石宗実

左翼

大内定綱

右翼

片平親綱

その他

原田宗時、浜田景隆

蘆名軍

総兵力: 約16,000 6

総大将

蘆名義広

先鋒

富田将監(隆実)

二陣

佐瀬種常

三陣

松本輔弘

その他

金上盛備、平田氏、二階堂氏

黎明~午前:西風、蘆名に吹く

  • 午前6時~8時頃 : 夜明けと共に、蘆名軍は猪苗代湖畔の民家に火を放ち、その煙を合図に気勢を上げた 19 。午前8時頃、磐梯山麓の摺上原にて、両軍の先鋒が激突。戦端が開かれた 5
  • 蘆名軍優勢 : 戦いが始まった当初、戦場の天候は蘆名軍に味方した。磐梯山から吹き下ろす強い西風が追い風となり、巻き上げられた砂塵が東に布陣する伊達軍の視界を奪った 2
  • 先鋒の激闘 : この有利な状況下で、蘆名軍の先鋒・富田将監が率いる部隊は鬼神の如き働きを見せる。彼らは、伊達軍の先陣を務める猪苗代盛国の部隊を瞬く間に撃破。その凄まじい勢いは止まらず、続く第二陣の片倉景綱、第三陣の伊達成実の部隊までも突き崩し、政宗の本陣に肉薄するほどの猛攻を展開した 5 。政宗は、緒戦において予期せぬ苦戦を強いられることとなった。

正午~午後:風向き、戦況を変う

  • 天候の急変 : 一進一退の攻防が続く中、昼過ぎに戦局を左右する決定的な変化が訪れる。それまで西から吹いていた風が、突如として東風に変わったのである。今度は伊達軍が追い風となり、逆に蘆名軍が砂塵と逆風に苦しむ立場へと転落した 2
  • 伊達軍の反撃 :
  • 側面攻撃 : この好機を逃さず、伊達成実や白石宗実らの部隊が、崩れかけた戦線を立て直すべく敵本隊へと猛然と突撃を開始した。一部の部隊は磐梯山の山麓を大きく迂回し、混乱する蘆名軍の側面を突く機動を見せた 12
  • 片倉景綱の奇策 : 戦況が膠着する中、軍師・片倉景綱は戦場心理を巧みに利用した奇策を放つ。彼は、戦場の近くにある丘の上から合戦の様子を見物していた大勢の農民や町人たちに向け、鉄砲隊に威嚇射撃を命じたのである 6
  • 心理的連鎖 : 突然の銃声に驚いた見物人たちは、パニックに陥り、我先にと西、すなわち蘆名軍の後方へと向かって逃げ出した。この光景を目の当たりにした蘆名軍の後続部隊は、これを味方の部隊が敗走しているものと完全に誤認。元々、当主・義広への忠誠心が低く、疑心暗鬼に陥っていた家臣団は、この一つのきっかけで連鎖的に統制を失い、逃げ始める兵が続出した 7

終焉:日橋川の悲劇

  • 総崩れ : 一度発生したパニックは、もはや若き総大将・義広の命令では収拾不可能であった。前線で奮戦していた部隊も後方の混乱に巻き込まれ、蘆名軍は全面的な総崩れ状態に陥った 7
  • 退路の遮断 : 敗走する蘆名兵が唯一の退路である日橋川に殺到した。しかし、そこに架かる橋は、事前に伊達方に内応していた猪苗代盛国の手によって、破壊・撤去されていたのである 5 。これは、偶然の風向きの変化とは異なり、周到な準備によってもたらされた必然の罠であった。
  • 壊滅 : 退路を完全に断たれた蘆名軍の兵士たちは、川の激流に飲み込まれて溺死するか、背後から追撃してくる伊達軍の刃の前に次々と討ち取られていった。この合戦における蘆名軍の死者は2,000人から2,500人にのぼったと伝えられ、軍は事実上壊滅した 5

摺上原の戦いの勝敗は、風向きの変化という「偶然」と、片倉景綱の奇策や猪苗代盛国の工作といった「必然」が交錯して決した。しかし、その根底には、一つのきっかけで全軍が崩壊してしまうほどに脆くなっていた蘆名家の組織的脆弱性があった。天運は確かに政宗に味方したが、その天運を掴み取り、勝利を決定的なものにしたのは、事前の情報戦、戦場での心理戦、そして敵の内部崩壊という、人間が生み出した要因であった。

第三部:覇者の誕生と落日の影

第一章:黒川城、無血開城(六月六日~十一日)

摺上原での壊滅的な敗北の後、蘆名義広は僅かな供回りとともに、命からがら本拠地である黒川城へと逃げ帰った 6 。しかし、城に戻った彼を待っていたのは、絶望的な現実であった。主力軍は壊滅し、離反する家臣も相次ぎ、もはや伊達の大軍を支えきることは不可能であった 21

万策尽きた義広は、6月10日の夜、累代の居城である黒川城を放棄。実父である佐竹義重を頼り、常陸へと落ち延びていった 5 。これにより、鎌倉時代から会津地方に君臨してきた名門・蘆名氏は、戦国大名としての歴史に幕を閉じたのである。

その翌日、6月11日、伊達政宗は一切の抵抗を受けることなく、悠々と黒川城に入城した 5 。政宗はこの地を新たな本拠と定め、居城を米沢から移転。名実ともに南奥州の覇者としての地位を確立した。この勝利により、伊達家の勢力は会津、大沼、河沼、耶麻の会津四郡に加え、安積郡や仙道方面にも及び、その所領は奥羽合わせて30余郡に達したと記録されている 1

第二章:束の間の栄光

摺上原での圧勝と黒川城の無血開城は、伊達政宗の生涯における軍事的成功の頂点であった。しかし、その輝かしい栄光は、皮肉にも極めて短いものであった。この一連の会津侵攻は、豊臣秀吉が発令した惣無事令を公然と無視する行為であり、天下人の権威に対する明白な挑戦と見なされたのである 1

案の定、中央の豊臣政権は政宗の行動を厳しく非難した。秀吉は政宗に対し、会津侵攻の真意を問う詰問状を送りつけ、弁明を求めた 1 。政宗は、「此度の戦は蘆名方から仕掛けてきたものである」と釈明の書状を送るが、秀吉がそれを鵜呑みにすることはなかった 22

この事件が伏線となり、翌天正18年(1590年)、秀吉が北条氏を討伐するために小田原へ出陣した際、政宗の立場は極めて苦しいものとなる。小田原への参陣に遅れた政宗は、秀吉の前に白装束で出頭し、死を覚悟で許しを乞わねばならなかった 1 。結果として一命は取り留めたものの、惣無事令違反の罪は免れず、苦心の末に手に入れた会津領をはじめとする多くの領地を没収されることとなった 1 。摺上原の勝利は、政宗に南奥州の覇権という束の間の夢を見せたが、同時に、もはや一個人の武勇や戦略だけでは抗うことのできない、天下統一という巨大な時代の潮流を彼に痛感させる結果となったのである。

結論:亀ヶ城の一手が決定づけた奥州の未来

本報告書で詳述した通り、天正17年(1589年)の「亀ヶ城(猪苗代)攻防」は、城壁をめぐる物理的な戦闘ではなく、伊達政宗の情報戦と調略がもたらした「無血の戦略的勝利」であった。会津盆地の喉元を扼するこの要衝を、戦わずして手中に収めたことは、単に一つの城を得た以上の意味を持っていた。この一手により、政宗は蘆名軍を本来の防衛線から引きずり出し、決戦の場所、時期、そして状況の全てにおいて主導権を完全に掌握することに成功したのである。猪苗代盛国の内応は、一個人の裏切りという次元を超え、戦全体の力学を根底から覆した、まさに決定的な一撃であった。

この戦略的勝利が導いた摺上原での決戦は、奥州に割拠した戦国大名同士による、最大にして最後の組織的野戦となった。この戦いの結果、南奥州に一時的ながらも絶対的な覇者が誕生した。しかし、その覇者もまた、豊臣秀吉という天下人が主導する、より大きな時代の潮流に抗うことはできなかった。

亀ヶ城の静かなる開城から始まった一連の出来事は、伊達政宗の野望の頂点を示すと同時に、奥州における「戦国の時代の終わり」と、中央集権体制への移行を象徴する画期的な事件であったと結論づけることができる。それは、個々の武将の力が天下を動かした時代が終焉を迎え、新たな秩序が到来したことを、奥州の地に鮮烈に刻み込んだのである。

引用文献

  1. 伊達政宗の会津攻めと奥羽仕置き http://datenokaori.web.fc2.com/sub73.html
  2. 天正17年(1589)6月5日は摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り南奥州を制覇した日。東側に布陣した伊達軍と西側の蘆名軍は始め蘆名軍が優勢な戦況だった。しかし強い風が西から東へかわり形成は - note https://note.com/ryobeokada/n/n63f7162dd6e8
  3. 摺上原の戦い〜伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし奥州の覇者にをわかり ... https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/957/
  4. 【マイナー武将列伝】蘆名義広 政宗に破れた男が最後に残したもの - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hXIJPcR9A9Q
  5. 摺上原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%BA%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 摺上原の戦い~伊達政宗、葦名義広を破り、南奥州の覇者となる | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3973
  7. 摺上原古戦場の会津蘆名四部将の墓碑を訪ねて_2024年6月 - note https://note.com/pukupuku2021/n/na1b50507097a
  8. 蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9599
  9. 1 姫妖怪の棲む城・猪苗代城|sugaT - note https://note.com/sugat/n/n64a4e62fd265
  10. 猪苗代城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E5%9F%8E
  11. 猪苗代盛国- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%B1%AC%E8%8B%97%E4%BB%A3%E7%9B%9B%E5%9C%8B
  12. 武家家伝_葦名氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asina_k.html
  13. 猪苗代盛国 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/inawashiro.html
  14. 摺上原の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Suriagehara.html
  15. 摺上原の戦いと会津の伊達政宗 https://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page030.html
  16. [合戦解説] 10分でわかる摺上原の戦い 「伊達政宗は風をも味方につけ蘆名軍を殲滅!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=A_oAOJ78apY
  17. G-46.摺上原古戦場 | エリア情報とジオサイト - 磐梯山ジオパーク https://www.bandaisan-geo.com/geosite/area_g/g-46/
  18. 猪苗代城(福島県耶麻郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/1059
  19. 摺上原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/suriagehara/suriagehara.html
  20. 人取橋(ひととりばし)と摺上原(すりあげはら)の戦い | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%BA%E5%8F%96%E6%A9%8B%EF%BC%88%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B0%E3%81%97%EF%BC%89%E3%81%A8%E6%91%BA%E4%B8%8A%E5%8E%9F%EF%BC%88%E3%81%99%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%AF%E3%82%89/
  21. 政宗の覇業「摺上原の戦い」Battle of Suriagehara - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6XsIGf1SFI8
  22. 歴史の目的をめぐって 伊達政宗 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-16-date-masamune.html