最終更新日 2025-08-30

交野城の戦い(1568)

永禄十一年、信長上洛戦で交野城は無血開城。畿内の混乱に乗じた信長の電撃的進軍と政治的圧力により、城主安見右近は戦わずして帰順。これは信長の戦略的勝利であったが、後に苛烈な攻防戦の伏線となった。

永禄十一年、畿内震撼:織田信長上洛と「交野城の戦い」の真相

序章:永禄十一年、交野城を巡る二つの「戦い」

永禄十一年(1568年)に発生したとされる「交野城の戦い」は、日本の戦国史において、しばしばその実態が誤解されてきた事象である。利用者様が提示されたこの年の出来事は、一般に「交野城の戦い」として知られる、後の元亀三年(1572年)に松永久秀が引き起こした苛烈な攻城戦とは、その本質を全く異にする。

1568年における交野城を巡る動向は、物理的な戦闘を伴う「合戦」ではなかった。それは、織田信長の圧倒的な軍事力を背景とした、政治的かつ戦略的な「無血開城」あるいは「帰順」と定義するのが最も正確である。信長が足利義昭を奉じて美濃を発してから、わずか一ヶ月足らずで畿内の中枢を制圧するという、戦国史上類を見ない電撃的な軍事行動の渦中において、河内国北部の小勢力であった交野城主・安見右近が取り得た選択肢は極めて限られていた。

本報告書は、この15668年の事象を、信長による「畿内平定戦の一環としての河内北部無力化プロセス」と位置づける。そして、なぜ物理的な戦闘が発生しなかったのか、その背景にある畿内の権力構造、信長の卓越した戦略、そして河内の国人衆が直面した政治的現実を、時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。この「戦われなかった戦い」の真相を理解することこそが、信長の上洛戦の全体像と、後の畿内における新たな動乱の火種を理解する鍵となるのである。

第一部:嵐の前の畿内

第一章:落日の室町幕府と三好政権の黄昏

織田信長が歴史の表舞台に躍り出る直前の畿内は、権威の空洞化と終わりの見えない内乱によって深く疲弊していた。この混沌こそが、信長の急速な台頭を可能にした最大の要因であった。

永禄八年(1565年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝が、その居館である二条御所にて三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀の軍勢によって殺害されるという前代未聞の事件(永禄の変)が発生した 1 。これにより、畿内における権威の中心は完全に失われ、政治的混乱は決定的なものとなった。三好三人衆は、足利義輝の従弟にあたる足利義栄を阿波国から迎え入れて第14代将軍として擁立するが、その正統性は脆弱であり、畿内を安定させるには至らなかった 2

さらに深刻だったのは、三好政権内部の分裂であった。かつて畿内に覇を唱えた三好長慶の死後、政権を支えるべき重臣であった三好三人衆と松永久秀は、主導権を巡って激しく対立した 2 。この対立は、永禄十年(1567年)には東大寺大仏殿を巻き込む大規模な戦闘にまで発展し、畿内は実質的な内戦状態に陥った 2 。彼らは互いに勢力を削り合い、その軍事力を著しく消耗させていた。

この状況は、外部からの介入を容易にする土壌を完璧に作り上げていた。信長が上洛の軍を起こした際、畿内の支配者たるべき三好勢は、統一された戦略の下で抵抗することが不可能であった。彼らは信長という共通の脅威に直面する以前に、内部の抗争によって自壊しつつあったのである。信長は堅固な扉を打ち破ったのではなく、すでに内側から朽ち果て、蝶番が外れかかっていた扉を押し開けたに過ぎなかった。

第二章:河内国の群雄割拠

信長上洛当時の河内国もまた、畿内全体の縮図のような、複雑で流動的な権力構造の中にあった。名目上の支配者と実力者との乖離は著しく、一枚岩の統治とは程遠い状態であった。

名目上の河内守護は、畠山氏(尾州家)であった。しかし、当主・畠山高政(1552年家督継承)の代にはその権威は形骸化し、家臣団の動向に左右される存在となっていた 6 。高政はかつて三好長慶との戦いに敗れて河内を追われるなど、その支配力は極めて限定的であった 6

河内の実権を握っていたのは、守護代の遊佐信教と、飯盛城を拠点とする安見宗房(一般には直政の名で知られる)といった重臣たちであった 6 。遊佐信教は、父・長教が暗殺された後、若年ながらも守護代として家中の中心を担っていた 6 。一方の安見宗房は、出自が低い身分から実力で飯盛城主の地位までのし上がった下克上の体現者であり、北河内に大きな影響力を持つ人物であった 8

本報告書の主題である交野城(私部城)は、この時期に安見右近によって築かれたとされる 13 。彼は飯盛城の安見宗房とは別系統の一族と考えられ、河内国交野郡を地盤とする国人領主であった 14 。右近の立場は複雑であり、畠山氏の配下でありながら、一時期は畿内の梟雄・松永久秀の麾下にあったとも伝えられている 8 。彼の立ち位置は、常に地域のパワーバランスの変化に影響される、極めて不安定なものであった。

この河内の権力構造を理解することは、1568年の出来事を読み解く上で不可欠である。信長にとって、河内を支配下に置くために、安見右近のような個々の国人領主を攻略する必要はなかった。彼がすべきことは、地域全体のパワーバランスを把握し、実権を握る畠山氏や遊佐氏といった中枢を政治的に屈服させることだけであった。それが達成されれば、その影響下にある交野城のような末端の勢力は、自動的に帰順せざるを得なくなる。信長は、この封建的な権力構造の本質を正確に見抜いていた。

第二部:信長上洛戦のリアルタイム・クロニクル(永禄十一年九月~十月)

第一章:美濃出立から近江平定まで(九月七日~十四日)

永禄十一年九月七日、織田信長は、亡き将軍義輝の弟・足利義昭を奉じ、万全の準備をもって本拠地である岐阜城を出陣した 16 。その軍勢の規模は数万にのぼり、畿内の諸勢力を圧倒するものであった。

信長軍の最初の標的は、上洛路を阻む南近江の守護・六角義賢(承禎)、義治親子であった。しかし、信長は六角氏の本拠である観音寺城に直接攻めかかることはしなかった。九月十二日、佐久間信盛、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀といった精鋭部隊に命じ、支城である箕作城を猛攻させた 5 。箕作城は堅城として知られていたが、織田軍の猛攻の前にわずか一日で陥落した。

この箕作城のあまりにも早い落城は、六角氏の家臣団に計り知れない衝撃を与えた。翌十三日から十四日にかけて、織田軍が観音寺城に迫ると、六角軍は組織的な抵抗を見せることなく瓦解。義賢・義治親子は城を捨てて甲賀へと逃亡した 5 。信長は、大規模な戦闘をほとんど行うことなく、畿内への入り口である南近江一帯を完全に手中に収めたのである。

この近江平定戦は、単なる軍事作戦の成功に留まらない。それは、信長が周到に計画した心理戦の勝利であった。堅固な支城を圧倒的な力で瞬時に粉砕することにより、「織田信長への抵抗は無意味である」という強烈なメッセージを畿内の全土に発信したのである。この報は信長軍の進軍速度を上回る速さで京、そして河内へと伝わった。畿内平定の帰趨は、信長がまだ山城国に足を踏み入れる前に、この時点で心理的にほぼ決していたと言っても過言ではない。

第二章:京周辺の制圧と三好勢の駆逐(九月十五日~二十九日)

南近江を平定した信長軍は、破竹の勢いで山城国へと進軍した。九月二十四日頃から、三好三人衆の一人、岩成友通が籠る勝龍寺城を包囲し、同時に摂津国境にかけて軍を展開、三好方の諸城に強烈な圧力を加えた 16

近江の六角氏が一瞬で崩壊したという現実と、自らの眼前に迫る織田軍の圧倒的な兵力を目の当たりにした三好三人衆は、もはや組織的な抵抗を維持する気力を失っていた。九月二十九日、彼らはついに抵抗を断念。三好長逸は摂津の拠点であった芥川山城を、岩成友通は勝龍寺城をそれぞれ放棄し、本拠地である四国の阿波へと敗走した 16

翌九月三十日、足利義昭は、かつて三好氏が畿内支配の拠点としていた芥川山城に堂々と入城した 5 。これにより、京と摂津を結ぶ要衝は完全に織田・足利方の支配下に入り、和田惟政が新たな城主として配置された 19 。岐阜出陣からわずか三週間余りで、長年にわたり畿内を支配してきた三好政権の中枢は、戦闘らしい戦闘もないままに駆逐されたのである。

第三章:河内平定と交野城の戦略的帰順(九月下旬~十月上旬)

この時点で、河内国の国人衆は震撼していた。昨日まで畿内の支配者であった三好三人衆が、抵抗らしい抵抗もできずに畿内から駆逐されたのである。河内の実力者である畠山高政、遊佐信教、安見宗房らにとって、選択肢はもはや二つしか残されていなかった。「抵抗し、六角氏や三好三人衆のように滅ぼされる」か、「恭順の意を示し、新たな支配者の下で所領を安堵される」かである。

彼らの決断は早かった。信長軍が摂津・山城を制圧するのとほぼ時を同じくして、畠山高政と遊佐信教は、いち早く信長に恭順の意を示した。これにより、河内守護家とその実権を握る守護代が、公式に織田方に帰順したのである 6

この主家の決定は、交野城の運命を自動的に決定づけた。畠山氏の配下である交野城主・安見右近もまた、主家の決定に従い、織田方へ帰順した 15 。これこそが、永禄十一年における「交野城の戦い」の真相である。そこには攻城戦も、兵の衝突も存在しなかった。信長の畿内平定という巨大な戦略の流れの中で、交野城は戦うことなく、その支配下へと組み込まれたのである。

この無血での帰順は、信長にとっても大きな戦略的価値を持っていた。交野城は、大和(松永久秀の拠点)、山城(京)、河内(畠山・三好の旧領)の三国を結ぶ交通の要衝に位置していた 15 。この地を戦闘なしに味方の拠点とすることは、上洛路の側面を安全にし、未だ去就の定かでない大和の松永久秀を牽制する上で、極めて重要な意味を持っていた。1568年の「交野城の戦い」の歴史的意義は、戦闘が起こらなかったという事実そのものにある。それは、信長が軍事力という背景を用いて政治的目標を達成した、卓越した戦略の成功例であった。

第三部:戦後の新秩序と未来への伏線

第一章:畿内統治体制の構築

電光石火の上洛戦を成功させた信長は、矢継ぎ早に畿内の新秩序構築に着手した。

十月十八日、足利義昭は正式に第十五代征夷大将軍に就任し、室町幕府は再興された 16 。しかし、その権力基盤は信長の軍事力に完全に依存しており、実権は信長が掌握していた。信長は、自治都市として強大な経済力を誇っていた堺に対し、矢銭(軍資金)二万貫の支払いを命じるなど、畿内の経済的支配も着々と進めていった 4

十月二十八日、信長は戦後処理に一定の目処をつけると、足利義昭を京に残して自身は美濃へと帰国した 5 。しかし、畿内の統治と防衛体制に抜かりはなかった。佐久間信盛、木下秀吉、丹羽長秀といった織田家中の重臣たちを京都に残留させ、万一の事態に備えさせたのである 17 。特に佐久間信盛は、この後、畿内方面軍の総司令官として、この地域の軍事を統括する重責を担っていくことになる 24

一方で、旧勢力に対する処遇は、信長の現実主義的な側面を色濃く反映していた。三好長慶の嫡男であった三好義継と、将軍殺害の当事者の一人である松永久秀は、信長に降伏すると、それぞれ河内北半国と大和一国を安堵された 5 。これは、彼らの勢力を完全に滅ぼすよりも、一時的に自らの支配体制に組み込む方が得策であると判断したためであった。しかし、この融和策は、後の裏切りと対立の火種を内包する、極めて危険な賭けでもあった。

第二章:交野城、束の間の平穏と新たな火種

1568年の帰順を経て、交野城主・安見右近は織田政権下の国人領主として、束の間の平穏を享受した。太田牛一が記した『信長公記』には、元亀元年(1570年)の時点で織田方に属する城の一つとして「片野(交野)の安見右近」の名が明確に記されており、彼が織田体制の一翼を担っていたことが確認できる 21 。さらにこの時期、右近は信長の筆頭家臣である佐久間信盛の娘を妻に迎えたとされ、織田政権との結びつきをより一層強化していたと考えられる 13

しかし、この平穏は長くは続かなかった。将軍・足利義昭が信長と対立を深め、各地の反信長勢力に密かに決起を促すようになると、畿内の情勢は再び緊迫する。浅井・朝倉氏、武田信玄、石山本願寺などが呼応し、後に「信長包囲網」と呼ばれる一大連合が形成されていった 25

元亀二年(1571年)、かつて信長に恭順した松永久秀が、この包囲網に呼応して信長を裏切った。久秀にとって、信長への忠誠を貫く安見右近は、自身の本拠地である大和と京を結ぶ要衝に位置する、極めて邪魔な存在であった。久秀は信長への反旗を翻すよう右近に迫ったが、右近はこれを拒否。結果、同年五月、右近は奈良に呼び出され、非業の死を遂げる(一説には切腹)こととなった 15

城主を謀殺によって失った交野城に対し、元亀三年(1572年)四月、松永久秀と三好義継の連合軍が満を持して攻撃を開始した。これこそが、血で血を洗う、真の「交野城の戦い」である 8 。城は右近の跡を継いだ安見新七郎らが必死に固守。報を受けた信長は、佐久間信盛らを総大将とする大規模な援軍を派遣した。織田軍は松永軍が城攻めのために築いた付城(相城)を逆に攻略し、松永・三好連合軍を撃退した 13 。この勝利は、信長包囲網の一角を突き崩す上で、極めて重要な意味を持つものであった。

1568年の平穏な帰順が、皮肉にも安見右近を織田政権と深く結びつけ、彼を後の動乱における悲劇の標的としたのである。1568年の「戦われなかった戦い」は、1572年の苛烈な籠城戦へと直接繋がる、重要な伏線であったのだ。

終章:1568年「交野城の戦い」の歴史的意義

永禄十一年(1568年)における「交野城の戦い」は、その名に反して、武力衝突なき「戦い」であった。その本質は、織田信長の圧倒的な「武」のデモンストレーションが、実際の戦闘を不要にした「政治戦」「戦略戦」の典型例である。

この出来事は、信長の畿内制圧戦略がいかに周到かつ合理的であったかを如実に示している。電撃的な進軍速度で敵の戦意を挫き、心理的圧迫によって抵抗を無力化する。そして、地域の複雑な権力構造を巧みに利用し、最小限のコストで自らの戦略目標(上洛路の側面安全確保)を達成する。これは、信長の卓越した戦略眼の証左に他ならない。

しかし、この時の平穏な帰順は、物語の終わりではなかった。むしろ、新たな悲劇の始まりであった。この政治的決断によって、交野城主・安見右近は織田政権に深く組み込まれ、その忠誠の故に、後の信長包囲網において松永久秀の標的となり命を落とすことになった。

したがって、1568年の交野城における出来事は、単なる無血開城としてではなく、より苛烈な元亀年間の戦いへと繋がる重要な伏線として位置づけられるべきである。それは、戦国時代の権力闘争において、一つの政治的選択が、いかに未来の運命を規定するかを示す、示唆に富んだ歴史の一幕なのである。

補遺:参考資料

【表1】 永禄十一年 信長上洛戦 関連年表(1568年9月~10月)

日付 (永禄11年)

織田軍の動向

三好・反織田勢力の動向

畿内諸将の動向

9月7日

信長、足利義昭を奉じ岐阜を出陣 16

-

-

9月12日

佐久間信盛、木下藤吉郎らが六角氏の支城・箕作城を一日で攻略 5

六角義賢・義治、抵抗体制を構築。

-

9月13-14日

観音寺城へ進軍。

箕作城落城の報に戦意喪失。六角義賢・義治親子が観音寺城を放棄し甲賀へ逃亡 5

-

9月26日

信長、京へ入り東寺に布陣 16

三好三人衆、摂津・山城の諸城で抵抗の構え。

-

9月27-28日

勝龍寺城(岩成友通)を包囲。摂津国境へ軍を展開し圧力をかける 17

-

摂津の池田勝正らが織田方に降伏 5

9月29日

-

三好長逸が芥川山城を、岩成友通が勝龍寺城を放棄し、阿波へ敗走 17

畠山高政・遊佐信教が織田方に恭順 6

9月30日

足利義昭が芥川山城に入城。畿内の中枢を掌握 5

-

安見右近(交野城)、主家の畠山氏に従い織田方に帰順。

10月2日

摂津の越水城、池田城を制圧 5

篠原長房、越水城を放棄し阿波へ撤退 5

-

10月10日

佐久間信盛、細川藤孝らが大和へ進軍 5

-

松永久秀(大和)、三好義継(河内)が信長に降伏 5

10月18日

-

-

足利義昭、征夷大将軍に就任 16

10月28日

信長、畿内の戦後処理を終え、岐阜城へ帰還 5

-

-

【表2】 永禄十一年頃の河内国における主要人物と勢力関係

階層

人物/勢力

拠点

備考

守護(名目上)

畠山氏(尾州家)

高屋城

当主は畠山高政。三好氏との抗争で権威が失墜し、実権を失っている 6

守護代(実力者)

遊佐信教

(高屋城)

守護代として畠山家中を掌握。守護を凌ぐ実権を持つ 6

有力家臣(実力者)

安見宗房(直政)

飯盛城

下克上でのし上がった北河内の実力者。遊佐氏と並び、畠山家中の実権を握る 8

国人領主(従属)

安見右近

交野城(私部城)

畠山氏の配下。安見宗房とは別系統の一族。地理的に大和の松永久秀の影響も受ける立場 14

外部勢力(影響)

三好義継

若江城

三好長慶の嫡男。信長上洛後、河内北半国を安堵される 5

外部勢力(影響)

松永久秀

信貴山城(大和)

畿内有数の実力者。安見右近は一時期、その麾下にあったともされる 8

引用文献

  1. 【信長入京、旬日にして畿内を平定】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200750
  2. 三好長逸は何をした人?「三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄の変を起こした」ハナシ https://busho.fun/person/nagayasu-miyoshi
  3. 三好家 と 三好長慶 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/miyosi.htm
  4. 三好三人衆(ミヨシサンニンシュウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86-139812
  5. 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
  6. 遊佐信教とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8A%E4%BD%90%E4%BF%A1%E6%95%99
  7. 畠山高政 - 能登畠山氏七尾の歴史 http://nanao.sakura.ne.jp/retuden/hatakeyama_takamasa.htm
  8. 天下再興の戦いと私部城 https://murata35.com/kisabejyo/kotani09.pdf
  9. 遊佐信教 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E4%BD%90%E4%BF%A1%E6%95%99
  10. 安見宗房 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A6%8B%E5%AE%97%E6%88%BF
  11. 武家家伝_河内遊佐氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kw_yusa.html
  12. 武家家伝_安見氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yasumi_k.html
  13. 第2回 交野史跡めぐりが行われました https://katano-kanko.com/20220708report/
  14. 安見氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A6%8B%E6%B0%8F
  15. 私部城跡の最新情報 - 星のまち交野 https://murata35.com/kisabejyo/index.html
  16. 信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ - 京都府京都文化博物館 https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/nobunagazyouraku450/
  17. 歴史の目的をめぐって 佐久間信盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sakuma-nobumori.html
  18. 三好長逸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
  19. 芥川山城- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  20. 芥川山城- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  21. 私部城の歴史をたどる奈良の旅 - 星のまち交野 http://murata35.chicappa.jp/kisabejyo/narakengaku/index.html
  22. 安見宗房の石灯篭(春日若宮神社の参道) http://rekishi-nara.cool.coocan.jp/tokushu/colum/colum5.htm
  23. 織田信長の戦略地図~尾張を統一後、上洛を見据えて美濃攻略へ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/894/?pg=2
  24. 佐久間信盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
  25. 信長包囲網 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
  26. 信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉。将軍・足利義昭の策謀とふたつの幕府【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1015959
  27. 私部城跡・安見氏年表 - 交野市 https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2019111100033/file_contents/1115-1.pdf
  28. 私部城の歴史 - 交野市 https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2019111100033/file_contents/1115-2.pdf
  29. 元亀3年(1572年)の事(『麒麟がくる』第36回「訣別」) - note https://note.com/senmi/n/n422b84a98510