最終更新日 2025-09-11

今福・鴫野の戦い(1615)

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慶長十九年霜月二十六日、大坂冬の陣における今福・鴫野の戦い ― 戦況の時系列的再構築と戦略的考察

序章: 天下分け目の前哨戦

慶長十九年(1614年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関ヶ原の戦いから十数年、徳川家康による天下統一事業は最終段階に入り、その最後の障壁として、大坂城に拠る豊臣秀頼とその母・淀殿の存在が残されていた。豊臣秀吉の死後、巧みな政治手腕で実権を掌握した家康は、方広寺鐘銘事件などを口実に豊臣家を追い詰め、ついに大坂への出兵を決意する 1 。世に言う「大坂の陣」の幕開けである。

全国の大名はことごとく徳川方に与し、その総兵力は二十万に達したと伝えられる 2 。対する豊臣方は、豊臣恩顧の大名の参陣は皆無であったものの、徳川の世に不満を抱く浪人衆を中心に約十万の兵力をかき集め、天下の名城と謳われた大坂城での籠城策を選択した 3 。この戦いは、もはや大名家同士の領土争いではなく、一つの時代の終焉と新しい時代の確立をかけた、最後の総力戦であった。

本報告書で詳述する「今福・鴫野の戦い」は、この大坂冬の陣における緒戦の一つであり、慶長十九年十一月二十六日に行われた戦闘である 4 。利用者様が認識されていた慶長二十年(1615年)の「夏の陣」ではなく、その前哨戦とも言える「冬の陣」の序盤、大坂城の外郭防衛線を巡る攻防戦であった点をまず明確にしておきたい。この戦いは、大坂城包囲網の完成を目指す徳川方と、それを阻止せんとする豊臣方の意志が初めて激しく衝突した、極めて重要な意味を持つ戦いであった。

戦場となる今福・鴫野の地理的特徴と戦略的重要性

この戦いの帰趨を決定づけた最大の要因は、その特異な地形にあった。戦場となった今福村と鴫野村は、大坂城の北東約2kmに位置し、当時この地を流れていた旧大和川を挟んで、北岸が今福、南岸が鴫野であった 5 。この一帯は広大な低湿地帯であり、見渡す限り泥深い田圃が広がっていた 4 。そのため、大軍が陣形を組んで展開することは不可能であり、唯一の移動・戦闘可能な場所は、湿地帯を貫く数本の「堤防上」に限られていた 1

この地形的制約は、戦国時代に常套とされた騎馬による突撃や、横陣を組んでの集団戦といった戦術を完全に無効化した。戦闘は必然的に、狭い堤防上での正面からの押し合い、兵士一人ひとりの技量と士気、そして指揮官の局所的な戦術判断が勝敗を直結させる、極めて限定的かつ熾烈な白兵戦とならざるを得なかった。この地形こそが、今福・鴫野の戦いを「冬の陣最大の激戦」 11 と言わしめるほどの凄惨な消耗戦へと変貌させた根本的な原因である。

徳川家康にとって、この地の確保は戦略上不可欠であった。大坂城を完全に包囲し、兵糧攻めと心理的圧迫を強めるためには、城の周囲に「付け城」と呼ばれる複数の攻城拠点を築く必要があった 5 。今福・鴫野は、大坂城の北東方面を抑えるための付け城建設に最適な場所であり、この地を奪取することは、徳川方の包囲網を完成させるための最後のピースを埋める作業に他ならなかった 7

これに対し豊臣方は、この地の戦略的重要性を当然認識しており、徳川方の来襲に備えて今福村と鴫野村にそれぞれ砦(柵)を築き、防衛線を構築していた 8 。しかし、その防衛思想は、徳川方の主導的な攻撃に対し、城内からの後詰(援軍)によって敵を撃退するという、どちらかと言えば後手の戦略であった。緒戦におけるこの戦略的主導権の差は、冬の陣全体の趨勢を暗示するものであったと言えよう。

第一章: 合戦前夜 ― 両軍の布陣

慶長十九年十一月二十五日、大坂城の北東に位置する今福・鴫野の地には、決戦を前にした静かな緊張が満ちていた。徳川家康は、この二つの拠点を同時に攻略すべく、周到に部隊を編成し、配置していた。一方の豊臣方も、防衛線を固め、城内からの援軍派遣の準備を整えていた。

徳川方の攻撃部隊編成

家康がこの重要な攻略戦の主軸に据えたのは、いずれも関ヶ原の戦いにおいて徳川方と敵対した経緯を持つ、旧豊臣恩顧の大名であった。これは、彼らの武威を示す機会を与えると同時に、徳川家への忠誠を試す「踏み絵」としての意味合いを持つ、極めて政治的な意図が込められた配置であった 12 。彼らにとってこの戦いは、徳川体制下での自家の存亡と、武門としての誇りをかけた、まさに背水の陣であった。

  • 今福方面軍: 総大将は、常陸国から出羽国へ転封された佐竹義宣。関ヶ原では西軍に与する姿勢を見せたことで所領を大幅に削減された経緯を持つ。彼が率いる兵力は約1,500。その麾下には、一門の重臣である渋江政光や戸村義国といった歴戦の将が名を連ねていた 7
  • 鴫野方面軍: 総大将は、越後国から出羽国米沢へ移された「軍神」上杉謙信の後継者、上杉景勝。彼もまた関ヶ原では徳川と敵対した。兵力は約5,000と、今福方面の三倍以上の大部隊であった。上杉家の執政・直江兼続が先発隊を率い、実質的な指揮を執ったともされる。配下には、後にその智謀で上杉軍を救うことになる水原親憲や、勇将として知られる安田能元、須田長義らが控えていた 5
  • 後詰(予備兵力): これら主力部隊の後方には、出雲国松江藩主・堀尾忠晴、陸奥国岩出山藩主・伊達政宗配下の片倉重長(※資料にはないが通説)、そして上野国館林藩主・榊原康勝、伊勢国上野藩主・丹羽長重らが控え、戦況に応じていずれかの戦線に投入される手筈となっていた 5

豊臣方の防衛体制

豊臣方の防衛思想は、前線の砦で敵の攻撃を可能な限り遅滞させ、その間に城内から精鋭の援軍を送り込み、敵主力を撃破するという一点に集約されていた。この作戦は、援軍が適切なタイミングで到着し、かつ効果的に機能することが絶対条件であり、連携が少しでも崩れれば前線は容易に崩壊する危険性を内包していた。

  • 今福砦: 旧大和川北岸の堤防上に築かれたこの砦は、四重に巡らされた柵と三ヶ所の堀切によって、強固に防御されていた 7 。守備を任されたのは、矢野正倫および飯田家貞。彼らが率いる兵力はそれぞれ300、合計わずか600であった 7 。これは、佐竹隊1,500に対して明らかに寡兵であり、時間稼ぎに徹するほか選択肢はなかった。
  • 鴫野砦: 南岸の鴫野村にも、三重の堅固な柵が設置されていた 5 。守将は、大野治長の配下である井上頼次。兵力は約2,000で、今福よりは多いものの、対する上杉軍5,000には遠く及ばなかった 5
  • 城内からの援軍: 大坂城内では、豊臣家の若き将星・木村重成、そして黒田家を出奔した歴戦の勇将・後藤基次が、いつでも出撃できる態勢を整えていた 4 。さらに、豊臣軍の中核を担う大野治長自らが率いる約12,000の大軍も、戦況の推移を見守っており、決戦兵力として控えていた 5

【表】今福・鴫野の戦い 両軍戦闘序列表

両軍の布陣を以下にまとめる。この兵力配置は、徳川方が周到な計画のもとに主導権を握り、豊臣方がそれに対する後手の対応を強いられているという、緒戦の構図を明確に示している。

勢力

戦線

役割

指揮官

兵力

典拠

徳川方

今福

主力攻撃部隊

佐竹義宣(配下:渋江政光、戸村義国)

約1,500

7

鴫野

主力攻撃部隊

上杉景勝(配下:水原親憲、安田能元)

約5,000

5

後方

後詰(予備)

堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝

不明

5

豊臣方

今福

初期防衛部隊

矢野正倫、飯田家貞

約600

7

第一次援軍

木村重成、後藤基次

不明

4

鴫野

初期防衛部隊

井上頼次

約2,000

5

第二次援軍

大野治長(配下:竹田永翁、渡辺糺他)

約12,000

5

第二章: 戦いの刻 ― 戦況のリアルタイム再現

慶長十九年(1614年)十一月二十六日、夜明け前の冷気が大坂平野を包む中、歴史の歯車が大きく動き出した。この日繰り広げられた戦いは、二つの戦線で同時に進行し、互いに影響を及ぼし合いながら、一進一退の激闘となった。

慶長十九年十一月二十六日 未明(午前四時頃):攻撃開始

徳川方の佐竹義宣隊1,500と上杉景勝隊5,000は、漆黒の闇に紛れてそれぞれの陣地を発した。目標は、大坂城の北東に位置する今福と鴫野の砦。湿地帯のぬかるみを避け、細い堤防上を音もなく進軍する両軍は、豊臣方の警戒網を巧みに潜り抜け、夜明け前の最も暗い時間帯に、目標とする柵前へと到達した 4 。兵士たちは息を殺し、総大将からの攻撃命令を待った。

黎明(午前六時頃):両戦線、同時に戦闘開始

東の空が白み始めた頃、徳川方の攻撃の火蓋が切られた。

  • 【今福方面】: 佐竹義宣は、全軍に突撃を命令。兵1,500が鬨の声を上げ、矢野正倫・飯田家貞が守る兵600の今福砦第一柵へと殺到した 7 。狭い堤防上では、両軍が密集し、至近距離での壮絶な銃撃戦が始まった 10 。鉄砲の轟音と硝煙が、払暁の静寂を打ち破った。
  • 【鴫野方面】: ほぼ時を同じくして、上杉景勝も麾下の5,000の兵に総攻撃を命じた。上杉軍の先鋒を務める須田長義らが、井上頼次率いる2,000の兵が守る鴫野砦の第一柵へ猛然と襲いかかった 5 。数で勝る上杉軍は、波状攻撃を仕掛け、豊臣方の防衛線に強烈な圧力をかけた。

早朝(午前七時頃):徳川方、初期目標を達成

開戦から約一時間、両戦線で戦況が大きく動いた。

  • 【今福方面】: 佐竹隊の猛攻は凄まじく、数に劣る豊臣方の守備隊は次第に押し込まれていった。佐竹の重臣、渋江政光や戸村義国らが先頭に立って柵を乗り越え、敵兵を次々と討ち取っていく。豊臣方はついに持ちこたえきれず、防衛線は崩壊。守将の矢野正倫と飯田家貞は、乱戦の中で討死を遂げた 7 。勢いに乗った佐竹隊は、四重に設けられていた柵をすべて突破し、今福砦を完全に占拠した。
  • 【鴫野方面】: こちらでも、上杉軍がその兵力差と、上杉謙信以来の伝統を受け継ぐ兵の練度の高さで豊臣方を圧倒していた。安田能元らの勇猛な働きにより、三重に築かれた柵は次々と破られ、守将の井上頼次も奮戦及ばず討ち取られた 5 。上杉軍は、開戦からわずかな時間で鴫野砦の制圧に成功した。

午前中(午前八時頃):戦局急変、豊臣方の大反撃

徳川方の勝利で終わるかに見えた戦況は、ここから劇的に転回する。大坂城天守から戦況を注視していた豊臣首脳部は、前線の崩壊を知るや、満を持して精鋭の援軍を送り出した。

  • 【今福方面】: 城内から、木村重成と後藤基次が率いる第一次援軍が出撃した。この戦が初陣であったとされる若武者・木村重成は、敗走してくる味方の兵を巧みに収容し、見事な采配で部隊を再編すると、砦を占拠して勢いづいていた佐竹隊に猛然と反撃を開始した 7 。予期せぬ強力な反撃に、佐竹隊の進撃は完全に停止。逆に豊臣方の猛攻に押され、じりじりと後退を始めた 7 。この激しい乱戦の中、佐竹義宣が最も信頼を寄せる重臣・渋江政光が、奮戦の末に討死。佐竹隊は指揮系統に混乱が生じ、甚大な被害を被り始めた 13
  • 【鴫野方面】: 鴫野の戦線には、さらに大規模な援軍が投入された。大野治長自らが率いる、竹田永翁、渡辺糺、穴澤盛秀らを含む約12,000の第二次援軍である 5 。これにより、兵力比は一気に逆転。上杉軍5,000に対し、豊臣方は初期守備隊の残兵と合わせて12,000を超える大軍となった。数的優位を確信した豊臣方は、上杉軍に総攻撃を敢行。凄まじい圧力の前に、上杉軍の先鋒は耐えきれず、占拠したばかりの第三柵、第二柵を放棄し、第一柵まで後退を余儀なくされた 7

午前九時頃:戦術の応酬と指揮官の決断

戦いは、両軍の指揮官の力量が試される、極めて高度な戦術戦の様相を呈してきた。

  • 【鴫野方面】: 上杉軍の先鋒が崩れ、全軍が総崩れになりかねない危機的状況の中、二番手として控えていた将・水原親憲が、その卓越した戦術眼を閃かせた。彼は、後退してくる味方に対し、「左右に避けよ!」と大音声で命じた。この指示により、上杉軍の中央に意図的に空隙が作られた。勝利を確信し、追撃に夢中になっていた豊臣方の大軍は、隊列を乱したままその空間へと殺到した。まさにその瞬間、水原が左右に伏せさせていた鉄砲隊が一斉に火を噴いた。狭い堤防上で密集していた豊臣軍は、側面から十字砲火を浴びる形となり、大混乱に陥る。この機を逃さず、安田能元が率いる槍隊が、動揺する敵軍の側面に猛然と突撃した。この見事な連携攻撃により、豊臣方の前衛部隊は粉砕され、反撃の勢いは完全に頓挫した 5
  • 【今福方面】: 一方、今福では佐竹義宣が絶体絶命の窮地に立たされていた。木村・後藤隊の猛攻は衰えず、部隊は崩壊寸前であった。もはや自軍のみでの立て直しは不可能と判断した義宣は、隣の鴫野で奮戦する上杉景勝に使者を送り、必死の救援を要請した 8 。この二つの戦線は、互いの存亡が密接に絡み合う、運命共同体と化していた。

午前十時以降:決着

午前十時を回る頃、日の高く昇った戦場では、戦いの最終局面が訪れていた。

  • 【両戦線】: 鴫野で豊臣方の反撃を退けた上杉景勝は、佐竹隊の窮状を知り、すぐさま部隊の一部を今福方面の援護に差し向けた 1 。鴫野方面から駆けつけた上杉勢による援護射撃などが加わったことで、今福の豊臣方、木村・後藤隊の攻勢はついに鈍り始めた。
  • 豊臣方は、鴫野での戦術的敗北と、今福での攻勢頓挫という二重の打撃を受け、これ以上の戦闘継続は無益と判断。全軍に大坂城への撤退命令を下した。この退却戦は熾烈を極め、後藤基次も敵の鉄砲玉を受け負傷、血まみれの姿で辛うじて城へ帰還したと伝えられている 11

徳川軍は退却する豊臣軍を追撃し、この日の戦闘目標であった今福・鴫野の両村を完全に占拠した。多大な犠牲を払いながらも、家康は付け城建設のための最重要拠点を確保することに成功し、大坂城包囲網の完成へ向けて大きく前進したのである。

第三章: 激戦を彩った武将たち

今福・鴫野の戦いは、単なる兵力の衝突ではなかった。それは、それぞれの背景と矜持を背負った武将たちの、意志と能力が激突した人間ドラマでもあった。この激戦の中で、ひときわ強い輝きを放った者たちの姿を追う。

初陣の若武者、木村重成の奮戦

この戦いで最も鮮烈な印象を残したのが、豊臣秀頼の小姓から抜擢された若き将、木村重成である。当時、若干二十二歳。この今福の戦いが彼の初陣であったとされている 15 。豊臣方の前線が崩壊し、敗兵が潰走する絶望的な状況下で、重成は冷静に兵を収容し、見事な采配で反撃に転じた。その猛攻は、歴戦の佐竹義宣率いる部隊を一時壊滅寸前にまで追い込むほど凄まじいものであった 15

この活躍は、彼が単に秀頼の寵愛を受ける貴公子ではなく、非凡な統率力と戦術的センスを兼ね備えた、天性の将器の持ち主であることを証明した。豊臣家譜代の大名が徳川方に去り、浪人衆に頼らざるを得ないという人材不足に悩む豊臣方にとって、重成の登場はまさに一筋の光明であった 15 。この今福での目覚ましいデビューが、彼の評価を不動のものとし、後の大坂夏の陣において、豊臣軍の最重要局面の一つである若江の戦いを任され、そして悲劇的な最期を遂げる英雄譚へと繋がる、すべての序章となったのである。

百戦錬磨の将、後藤基次の執念

木村重成と共に佐竹隊を苦しめたのが、黒田家を出奔し、浪人として大坂城に入った百戦錬磨の勇将、後藤基次(又兵衛)である。「槍の又兵衛」の異名を持つ彼の武勇は、天下に広く知れ渡っていた。今福の戦いでは、重成の若き才能を支え、その老練な戦術眼で佐竹隊を翻弄した。

彼の不屈の闘志を象徴するのが、退却時の逸話である。豊臣軍の撤退が決まり、殿(しんがり)に近い位置で敵の追撃を防いでいた基次は、敵の鉄砲玉を受け負傷する。しかし彼は少しも怯むことなく、血まみれの姿のまま悠然と馬を駆り、大坂城へと帰還したという 11 。この姿は、豊臣方の兵士たちの士気を大いに鼓舞したと同時に、この戦いがどれほど激しいものであったかを物語っている。基次の存在は、寄せ集めの感が否めない豊臣軍にあって、その中核をなす確かな武力と精神的支柱であった。

「軍神」の系譜、上杉景勝の矜持と決断

寡黙で、生涯で一度しか笑わなかったとまで言われる上杉景勝。しかし、その内に秘めた闘志と武門としての誇りは、この鴫野の戦いで遺憾なく発揮された。彼は、配下の水原親憲が見せた「偽装後退」からの鉄砲一斉射撃という高度な戦術を許容し、成功させた。これは、日頃から厳しい訓練を積み、将と兵の間に絶対的な信頼関係がなければ実行不可能な戦術であり、上杉謙信以来の「軍神」の系譜を受け継ぐ上杉軍の精強さを天下に改めて示したものであった 5

この戦いにおける景勝の矜持を最も象徴するのが、戦後の逸話である。激戦を制した後、徳川家康から景勝の労をねぎらい、堀尾忠晴の部隊と交代して兵を休ませるようにとの上意が伝えられた。しかし、景勝はこれを敢然と拒否する。

「弓箭(きゅうせん)の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪い取った持ち口を、上意とは言え他人に任せることはできぬ」 5

この言葉は、関ヶ原以来、徳川の支配体制に甘んじてきた景勝が、武将としての、そして上杉家当主としての誇りを家康に突きつけた瞬間であった。それは、ただの意地ではなく、戦国の世を生き抜いてきた古強者の、揺るぎない存在証明だったのである。

多大な犠牲を払った佐竹義宣の苦闘

徳川方の勝利に大きく貢献しながらも、その代償として最も大きな痛手を被ったのが、今福方面を担当した佐竹義宣であった。彼の部隊は、緒戦において豊臣方の砦を陥落させるという戦功を挙げたものの、その後の木村重成・後藤基次による猛烈な反撃を受け、壊滅的な打撃を受けた 13

特に、一門の重臣であり、義宣の右腕とも言うべき渋江政光を失ったことは、佐竹家にとって計り知れない損失であった 13 。佐竹隊の損耗はあまりに激しく、翌日には早々と本多忠朝や真田信吉・信政兄弟らの部隊に守備を交代させられるほどであった 11 。この事実は、佐竹家にとってこの戦いが如何に過酷であったかを物語っている。義宣の苦闘は、豊臣方の浪人衆が持つ予想以上の戦闘能力の高さと、堤防上という特殊な戦場が内包する危険性を、徳川方全体に知らしめる結果となった。

終章: 合戦がもたらしたもの

慶長十九年十一月二十六日の今福・鴫野の戦いは、日の出から数時間で決着したが、その影響は戦場の内外に大きく波及し、大坂冬の陣全体の趨勢を左右する重要な転換点となった。

両軍の損害と評価

この戦いは、後世「大坂冬の陣最大の激戦」と称されるにふさわしく、双方に多数の死傷者を出す凄惨な消耗戦となった 11 。徳川方は戦術目標を達成したものの、その代償は決して小さくなかった。特に佐竹隊の損害は甚大で、部隊の立て直しに時間を要するほどの打撃を受けた。翌日には守備を交代させられたという事実が、その消耗の激しさを物語っている 11 。上杉隊もまた、豊臣方の大軍による反撃で多大な犠牲を払った。

一方の豊臣方も、前線で指揮を執っていた井上頼次、矢野正倫、飯田家貞といった将を失い、後藤基次が負傷するなど、人的損失は大きかった 5 。しかし、初陣の木村重成が歴戦の佐竹隊を圧倒するなど、その戦いぶりは徳川方を驚嘆させるに十分であった。寄せ集めと侮られていた浪人衆が、高い士気と戦闘能力を持つことを証明し、豊臣方の抵抗が容易ならざるものであることを天下に示した。

大坂城包囲網の完成と、その後の冬の陣への影響

この戦いの直接的な戦果は、徳川方が大坂城北東の最重要拠点である今福・鴫野を確保したことである。これにより、徳川方はこの地に付け城の建設を開始することが可能となり、大坂城に対する包囲網は一層狭められた。豊臣方は城の北東方面における活動の自由を完全に失い、城外で戦の主導権を握る機会は、この戦いを境に事実上失われたと言える。

しかし、この戦いは徳川家康の戦略にも微妙な変化をもたらした。豊臣方の予想をはるかに超える頑強な抵抗と、佐竹隊が被った甚大な被害は、家康に大坂城を力攻めにすることの困難さと、それに伴う多大な犠牲を改めて認識させたはずである。この「辛勝」とも言える結果は、家康が武力による短期決戦という選択肢から、大筒による威嚇射撃と、堀の埋め立てを条件とする和睦交渉へと、大戦略の舵を切らせる遠因の一つになった可能性は高い 17 。戦術的な勝利が、より慎重な戦略的判断を促したという逆説的な意味合いを持つ戦いであった。

戦国時代の終焉を象徴する激戦としての歴史的意義

今福・鴫野の戦いは、戦国乱世の終焉を象徴する、過渡期の戦いであったと位置づけることができる。そこでは、上杉景勝や後藤基次といった戦国時代を生き抜いてきた古強者たちの伝統的な槍働きと、水原親憲が見せたような集団での鉄砲運用を前提とした近世的な戦術が、堤防上という極めて狭い空間で凝縮され、激しく衝突した。

また、この戦いは世代交代の舞台でもあった。木村重成という新たな時代の若き武将が、その類稀なる才能を開花させた一方で、佐竹義宣の重臣・渋江政光のような戦国時代を通じて主家を支えてきた武士が命を落とした。上杉景勝が示した武門としての矜持と、徳川の天下という新しい秩序との間で揺れ動く大名の姿もまた、時代の移り変わりを象徴していた。

一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりが交錯したこの激戦は、徳川による二百数十年続く泰平の世が、決して無血で築かれたものではなく、このような名もなき兵士たちの夥しい血の上に成り立っているという、厳然たる事実を我々に突きつけている。今福・鴫野の戦いは、大坂の陣という大きな物語の中の一つの戦闘に過ぎないかもしれない。しかし、そこには戦国という時代の終焉を飾るにふさわしい、武士たちの激しい生き様と、時代の大きなうねりが凝縮されているのである。

引用文献

  1. 吉村区長の城東見聞録 「大坂冬の陣」 - 大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000638076.html
  2. 大坂の陣 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-09-04/01.htm
  3. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  4. 鴫野古戦場碑 - 名所・旧跡 - 大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000754.html
  5. 鴫野の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%AB%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  7. 大坂冬の陣「鴫野・今福の戦い」 | 山彦耀Ⅱのブログ https://ameblo.jp/hide8152221/entry-12870094001.html
  8. 大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/imafukugamo/
  9. 【予約不要】柵・砦の奪取をめぐる堤防上での戦いの勝敗は? - 大阪あそ歩 https://www.osaka-asobo.jp/course913.html
  10. 大坂冬の陣「鴫野の戦い」 | 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-4657.html
  11. 今福・鴫野の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ImafukuShigino.html
  12. 外様大名はツライよ…大坂の陣で幕臣から嫌がらせをされた佐竹義宣と義宣を救った上杉景勝の名誉回復戦 東北雄藩の武将を激戦区に投入した二代将軍・秀忠の狙い - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76229?page=1
  13. 鴫野・今福の戦い関連地、他(大坂冬の陣) - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-7d6452.html
  14. 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
  15. 木村重成とは 秀頼側近の若武者、大坂の陣に挑む - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kimurashigenari.html
  16. 木村重成~妻・青柳との別れと意外な最期 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5279
  17. 60.鴫野古戦場(しぎのこせんじょう)跡 - 大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010037.html