最終更新日 2025-09-10

亀田城包囲(1600)

慶長五年 奥羽情勢における亀田城の戦略的価値と上杉勢庄内口侵攻作戦の全貌

序章:天下分け目の刻、北国の胎動

慶長3年(1598年)8月、天下人豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、日本は再び激動の時代へと突入した。秀吉が遺した幼い遺児・秀頼を戴く豊臣政権は、五大老と五奉行による集団指導体制へと移行したが、その均衡はあまりにも脆いものであった。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じてその影響力を急速に拡大させ、天下の覇権掌握に向けた野心を露わにしていく 1 。これに対し、五奉行の一人である石田三成は、豊臣家への忠義を掲げ、家康との対立を深めていった。中央政情におけるこの二大勢力の角逐は、やがて日本全土の大名を巻き込む巨大な渦となり、関ヶ原の戦いという形で噴出することになる。そして、この天下分け目の大戦と時を同じくして、遠く離れた奥羽の地でもう一つの関ヶ原、すなわち「慶長出羽合戦」の火蓋が切られようとしていた。本報告書で詳述する「亀田城包囲」は、この奥羽における大戦の、特に日本海側に面した庄内口戦線で展開された一連の軍事行動の中核をなす事象である。

豊臣秀吉の死と徳川家康の台頭

秀吉の死後、家康は巧みな政治手腕で豊臣恩顧の大名をも自陣営に取り込み、その権勢は日に日に増大した 3 。この動きを豊臣家に対する明白な脅威と見なしたのが、上杉景勝と石田三成であった 1 。特に三成と上杉家家老・直江兼続は深い親交があったとされ、両者は反家康という点で固く結びついていた 1 。豊臣政権下で形成された権力構造の歪みは、家康派と反家康派という明確な対立軸を生み出し、もはや武力衝突は避けられない情勢へと突き進んでいた。

会津の上杉景勝と「直江状」

上杉景勝は、秀吉の命により越後から会津120万石へと移封されていた 1 。この国替えは、関東の家康を背後から牽制するという秀吉の深謀遠慮によるものであったが、結果として上杉氏と、その領地に隣接する最上氏との間に深刻な地政学的緊張を生み出すことになった。慶長5年(1600年)、家康は景勝が会津で神指城の築城や武具の収集といった軍備増強を進めていることを謀反の疑いありとし、弁明のための上洛を命じた 5

これに対し、上杉家家老の直江兼続が返信したとされるのが、世に名高い「直江状」である。この書状は、家康の詰問に対し、理路整然と、しかし極めて挑発的な文言で反論するものであった 1 。この返書に激怒した家康は、上杉家の謀反を天下に公表し、諸大名を動員しての会津征伐を決定する。慶長5年6月、家康自ら率いる大軍が、大坂城から会津へ向けて進発した 1 。これは、まさに石田三成らが待ち望んでいた好機であった。家康が畿内を留守にした隙を突き、三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げて西軍を組織し、挙兵に踏み切ったのである 2

最上義光の立場

この奥羽における動乱の中心人物の一人が、出羽山形24万石の大名、最上義光である。義光の立場は、上杉景勝とは対照的であった。

上杉への積年の遺恨

最上氏と上杉氏の間には、庄内地方の領有を巡る根深い対立の歴史があった。義光は一時期、庄内地方を勢力下に収めたが、天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いで上杉家臣の本庄繁長に大敗を喫し、庄内を奪われていた 8 。その後、上杉氏が会津へ移封された際、庄内も上杉領として安堵されたため、最上領は南の置賜、西の庄内という二方向から仇敵である上杉領に挟まれる形となった 1 。この領土配置は、最上氏にとって常に存亡の危機を意識させるものであり、両者の衝突は構造的に不可避であった。この対立構造は、単なる領土問題に留まらず、豊臣政権末期の中央政争における「代理戦争」の様相を呈していた。秀吉は家康牽制のために上杉を会津に置いたが、その結果として生じた上杉領の分断と、その間に怨敵・最上領が存在するという不安定な状況は、家康にとって奥羽介入の絶好の機会となったのである。

家康との連携

義光は、娘の駒姫が豊臣秀次事件に連座して非業の死を遂げた一件もあり、早くから家康に接近していた 1 。家康もまた、奥羽における上杉包囲網の要として義光を重視し、会津征伐に際しては、義光を奥羽諸将を束ねる東軍の主将格として遇した 2 。家康と三成の対立が激化する中で、家康は義光を自身の代理人として巧みに利用し、上杉(三成方)対 最上(家康方)という、中央政争と直結した対立構図を奥羽の地に現出させたのであった。


【表1:慶長出羽合戦 主要関係者一覧】

勢力

所属・立場

主要人物

合戦における役割・石高(推定)

西軍

上杉軍(会津)

上杉景勝

総大将。会津120万石。

直江兼続

実質的な最高指揮官。米沢城主。

上杉軍(庄内)

志駄義秀

庄内方面軍主将。東禅寺城代、5,100石。

下秀久(吉忠)

庄内方面軍別働隊将。尾浦城主。

同盟勢力

小野寺義道

最上領北部へ侵攻。横手城主。

東軍

最上軍(出羽)

最上義光

総大将。山形城主、24万石。

志村光安

長谷堂城主。上杉軍本隊を足止め。

鮭延秀綱

最上軍の勇将。長谷堂城防衛戦で活躍。

同盟勢力

伊達政宗

最上への援軍を派遣。60万石。

留守政景

伊達家援軍の将。政宗の叔父。

在地勢力(由利衆)

赤尾津氏

亀田城(赤尾津城)主。東軍方。

仁賀保氏、滝沢氏

由利郡の国人。東軍方。


第一章:慶長出羽合戦の勃発 ― 上杉の戦略と最上の防衛線

石田三成の挙兵という報せは、会津征伐のため下野国小山にまで進軍していた家康の耳に届いた。慶長5年7月25日、家康は「小山評定」において諸将の意見をまとめ、上杉攻めを中止し、軍を西へ反転させて三成を討つことを決定する 9 。これにより、会津の上杉景勝は家康主力の脅威から解放された。しかし、その背後には、家康方として残った伊達政宗と最上義光という二つの敵性勢力が存在していた。特に、領地を分断する位置にある最上領の存在は、上杉氏にとって座視できない脅威であった。

分断された上杉領

上杉氏にとって、最上領を挟んで地理的に分断された会津・置賜地方と、日本海側の庄内地方とを結ぶ連絡路の確保は、領国経営および軍事戦略上の最重要課題であった 4 。この問題を解決するため、直江兼続は会津移封後、米沢と庄内を結ぶ軍道(朝日軍道)を密かに開削するなど、有事への備えを着々と進めていた 8 。家康の西上は、この長年の懸案を武力によって一挙に解決する絶好の機会を上杉方にもたらしたのである。

直江兼続の軍略 ― 二方面同時侵攻

家康不在の好機を捉え、上杉軍は最上領への全面侵攻を決断する 7 。直江兼続が立案したその作戦は、二つの方面から同時に侵攻し、最上軍を挟撃するという極めて周到なものであった。

  • 主攻(南方戦線) : 兼続自らが総大将となり、2万とも2万5千ともいわれる大軍を率いて米沢から出陣。狐越街道などを通り、最上領南部の防衛拠点である畑谷城、そして山形城の喉元に位置する長谷堂城へと進撃するルートであった 7
  • 助攻(西方戦線) : 庄内地方の拠点・東禅寺城に駐留する志駄義秀を将とする約3,000の別働隊が、西から最上領内陸部へ侵攻する 7 。この別働隊の作戦行動こそが、本報告書の主題である「亀田城包囲」を含む一連の軍事行動である。

この二方面作戦は、単に兵力を二分したものではなかった。それは、兵力で劣る最上軍が必然的に採用するであろう「兵力集中による一点防御」という防衛策そのものを無力化することを狙った、高度な非対称戦略であった。兼続は、最上義光が主戦場を山形城南方の長谷堂城周辺と想定し、主力をそこに集中させることを見越していた。主攻部隊で最上軍主力を長谷堂城に釘付けにしている間に、手薄となった西方から別働隊を侵入させ、山形城の背後を脅かし、最上領を東西に分断する。これにより、最上軍は「主力を動かせば長谷堂城が落ちる、動かさなければ背後を突かれる」という絶望的なジレンマに陥るはずであった。これは、兵力で劣る敵の防御戦略の根幹を揺るがす、極めて巧妙な戦略的意図に基づいた作戦計画であった。

寡兵の最上軍

対する最上軍の総兵力は、約7,000に過ぎなかった 2 。しかも、その兵力は居城の山形城をはじめ、領内各地の支城に分散配置せざるを得ず、山形城に直接動員できる兵力は4,000ほどであったとされる 8 。圧倒的な兵力差を前に、義光は領内の小規模な城砦の多くを放棄し、山形城、長谷堂城、上山城といった主要拠点に兵力を集中させて籠城するという、防御に徹した作戦を選択した 6 。まさに、兼続の術中にはまる形での防衛体制であった。

同盟勢力の動向

戦況をさらに複雑にしたのが、周辺勢力の動きである。上杉方には、かねてより最上氏と対立していた小野寺義道が呼応し、最上領北部の雄勝郡にある湯沢城を攻撃し始めた 6 。これにより、最上氏は南、西、北の三方から敵に囲まれるという絶体絶命の窮地に立たされた。

一方、最上氏にとって唯一の頼みの綱は、東に位置する伊達政宗であった。義光は嫡男・義康を人質として送るなど、必死の覚悟で援軍を要請する 12 。しかし、政宗の動きは極めて慎重かつ緩慢であった。彼はこの混乱に乗じて自らの勢力拡大を狙っており、最上氏と上杉氏が共倒れになることすら望んでいた節がある。援軍の派遣は、戦局が大きく動いた後となった 11

第二章:庄内戦線の展開 ― 「亀田城包囲」の真相

慶長出羽合戦の火蓋が切られると、直江兼続率いる上杉軍本隊が最上領南部へ侵攻するのと並行して、西方の庄内地方からも別働隊が進撃を開始した。この庄内方面軍の作戦行動の初期段階において、由利郡の要衝・亀田城に対する軍事行動、すなわち「亀田城包囲」が行われた。これは、上杉軍の壮大な二方面作戦を成功させるための、不可欠な布石であった。

発端(慶長5年9月上旬)

庄内方面軍の主将に任じられたのは、上杉家の重臣・志駄義秀(志駄修理)であった 10 。彼は直江兼続配下の精鋭部隊「与板衆」の筆頭格であり、父の代から上杉家に仕え、御館の乱や対織田戦線で武功を重ねた歴戦の武将である 10 。上杉氏の会津移封後は、庄内経営の中核を担い、拠点である東禅寺城(現在の酒田市)の城代として5,100石を知行していた 10

この志駄義秀率いる約3,000の部隊 8 に加え、尾浦城主・下秀久(吉忠)が率いる別働隊も作戦に参加した 13 。彼らの任務は、庄内から最上領の内陸部深くまで侵攻し、長谷堂城方面で戦う兼続の本隊と呼応して、山形城を挟撃することにあった。

由利郡の戦略的重要性

志駄義秀の部隊が東禅寺城から最上領内陸部へ進軍するためには、その経路上に位置する由利郡を通過する必要があった。しかし、当時の由利郡は上杉氏にとって安途ではなかった。

由利十二頭と亀田城

この地域は、「由利十二頭」と称される小規模な国人領主たちが割拠しており、彼らの動向が戦局を左右する可能性を秘めていた 17 。その中でも、亀田の地を本拠とする赤尾津氏は由利十二頭の一角を占める有力な存在であり、彼らの居城である赤尾津城(高城山に築かれた山城)は、地域の軍事的な中心地であった 17

由利衆の東軍加担

慶長出羽合戦に先立ち、最上義光は由利郡の諸将に対し、徳川方(東軍)に味方するよう勧告を行っていた。これに応じ、赤尾津氏をはじめ、仁賀保氏、滝沢氏といった由利衆の多くは東軍への加担を決定していた 23 。これにより、上杉軍にとって由利郡は、進軍を妨害する可能性のある敵性地域となった。志駄義秀は、最上領へ侵攻する前に、まずこの背後・側面の脅威となる由利衆を制圧、あるいは無力化する必要に迫られたのである。


【表2:庄内方面作戦 時系列行動表(慶長5年9月8日~10月上旬)】

日付(慶長5年)

庄内方面(上杉軍)の動向

由利郡(東軍)の動向

主戦場(長谷堂城)の動向

中央情勢

9月8日

志駄義秀・下秀久部隊、東禅寺城より出陣。最上領への侵攻を開始 9

赤尾津氏ら由利衆、東軍方として臨戦態勢。

直江兼続、米沢より出陣 9

9月9日~11日

由利郡へ進軍。進撃路確保のため、赤尾津城を牽制・封鎖する作戦(亀田城包囲)を開始。

赤尾津氏、赤尾津城に籠城し、上杉軍の進軍を警戒 24

上杉軍本隊、最上領へ侵攻。

9月12日

上杉軍本隊、畑谷城を包囲 8

9月13日

畑谷城、一日で落城。城主・江口光清以下玉砕 7

9月14日~15日

亀田城を無力化し、由利郡を通過。反上杉派の池田盛周らの抵抗を排除しつつ、最上領内陸部へ進撃 10

兼続、長谷堂城近くの菅沢山に本陣を設置し、城を包囲 7

関ヶ原の戦い勃発、西軍が半日で壊滅 26

9月16日~20日頃

下秀久部隊、六十里越街道を進み、白岩城・谷地城を攻略 13 。志駄義秀本隊も寒河江付近まで進出 25

長谷堂城で激しい攻防戦。最上軍が夜襲を敢行するなど善戦 3

9月21日~28日

敵地深くで孤立しつつ、兼続本隊の長谷堂城攻略を待つ。

伊達政宗の援軍3,000が到着するも、戦闘には加わらず傍観 3 。戦況は膠着。

9月29日

上杉軍、長谷堂城へ総攻撃をかけるも失敗。上泉泰綱ら武将を失う 7

9月30日頃

両軍に関ヶ原の西軍敗北の報せが届く 8

10月1日

兼続本隊の撤退により、敵地深くに完全に取り残される。

攻守逆転。上杉軍が撤退を開始し、最上・伊達連合軍が追撃 8

石田三成ら処刑 9


侵攻と「包囲」の実態(9月8日以降)

慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の両面から同時に侵攻を開始した 8 。志駄義秀率いる庄内方面軍は、まず由利郡の制圧に取り掛かった。この時に行われたのが「亀田城包囲」である。しかし、この軍事行動の実態は、一般的に想起されるような大規模な攻城戦ではなかった可能性が高い。

各種の記録を精査しても、この時期に亀田城(赤尾津城)で激しい戦闘が行われたという記述は見当たらない。このことから、「亀田城包囲」とは、城を力攻めによって陥落させることを目的とした「攻城戦」ではなく、城に籠る赤尾津氏の兵力を封じ込め、周辺地域を制圧することで、由利郡全体を戦略的に無力化するための作戦であったと分析できる。具体的には、上杉軍は赤尾津城の周囲に部隊を展開して交通路を遮断し、城兵の活動を牽制。これにより赤尾津氏を城内に釘付けにし、その間に本隊は由利郡の他の小勢力を制圧、あるいは中立化させながら、東の最上領内陸部を目指して進撃したと考えられる。

この作戦は、単一の城に対する軍事行動ではなく、由利郡という「地域」全体を敵性勢力圏とみなし、その中核拠点である亀田城を封じ込めることで、地域全体の無力化を図った「面制圧作戦」と呼ぶべきものであった。この作戦が成功したからこそ、志駄義秀と下秀久の部隊は、大きな損害を出すことなく由利郡を迅速に通過し、その先の最上領へと侵攻することができたのである。

由利郡を突破した上杉軍の進撃は迅速であった。彼らは道中で反上杉派の在地勢力であった池田盛周らの小規模な反乱を一蹴しつつ 4 、最上領深くへと進んだ。特に下秀久が率いる部隊は、六十里越街道を快進撃し、最上領の重要拠点である白岩城(寒河江市)、谷地城(河北町)を次々と攻略した 13 。志駄義秀の本隊もこれに続き、寒河江付近まで進出したと記録されている 25 。「亀田城包囲」は、この庄内方面作戦の輝かしい成功を支えた、極めて効果的な第一段階の軍事行動だったのである。

第三章:主戦場の死闘 ― 長谷堂城攻防戦

庄内方面軍が快進撃を続ける一方で、直江兼続率いる上杉軍本隊が展開する南方戦線では、壮絶な消耗戦が繰り広げられていた。この主戦場における戦いの趨勢は、庄内方面軍の運命、ひいては慶長出羽合戦全体の帰趨を決定づける重要な要素であった。

直江兼続、長谷堂城を包囲

9月13日、最上領南部の最前線基地であった畑谷城をわずか一日で攻略した直江兼続は、その勢いを駆って山形城防衛の最重要拠点である長谷堂城へと進軍した 3 。長谷堂城は、山形城の南西約8キロに位置する山城であり、ここを失えば山形城は丸裸に等しい状態となる 8 。兼続は9月14日頃、長谷堂城を見下ろす菅沢山に本陣を構え、1万8千ともいわれる大軍で城を幾重にも包囲した 7 。圧倒的な兵力差を背景に、兼続は力攻めによる短期決戦を目論んでいた。

最上軍の決死の抵抗

長谷堂城を守るのは、最上義光の重臣・志村伊豆守光安と、援軍として派遣された猛将・鮭延越前守秀綱ら、わずか1,000の兵であった 3 。兵力差は実に18倍。落城は時間の問題かと思われた。しかし、志村光安らは絶望的な状況下で驚異的な粘りを見せる。彼らは地の利を最大限に活かし、巧みな防衛戦術を展開した。9月16日には、城兵200による決死隊が上杉軍の陣地に夜襲を敢行し、敵を大混乱に陥れ、同士討ちを誘発させるほどの戦果を挙げた 3

この長谷堂城での半月以上に及ぶ攻防戦は、慶長出羽合戦におけるハイライトであり、戦国史上有数の籠城戦として知られている 7 。志村光安らの奮戦は、単なる局地的な戦闘の勝利に留まらなかった。それは、上杉軍主力を長谷堂城前面に釘付けにし、庄内から進撃してくる志駄義秀の部隊との合流を阻止するという、極めて重要な戦略的意味を持っていた。もし長谷堂城が早期に陥落していれば、兼続軍は山形城に迫り、西からは志駄・下両隊が接近するという、最上軍にとって最悪の挟撃態勢が完成していたであろう 6 。志村光安らの英雄的な抵抗は、この最悪の事態を物理的に阻止する「戦略的遅滞行動」であり、時間を稼ぐこと自体が目的の戦いであった。そして、この稼ぎ出した時間こそが、後に戦局を覆す外部要因、すなわち関ヶ原の戦いの結果という「天運」がもたらされるまでの、貴重な猶予期間となったのである。

伊達政宗の援軍

窮地に陥った最上義光は、妹・義姫(伊達政宗の母)を通じて再三にわたり政宗に援軍を要請した 12 。これを受け、9月21日頃、政宗はようやく叔父の留守政景を大将とする3,000の援軍を派遣した 3 。しかし、この伊達軍の行動は不可解なものであった。彼らは長谷堂城の主戦場から須川を挟んだ対岸の小白川に着陣したものの、積極的に戦闘に参加しようとはせず、戦況を傍観するに留まった 11 。政宗には、上杉と最上が争い、共に疲弊したところを漁夫の利を得ようという思惑があったとされ、その態度は最上義光を大いに苛立たせた。

庄内戦線への影響

長谷堂城での予期せぬ苦戦は、直江兼続の作戦計画に大きな狂いを生じさせた。上杉軍本隊がその場に釘付けにされたことで、庄内方面軍との連携による山形城挟撃は不可能となった。それどころか、敵地深くまで進撃していた志駄義秀と下秀久の部隊は、友軍からの支援が全く期待できない状況で、敵中に孤立する危険性が日増しに高まっていった。主戦場での膠着は、作戦の尖兵として最も危険な役割を担っていた庄内方面軍の運命に、暗い影を落とし始めていたのである。

第四章:天命の逆転 ― 関ヶ原の報と上杉軍の撤退

慶長5年9月29日、長谷堂城を巡る攻防が最も激しさを増していた頃、戦場の空気を一変させる情報が奥羽の陣にもたらされた。それは、遥か美濃国関ヶ原で繰り広げられた天下分け目の決戦の結果であった。この報せは、上杉軍の壮大な作戦を根底から覆し、特に敵地深くにいた庄内方面軍を未曾有の危機へと突き落とすことになる。

西軍敗北の報(9月29日頃)

9月15日、関ヶ原において徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突し、戦いは小早川秀秋の裏切りをきっかけに、わずか半日で東軍の圧勝に終わった 26 。この決定的な情報が、飛脚などによって約2週間の時を経て、奥羽の戦場にいる上杉・最上双方の陣営にほぼ同時に届けられたのである 7

西軍の壊滅は、上杉軍にとって最上領侵攻の最大の拠り所であった大義名分が完全に失われたことを意味した。もはや彼らは豊臣家のために戦う「義軍」ではなく、天下の支配者となった徳川家康に敵対する「反逆軍」となったのである。

直江兼続の決断

敗報に接した直江兼続は、一時は自害して責めを負おうとしたが、前田利益(慶次郎)らに諫められ、即座に全軍の撤退を決断したとされる 8 。このまま戦闘を継続すれば、いずれ西から転進してくるであろう徳川軍本隊と、目の前の最上・伊達連合軍に挟撃され、全滅する危険性が高かった。決断は迅速かつ的確であった。

見事な退き口

10月1日、上杉軍は長谷堂城の包囲を解き、米沢への撤退を開始した 8 。攻守は完全に逆転し、勢いづいた最上・伊達連合軍は猛烈な追撃を開始する。特に最上義光は自ら陣頭に立って追撃の指揮を執り、富神山付近では義光の兜に銃弾が当たるほどの激戦が展開された 7

しかし、この絶望的な状況下で、直江兼続は稀代の将器を発揮する。彼は自ら殿(しんがり)となって最後尾の守りを固め、鉄砲隊を巧みに用いて追撃を食い止め、前田利益や水原親憲らの勇将たちの奮戦もあって、軍の組織を崩壊させることなく整然と撤退を成功させた 2 。この見事な撤退戦は、「直江の退き口」として後世に語り継がれ、敵将である最上義光でさえ「さすがは直江、見事なり」と賞賛を惜しまなかったと伝えられている 7

庄内戦線の孤立

兼続の本隊が、多大な犠牲を払いながらも米沢への帰還を果たした一方で、庄内方面軍は悲劇的な状況に陥っていた。関ヶ原の情報伝達の遅れがもたらした「情報の非対称性」は、彼らを死地に置き去りにした。9月15日に関ヶ原の雌雄が決した後も、その事実を知らない志駄義秀と下秀久の部隊は、勝利を信じて最上領深くまで進撃を続けていた。彼らが敗報を知った時には、もはや安全に撤退できる地点を遥かに越えてしまっていたのである。

兼続の本隊が撤退を開始したことにより、庄内方面軍は友軍との連絡を完全に断たれ、敵地の真っ只中に孤立無援となった。下秀久は攻略した谷地城に籠城して抵抗を試みるが、やがて衆寡敵せず、最上軍に降伏した 13 。主将の志駄義秀は、残存兵力を率いて敵中を突破し、庄内の拠点・東禅寺城へと撤退するしかなかった 10 。これは、想像を絶する困難を伴う作戦行動であった。作戦の尖兵として最も危険な役割を担った庄内方面軍は、情報通信の脆弱性という、当時の長距離・多方面作戦が抱える構造的な欠陥の最大の犠牲者となったのである。

第五章:最上の逆襲 ― 庄内・由利郡の平定

関ヶ原の戦いの結果、攻守は完全に逆転した。九死に一生を得た最上義光は、この好機を逃さず、積年の悲願であった庄内地方の奪還と、領土拡大に向けた逆侵攻作戦を開始する。これは、戦後の徳川家康による論功行賞を見据え、停戦命令が下される前に既成事実を積み上げるための、「実績作り」の戦いであった。この最上氏による猛烈な反攻の前に、由利郡の在地領主たち、とりわけ東軍として戦ったはずの赤尾津氏もまた、非情な運命に翻弄されることとなる。

攻守交替

慶長5年10月15日、最上義光は上杉領であった庄内地方、および上杉方に呼応した小野寺義道領の仙北地方への逆侵攻を開始した 9 。最上軍は秋田氏や東軍方の由利衆とも連携し、小野寺領の大森城などを次々と攻略していく 9

降将・下秀久の役割

庄内侵攻において、皮肉な役割を演じたのが、先に最上氏に降伏した上杉家臣・下秀久であった。彼は最上軍の先鋒となることを強要され、つい先日まで仲間であった上杉勢が守る城々への攻撃を先導することになった 8 。彼の案内により、最上軍は地の利を得て、庄内地方を順調に制圧していった。

尾浦城の攻略

10月中、最上軍は下秀久のかつての居城であった尾浦城を攻撃し、これを陥落させた 8 。これにより、庄内南部の田川郡は最上氏の支配下に入り、残るは北部の飽海郡、すなわち志駄義秀が籠る東禅寺城のみとなった。

東禅寺城の攻防と開城(慶長6年)

年が明けた慶長6年(1601年)4月、最上義光は嫡男・義康を総大将とし、清水義氏らを配した1万近い大軍を編成し、東禅寺城への総攻撃を開始した 8 。敵中を突破して帰還した志駄義秀は、孤立した城で懸命に防戦したが、圧倒的な兵力差の前にはなすすべもなかった 10 。数日間の攻防の末、下秀久の降伏勧告を受け入れ、城を開け渡すことを決断。志駄義秀と残存兵は、朝日軍道を通って米沢へと落ち延びていった 4 。この東禅寺城の開城をもって、庄内地方全域は完全に最上氏の支配下に入り、義光の長年の悲願は達成されたのである。

由利郡の制圧と赤尾津氏の末路

庄内地方の平定と並行して、最上氏は由利郡の一円支配も確立していった。この過程で、慶長出羽合戦において東軍として最上方に協力したはずの由利衆は、新たな秩序の前にその存在意義を問われることになる。

戦後、赤尾津氏ら由利衆は、戦の功により一時は最上氏の家臣として遇された 24 。しかし、最上義光の狙いは、由利郡を独立した国人領主の連合体としてではなく、最上氏の完全な直轄領として組み込むことにあった。その強引な領土拡大政策の中で、在地勢力は新たな支配者に組み込まれるか、排除されるかの選択を迫られた。

赤尾津氏は、この戦国末期の非情な現実の前に、最終的に改易(所領没収)の憂き目に遭ったと伝えられている 22 。彼らが去った後の亀田城(赤尾津城)には、最上氏の重臣である楯岡満茂が入城し、由利郡支配の拠点とした 18 。東軍の勝利に貢献しながらも、より大きな権力の奔流に飲み込まれていった赤尾津氏の末路は、天下分け目の動乱がもたらした地方の秩序再編の厳しさを物語っている。

終章:戦後の論功行賞と新たな秩序

慶長出羽合戦の終結は、奥羽地方の勢力図を劇的に塗り替えた。戦いの勝者と敗者の明暗は鮮やかに分かれ、徳川家康による新たな天下の秩序が、北国にも確固として築き上げられていった。この大きな歴史の転換点において、「亀田城包囲」に始まる一連の軍事行動は、その後の地域の運命を決定づける重要な序曲であった。

57万石の大大名へ

最上義光は、慶長出羽合戦における最大の功労者として、徳川家康から絶大な評価を受けた。上杉軍主力を領内に釘付けにして関ヶ原への参戦を阻止し、さらには自力で庄内・由利郡を奪還した功績は、破格の恩賞となって報いられた。戦後、義光は旧領24万石に加え、庄内三郡、由利郡など33万石の加増を受け、一挙に57万石の大大名へと躍進した 2 。これにより最上氏は、置賜地方を除く現在の山形県のほぼ全域と秋田県南部を領有する、奥羽有数の大藩となったのである。

米沢30万石への減封

一方、西軍に与した上杉景勝の処遇は厳しいものであった。関ヶ原での西軍敗北の責任を問われ、会津120万石の広大な領地は全て没収された 2 。しかし、家康は上杉家の名跡断絶は避け、旧領の一部であった置賜郡と信夫郡の一部を与え、米沢30万石への減封という形で存続を許した 4 。これにより、上杉氏は本拠を米沢城へと移し、以後、幕末までこの地を治めることになる。

亀田の地の変遷

戦乱の中で翻弄された亀田の地もまた、新たな時代を迎えた。最上領となった後、元和8年(1622年)に最上氏がお家騒動により改易されると、由利郡は一時的に本多正純の所領となる 33 。しかし、翌元和9年(1623年)に正純も改易されると、徳川幕府の新たな地方支配体制のもと、信濃国川中島から岩城吉隆が2万石で入封し、出羽亀田藩が成立した 17 。岩城氏は、かつての赤尾津城の麓に新たに亀田陣屋(後に城主格となり亀田城と称される)を築き、以後、明治維新に至るまでこの地を治め、城下町の基礎を築いた 18

「亀田城包囲」の歴史的意義の再評価

本報告書で詳述した「亀田城包囲」は、慶長出羽合戦という大きな戦役の中で見れば、緒戦における一つの戦術的行動に過ぎないかもしれない。しかし、その歴史的意義は決して小さくはない。

第一に、この軍事行動は、直江兼続が立案した周到な二方面同時侵攻作戦の、重要な一環であった。それは、上杉軍が単なる力押しではなく、敵の防衛戦略の弱点を突く高度な軍略をもってこの戦に臨んでいたことを示している。

第二に、それは単なる城攻めではなく、敵性地域全体を無力化し、自軍の進撃路を確保するという、より大きな戦略的判断に基づくものであった。この作戦の成功が、一時的ではあれ、上杉軍庄内方面部隊の快進撃を可能にしたのである。

そして最後に、「亀田城包囲」とそれに続く一連の出来事は、関ヶ原という中央の動乱が、いかに地方の勢力図を塗り替え、在地領主たちの運命を翻弄したかを象徴する出来事であった。東軍に味方しながらも、戦後の新たな秩序の中で淘汰されていった赤尾津氏の姿は、時代の転換期における地方勢力の儚さと、戦国乱世の非情さを如実に物語っている。この一連の軍事行動は、奥羽の地で繰り広げられた「もう一つの関ヶ原」の複雑さと、その中で生きた人々の軌跡を理解する上で、決して忘れてはならない一頁として、歴史に記憶されるべきであろう。

引用文献

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