最終更新日 2025-08-30

井伊谷城の戦い(1568)

永禄十一年 遠江動乱:井伊谷城の戦いと徳川家康の遠州平定

序章: 黄昏の今川王国 ― 崩壊への序曲

永禄十一年(1568年)に遠江国井伊谷(とおとうみのくに いいのや)で起こった「井伊谷城の戦い」は、単発の城を巡る攻防戦ではない。それは、かつて「海道一の弓取り」と謳われた今川義元が築き上げた駿河・遠江・三河三国にまたがる広大な領国が、内部から崩壊していく過程で発生した象徴的な出来事であった。この合戦を理解するためには、まずその背景にある巨大な地殻変動、すなわち今川氏の権威失墜と、それに伴う領国の深刻な動揺を把握することが不可欠である。

桶狭間の衝撃と権力の真空

全ての序曲は、永禄三年(1560年)五月の桶狭間の戦いに始まる 1 。今川義元のまさかの討死は、単に一人の有能な当主を失ったという以上の衝撃を今川領国にもたらした。それは、今川氏の軍事的中核と政治的権威の双方に、修復不可能な亀裂を入れるものであった 1 。跡を継いだ嫡男・今川氏真は、文化人としては一流であったものの、乱世の領主として国を束ねる器量に欠けていたと評される 3 。父・義元が築いた強力な支配体制は、その死と共に急速に弛緩し始め、領国内に権力の真空地帯を生み出した。

この権力の空白を最初に突いたのが、長年今川氏の人質であった三河の松平元康、後の徳川家康である 2 。義元敗死の報を受けるや、元康は今川氏からの独立を宣言。永禄五年(1562年)には織田信長と清洲同盟を結び、今川氏と完全に袂を分かつ 2 。これにより今川氏は三河国を完全に喪失し、その影響力は遠江国にまで後退を余儀なくされた。

「遠州忩劇」という名の内乱

今川氏の権威低下が最も顕著に表れたのが、遠江国で頻発した国衆(在地領主)の大規模な反乱であった。これは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」あるいは「遠州錯乱」と呼ばれ、永禄五年(1562年)頃から本格化する 5 。引間城(後の浜松城)の城主・飯尾連龍を筆頭に、天野氏、奥山氏といった遠江の有力国衆が次々と今川氏に反旗を翻したのである 6

これらの反乱は、今川氏の支配体制が末期的な状況にあったことを示す動かぬ証拠であった。氏真は反乱の鎮圧に軍勢を派遣するものの、飯尾連龍の抵抗は長期にわたり、今川軍は多大な戦力を消耗した 6 。さらに氏真は、一度は和睦した飯尾連龍を駿府に呼び出して謀殺するという強硬策に出るが、これは他の国衆の不信感を煽り、かえって離反を助長する悪循環を生み出した 7

この一連の内乱は、徳川家康の介入を誘発する土壌を形成した。今川氏の権威低下は、遠江の国衆たちに新たな保護者を模索させる動機を与えた。そして、長期にわたる「遠州忩劇」は、今川氏の遠江における支配がもはや名目的なものとなり、実効性を完全に失っていることを内外に露呈させたのである 6 。三河一国を平定し、次なる目標をうかがう家康にとって、この遠江の混乱は、領土拡大のまたとない好機と映った。すなわち、「遠州忩劇」は単なる内乱ではなく、家康に対して遠江介入の「政治的正当性」と「軍事的実行可能性」の両方を提供する、地政学的な招待状の役割を果たしたのである。

第一部: 井伊谷の苦境 ― 徳川介入への道筋

遠江国全体の動揺が広がる中、井伊谷に本拠を置く名門・井伊氏もまた、存亡の危機に瀕していた。相次ぐ当主の死と、家中における権力闘争の激化は、この小領地を深刻な苦境に陥れた。そして、この井伊谷の内部崩壊こそが、外部勢力である徳川家康の介入を決定づける直接的な要因となるのである。

誅殺の連鎖と井伊家の弱体化

井伊家の悲劇は、桶狭間の戦い以前から始まっていた。天文十三年(1544年)、家老・小野政直の讒言により、井伊直満・直義兄弟が今川義元に誅殺される 9 。そして永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いでは、当主・井伊直盛が義元と共に討死 11 。さらにそのわずか二年後の永禄五年(1562年)、直盛の跡を継いだ井伊直親が、今度は小野政直の子・道好(但馬守)の讒言により、今川氏真に謀反の疑いをかけられ、掛川で誅殺されてしまう 9

この一連の事件は、井伊家の男子後継者を次々と奪い、その軍事力と政治力を根本から削いでいった。特に直親の死は、井伊家内部の対立がもはや修復不可能なレベルに達していたことを示している。主家を讒言によって陥れる家老の存在は、井伊家の統治機構が完全に機能不全に陥っていたことを物語っている。

女地頭「次郎法師」の登場と小野道好の専横

相次ぐ当主の死により、井伊家の家督を継ぐべき男子は、直親の遺児である幼い虎松(後の井伊直政)のみとなった 11 。この未曾有の危機に際し、井伊家の血脈を繋ぐために歴史の表舞台に登場したのが、直盛の一人娘・次郎法師である。江戸時代中期に成立した『井伊家伝記』によれば、出家していた彼女は還俗し、「井伊直虎」と名乗って「女地頭」として家督を継いだとされる 14

しかし、彼女の統治は困難を極めた。永禄十一年(1568年)、ついに家老の小野道好が実力行使に出る。彼は井伊谷城を占拠し、井伊谷の支配権を完全に掌握(押領)したのである 13 。これにより、井伊家の正統な血筋である次郎法師と虎松は、事実上、本拠地から追放された状態となった 17

この時期、今川氏真は井伊谷に対して徳政令の発布を命じている 16 。これは、借財に苦しむ領民を救済する一方で、井伊氏のような国衆の経済力を削ぎ、支配を強化する狙いがあった 19 。伝承によれば、直虎(次郎法師)は領民の生活を第一に考え、徳政令の実施に抵抗したとされるが 14 、今川氏の後ろ盾を得た小野道好はこれを強行し、自らの権力基盤を固めていった 21

井伊家のこうした内紛は、徳川家康に「解放者」として介入する絶好の口実を与えた。小野道好は、主家の血筋をないがしろにし、領地を私物化した「簒奪者」であった。家康は、この状況を巧みに利用し、「井伊家の正統な後継者である虎松を助け、簒奪者・小野道好を討つ」という大義名分を掲げることができた。これにより、家康の軍事侵攻は単なる領土的野心に基づくものではなく、「名家の復興を助ける」という、他の遠江国衆の同情と支持を集めやすい体裁を整えることができたのである。井伊谷城の無血開城は、家康がこの内紛を政治的に利用し、軍事力だけでなく「正当性」という武器を駆使した結果であったと言える。

第二部: 遠江侵攻 ― 家康、動く

永禄十一年(1568年)末、三河を完全に掌握した徳川家康は、ついに遠江への全面的な侵攻を開始する。この軍事行動は、単独の決断によるものではなく、甲斐の武田信玄との緊密な連携と、遠江内部の国衆に対する周到な事前調略に支えられた、計算され尽くした戦略であった。

甲相駿三国同盟の崩壊と武田・徳川の密約

当時、東国の国際秩序を支えていたのは、武田・北条・今川の三国同盟であった 1 。しかし、今川義元の死後、今川氏の衰退が明らかになるにつれ、この同盟関係は揺らぎ始める。武田信玄は、北の上杉謙信との抗争が一段落すると、南への領土拡大に目を向けた。その標的となったのが、同盟相手であるはずの今川氏の領国・駿河であった 22

信玄は、今川氏を共通の敵とする徳川家康に接近し、今川領の分割を持ちかけた 24 。両者の間で交わされた密約は、大井川を境界線とし、東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川がそれぞれ領有するというものであった 26 。この密約を確実なものとするため、家康は家老筆頭の酒井忠次を交渉役として派遣し、忠次の娘を人質として甲斐に送ることで、信玄との同盟を固めたのである 24

進軍ルートの選択と「井伊谷三人衆」の調略

遠江侵攻にあたり、家康は進軍ルートの選択に細心の注意を払った。浜名湖沿岸を進む本坂峠越えの街道は、今川方の抵抗が予想されたため、これを回避 29 。代わりに、より内陸部を進む陣座峠越えのルートを選択した 23 。この判断は、事前にそのルート上の在地勢力を味方につけていたからこそ可能な、戦略的なものであった。

その鍵を握ったのが、三河と遠江の国境地帯に勢力を張る三人の国衆、「井伊谷三人衆」であった。すなわち、宇利城の近藤康用、都田の菅沼忠久、そして山吉田の鈴木重時である 30 。彼らの本拠地は井伊谷そのものではなく、三河国境に近い戦略的要衝に位置していた 32 。彼らは井伊氏と婚姻関係を結ぶなど深いつながりを持ちながらも 30 、衰退する今川氏を見限り、勃興する徳川家康に将来を託すことを決断した。

家康は、この三人衆に対して所領の安堵を約束する起請文(誓約書)を発給し、徳川方への寝返りを確実なものとした 33 。これにより、家康は遠江侵攻における安全な進軍路を確保すると同時に、井伊谷の内部事情に精通し、小野道好の支配に反感を抱く在地勢力を味方につけることに成功したのである。

井伊谷三人衆の存在は、家康の遠江侵攻全体の成否を左右する極めて重要な要素であった。彼らの協力なくして、徳川軍が迅速かつ安全に遠江深部へ進撃することは不可能であった。彼らの寝返りは、単なる戦術的な成功に留まらない。それは、今川方の防衛網に内部から楔を打ち込み、井伊谷の今川勢力を戦わずして孤立させるという、決定的な戦略的効果をもたらした。この調略の成功は、家康のその後の遠江経営の基本方針、すなわち在地国衆を巧みに懐柔し、自らの支配体制に組み込んでいくという手法の原型となったのである。

第三部: 井伊谷城、無血にて開く ― 永禄十一年十二月のリアルタイム詳報

永禄十一年(1568年)十二月、東海地方の勢力図は、わずか数十日の間に劇的な変化を遂げる。武田信玄と徳川家康による今川領への同時侵攻は、長年にわたりこの地を支配してきた今川氏の体制を根底から覆した。その中で、井伊谷城の無血開城は、家康の遠江平定における最初の、そして極めて重要な一歩であった。以下に、その緊迫した日々の動向を時系列で詳述する。

永禄十一年十二月上旬~中旬:電撃侵攻と井伊谷の陥落

  • 12月6日 : 甲斐の武田信玄が2万を超える大軍を率いて甲府を出陣。長年維持されてきた甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、今川領・駿河への侵攻を開始する 27
  • 12月12日 : 武田軍が駿河国境を越え、本格的な攻撃を開始するのと時を同じくして、徳川家康は来るべき遠江侵攻の最終準備を完了させる。この日、家康は井伊谷三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)に対し、彼らの所領を保証する起請文を正式に発給。これにより、彼らの徳川方への内応を確定させ、侵攻の先導役を確約させた 33 。これは、軍事行動に先立つ調略の総仕上げであった。
  • 12月13日 :
  • 【駿河方面】武田軍は破竹の勢いで進撃し、今川氏の本拠地・駿府に乱入する。今川氏真は全く抵抗できず、わずか50騎程度の手勢と共に居城を脱出。正室の早川殿(北条氏康の娘)は輿に乗る暇もなく、徒歩で逃れるほどの混乱ぶりであった 2 。氏真は、重臣・朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城を目指して敗走を開始する。
  • 【遠江方面】信玄の駿府侵攻に呼応し、家康も三河の岡崎城(あるいは前線基地の吉田城)から7千余の軍勢を率いて出陣 35 。井伊谷三人衆を道案内とし、彼らの本拠地である三河国宇利を経由し、国境の陣座峠を越えて遠江国引佐郡奥山へと、電光石火の進軍を開始した 23
  • 12月14日~15日 : 徳川軍本隊が井伊谷に到着 33 。井伊谷城に籠っていた今川方の小野道好は、絶望的な状況に追い込まれる。主君である氏真は駿府から敗走し、頼みとする井伊谷三人衆は敵軍の先鋒として眼前に現れた。城内の士気は崩壊し、道好は組織的な抵抗を諦め、城を捨てて逃亡したと伝えられる 13 。これにより、徳川軍はほとんど戦闘を行うことなく、井伊谷城を無血で接収することに成功した 34

永禄十一年十二月中旬~下旬:遠江平定と武田との軋轢

  • 12月18日 : 井伊谷を完全に掌握した家康は、軍を南下させ、遠江西部の要衝である引間城(後の浜松城)に無事入城を果たす 2 。これにより、家康は遠江における確固たる拠点を確保し、東遠江の平定、すなわち掛川城に籠る今川氏真との決戦に向けた体制を整えた。
  • 12月22日頃 : この頃、武田と徳川の間に最初の亀裂が生じる。武田軍の別働隊である秋山信友(虎繁)の部隊が、信濃から遠江に侵入し、徳川が制圧したはずの見付(現在の磐田市)方面まで進軍したのである 36 。これは、大井川を国境とする両者の密約を明らかに逸脱する行為であった 37
  • 12月22日以降 : 家康は信玄に対し、この越境行為について猛烈に抗議する書状を送る 33 。事態を重く見た信玄は、秋山隊を駿河へ撤退させたが、この一件は家康に武田信玄への根深い不信感を植え付けた 39 。両者の同盟は、その発足当初から破綻の危険性を内包していたのである。
  • 12月27日 : 家康は遠江の諸城を次々と攻略・帰順させながら東進し、ついに今川氏真が籠る掛川城を完全に包囲する 2 。遠江侵攻開始からわずか半月で、家康は遠江の大部分を制圧し、今川氏の息の根を止めるための最終段階へと移行した。

日付 (永禄11年)

徳川軍の動向

武田軍の動向

今川・小野勢の動向

備考・意義

12月6日

-

甲府を出陣、駿河へ侵攻開始 27

駿府にて武田軍の接近に備える

徳川・武田による今川領分割作戦の開始

12月12日

井伊谷三人衆に所領安堵の起請文を発給 34

駿河国境を突破

-

井伊谷三人衆の寝返りを確定させ、侵攻路を確保

12月13日

遠江へ出陣。陣座峠を越え奥山へ進軍 33

駿府へ乱入、今川館を占拠 26

氏真、駿府を脱出し掛川城へ敗走 2

戦国大名今川氏の本拠地が一日で陥落

12月15日頃

井伊谷に到着、井伊谷城を無血で接収 33

駿府周辺の制圧を進める

小野道好、井伊谷城を放棄し逃亡 13

調略の成功により、戦闘を回避し遠江北部の拠点を確保

12月18日

引間城(後の浜松城)に入城 2

-

遠江西部の今川方国衆が次々と徳川に降伏

遠江支配の拠点となる浜松を手中に収める

12月22日頃

武田の越境に抗議 33

別働隊(秋山信友)が遠江の見付まで侵攻 36

氏真、掛川城にて籠城の準備を固める

徳川・武田間の密約が早くも揺らぎ、不信感が生まれる

12月27日

掛川城を包囲 33

駿河国内の平定を進める

氏真、掛川城にて徹底抗戦の構え 2

家康の遠江侵攻は最終局面へ移行

この表が示すように、永禄十一年十二月の出来事は、三者の思惑が複雑に絡み合いながら、極めて速いテンポで進行した。井伊谷城の無血開城は、この電撃的な作戦の成功を象徴する出来事であり、家康の周到な準備と的確な判断力がもたらした、戦わずして得た大きな勝利であった。

第四部: 戦後処理と新秩序の形成

井伊谷城の無血開城は、徳川家康による遠江平定の序章に過ぎなかった。合戦の真の価値は、その後の処理によっていかに新たな支配体制を構築し、将来の発展に繋げるかにかかっている。家康は井伊谷において、旧体制の象徴を断罪し、新たな協力者を登用し、そして滅びかけた名家の血筋を保護するという、巧みな戦後処理を行った。

簒奪者・小野道好の末路

井伊谷城から逃亡した小野道好の命運は、長くは続かなかった。彼は浜名湖畔の堀川城に逃げ込み抵抗を試みたが、徳川軍の追撃は厳しく、やがて捕縛される 13 。そして永禄十二年(1569年)、家康は道好とその一党を井伊谷に引き渡し、裁きを下した。その罪状は、主君であった井伊直親を讒言によって死に至らしめ、井伊谷の領地を不当に奪ったことであった。道好は井伊谷の蟹淵(かにぶち)において、一族もろとも斬首、あるいは磔刑に処されたと伝えられている 13

この処断は、単なる裏切り者への報復以上の、高度な政治的意図を含んでいた。第一に、井伊家内部の長年の確執に終止符を打ち、地域の安定を図ること。第二に、主家を裏切る者には厳しい末路が待っていることを他の国衆に示すことで、徳川への忠誠を促すこと。そして最も重要なのは、家康自身が「井伊家の正義を回復した恩人」としての立場を内外に鮮明に示したことである。

井伊谷の新体制と井伊家再興への布石

小野氏一派が粛清された後の井伊谷には、新たな統治体制が敷かれた。家康は井伊谷を直轄領とせず、その支配を、遠江侵攻の功労者である井伊谷三人衆に委ねた。彼らは恩賞として井伊谷周辺に所領を与えられ、井伊谷城の城番を交代で務めることになった 30 。これは、徳川の権威を背景としつつ、在地の実力者である国衆に一定の自治を認めるという、現実的かつ巧みな支配体制であった。これにより、家康は最小限のコストで遠江北部の安定を確保することに成功した。

一方で、家康は井伊家の将来も見据えていた。井伊谷が徳川の支配下に入ったことで、今川や小野氏の追手から逃れるため三河の鳳来寺に匿われていた直親の遺児・虎松の安全は、完全に保証された 13 。そして天正三年(1575年)、15歳に成長した虎松は、養母である次郎法師(直虎)らの尽力により、浜松城で家康に謁見し、小姓として出仕することが叶う 40

家康が虎松、すなわち後の井伊直政を抜擢し、異例の速さで重用した背景には、深い政治的計算があった。遠江の名門である井伊家の正統な後継者を自らの側近とすることで、家康は遠江支配の正当性をより強固なものにすることができた 42 。また、直政自身の類稀な才能を見抜き、譜代の家臣とは異なる新風を吹き込む存在として期待したのである 43 。家康にとって、井伊谷の平定は、単に領地を得ただけでなく、後に徳川四天王の一角を担うことになる最も有能な家臣の一人を発掘する機会ともなったのである。

第五部: 歴史的意義と「おんな城主」伝説の考察

永禄十一年(1568年)の井伊谷城を巡る一連の出来事は、大規模な野戦や壮絶な籠城戦があったわけではない。しかし、その歴史的意義は極めて大きい。それは、徳川家康の覇権確立への道を拓いた重要な一里塚であり、また後世に「おんな城主」という魅力的な物語を生み出す土壌ともなったからである。

井伊谷城の戦いが持つ戦略的・政治的意義

軍事戦略的な観点から見れば、井伊谷の無血開城は、徳川軍の兵力を全く損なうことなく、遠江北部の戦略的要衝を確保した点で画期的であった。これにより、家康は後顧の憂いなく全戦力を東遠江、特に今川氏真が籠る掛川城の攻略に集中させることが可能となった 44 。もし井伊谷で長期の抵抗にあっていれば、遠江平定のスケジュールは大幅に遅れ、その間に武田信玄のさらなる介入を許す危険性すらあった。

政治的な意義はさらに大きい。遠江の名門国衆である井伊氏の本拠地を、簒奪者を排除する「解放者」として手中に収めたことは、他の遠江国衆の心理に決定的な影響を与えた。今川氏の支配が内部から崩壊し、徳川家康がそれに代わる新たな秩序の提供者であることを目の当たりにした国衆たちは、雪崩を打って徳川方へと靡いていった 3 。井伊谷での成功は、家康の遠江支配を既成事実化する上で、極めて効果的なプロパガンダとなったのである。

史料批判:「おんな城主 直虎」伝説の形成と実像

現代において「井伊谷城の戦い」が広く知られるのは、NHK大河ドラマにもなった「おんな城主 井伊直虎」の物語によるところが大きい。しかし、この物語の歴史的実像については、史料に基づいた慎重な検討が必要である。

  • 伝説の源泉『井伊家伝記』 : 井伊直虎が女性であり、井伊直盛の娘・次郎法師と同一人物であるという説の根拠は、そのほとんどが江戸時代中期に井伊家の菩提寺である龍潭寺の僧・祖山法忍によって著された『井伊家伝記』に依拠している 45 。この書物は、井伊家断絶の危機に際して龍潭寺がいかに貢献したかを強調する内容が多く、寺の権威を高めるという編纂意図を持つ二次史料であるため、その記述を鵜呑みにすることはできない 47
  • 一次史料に見る「直虎」 : 同時代の一次史料として唯一「直虎」の名が確認できるのは、永禄十一年(1568年)八月付の「井伊直虎関口氏経連署状」(蜂前神社所蔵)である 10 。この文書で注目すべきは、直虎の署名の横に「花押(かおう)」と呼ばれる、現在のサインにあたるものが記されている点である。花押は当時、身分のある男性が用いるのが通例であり、女性が公式文書で使用することは極めて稀であった 19 。この事実は、直虎が少なくとも公の場では男性として振る舞っていたことを示唆している。
  • 男性説の台頭 : 近年、井伊美術館が所蔵する『守安公書記』や『河手家系譜』といった新たな史料の分析から、この「井伊次郎直虎」は、今川家の一門である関口氏経の子で、混乱する井伊家を統治するために送り込まれた男性の領主だったのではないか、という新説が有力に提唱されている 51 。この説によれば、次郎法師という女性の存在は認めるものの、彼女が「直虎」と名乗って領主となったわけではないとされる。

以上の史料的検討から、永禄十一年の政変当時、井伊谷を実際に誰が統治していたのかは、未だ確定していないのが現状である。しかし、徳川軍を先導し、小野道好を追放するという軍事行動の主体が井伊谷三人衆であったことは、複数の史料から明らかである。我々が知る「おんな城主」の物語は、井伊家が存続の危機にあったという史実を核としながらも、その苦難を乗り越えた象徴として、後世の人々によって語り継がれ、豊かに肉付けされていった歴史的ナラティブ(物語)と捉えるのが、最も事実に近い理解であろう。

結論: 徳川覇権の礎石

永禄十一年(1568年)の「井伊谷城の戦い」は、血で血を洗う壮絶な攻城戦ではなかった。むしろ、それは戦わずして勝利を収めた、極めて政治色の濃い出来事であった。徳川家康の周到な調略、主君の死から連鎖的に始まった今川氏の内部崩壊、そして生き残りをかけた在地国衆の現実的な選択。これら三つの要素が交差した時、井伊谷城は音もなく徳川の手に落ちた。

この一連の成功は、家康の戦国武将としての資質を改めて天下に示すものであった。それは、単なる武勇や兵力だけではない。敵の弱点を的確に見抜き、外交と調略を駆使して内部から切り崩し、戦わずして目的を達成する。そして勝利の後には、旧来の勢力を巧みに取り込み、新たな支配体制を迅速に構築する。こうした政治家としての非凡な才覚こそが、家康を他の武将と一線を画す存在たらしめていた。

井伊谷の平定は、家康が遠江一国を完全に掌握するための重要な橋頭堡となった。それは、後の武田信玄との十数年にわたる死闘を戦い抜き、さらには織田信長の横死という混乱を乗り越えて天下統一への道を歩む上で、不可欠な礎石であった。遠江の小さな谷間で上げられたこの静かな勝利の鬨(とき)は、徳川による二百数十年の泰平の世へと続く、長い道のりの始まりを告げる狼煙だったのである。

引用文献

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  3. 家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569) - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7521.html
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  28. 酒井忠次は何をした人?「家康のピンチを太鼓で鼓舞し、奇襲で信長を唸らせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/tadatsugu-sakai
  29. 徳川家康、遠江へ侵攻(「どうする家康」33) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32929827/
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  44. 第603回 井伊直親と掛川城と十九首と ~ NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」と掛川のかかわり https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/9684.html
  45. 井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺 - 彦根歴史研究の部屋 https://hikonehistory.hatenablog.com/entry/2019/03/25/184120
  46. 井伊直虎は女性?男性? | ティータイム - エー・イー企画 https://www.aeplan.co.jp/html/blog/detail/494
  47. 「井伊家伝記」の性格と祖山和尚の目的 | iimuseum https://www.ii-museum.jp/blank-25
  48. 近年の問題点 | iimuseum - 井伊美術館 https://www.ii-museum.jp/blank-23
  49. 女城主・井伊直虎の花押について - 宗教法人蜂前神社 https://hachisakijinja.or.jp/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%99%8E%E8%8A%B1%E6%8A%BC/
  50. 井伊直虎の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7565/
  51. こ、この時期に新発見!井伊直虎は「女」ではなく「男」だった!?新史料に記述 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/47938
  52. 直虎は男だった!? 京都で新史料 https://www.myouji.org/iinaotora-iibijyutsu.htm
  53. 新史料『河手家系譜』直虎の終焉があきらかに - 井伊美術館 https://www.ii-museum.jp/blank-32