最終更新日 2025-09-02

井伊谷城の戦い(1569)

永禄十二年、徳川家康は今川衰退に乗じ、井伊谷三人衆を調略。小野道好を排し、井伊谷城を無血で掌握。井伊家再興の礎を築き、直政の活躍へと繋がる歴史的転換点となった。

永禄十二年 井伊谷城の変 – 徳川家康、遠江支配の礎を築いた無血の政変劇

序章:崩れゆく秩序 – 桶狭間後の遠江

永禄12年(1569年)に遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市浜名区)で起こった「井伊谷城の戦い」は、通俗的な合戦のイメージである両軍の激突とは様相を異にする。これは、巨大な地殻変動の末に発生した、戦わずしての権力移譲、すなわち「政変」であった。その根源は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにまで遡る。この一戦がもたらした今川家の権威失墜というマクロな潮流と、それによって引き起こされた井伊谷内部の深刻な混乱というミクロな事象が交錯した点に、この事件の本質は存在する。

第一節:斜陽の今川、昇竜の徳川

永禄3年(1560年)5月、駿河・遠江・三河の三国を支配した海道一の弓取り、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたことは、戦国史の大きな転換点であった 1 。義元という絶対的な支柱を失った今川家は、後を継いだ氏真の時代に急速にその勢力を減退させていく。領国内の国衆は動揺し、特に三河では松平元康(後の徳川家康)が今川の軛を断ち切り独立を果たすなど、離反が相次いだ 1 。家康は岡崎城を拠点に三河一国の統一を成し遂げると、次なる目標として、かつての宗主国であった今川家が領有する隣国・遠江へとその視線を注いでいた 1

時を同じくして、甲斐の武田信玄もまた、その戦略を大きく転換させていた。長年にわたり信濃の支配を巡って越後の上杉謙信と死闘(川中島の戦い)を繰り広げてきた信玄であったが、北への進出が膠着状態に陥る中、南下政策へと舵を切る 4 。その標的は、三国同盟を結んでいたはずの今川領・駿河であった。この方針転換は、信玄の嫡男であり、今川義元の娘を妻としていた武田義信との深刻な対立(義信事件)を引き起こし、最終的に義信を自害に追い込むほどの痛みを伴うものであったが、信玄の意志は揺るがなかった 6 。こうして、東からは徳川、北からは武田という二大勢力が、衰退する今川の領国を蚕食せんと、その機を窺う情勢が形成されたのである。

第二節:井伊谷に燻る火種 – 井伊家の苦難と小野党の専横

遠江の国人領主であった井伊家は、今川家の衰退と軌を一にして、存亡の危機に瀕していた。桶狭間の戦いで当主・井伊直盛が戦死 8 。その後を継いだ井伊直親も、永禄5年(1562年)、家康との内通を疑われ、今川氏真の命により誅殺されるという悲運に見舞われた 10 。相次ぐ当主の死により、井伊家は極度に疲弊し、直親の遺児・虎松(後の井伊直政)はまだ幼少であった 11

この未曾有の危機に際し、井伊直盛の一人娘であり、出家していた次郎法師が還俗して井伊直虎を名乗り、虎松の後見人として家督を継いだ 8 。しかし、女性当主である直虎の統治基盤は極めて脆弱であり、一門や家臣団の統制には多大な困難が伴った。この井伊家の混乱に乗じ、その実権を掌握しようと画策したのが、筆頭家老の小野道好(政次)であった。道好の父・政直の代から、小野氏は井伊家一門と対立し、讒言によって井伊直満らを死に追いやったとされる因縁があった 13 。道好はこの遺恨を引き継ぎ、衰退した今川氏の権威を盾に、主家の乗っ取りを企図したのである。永禄11年(1568年)、道好は今川氏真からのお墨付きを得て井伊谷の支配権を横領し、当主である直虎を追放して井伊谷城を占拠するに至る 12

この事態は、井伊谷城の戦いの直接的な引き金となった。もし今川家の権威が盤石であったならば、一介の家老が主家を乗っ取るなど到底不可能であっただろう。しかし、氏真は領国を統制する力を失い、むしろ道好のような人物に権限を与えることで在地支配を維持しようとする末期的な状況にあった 15 。そして、井伊家もまた当主不在という最大の弱点を抱えていた。この外的要因と内的要因が完全に同期したことで生まれた「権力の真空」と「内部対立」こそ、徳川家康が最小限の力で介入する絶好の機会となったのである。

第一章:遠江侵攻の前夜 – 水面下の調略戦(永禄11年 / 1568年)

徳川家康の遠江侵攻は、単なる軍事行動ではなく、周到に準備された政治工作の集大成であった。特に、侵攻の成否を左右したのが、遠江国衆への巧みな調略であり、その象徴が「井伊谷三人衆」の寝返りであった。家康の勝利は、戦場での采配以上に、水面下で繰り広げられた情報戦と心理戦の賜物であったと言える。

第一節:家康の深謀 – 今川領分割と国衆切り崩し

永禄11年(1568年)、家康は武田信玄との間に密約を結ぶ。その内容は、大井川を境として、西の遠江を徳川が、東の駿河を武田がそれぞれ領有するという、今川領の分割協定であった 16 。この密約により、家康は背後の脅威である武田との衝突を回避し、遠江攻略に戦力を集中させることが可能となった。

この大戦略のもと、家康は遠江侵攻に先立ち、国衆の切り崩し工作を活発化させた。三河の国人である菅沼定盈らを通じて、今川配下の諸将に接触。本領安堵や加増を条件に、徳川方への寝返りを促したのである 1 。今川家の没落が誰の目にも明らかになる中、多くの国衆が自家の生き残りをかけて、新興勢力である徳川家康に将来を賭けようと動き始めていた。

第二節:「井伊谷三人衆」の決断

この調略に応じて徳川方に寝返ったのが、近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時という三人の武将であった。彼らは後に「井伊谷三人衆」と称されることになる 19 。しかし、彼らの本拠は井伊谷ではなく、三河国境に近い宇利や都田、山吉田であり、井伊家に仕える与力、あるいは同盟者に近い立場であった 21

彼らが今川氏を見限り、徳川家康に味方することを決断した背景には、複合的な要因が存在する。第一に、彼らの本拠地が徳川領と隣接しており、地政学的に徳川の影響を強く受けざるを得なかったこと。第二に、菅沼忠久が同族である菅沼定盈から働きかけを受けたように、血縁や地縁を通じた説得が功を奏したこと 18 。そして最も重要なのは、もはや没落寸前の今川氏に未来はなく、三河を平定し日の出の勢いにある家康に仕えることこそが、自家の安泰と発展に繋がるという冷静な政治判断であった 23

第三節:永禄11年12月12日 – 忠誠の証としての起請文

家康は、井伊谷三人衆の寝返りを確実なものとするため、遠江侵攻開始の前日である永禄11年(1568年)12月12日、彼らに対して起請文(誓約書)を与えた 24 。この文書には、彼らの本領安堵と加増の約束が記されていたが、それ以上に重要な一文が含まれていた。それは、「仮に武田方が介入してきても見放さない」という保証であった 24

この一文は、家康の調略の巧みさを如実に示している。家康は、今川領分割の密約を結んだ武田信玄を、心の底から信用してはいなかった。事実、武田軍の一部隊が遠江に侵入し、徳川方と小競り合いを起こしている 17 。井伊谷三人衆にとって、今川を裏切るという大きなリスクを冒す上で最大の懸念は、徳川に寝返った後、強大な武田軍に攻められた際に梯子を外されることであった。家康は彼らの心理を正確に見抜き、対武田を想定した具体的な保証を文書で与えることで、その不安を完全に払拭したのである。これは単なる領地安堵の約束を超え、運命共同体としての強い結束を促すものであった。この起請文によって後顧の憂いを断った三人衆は、家康の遠江侵攻において、命懸けで先導役を務めることとなる。

第二章:疾風の進撃 – 徳川軍、井伊谷を掌握す(永禄11年12月13日~)

永禄11年(1568年)12月、徳川家康の遠江侵攻は、まさに電光石火の如く展開された。その緒戦において、井伊谷城は一滴の血も流れることなく徳川の手に落ちる。これは「合戦」の名を冠しながらも、その実態は圧倒的な政治・軍事情勢の変化を背景とした、戦わずしての権力移譲であった。小野道好の抵抗と逃亡は、彼が依存した今川体制の完全な崩壊を象徴する出来事であった。

【時系列詳解①】永禄11年12月13日 – 侵攻開始

武田信玄が駿河侵攻を開始した(12月6日)という報を受け、徳川家康は機を逃さなかった 17 。12月13日、家康は7千余の軍勢を率いて本拠地・三河岡崎城を出陣し、遠江へと侵攻を開始する 3 。その進軍ルートは、三河と遠江の国境に位置する陣座峠を越えるものであったと目されている 24 。この山深い経路は、現地の地理に精通した井伊谷三人衆の先導なくしては、迅速な進軍は困難であっただろう 3 。徳川軍の侵攻は、まさに三人衆との連携を前提とした作戦行動であった。

【時系列詳解②】12月中旬 – 井伊谷城への無血進軍

家康の本隊が遠江の主要街道を西進する一方、井伊谷三人衆は別動隊として、彼らの案内のもと井伊谷城へと向かった 26 。彼らは単なる道案内役ではなく、井伊谷を占拠する小野道好を排除し、この地を徳川方へ引き渡すための実行部隊でもあった 15

その頃、井伊谷城にいた小野道好は絶望的な状況に追い込まれていた。頼みとする今川氏真は、武田軍の猛攻の前に本拠地・駿府を追われ、かろうじて遠江の掛川城へと敗走していた 6 。宗主家の事実上の崩壊により、道好の権威の源泉は完全に失われた。彼は今や、井伊谷において完全に孤立無援の存在となっていたのである。

【時系列詳解③】12月中旬 – 「戦わずして勝つ」井伊谷城の接収

徳川軍接近の報、そしてかつての同僚であった井伊谷三人衆がその手先となって迫り来るという現実に直面し、道好の抵抗の意志は完全に砕かれた。井伊谷三人衆の部隊が城下に到達すると、道好は本格的な攻撃が開始される前に城を放棄し、闇に紛れて逃亡した 14

これにより、徳川軍は一切の戦闘を行うことなく、井伊谷城を接収することに成功した。これは、軍事的な勝利というよりも、内部協力者によって引き起こされた「政変」であり、権力の移行劇であった。この時、城を追われていた井伊直虎は、菩提寺である龍潭寺に身を寄せていた 12 。徳川の侵攻と道好の逃亡という一連の出来事を、彼女は固唾を飲んで見守っていたに違いない 28

【時系列詳解④】12月下旬 – 遠江平定の足掛かり

井伊谷という戦略的要衝を無血で手に入れた徳川軍は、これを足掛かりとして破竹の勢いで遠江西部を制圧していく。刑部城、白須賀城、宇津山城といった今川方の諸城は、次々と徳川の軍門に降った 1 。そして永禄11年12月18日には、後の浜松城となる引馬城への入城を果たす 1 。さらに同月27日には、今川氏真が最後の抵抗を続ける掛川城の包囲を開始し 15 、遠江平定の最終段階へと駒を進めたのである。井伊谷城の無血開城は、家康の遠江支配の序章を飾る、極めて象徴的な出来事であった。

第三章:戦後処理と新秩序の胎動(永禄12年 / 1569年)

井伊谷城の無血占領後、徳川家康は迅速かつ巧みな戦後処理によって、この地域に新たな支配体制を構築した。それは、旧体制の象徴であった小野道好を断罪することで自らの正統性を演出し、井伊家をはじめとする在地勢力を巧みに組み込むことで、盤石な統治基盤を築き上げる過程であった。この一連の動きは、後の対武田戦線、そして井伊家の再興へと繋がる重要な布石となる。

第一節:逃亡者・小野道好の末路

井伊谷城から逃亡した小野道好であったが、その命運は尽きていた。徳川家康の命を受けた井伊谷三人衆による執拗な捜索の末、近隣の洞窟に潜伏していたところを捕縛された 15

そして永禄12年(1569年)4月7日(5月とする説もある)、道好は井伊谷を流れる井伊谷川のほとりにある蟹淵(がにぶち)にて処刑された 13 。この場所は、古くから井伊家の罪人を処断する「仕置き場」であったと伝えられている 13 。処刑方法は斬首、あるいは獄門磔という極刑であり、その首は晒されたという 10 。これは、単なる罪人の処罰に留まらない。家康が、主家を讒言し徳川に敵対した者への見せしめとして、井伊家の伝統的な場所で断罪するという政治的パフォーマンスを行うことで、「我こそが井伊家の苦難を救い、正義を回復した解放者である」という強力なメッセージを内外に発信したのである。これにより、家康は自身の遠江支配を正当化することに成功した。その後、道好の二人の子も処刑され、小野一族による井伊谷支配の野望は完全に潰えた 10

第二節:井伊谷の新統治体制

小野氏の排除後、井伊谷には徳川による新たな統治体制が敷かれた。井伊谷城は、攻略の功労者である井伊谷三人衆が城番として輪番で管理することとなり、徳川家康はこの地を実質的な支配下に置いた 19

一方、井伊直虎は井伊谷に帰還し、再び領主としての立場を回復した 30 。ただし、その権力はもはや独立したものではなく、徳川家康の庇護下にある、いわば徳川の代理統治者としての限定的なものであった 12 。家康は、井伊家の菩提寺である龍潭寺に対しても従来の寺領を安堵する判物(はんもつ)を発給するなど 31 、地域の伝統や権威を尊重する姿勢を見せることで、井伊谷の人心の掌握に努めた。硬軟両様の策を巧みに使い分ける家康の統治術がここにも見て取れる。

第三節:井伊家再興への序曲

この一連の出来事は、井伊家にとってまさに運命の転換点であった。今川氏の支配下では、相次ぐ当主の死と家臣の専横により没落の一途を辿っていたが、徳川の家臣団に組み込まれたことで、家名再興への道が拓かれたのである 21

この時、井伊直親の遺児・虎松は、小野道好の追手から逃れるため、三河の鳳来寺に預けられていた 21 。井伊谷が徳川の支配下に入り、安定を取り戻したことで、虎松を呼び戻す準備が整った 30 。やがて虎松は徳川家康に見出されて出仕し、井伊直政として類稀なる才覚を発揮していくことになる 11 。井伊谷城の無血開城は、後の「徳川四天王」筆頭、井伊直政を世に送り出すための、歴史的な序曲であったと言えよう。

第四章:歴史的意義と後世への影響

「井伊谷城の戦い」は、その規模や戦闘の有無から見れば、戦国時代の数多の合戦の中で目立つ存在ではないかもしれない。しかし、その歴史的意義は極めて大きく、多層的な影響を後世に与えた。この事件は、戦国期の権力移行の実態、徳川家康の天下取りにおける戦略的重要性、そして名門・井伊家の劇的な再興という三つの側面から、その価値を再評価されるべきである。

第一節:「戦い」にあらざる「戦い」の本質

本件は、戦国時代における「合戦」の概念が、必ずしも大規模な野戦や凄惨な攻城戦のみを指すのではないことを示す好例である。徳川家康は、武力による正面からの攻撃ではなく、周到な調略によって敵の内部を切り崩し、政治的・軍事的な圧力によって相手を自壊させた。井伊谷三人衆の内通を取り付け、孤立無援となった小野道好を戦わずして逃亡に追い込んだ手腕は、優れた将帥の条件が、単なる武勇だけでなく、情報戦や心理戦を制する能力にあったことを物語っている。戦わずして勝利を収めることこそ、孫子の兵法にも通じる最高の戦略であり、家康がそれを実践したのが井伊谷城の接収であった。

第二節:徳川家康の天下取りにおける一里塚

徳川家康にとって、井伊谷の確保は遠江平定における最初の、そして極めて重要な一歩であった。この地を無血で手に入れたことにより、今川氏真が籠る掛川城攻略に専念するための兵站線と、背後の安全を確保することができた 1 。これにより、家康は遠江全域の支配を盤石なものとするための強固な橋頭堡を築いたのである 3

さらに、井伊谷の地政学的な重要性は、その後にさらに高まる。この地は三河・遠江・信濃の三国を結ぶ結節点に位置する戦略的要衝であった。数年後、武田信玄との対立が激化すると、井伊谷は対武田防衛の最前線として決定的な意味を持つことになった 33 。元亀3年(1572年)の仏坂の戦いや三方ヶ原の戦いにおいて、井伊谷は徳川方の重要な拠点として機能し、武田軍の侵攻を食い止める防波堤の役割を果たしたのである 35

第三節:井伊家、飛躍への滑走路

井伊家にとって、この事件は滅亡の淵からの奇跡的な生還であった。今川の支配下では家臣に実権を奪われ、断絶の危機に瀕していた井伊家が、徳川の庇護下に入ったことで、家名を再興する千載一遇の機会を得た。

この歴史の転換点がなければ、井伊直政が徳川家康に仕官し、その才能を開花させることはなかったであろう。そして、後に「井伊の赤鬼」と恐れられ、徳川四天王の筆頭として数々の武功を挙げ、関ヶ原の戦いの後には譜代大名の筆頭として近江彦根三十五万石の礎を築くという輝かしい歴史も存在しなかった 11 。井伊谷城の無血開城は、没落しかけた名門が、戦国乱世を駆け上がり、江戸時代を通じて幕政の中枢を担う大大名へと飛躍するための、まさに滑走路となったのである。


付属資料:理解を深めるための表

表1:井伊谷城の戦い 前後関係年表

年月

出来事

関連勢力

意義・影響

永禄3年 (1560) 5月

桶狭間の戦い、今川義元討死

今川、織田

今川氏の衰退開始、徳川家康独立の契機

永禄5年 (1562)

井伊直親、今川氏真に謀殺される

今川、井伊

井伊家当主不在の危機、直虎(次郎法師)が後見となる

永禄11年 (1568)

小野道好、今川の命を受け井伊谷を横領、井伊谷城を掌握

今川、井伊、小野

井伊家内紛の頂点、徳川介入の口実を生む

永禄11年 (1568) 12月

武田信玄が駿河侵攻開始、徳川家康が遠江侵攻開始

武田、徳川、今川

今川領の東西からの分割侵攻、今川氏の事実上の滅亡

永禄11年 (1568) 12月中旬

徳川軍、井伊谷三人衆の先導で井伊谷城を無血接収(井伊谷城の戦い)

徳川、井伊、小野

徳川軍の遠江支配の橋頭堡確保、小野道好の失脚

永禄12年 (1569) 4月

小野道好、井伊谷蟹淵にて処刑される

徳川、井伊、小野

徳川による新秩序の宣布、井伊家の旧体制の清算

永禄12年 (1569) 5月

徳川家康、掛川城を開城させ、今川氏真を降伏させる

徳川、今川

徳川による遠江一国の平定がほぼ完了

元亀3年 (1572) 10月

仏坂の戦い、三方ヶ原の戦い

武田、徳川

井伊谷が対武田防衛の最前線となる

天正3年 (1575)

井伊虎松(直政)、徳川家康に出仕

徳川、井伊

井伊家再興の本格的な始まり

表2:主要関係者一覧とその立場

人物名

所属・役職

本件における目的・動機

徳川家康

三河国主

遠江国を平定し、領土を拡大すること。武田信玄との協調と牽制。

今川氏真

駿河・遠江国主

失墜した権威を回復し、領国を維持すること。しかし武田・徳川の侵攻により頓挫。

武田信玄

甲斐国主

駿河国を手中に収め、上洛への足掛かりとすること。

井伊直虎(次郎法師)

井伊家当主(後見人)

井伊家の断絶を防ぎ、家名を存続させること。小野道好の専横を排除すること。

小野道好(政次)

井伊家家老、後に今川氏代官

主家の混乱に乗じ、今川の権威を借りて井伊谷を自らの支配下に置くこと。

井伊谷三人衆

井伊家与力(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)

没落する今川氏を見限り、新興の徳川氏に仕えることで、自家の安泰と発展を図ること。

井伊直政(虎松)

井伊直親の嫡男

この時点では幼少。井伊家再興の希望を託された存在。

引用文献

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  2. 今川義元(いまがわ よしもと) 拙者の履歴書 Vol.14〜桶狭間の悲劇、三国の盟主 - note https://note.com/digitaljokers/n/na5c8b2d30004
  3. 徳川家康による掛川城攻めについて 掛川城 家康 読本 公式WEB https://www.bt-r.jp/kakegawajo/chapter1/
  4. 武田、北条、徳川ら東国武将の膨張戦略の意外な結末 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63490
  5. 武田信玄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
  6. 武田の駿河侵攻と今川家臣団 : 駿河の清水寺はなぜ焼かれたのか https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/record/2000917/files/2022-0060.pdf
  7. 駿河侵攻の裏で起きていた家中騒動!今川家の今後を決める信玄と嫡男・義信の対立【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/196598
  8. 井伊谷城(いいのやじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E8%B0%B7%E5%9F%8E-179681
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