仙北一揆鎮圧(1590)
天正十八年、豊臣秀吉の奥州仕置に対し、仙北地方で一揆が勃発。太閤検地や刀狩への反発が原因。上杉景勝が鎮圧し、最上義光が領土拡大。中世的抵抗の終焉と近世中央集権化を象徴。
仙北一揆鎮圧(天正十八年):豊臣天下統一の最終局面における奥羽の抵抗と再編
序章:天正十八年、奥羽の風雲
天正十八年(1590年)、相模国の小田原城が落城し、後北条氏が滅亡した。これは、織田信長の遺志を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が、事実上の完成を見た瞬間であった。秀吉の視線は、今や日本列島に残された最後の「未開拓地」、すなわち奥羽地方へと注がれていた 1 。この視線は単なる領土的野心から来るものではなく、日本全土を統一された価値観と中央集権的なシステムの下に組み込むという、壮大な構想の最終章を意味していた。
この構想を実現するための具体的な政策が「奥州仕置」である。秀吉は小田原征伐の帰途、下野国宇都宮に陣を張り、小田原に参陣しなかった奥羽の名門、葛西氏と大崎氏の所領没収を決定した 2 。これは奥羽の諸大名・国人衆にとって、まさに激震であった。数百年にわたり地域に根を張ってきた伝統的な権威が、中央から来た絶対的な権力によって、いとも容易く覆される現実を突きつけられたのである。この強権的な仕置は、後に仙北一揆を含む奥羽各地での激しい反発の直接的な引き金となった 1 。
本稿で詳述する仙北一揆の舞台は、出羽国仙北三郡、現在の秋田県南部に広がる横手盆地である。この地は鎌倉時代以来の名門、小野寺氏によって長らく統治されてきた。しかし、その支配は盤石ではなく、東に隣接する出羽の驍将・最上義光との間で絶え間ない緊張関係にあり、奥州仕置という新たな時代の波は、この地の脆弱な均衡を根底から揺るがすことになる。
秀吉が奥羽に持ち込んだのは、軍事力だけではなかった。それは「価値観の征服」とも言うべきものであった。土地の生産力を米の量(石高)で一元的に評価する「太閤検地」 4 、そして武士と農民の身分を明確に分離し、農民から武器を取り上げる「刀狩」 5 。これらは、当時の奥羽社会には馴染みの薄い「新しい常識」であった。秀吉が会津で発した「抵抗する者は一人残さず撫で斬りにせよ」という苛烈な命令は、交渉や妥協といった中世的な問題解決手段を完全に否定し、「服従か死か」という二者択一を突きつけるものであった 2 。土地との固い結びつきによって自らの支配権を維持してきた国人領主や、隠し田や焼畑といった慣習的な耕作で生計を立ててきた農民にとって、この新しい秩序は生活基盤と自己同一性の破壊に他ならなかった 6 。仙北一揆は、この中央政権が強いる新しい価値観と、それに抗う奥羽の伝統社会との間に生じた、必然的な衝突だったのである。
第一部:一揆前夜 ― 仙北に燻る火種
第一章:仙北の支配者・小野寺氏の栄光と苦悩
仙北一揆を理解する上で、その舞台となった土地の支配者、小野寺氏の存在は不可欠である。彼らは外来の征服者ではなく、数世紀にわたって仙北の地に深く根を下ろした名族であった。
小野寺氏の祖は、下野国小野寺郷(現在の栃木県)を本拠とした鎌倉幕府の御家人に遡る 7 。承久の乱などで功績を挙げた一族は、出羽国雄勝郡の地頭職に任じられ、四代目の小野寺経道が現地に入部して以来、この地を本拠とした 7 。戦国時代に至るまで、彼らは時に南部氏などの外部勢力と激しく争いながらも、仙北三郡(雄勝・平鹿・仙北)における支配を確立し、地域の伝統と一体化した存在となっていた 9 。
一揆当時の当主は、小野寺輝道の子である小野寺義道(1566年生~1645年没)であった 9 。義道は武勇に優れた武将であったと伝わるが、彼が家督を継いだ頃の小野寺氏は、決して安泰ではなかった。東の最上義光との間では、天正十四年(1586年)の「有屋峠の戦い」に代表されるような激しい領土紛争が絶えず 10 、さらには支配下にあった有力国人の鮭延秀綱が最上氏に寝返るなど、内部にも問題を抱えていた 11 。
このような状況下で、義道は戦国末期の地方領主が直面した典型的なジレンマに陥る。すなわち、豊臣秀吉という中央の巨大権力に従わなければ滅亡の道を辿り、従えば自らの領国における伝統的な支配権を解体されるという、逃げ場のない選択であった 12 。義道は後者を選び、天正十八年の小田原征伐に参陣して秀吉に臣従し、所領を安堵された 6 。しかし、この臣従の証として、彼は奥州仕置という領国にとって最も重要な時期に、本拠地である横手城を離れ、京に滞在することを余儀なくされたのである 13 。この「当主不在」という状況は、中央から派遣された検地役人と在地社会との間に立つべき緩衝材を失わせ、不満が直接的な衝突へと発展しやすい危険な状態を生み出した。そしてそれは、宿敵である最上義光にとって、小野寺領内の混乱に乗じて自らの影響力を拡大する絶好の機会を与えることにもなったのである 14 。義道の忠誠は、皮肉にも彼の領国支配の脆弱性を露呈させる結果となった。
第二章:秀吉の「仕置」― 撫で斬りも辞さぬ決意
天下統一を目前にした秀吉は、奥羽地方の仕置を迅速かつ徹底的に進めるため、配下の有力大名を各地に派遣した。出羽国には、越後の大名・上杉景勝が、そしてその軍監(監督役)として秀吉腹心の大谷吉継が任命され、庄内、由利を経て仙北地方へと向かった 6 。
彼らが携えていたのは、単なる検地の命令ではなかった。天正十八年八月十二日、秀吉が会津黒川(現在の会津若松)で発給した朱印状には、彼の奥羽に対する uncompromising な姿勢が明確に示されていた。その内容は「検地に抵抗する者があれば、一人も残さず撫で斬りにせよ」「一郷であろうと二郷であろうと、ことごとく撫で斬りにせよ」という、凄まじいものであった 2 。これは単なる脅し文句ではなく、豊臣政権が自らの定めた秩序に服従しない勢力を、物理的に根絶やしにすることも辞さないという基本方針の表明であった。
九月に入ると、上杉・大谷軍は仙北地方でこの方針を具体的に実行に移し始めた。まず行われたのは、土地の広さと収穫量を測り、耕作者を確定させる太閤検地である。これにより、在地領主が持っていた複雑な土地支配権や徴税権は否定され、すべての土地が中央政権の管理下に置かれることになった 4 。同時に、在地勢力の軍事力を骨抜きにするための政策も強行された。仙北地方においては、実に三十五か所もの城や館が破却され、領民が所有する刀や槍などの武器は「武具狩り」によってことごとく没収された 6 。これは、物理的な抵抗手段を奪うと同時に、地域の軍事的・精神的な支柱であった城を破壊することで、在地社会の抵抗の意志そのものを削ごうとする、周到かつ冷徹な無力化政策であった。
第三章:好機を窺う隣人・最上義光
小野寺氏と長年にわたり出羽の覇権を争ってきた山形の雄、最上義光もまた、秀吉に臣従した大名の一人であった。しかし、彼はこの奥州仕置という激動を、単に受け入れるだけでなく、自領拡大のまたとない好機と捉えていた。
義光の動きは巧妙であった。彼は、かつて小野寺氏の家臣でありながら離反し、最上氏に仕えていた鮭延秀綱という人物を巧みに活用した 16 。秀綱は仙北地方の地理や内情に精通しており、義光はこの秀綱を、中央から派遣されてきた上杉・大谷の仕置軍の「先導役」として提供したのである 14 。これは表向き、豊臣政権への忠実な協力姿勢を示す行為であったが、その裏では、現地の情報を正確に把握し、仕置の主導権を間接的に握るための、極めて戦略的な一手であった。
最上軍は、後に起こる一揆の鎮圧において、上杉軍のように矢面に立つことはなかった。しかし、鮭延秀綱を通じて現地の状況を常に監視し、介入の機会を虎視眈々と窺っていた。小野寺領内で発生した一揆による混乱は、戦後の領土再編交渉において、最上氏の発言力を増大させるための格好の材料となった 14 。義光は、自ら血を流すことなく、政治的な駆け引きによって漁夫の利を得るための布石を着々と打っていたのである。
第二部:蜂起と鎮圧 ― 仙北血風録(時系列解説)
仙北一揆の展開は、短期間に複数の事件が連鎖的に発生した、極めて急峻なものであった。ここでは、その推移を可能な限り時系列に沿って再現する。
表1:仙北一揆 関連年表(天正十八年八月~十二月)
年月日(旧暦) |
出来事 |
関係勢力 |
典拠 |
天正18年8月10日 |
豊臣秀吉、会津黒川城にて奥羽総検地を命令。 |
豊臣政権 |
6 |
8月12日 |
秀吉、「なでぎり令」を含む検地施行朱印状を発給。 |
豊臣政権 |
2 |
9月上旬~中旬 |
上杉・大谷軍、仙北地方にて検地、城破り、武具狩りを実施。 |
上杉景勝、大谷吉継 |
6 |
9月下旬 |
【第一次一揆】 検地終了間際、仙北・由利で一揆蜂起。増田・山田・川連城に籠城。 |
一揆勢、上杉景勝 |
6 |
9月下旬~10月初旬 |
上杉軍、川連城付近への奇襲により一揆勢を撃破。第一次一揆、鎮圧される。 |
上杉景勝 |
6 |
10月中旬 |
【第二次一揆】 六郷にて大谷配下が住民を殺害。これをきっかけに一揆が再燃、仙北全域に拡大。鍋倉四郎らが指導。 |
大谷吉継、一揆勢 |
6 |
10月14日 |
【増田館の死闘】 上杉景勝本隊(1万2千)が増田館(鍋倉四郎ら2千余)を総攻撃。激戦の末、一揆勢1,580余の首を挙げる。 |
上杉景勝、一揆勢 |
6 |
10月15日以降 |
上杉軍、浅舞・柳田など残存拠点を掃討。 |
上杉景勝 |
6 |
10月20日 |
上杉景勝、越後への帰途、三崎山で庄内一揆勢に要撃される。 |
上杉景勝、庄内一揆勢 |
6 |
10月22日頃 |
最上家臣・鮭延秀綱が湯沢城に在陣していることが確認される。 |
最上義光(鮭延秀綱) |
14 |
11月10日頃 |
庄内一揆が鎮圧される。 |
上杉景勝 |
6 |
12月以降 |
北出羽の諸領主に改めて知行宛行の朱印状が交付される。小野寺氏は上浦郡の3分の1を没収され、一部は最上領となる。 |
豊臣政権、小野寺義道、最上義光 |
6 |
第一章:九月の烽火 ― 第一次一揆の勃発と鎮圧
九月下旬、上杉景勝による仙北地方の検地が概ね完了し、彼が軍をまとめて本国である越後へ引き上げようとした、まさにその矢先であった。検地そのものへの反発が、権力の空白が生じる瞬間を狙って一気に表面化したのである 6 。仙北地方とそれに隣接する由利地方で、検地に反対する一揆の烽火が上がった。
一揆勢は単なる烏合の衆ではなかった。彼らは増田(現在の横手市増田町)、山田(同湯沢市山田)、川連(同湯沢市川連町)といった古城を拠点とし、その数は2万4千名にも及んだと伝わる 6 。旧来の城を拠点として組織的に抵抗したことから、この蜂起が、検地によって既得権益を脅かされた在地給人層(地侍)によって主導されていたことがうかがえる 17 。
事態を察知した景勝は、即座に帰国を中止し、鎮圧へと動いた。その戦術は迅速かつ的確であった。まず主力をもって増田城を攻撃し、一揆勢の注意を引きつける。その一方で、2千の兵からなる別働隊を密かに川連城付近まで進軍させた。そして陣貝を合図に一斉に攻めかかり、不意を突かれた一揆勢を打ち破った 6 。この電撃的な奇襲攻撃によって、一揆勢の拠点間の連携は断ち切られ、山田・川連の両城に籠もっていた者たちは降伏を余儀なくされた。この上杉軍の迅速な対応により、第一次一揆はいったん鎮静化へと向かった。
第二章:十月の激震 ― 六郷の惨劇と一揆再燃
第一次一揆が鎮圧され、仙北の地に束の間の静寂が訪れたかのように見えた十月。しかし、燻っていた火種は、一つの事件をきっかけに、より激しい炎となって再び燃え上がることになる。
事件の舞台は、横手盆地中部の六郷(現在の美郷町六郷)であった。大谷吉継の配下が検地のやり直し(縄入れ)を行おうとした際、これに納得できない百姓たちが訴訟を起こし、検地を妨害した。これに対し、大谷の部下たちは見せしめとして住民3名を斬殺し、さらに5名を捕縛するという強硬手段に出た 6 。
この一方的で非情な処刑は、これまで抑圧されてきた領民たちの怒りと怨嗟に火をつけた。積もり積もった不満はついに爆発し、蜂起した農民たちは大谷吉継の家臣50名から60名を殺害するという報復に出た 6 。この「六郷事件」は、単なる検地への不満を、豊臣政権そのものへの憎悪を伴う全面的な抵抗へと変質させた。鎮圧されたはずの一揆は、今度は仙北全域を巻き込む、より大規模で根深い反乱へと発展したのである。この第二次一揆において、横手市平鹿町を本拠とする鍋倉四郎という人物が指導者として頭角を現した 6 。彼の存在は、この蜂起が地域に根差したリーダーを持つ、組織的な抵抗であったことを示している。
第三章:増田館の死闘(天正十八年十月十四日)
六郷での惨劇と一揆の再燃は、事態がもはや軍監である大谷吉継の手には負えないことを意味していた。事態を重く見た総大将・上杉景勝は、大谷勢を後方の拠点である大森城に残置させ、自ら旗本を中心とする1万2千の精鋭を率いて出陣した 6 。これは、豊臣政権の「撫で斬りも辞さず」という方針が、いよいよ本格的に実行に移されることを意味する瞬間であった。
上杉軍の目標は、一揆勢の中心拠点となっていた増田の館であった。ここには、指導者の鍋倉四郎以下、2千余りの一揆勢が籠城し、決死の覚悟で迎え撃った 6 。彼らは単に籠城するだけではなかった。周辺の上浦郡各地から一揆勢が集結し、逆に上杉の大軍を包囲しようと試みたのである。籠城戦と野戦を組み合わせた、一揆勢の巧みな戦術であった。
十月十四日、両軍は激突した。上杉軍はまず、自らを包囲しようとする外部の一揆勢を粉砕すべく、浅舞、柳田、川連、山田といった周辺拠点を次々と攻略し、後顧の憂いを断った。そして、増田館への総攻撃を開始した。この日の戦闘は凄惨を極めた。『景勝公御一代略記』などの記録によれば、上杉軍はこの一日で一揆勢の首を1,580も挙げたとされる 6 。
しかし、これは一方的な虐殺ではなかった。上杉方にも討死200余名、負傷者500余名という、決して少なくない損害が出ている 6 。この事実は、一揆勢が農具だけでなく、武具狩りを免れた武器で武装し、地の利を生かしながら、まさに死に物狂いで抵抗したことを物語っている。増田の地は、双方の血で赤く染まった。
第四章:掃討戦と戦後処理
増田館の陥落は、仙北一揆の組織的抵抗の終焉を意味した。上杉軍はその後、周辺地域に潜む残党勢力の掃討作戦を展開した。興味深いことに、この鎮圧戦には、仙北中郡の在地領主である本堂氏や、沿岸部の国人連合である由利衆も、豊臣方として加わっている 6 。これは、奥羽の在地勢力が一枚岩ではなく、豊臣政権という新たな権威に従うことで生き残りを図ろうとする者と、それに抵抗する者とに二分されていたことを示している。
鎮圧後、上杉軍は徹底した武装解除を行った。一揆勢から押収された武器は、ことごとく大森城に集められ、再び蜂起する力を物理的に奪った 6 。陥落した増田館は上杉家臣の藤田信吉が接収し、一揆の指導者たちから取られた人質は、翌年の三月まで大森城に留め置かれた 6 。
そして、戦後処理において最も重要な意味を持ったのが、上杉家重臣・色部長真の残留であった。上杉軍の主力は越後へ引き上げたものの、色部長真とその部隊は大森城に駐屯し続けたのである 6 。これは、豊臣政権が仙北地方を本来の領主である小野寺氏の統治に任せることをせず、上杉氏を介して直接的な軍事・行政コントロール下に置くことを意図したものであった。仙北の地は、厳しい監視体制の下に置かれることになったのである。
第三部:乱をめぐる者たちの肖像
仙北一揆は、単なる農民反乱ではなく、豊臣政権という新たな秩序の到来に際し、三人の有力武将――小野寺義道、上杉景勝、最上義光――が、それぞれの立場と思惑で動いた政治劇でもあった。
第一章:不在の領主・小野寺義道
自らの領国で起きた大一揆の報を、小野寺義道は遠く離れた京の都で聞くことになった。自らが臣従を誓った豊臣政権の軍隊によって、自らの民が殺戮され、土地が蹂躙されていく様を、なすすべもなく見ているしかなかった彼の心中は、察するに余りある 13 。
一揆が鎮圧され、ようやく帰国が許された義道を待ち受けていたのは、荒廃した領地と、上杉家臣が睨みを利かせる厳しい現実であった。そして、豊臣政権から下された裁定は、一揆を防げなかった責任を問われる形での、過酷な所領削減であった 6 。
具体的には、小野寺領の中心であった上浦郡(雄勝郡)の所領約4万7千石のうち、3分の1にあたる約1万5千石が没収された 6 。これは小野寺氏の軍事力と経済力を大きく削ぐものであり、この事件を境に小野寺氏の衰退は決定的となる。この時に失った領地を巡る争いが、後の最上氏とのさらなる対立を生み、十年後の関ヶ原の戦いにおける改易へと繋がる遠因となったのである 20 。
第二章:冷徹な執行者・上杉景勝
仙北一揆を鎮圧した上杉景勝の行動は、苛烈そのものであった。しかし、それは彼の個人的な残虐性から来るものではなく、豊臣秀吉の代理人として「奥州仕置」という国家事業を遂行するという、強い使命感に基づいていたと考えられる。彼は、中世的な秩序を破壊し、近世的な中央集権体制を構築しようとする豊臣政権の、忠実かつ冷徹な執行者であった。
軍監として同行した大谷吉継の存在も重要である。秀吉子飼いの直臣である吉継は、秀吉の意向を景勝に伝え、その行動を監督する役割を担っていた 6 。この関係は、豊臣政権が上杉のような有力外様大名を単独で行動させず、必ず中央の直臣を付けることで厳格にコントロールしようとした、巧みな統治システムを象徴している。
景勝にとって、この任務は単なる義務ではなかった。彼は小田原参陣とこの奥州仕置における功績により、出羽庄内地方を加増されている 6 。庄内の背後に位置する仙北・由利地方の検地と一揆鎮圧は、彼自身の新たな所領の安全を確保するという意味でも、極めて重要な任務だったのである。
第三章:好機の探求者・最上義光
この一連の動乱において、最も巧みに立ち回り、最大の利益を得たのは最上義光であった。彼は、一揆鎮圧の矢面に立つというリスクを冒すことなく、しかし着実に仙北への影響力を浸透させていった。
その戦略の要となったのが、鮭延秀綱の存在である。秀綱を仕置軍の案内役として送り込むことで、義光は内部から正確な情報を得ていた 14 。そして、一揆の混乱が続く十月二十二日の時点で、鮭延秀綱はすでに小野寺領南部の拠点である湯沢城に在陣していたことが確認されている 14 。これは、一揆の騒乱に乗じて、あるいは豊臣方の許可を得て、事実上の軍事進駐を開始していたことを示唆している。
最終的に、小野寺氏から没収された領地のうち、係争地であった湯沢・増田周辺の上浦郡南部は、最上義光に与えられた 6 。彼は自軍の兵をほとんど損なうことなく、巧みな政治工作によって長年の宿願であった土地を手に入れた、この一揆における最大の受益者であった。文禄二年(1593年)には、重臣の楯岡満茂を湯沢城代として送り込み、この地の支配を盤石なものとした 6 。
仙北一揆を巡る三者の動向は、豊臣政権下における大名たちの新たな生存戦略を浮き彫りにしている。もはや自らの武力のみで領国を維持・拡大する時代は終わり、中央政権の権威と政策をいかに自らにとって有利に利用するかという、「政治の季節」が到来していた。この時代の変化に巧みに対応した最上氏が躍進し、旧来の秩序に固執せざるを得なかった小野寺氏が衰退していくのは、必然的な流れであった。
終章:一揆の果てに ― 新たな秩序と遺されたもの
仙北一揆の鎮圧は、単に一つの地域の反乱が鎮められたという以上の、大きな歴史的意味を持っていた。それは、豊臣政権による天下統一が最終段階に入り、奥羽地方が新たな秩序の下に再編成されていく過程で起きた、象徴的な出来事であった。
仙北での蜂起は、単独の事件ではなかった。ほぼ同時期に、旧葛西・大崎領では大規模な葛西大崎一揆が、北上川流域では和賀・稗貫一揆が発生するなど、奥羽中央部のほぼ全域で、豊臣政権の仕置に対する抵抗運動が連鎖的に発生していた 3 。これらの反乱は、戦国奥羽の最後の大反撃とも評される。豊臣政権はこれらの抵抗をことごとく武力で鎮圧し、翌天正十九年(1591年)には、豊臣秀次を総大将とする大軍を再び派遣して「奥州再仕置」を断行。これにより、東北地方の勢力図は完全に塗り替えられ、九戸政実の乱の鎮圧をもって、秀吉の天下統一は名実ともに完成した 21 。
仙北一揆の徹底的な鎮圧は、中世を通じて領主や民衆が自らの要求を通すための実力行使として存在してきた「一揆」という社会システムそのものの終焉を告げるものでもあった 6 。秀吉は、撫で斬りも辞さないという強硬な姿勢で臨むことで、このような中世的な抵抗のあり方を完全に封じ込め、武士が農民を一方的に支配する近世的な社会秩序への扉を開いたのである。
乱の後の仙北地方では、小野寺氏の衰退が決定的となり、代わって最上氏の勢力が浸透することで、地域の歴史は新たな段階に入った。一揆によって流された多くの血は、皮肉にも、豊臣政権による「天下泰平」という新たな秩序の礎となった。そして、この新たな秩序の非情さは、後に一揆の最大の受益者であった最上氏自身が、徳川の世になってから些細な内紛を理由に改易されるという形で、再び示されることになるのである。仙北の地で起きた悲劇は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、痛みを伴う陣痛であった。
引用文献
- 激突! 秀吉の天下と奥羽の反発 - 福島県立博物館 https://general-museum.fcs.ed.jp/file/1343
- 奥州仕置とは 葛西・大崎一揆VS豊臣with政宗? - 戦国未満 https://sengokumiman.com/japan/osyushioki.html
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- 問題 - Z会 https://www.zkai.co.jp/wp-content/uploads/sites/18/2021/06/06215141/92124b5c41740638a95b8f199294e39d.pdf
- 豊臣秀吉は、なぜ検地や 刀狩をしたの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109100.pdf
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- 小野寺氏と戦国時代の東北 - 横手市 https://www.city.yokote.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/063/2023082803.pdf
- 仙北小野寺氏 http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/lineage/aiueo/senbokuonodera.html
- 最上義光歴史館/最上家臣余録 【本城満茂 (7)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=219137
- 小野寺義道 Onodera Yoshimichi - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/onodera-yoshimichi
- 遠藤ゆり子・竹井英文編『戦国武将列伝1 東北編』(戎光祥出版)感想 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/bushoes-tohoku
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- 最上義光歴史館/最上家臣余録 【鮭延秀綱 (4)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=175568
- 出羽国|日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1736
- 鮭延氏 (佐々木氏) 略歴 - 文明8年(1476) 佐々木綱村、近江国より下り仙北小野寺氏の関口の番城を預かる - 真室川町 https://www.town.mamurogawa.yamagata.jp/material/files/group/6/300dpi.pdf
- 仙北一揆(せんぼくいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%99%E5%8C%97%E4%B8%80%E6%8F%86-1354517
- 鍋倉四郎 - 仙北小野寺氏の城館 https://senboku-onodera.sakura.ne.jp/photo4003249.html
- 開創 | TOP | 曹洞宗 長雲山 龍泉寺 https://asamai-ryusenji.jp/top-2/history-and-lore/create/
- 小野寺義道 - 仙北小野寺氏の城館 https://senboku-onodera.sakura.ne.jp/photo4003.html
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- 豊臣秀吉の関白就任 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/hideyoshi-kanpaku/