住吉・天満浜の海戦(1576)
天正四年、毛利水軍は第一次木津川口の戦いで織田水軍を焙烙火矢で撃破。石山本願寺への海上補給に成功し、信長を苦しめた。この敗北が鉄甲船建造の契機となる。
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第一次木津川口の戦い(天正4年)全貌:焙烙火矢が織田信長に突きつけた制海権の価値
序章:天下布武の前に立ちはだかる「海の城壁」
天正4年(1576年)、織田信長の「天下布武」は、その最終段階を迎えつつあった。長篠の戦いで武田勝頼の騎馬軍団を打ち破り、越前の一向一揆を殲滅した信長の視線は、畿内における最後の抵抗拠点、大坂の石山本願寺に向けられていた。しかし、この巨大な宗教要塞は、信長がこれまで経験したことのない、新たな戦略的課題を突きつけることになる。
石山合戦の膠着と海上生命線
天正4年の春、信長は明智光秀、塙直政、佐久間信盛といった宿将を投入し、石山本願寺に対する三方からの陸路包囲網を完成させた 1 。天王寺に砦を築き、本願寺を完全に孤立させる兵糧攻めは、陸戦の覇者である信長にとって必勝の定石であった。しかし、この包囲網には決定的な欠陥が存在した。本願寺は、その西側が海、すなわち大坂湾に面していたのである。木津川の河口を通じて瀬戸内海へと繋がるこの水路は、本願寺にとって唯一にして絶対の生命線であった 1 。陸からの補給が完全に断たれたとしても、この「海の門」が開かれている限り、外部からの兵糧や弾薬の搬入が可能であり、籠城戦を無限に継続できる可能性を秘めていた 1 。
信長の戦略は、陸上での戦闘と兵站の遮断という、彼が最も得意とする方程式に基づいていた。しかし、敵が海への出口を確保している場合、その方程式は根底から覆される。石山本願寺の抵抗は、単なる一向宗門徒による宗教一揆の域を超え、信長の戦略的思考そのものに挑戦状を叩きつけるものであった。
陸の覇者・信長の戦略的死角
この状況は、信長の軍事キャリアにおける一つの死角を浮き彫りにした。尾張・美濃の平定から上洛、そして姉川、長篠に至るまで、信長の輝かしい戦歴は、そのほとんどが内陸部での陸上戦闘によって築かれたものであった。そのため、大規模な海軍力を組織し、広域にわたる制海権を確保するという戦略概念は、彼の優先事項の中で高い位置を占めていなかった。志摩の九鬼嘉隆のような水軍勢力を麾下に収めてはいたものの、それはあくまで局地的な海上勢力であり、瀬戸内海全域に影響力を持つ毛利氏の巨大な水軍に対抗するまでには至っていなかった。
この戦いは、信長の「天下布武」が陸上の平定だけでは完結しないという厳然たる事実を、初めて彼に痛感させることになる。本願寺の抵抗は、西国の雄・毛利輝元との連携によって、単なる籠城戦から、織田対毛利という二大勢力の代理戦争の様相を呈し始めていた 1 。毛利にとって、石山本願寺は織田勢力の西進を食い止めるための重要な防波堤であり、海上補給路の維持は、本願寺の救援であると同時に、毛利自身の防衛戦略そのものであった。そして、この補給路を巡る攻防こそが、後に「第一次木津川口の戦い」と呼ばれる、日本の海戦史に大きな転換点をもたらす激突の直接的な引き金となるのである。
第一章:西国の覇者、動く - 毛利連合水軍の実力
石山本願寺からの救援要請は、中国地方の覇者・毛利輝元にとって、織田信長の西進を阻むための絶好の機会であった。彼の決断は、瀬戸内海に君臨する一大海上戦力を大坂湾へと差し向けるという、壮大な軍事行動へと繋がっていく。
反信長包囲網の西の要
備中・備後の平定を完了し、中国地方に盤石な支配体制を築いた毛利輝元は、信長によって京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭を鞆の浦に庇護し、名実ともに関西における反信長勢力の中核を担う存在となっていた 1 。本願寺法主・顕如からの救援要請は、輝元にとって、信長包囲網の盟主としての責務を果たすと同時に、織田勢力の拡大を正面から阻止する戦略的必然性を帯びていた 4 。毛利の動員令一下、瀬戸内海の海上勢力が、一つの目標の下に集結を開始した。
瀬戸内海の支配者たち
毛利水軍の強大さは、単一の大名が保有する水軍という枠を遥かに超えていた。それは、瀬戸内海の潮と風を知り尽くした海賊衆(水軍)たちの連合体であり、その規模と練度は他の追随を許さなかった 5 。
その中核を成したのは、能島・来島・因島の三家から構成される村上水軍であった。彼らは平時には瀬戸内海の海上交通を支配する海の領主であり、戦時には比類なき戦闘力を発揮する海のプロフェッショナル集団であった。特にその巧みな操船技術と、後述する特殊兵器を駆使した戦闘能力は「全国最強」とまで評されていた 4 。この重要な作戦において、艦隊の現場指揮は、能島村上氏の当主・村上武吉の嫡男である村上元吉が執ったと伝えられている 4 。
この村上水軍に加え、毛利両川の一翼を担う小早川氏の水軍、備前の宇喜多氏から派遣された戸川秀安率いる水軍、そして乃美宗勝や児玉就英といった毛利家譜代の将が率いる部隊が艦隊を構成した 5 。各種の記録によれば、その総兵力は700艘から800艘にも達し、迎え撃つ織田方の水軍を圧倒する規模を誇っていた 4 。
この「連合艦隊」とも言うべき毛利水軍の真の強さは、単に船の数という物量面だけにあるのではなかった。村上水軍に代表される半独立の海賊衆は、平時から海の秩序を維持し、独自の戦闘教義と豊富な実戦経験を蓄積していた。毛利輝元や、特に水軍の運用に長けた小早川隆景の卓越した統率力は、これらの専門家集団を「石山本願寺への兵糧搬入」という一つの戦略目標の下に結束させ、有機的に運用する能力にあった。これは、陸の大名が戦のたびに臨時に編成する寄せ集めの水軍とは、練度、経験、そして組織としての結束力において、根本的に異質な存在であった。
さらに、彼らは瀬戸内海という地理的空間を完全に掌握していた。複雑な潮流や風向きを読み、無数の島々を拠点として自在に移動する能力は、彼らにとって最大の戦略的資産であった。大坂湾への進出は、彼らにとって自らの庭を移動するに等しく、地理的にも精神的にも圧倒的な優位性を確保していたのである。
第二章:迎え撃つ織田方 - 急造の防衛艦隊
圧倒的な規模と練度を誇る毛利連合水軍に対し、織田方が動員できた海上戦力は、その実態において著しく見劣りするものであった。それは、信長の海軍力に対する認識と、当時の織田家の軍事編成の限界を如実に示すものであった。
信長の海軍力の実態
この時点での信長は、伊勢志摩に本拠を置く九鬼嘉隆を麾下に収めていたが、それはあくまで伊勢湾周辺の制海権を確保するための局地的な戦力であった。瀬戸内海全域から動員される毛利の連合水軍に対抗しうるような、全国規模の艦隊を編成する能力も構想も、信長はまだ持ち合わせていなかった。
第一次木津川口の戦いに際して信長が動員したのは、和泉や摂津といった大坂湾周辺の国人衆が率いる水軍が中心であった 1 。彼らは本来、沿岸の警備や海上輸送を主任務とする在地領主であり、大規模な艦隊決戦を想定した訓練や装備を備えていたわけではなかった。いわば「寄せ集め」の防衛艦隊であり、その総兵力は約300艘と推定されている 4 。これは毛利方の半分以下であり、数的に絶望的な劣勢であった。
織田方水軍の将帥と布陣
この急造艦隊の指揮を執ったのは、真鍋貞友(真鍋水軍)、沼間伝内、沼野伊賀守といった、大坂湾岸の海上警備を日常的に担っていた武将たちであった 5 。彼らは、石山本願寺包囲軍の総司令官である佐久間信盛の指揮下にあり、本願寺への海上からの補給を阻止する任を帯びていた 8 。
彼らが取った防衛戦術は、木津川の河口域を封鎖するように艦隊を配置するというものであった。この布陣において特筆すべきは、村上元吉以下の注進状に記録されている「井楼(せいろう)を組みあげた数艘の大船」の存在である 5 。これは、大型の安宅船の甲板上に、陸上の城攻めで用いられる攻城櫓のような高い構造物を設置したものであった。その狙いは、高所から鉄砲や弓矢を撃ち下ろすことで、数の劣勢を火力で補い、接近してくる敵船を撃退することにあったと考えられる。
しかし、この戦術思想そのものに、織田方の海戦に対する未熟さが露呈していた。「井楼」を船上に設置することは、高所からの射撃という利点をもたらす一方で、船の重心を著しく高くし、安定性を損ない、機動力を大きく削ぐという致命的な欠陥を抱えていた。これは、海戦を「海に浮かぶ城同士の撃ち合い」と捉える、典型的な陸戦思想の海上への投影であった。彼らは、敵船団を遠距離からの射撃戦で制圧することを想定しており、敵に懐へ飛び込まれての乱戦や、機動力を活かした攪乱といった、海の専門家が得意とする戦術への備えが不十分であった可能性が高い。
織田軍は鉄砲という当時の最先端技術を保有していたが、それを活かすためのプラットフォーム(船体)と、それを運用する戦術が、海の戦場に最適化されていなかった。揺れる船上からの射撃はただでさえ命中率が低く 9 、毛利水軍が駆る小回りの利く小早船の高速機動に翻弄される素地が、この布陣の時点ですでに内包されていた。織田方の敗北は、単なる兵力差だけでなく、海戦という特殊な戦闘領域に対する根本的な思想的・戦術的未熟さに、その遠因があったと言えるだろう。
【表1:両軍戦力比較】
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項目 |
毛利連合水軍 |
織田方水軍 |
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総兵力(推定) |
約700~800艘 4 |
約300艘 4 |
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主力艦船 |
関船、小早船 10 |
安宅船、大船(井楼付き) 5 |
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主要指揮官 |
村上元吉、乃美宗勝、児玉就英 他 5 |
真鍋貞友、沼間伝内 他 5 |
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特殊兵器 |
焙烙火矢(ほうろくひや) 9 |
火矢、鉄砲 9 |
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戦術思想 |
機動・接近・白兵戦、火器による制圧 |
防衛・封鎖、遠距離射撃戦 |
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練度・経験 |
瀬戸内海での実戦経験豊富な専門家集団 |
在地国人衆中心の臨時編成部隊 |
第三章:決戦前夜 - 水上のチェス(天正4年7月12日~13日未明)
毛利連合水軍の行動は、単なる兵糧輸送にとどまらない、周到に計算された戦略的作戦であった。決戦に至るまでの彼らの航跡は、軍事、外交、諜報が一体となった、高度な「水上のチェス」の様相を呈していた。
【時系列】7月12日:毛利水軍、出撃
天正4年7月12日、村上元吉らが率いる毛利水軍の主力艦隊は、その集結地であった淡路島の岩屋(現在の兵庫県淡路市)の港から、一斉に出撃した 5 。岩屋は、播磨灘と大坂湾を隔てる明石海峡に近く、大坂湾への最終的な進発拠点として、また最新の情報を収集する前線基地として、最適な位置にあった。ここから、石山本願寺の命運を賭けた大作戦の幕が切って落とされた。
【時系列】7月12日夜~13日未明:同盟軍との合流と最終進発
艦隊は明石海峡を通過し、大坂湾を南下、紀伊水道を北上するという航路をとった。そして、和泉国(現在の大阪府南部)の貝塚沖に到達する 5 。この地で、毛利水軍は重要な同盟軍と合流を果たした。鉄砲傭兵集団として戦国時代にその名を轟かせた、紀州の雑賀衆である 5 。
この合流は、作戦の成功確率を飛躍的に高めるものであった。雑賀衆との連携を確認することにより、毛利水軍は海上からの攻撃に専念でき、陸上からの支援と、織田方の陸上部隊に対する牽制という側面防護の確証を得た。海陸共同作戦の最終調整が、この貝塚の沖合で完了したのである。
万全の態勢を整えた連合艦隊は、夜陰に乗じて最終目的地へと進軍を開始する。彼らは、当時最大の国際貿易港であった堺の津(港)の沖合を通過し、織田方が海上封鎖線を敷く木津川河口へと、その巨大な姿を現した 5 。
この進軍ルートは、単に最短距離を移動したわけではない。その一つ一つの動きに、深い戦略的意図が込められていた。淡路・岩屋での集結は、最終的な作戦準備と情報収集のため。貝塚での雑賀衆との連携は、海陸共同作戦を確実なものとし、織田方の戦力を陸と海に分散させる狙いがあった。そして、大艦隊が堺の沖を通過する行為は、堺の裕福な会合衆(商人)たちに対して毛利の圧倒的な軍事力を誇示し、織田方への協力を躊躇させるという、強力な政治的・経済的圧力をかける意図が含まれていた。それは、軍事行動が外交や心理戦と不可分に結びついた、極めて高度な戦略行動であった。こうして、決戦の舞台は整えられた。
第四章:水上の炎獄 - 合戦のリアルタイム再現(天正4年7月13日~14日早朝)
天正4年7月13日の昼過ぎから翌14日の早朝にかけて、大坂湾の木津川河口は、戦国時代の海戦史において類を見ない激戦の舞台と化した。毛利連合水軍が周到に準備した戦術は、織田方の防衛構想を根底から覆し、水上を炎の地獄へと変貌させた。
【表2:第一次木津川口の戦い タイムライン】
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日時(天正4年) |
毛利方の動向 |
織田方の動向 |
戦況・備考 |
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7月12日 |
淡路・岩屋を出港 5 |
木津川口の封鎖線を維持 |
- |
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7月12日夜 |
和泉・貝塚に渡り、雑賀衆と合流 5 |
警戒態勢を継続 |
毛利、海陸連携の最終確認 |
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7月13日 昼過ぎ |
堺沖を通過し、木津川口へ接近 5 |
迎撃態勢を完了。井楼船を前面に配置 |
両軍、視認距離に入る |
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7月13日 夕刻 |
戦闘開始。小早船を先鋒に織田艦隊へ突入 |
井楼船から火矢・鉄砲で応戦 |
遠距離射撃戦で開戦 |
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7月13日 夜 |
織田艦隊に接近し、 焙烙火矢 を投擲 7 |
焙烙火矢により艦船が次々炎上、混乱状態に |
毛利、得意の接近戦に持ち込む |
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7月13日 深夜 |
炎上する織田艦隊を包囲殲滅 |
指揮系統が崩壊。真鍋貞友ら主将が討死 12 |
織田水軍、壊滅 |
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7月14日 早朝 |
戦闘終結。織田艦隊を焼き払い、勝利を確定 5 |
残存艦艇が敗走 |
毛利、制海権を完全に確保 |
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7月14日 日中 |
木津川を遡上し、石山本願寺へ兵糧を搬入 1 |
- |
毛利、戦略目標を達成 |
戦闘詳報:焙烙火矢の衝撃
戦闘は、織田方の井楼船からの鉄砲や火矢による遠距離攻撃で始まった。しかし、毛利水軍はこれに真っ向から応じることなく、彼らが最も得意とする戦法を展開する。
その戦術の核となったのが、「焙烙火矢(ほうろくひや)」または「焙烙玉(ほうろくだま)」と呼ばれる特殊兵器であった 4 。これは、素焼きの陶器製の壺や球に火薬を詰め、導火線に火をつけて投擲する、現代の手榴弾に近い武器である 9 。木造船が主流であった当時、火攻めは極めて効果的であったが、焙烙火矢はその破壊力において通常の火矢とは一線を画していた。炸裂すると、轟音と共に陶器の破片が飛散し、船体そのものを破壊すると同時に、撒き散らされた火薬が船を内部から炎上させた 6 。
毛利水軍は、機動力に優れた小型の「小早(こばや)」船を巧みに操り、織田方の大船団の懐へと矢のように突入した 10 。小早船は船足が速く、小回りが利くため、動きの鈍い井楼船からの射撃を巧みにかわすことができた。そして、敵船の死角に潜り込み、至近距離から次々と焙烙火矢を投げ込んだのである。これは、織田方が想定していた「遠距離での射撃戦」という戦いの構図を、根本から覆す電撃的な戦術であった。
焙烙火矢の威力は絶大であった。投げ込まれた焙烙火矢が炸裂するたびに、織田方の船は轟音と共に炎に包まれた。重い鎧を身に着けた兵士たちは、燃え盛る船から海に飛び込むこともできず、船上は阿鼻叫喚の地獄と化した 9 。指揮系統は瞬く間に崩壊し、艦隊を率いていた真鍋貞友をはじめ、沼間伝内、沼野伊賀守といった主だった武将のほとんどがこの戦闘で討死を遂げた 7 。織田水軍は文字通り壊滅的な打撃を受け、戦闘能力を完全に喪失した。
連動する陸上戦:住吉・天満浜の攻防
この海戦が繰り広げられているのと時を同じくして、陸上でも呼応した動きがあった。海上の友軍の到来を好機と見た石山本願寺の門徒衆が城から打って出て、織田方が住吉の浜手に築いていた砦に猛攻を仕掛けたのである 12 。
これにより、陸上部隊の司令官であった佐久間信盛は、砦の防衛に手一杯となり、海上で壊滅しつつある味方水軍を効果的に支援することができなかった。毛利方の作戦は、単なる海戦ではなく、本願寺勢力との緊密な連携の下で行われた、見事な海陸共同作戦であった。この連携によって織田方は戦力を海と陸に分断され、各個撃破されるに至った。これは、反信長包囲網が単なる名目上の同盟ではなく、実体を伴う高度な軍事連携として機能していたことを雄弁に物語っている。
この戦いは、技術(織田の鉄砲)と戦術(毛利の焙烙火矢)の非対称な衝突であった。そして、海上という戦場環境において、より適した戦術を選択した毛利方が圧勝を収めたのである。焙烙火矢は最先端の兵器ではなかったかもしれないが、特定の条件下においては最新兵器をも凌駕しうることを証明した。それは、戦術と兵器、そして戦場環境が一体となった時にのみ、真の戦闘力が発揮されるという、軍事の普遍的真理を示す戦いであった。
第五章:勝者と敗者 - 合戦がもたらした衝撃
一夜にして繰り広げられた水上の激戦は、勝者と敗者にあまりにも対照的な結果をもたらした。それは、石山合戦の行方を左右するだけでなく、日本の軍事史そのものに大きな影響を与える、画期的な出来事であった。
勝者:延命した本願寺と威信を示した毛利
毛利連合水軍は、織田水軍を壊滅させた後、悠々と木津川を遡上し、籠城を続ける石山本願寺へ大量の兵糧や弾薬を運び込むことに成功した 1 。この補給により、兵糧攻めによって困窮していた本願寺は息を吹き返し、籠城を継続するための物的基盤と士気を取り戻した。この結果、10年にも及ぶ石山合戦は、さらに長期化することが運命づけられた 16 。
一方、この作戦を主導した毛利輝元は、織田信長に対して海上では毛利が圧倒的優位にあるという事実を天下に知らしめた。この勝利は、毛利氏の西国における覇権を不動のものとすると同時に、反信長包囲網の盟主としての威信を内外に示す絶好の機会となった 17 。毛利の武威は、この一戦によって頂点に達したと言っても過言ではない。
敗者:屈辱と、そこから生まれた革新
信長にとって、この完膚なきまでの敗北は、彼の軍事的キャリアにおける最大の屈辱の一つであった 4 。陸戦においては連戦連勝を誇ってきた信長が、初めて経験する規模での惨敗であり、自身の戦略の根幹を揺るがす衝撃的な出来事であった。
しかし、信長の非凡さは、単に敗北に打ちひしがれるのではなく、その敗因を徹底的に分析し、次なる勝利への糧とする点にあった。彼はこの敗戦を通じて、制海権の確保なくして石山本願寺の攻略、ひいては西国平定、すなわち天下統一事業の完成は不可能であると痛感した 4 。
信長は、敗因が毛利水軍の「焙烙火矢」による火攻めに対し、木造船があまりにも脆弱であった点にあると正確に見抜いた。そして、彼は麾下の水軍の将である九鬼嘉隆に対し、常識を覆す命令を下す。それは、「燃えない船」の建造であった 6 。この命令こそが、後に日本の海戦史にその名を刻むことになる、前代未聞の巨大戦闘艦「鉄甲船」誕生の直接的なきっかけとなったのである 13 。
この第一次木津川口の戦いでの敗北は、日本の海戦史におけるパラダイムシフトの引き金となった。村上水軍が完成の域にまで高めた、小早船の機動力と焙烙火矢を組み合わせた在来型海戦術の極致が、皮肉にも、それを完全に無効化する次世代の軍艦を生み出す原因となったのである。それは、敗北をバネにして次の時代の勝利の種を蒔くという、織田信長の革新者としての側面を象徴する出来事であった。
信長は、単に兵器を新しくするだけでなく、水軍(海軍)そのものの位置づけを再定義した。これまでの「海上輸送や沿岸警備を担う部隊」から、「制海権を積極的に確保し、敵艦隊を殲滅するための戦略的戦闘部隊」へと、その役割を大きく転換させたのである。鉄甲船の建造は、この新しい海軍思想を具現化するものであり、信長の軍事思想が陸上から海上へと大きく拡大した、画期的な瞬間であった。
結論:戦国海戦史の分水嶺
天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いは、毛利連合水軍が、瀬戸内海で培われた卓越した操船技術と、「焙烙火矢」という特異な兵器の破壊力を最大限に活用し、織田方の陸戦思想に基づいた水軍を粉砕した、戦術的勝利の完璧な典型であった。村上水軍を中心とする海の専門家集団は、自らの得意とする土俵に敵を引きずり込み、その経験と戦術の差をまざまざと見せつけたのである。
しかしながら、この戦いの真の歴史的意義は、毛利方の輝かしい勝利そのものよりも、むしろ敗れた織田信長に与えた深刻な影響の中にこそ見出すことができる。この屈辱的な敗北がなければ、2年後の第二次木津川口の戦いで歴史の表舞台に登場し、戦局を一変させることになる「鉄甲船」という画期的な軍事技術革新は生まれなかった可能性が高い 13 。信長は、敗北の原因を徹底的に分析し、火攻めという既存の戦術を無力化する、全く新しい概念の兵器を創造するという結論に達した。
この観点から見れば、第一次木津川口の戦いは、二つの時代の境界線上に位置する極めて重要な戦いであったと言える。それは、中世から続く海賊衆の機動戦術がその頂点を極めた最後の戦いであると同時に、大砲を搭載し、鉄甲で防御を固めた近世的な大型戦闘艦の時代を到来させる直接的なきっかけを作った戦いであった。
まさに、日本の戦国海戦史における「分水嶺」と位置づけることができる。この一戦は、制海権という戦略概念が、天下統一という壮大な事業において、陸上の戦闘と同等、あるいはそれ以上に決定的な重要性を持つことを、天下人・織田信長に血をもって教えた戦いであったのである。
引用文献
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- 【石山合戦】|町田トオル - note https://note.com/happy_otter805/n/n19462bdad17f
- 第一次木津川口の戦い - きものの西室 https://2466-hachi.com/sittakaburi-0408-1.htm
- 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
- 第一次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 九鬼嘉隆と鳥羽湊 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/ryokoindex/iseshima/toba.htm
- 木津川口の戦いと村上海賊 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2014/06/11/213000
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- 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
- 海賊が最強艦隊に?知られざる戦国時代の海上戦と英雄たち | レキシノオト https://rekishinote.com/naval-battle/
- [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
- [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
- 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
- 木津川口の戦いについて書かれた本はないか。 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000297248
- 日本の海賊【村上水軍】の歴史やライバルに迫る! 関連観光スポットも紹介 - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/494
- 天正6年(1578)6月26日は志摩の九鬼嘉隆が信長の命で作った鉄甲船が雑賀衆と淡輪水軍を破った日。鉄の装甲を備えた大安宅船は毛利水軍との第一次木津川口の戦いの敗北を受けて作 - note https://note.com/ryobeokada/n/n261bb5496bb6
- 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 木津川口の戦いで活躍|信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 | 鉄甲船の復元模型を狭山造船所京橋船台で建造 https://www.sayama-sy.com/