佐東銀山城の戦い(1550)
天文10年、毛利元就は謀略「千足のわらじ」で佐東銀山城を攻略。安芸武田氏を滅ぼし、安芸国統一を達成。後の中国地方統一への重要な一歩となった。
天文十年 佐東銀山城の戦い:謀将・毛利元就、安芸統一への道
序章:安芸の双璧、その落日
ご依頼いただいた「佐東銀山城の戦い(1550年)」は、戦国時代の安芸国(現在の広島県西部)における勢力図を塗り替えた、極めて重要な合戦です。しかしながら、歴史を深く掘り下げると、安芸武田氏の運命を決定づけ、毛利元就の安芸支配を確固たるものにした雌雄を決する戦いは、ご提示の年代より遡ること9年、**天文10年(1541年)**に起こった出来事であることが明らかになります。本報告書では、この1541年の合戦を主軸に据え、その背景から詳細な戦闘経過、そして歴史的意義に至るまでを徹底的に解明いたします。
一方で、1550年という年代もまた、毛利元就のキャリアにおいて重要な転換期を示唆しています。1541年の勝利が安芸国内のライバルを排除し「安芸の支配者」としての地位を確立した第一段階であったとすれば、1550年前後は、主君であった大内氏の内部崩壊が始まり、元就が「中国地方の覇者」へと飛躍する第二段階の幕開けを告げる時期でした。本報告書では、補章において1550年前後の情勢と、天文23年(1554年)に元就が再びこの城を無血で手に入れる「防芸引分」についても詳述し、1541年から1554年に至る佐東銀山城の役割の変遷を完全に解き明かすことで、包括的な理解を提供いたします。
当時の中国地方は、周防・長門を拠点とする西国の雄・大内氏と、出雲を本拠に山陰に覇を唱える尼子氏という二大勢力が、安芸国を主戦場として熾烈な覇権争いを繰り広げていました 1 。安芸武田氏や毛利氏といった安芸の「国人領主」たちは、独立性を保ちつつも、これら巨大勢力の狭間で生き残りを賭けた巧みな外交と軍事行動を常に求められる、不安定な立場に置かれていたのです 3 。この複雑なパワーバランスの中で、一つの城の落城が、いかにして中国地方全体の歴史を動かしたのか。その詳細を、ここに報告いたします。
第一部:合戦の前提 ― 天文十年(1541年)に至る道
第一章:斜陽の名門、安芸武田氏
安芸武田氏は、甲斐の武田信玄で知られる甲斐武田氏と同族であり、清和源氏の流れを汲む名門です 5 。その祖先は鎌倉時代、承久の乱(1221年)の恩賞として安芸国佐東郡の地頭職を得てこの地に根を下ろしました 7 。一時は安芸国全体の守護職を務めるほどの勢威を誇りましたが、室町時代に入ると次第に勢力を減じ、佐東郡などを治める分郡守護へとその地位を下げていました 8 。
その衰退を決定づけたのが、永正14年(1517年)の「有田中井手の戦い」です。当主・武田元繁は、当時まだ若き毛利元就の初陣において、その巧みな戦術の前に重臣・熊谷元直ともども討ち死にするという屈辱的な敗北を喫しました 4 。この一戦は、安芸国内における武田氏の権威を大きく失墜させ、逆に毛利氏台頭のきっかけを与える結果となります。
元繁の子・光和が跡を継ぎますが、天文3年(1534年)に病で早世 11 。跡継ぎがいなかったため、本家筋である若狭武田氏から信実を養子として迎えました。しかし、この家督相続を巡って光和の弟・信重を推す勢力との間に対立が生じるなど、家中は一枚岩とは言えない状態にありました 8 。かつての栄光は見る影もなく、安芸武田氏は内憂外患の苦境に立たされていたのです。
第二章:台頭する謀将、毛利元就
一方の毛利元就は、安芸国高田郡の小規模な国人領主の次男として生まれ、幼少期には多くの苦難を経験しました 4 。兄の急死と幼い甥の後見人を経て、27歳で家督を相続 3 。当初は尼子氏の傘下に入っていましたが、やがてその内政干渉を嫌い、より強大な大内氏へと鞍替えします 2 。
元就の真骨頂は、その卓越した謀略と政治力にありました。彼は安芸国内の国人領主たちと巧みに連携し、一種の連合体を形成してその盟主としての地位を確立していきます 4 。その手腕は主君である大内義隆からも高く評価され、元就は安芸の国人衆に対する「軍勢催促権」、すなわち大内氏の代理として軍を動かす権限を与えられるに至りました 14 。これにより、元就は単なる一国人領主から、安芸国全体の軍事を差配する事実上の支配者へと、その立場を大きく向上させていたのです。
第三章:直接的導火線、吉田郡山城の戦い(1540年-1541年)
天文9年(1540年)、中国地方の勢力図を揺るがす大事件が勃発します。尼子氏の当主・尼子詮久(後の晴久)が、3万とも号する空前の大軍を率いて安芸国へ侵攻し、毛利元就の本拠地である吉田郡山城を包囲したのです 2 。
この毛利氏存亡の危機に際し、安芸の国人領主たちは誰に味方すべきか、重大な決断を迫られました。それは、毛利元就が築き上げてきた安芸国人連合の結束が試される、まさに「踏み絵」でした。ここで安芸武田氏当主・武田信実は、尼子氏の圧倒的な兵力を前に、旧来の安芸の盟主としての自負もあってか、尼子方につくという判断を下します。これは元就の背後を脅かす、致命的な裏切り行為でした 10 。
しかし、元就はわずか数千の兵と共に籠城し、巧みなゲリラ戦で尼子の大軍を翻弄 2 。そして、大内義隆が派遣した陶隆房(後の晴賢)率いる1万の援軍が到着すると、形勢は一気に逆転します 2 。翌天文10年(1541年)1月、内外から挟撃された尼子軍は決定的な敗北を喫し、出雲へと敗走しました 10 。
この時、武田信実は尼子軍の敗走を知るや、自らの居城である佐東銀山城を放棄し、尼子からの城督・牛尾幸清と共に出雲へと逃亡してしまいます 12 。主を失った佐東銀山城には、わずかな家臣と兵が残されるのみとなりました。武田氏の裏切りは、元就に彼らを討伐する絶好の大義名分を与えました。吉田郡山城の戦いは、軍事的な防衛成功に留まらず、元就が安芸国内における新たな政治秩序を武力で宣言するための、完璧な舞台装置となったのです。
第二部:佐東銀山城 ― 難攻不落の要害
第一章:地理と構造
佐東銀山城(別名:銀山城、金山城)は、現在の広島市安佐南区に位置する武田山(標高410.9メートル)の山頂一帯に築かれた、広島県下でも最大級の中世山城です 20 。眼下には太田川が流れ、古代山陽道と瀬戸内海の海上交通路を扼する、まさに安芸国の流通・経済の中心地を抑える戦略的要衝にありました 7 。
城の構造は、自然の急峻な地形を最大限に活用したもので、山全体に大小50近くの郭(くるわ)と呼ばれる平坦地が階段状に配置され、それらを堀切(尾根を断ち切る空堀)で分断するという、極めて堅固な縄張り(設計)を誇ります 21 。特筆すべきは、中腹の要所に設けられた「御門跡」と呼ばれる虎口(出入り口)です。ここでは巨岩を利用して通路を直角に曲げており、敵の侵入を一手に防ぐこの構造は、後の近世城郭に見られる「桝形虎口」の原型とも評される、先進的な防御施設でした 7 。
その他にも、麓からの物資を中継する「馬返し」、本丸があったとされる広大な「千畳敷」、戦時の密議や最後の自刃の場となったと伝わる「観音堂跡」など、多様な施設が山中に点在していました 23 。この天然の要害と人工の防御施設が一体となった堅城ぶりは、過去数年にわたる攻撃にも耐え抜いたとされ、元就が力攻めではなく謀略を選んだ最大の理由でもありました 20 。
第二章:戦略的重要性
佐東銀山城は、単なる軍事拠点ではありませんでした。鎌倉時代以来、安芸守護の居城として、この城は安芸国における政治と権威の中心地という、極めて強い象徴性を持っていました 7 。たとえ勢力が衰えたとはいえ、武田氏が安芸国の正統な支配者としての権威を保ち得たのは、この城の存在ればこそでした。
新興勢力である毛利氏にとって、この城の存在は看過できないものでした。本拠地・吉田郡山城から広島湾へ至る経路を塞ぐ、喉元に突きつけられた匕首のような存在であり、安芸国を完全に掌握するためには、物理的に攻略するだけでなく、この城が持つ「正統性」という象徴的な価値をも奪取する必要があったのです。元就が後にこの城を自らの隠居城の候補としたという逸話も 7 、彼自身がこの城の持つ特別な意味を深く認識していたことを物語っています。
第三部:天文十年 佐東銀山城の戦い ― 合戦の時系列詳解
吉田郡山城の戦いから約4ヶ月、毛利元就は主君・大内義隆の正式な命令を奉じ、裏切り者・武田氏を討伐すべく、満を持して佐東銀山城へと兵を進めました。
【表1】佐東銀山城の戦い(1541年)主要関係者一覧 |
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分類 |
人物 |
攻撃側(毛利・大内軍) |
毛利元就 |
守備側(安芸武田軍) |
武田信実 |
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武田信重 |
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牛尾幸清 |
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武田家臣団 |
第一章:包囲網の形成(天文10年5月初旬)
元就率いる軍勢が佐東銀山城に迫った時、城内の状況は絶望的でした。当主・信実はすでになく、頼みの綱であった尼子氏からの援軍も期待できません。城に残されたのは、信実との家督争いに敗れたとされる一族の武田信重と、彼に従うわずか300余の兵のみでした 10 。圧倒的な兵力差に加え、主君に見捨てられたという事実は、守備兵の士気を著しく低下させていたことは想像に難くありません。
第二章:元就の謀略「千足のわらじ」(伝承)
この難攻不落の城を前に、元就は力攻めという愚策を避け、得意の謀略を用います。後世に「千足のわらじ」として語り継がれる奇策でした 20 。
まず、元就は近隣の農民を動員して、千足(1000足)もの大量のわらじを作らせました。そして夜陰に乗じ、そのわらじ一つ一つに油を染み込ませて火を灯し、城の正面(大手側)を流れる太田川へ次々と投げ込ませたのです 20 。
城の上からこの光景を見下ろした武田方の兵士たちの目には、暗闇の中、無数の松明が川を渡り、自軍に向かってくるように映りました。それはあたかも、毛利軍の全軍が川を渡河し、大手門へ大規模な夜襲を仕掛けてくるかのような光景でした 20 。この伝承を裏付けるかのように、太田川の川岸には、現在も「千足(せんぞく)」という地名が残されています 7 。
この陽動は見事に成功します。偽の夜襲に完全に欺かれた武田方の守備兵は、城内に残るなけなしの兵力を大手側の防衛へと集中させました。その結果、城の裏手にあたる搦手(からめて)の守備は、致命的なまでに手薄になったのです 20 。
第三章:搦手からの奇襲(5月13日)
武田勢が城の正面に釘付けになっている隙を突き、元就が率いる毛利軍本隊は、ひそかに城の裏手、現在の安古市町側へと大きく迂回していました 20 。そして夜が明け始めた頃、守備が手薄となった搦手から一斉に鬨の声を上げ、攻め上ったのです。
完全に意表を突かれた武田軍は、組織的な抵抗を全く行うことができませんでした。城内は瞬く間に大混乱に陥り、毛利軍は次々と郭を突破していきます。大手門で敵を待ち構えていた兵士たちが背後からの攻撃に気づいた時には、すでに勝敗は決してしました。
第四章:落城の刻
武田信重と残された僅かな家臣たちは、本丸付近で最後の抵抗を試みますが、衆寡敵せず、もはやこれまでと覚悟を決めます。そして、天文10年(1541年)5月13日、武田信重は城に火を放ち自刃 10 。
ここに、鎌倉時代から約320年にわたり安芸国に君臨した名門・安芸武田氏は、事実上滅亡しました 12 。
第四部:戦後処理と歴史的意義
第一章:安芸武田氏の終焉とその後
佐東銀山城の落城は、安芸武田氏という「家」の滅亡を意味しましたが、元就の戦後処理は単なる破壊に終わりませんでした。彼は武田氏が遺した有益な「資産」を巧みに自らの勢力へと再編・吸収していきます。
- 一族の行方 :
- 安国寺恵瓊 : 落城の際に自刃した武田信重の遺児が、家臣に連れられて安芸国の安国寺(現在の不動院)に逃れたという伝承があります。この幼児こそが、後に毛利氏の外交僧として豊臣秀吉との交渉などで縦横無尽の活躍を見せる 安国寺恵瓊 であるとされています 6 。元就は敵将の子を保護し、その才能を見抜いて後に重用したのです。
- 周防武田氏 : 先代当主・武田光和の嫡子であった小三郎は、元就に仕え、厳島の戦いでは元就の影武者を務めるなど活躍しました。彼は後に周防国玖珂に領地を与えられ、周防武田氏の祖となりました 6 。
- 武田信実 : 出雲へ逃れた当主・信実のその後の動向は定かではありませんが、最終的には毛利氏に降伏し、その支配下に入ったと考えられています 29 。
- 旧領地と家臣団の再編 :
- 武田氏の広大な旧領は毛利氏の直轄地となり、その経済基盤を大きく強化しました。また、武田氏に仕えていた家臣団も毛利氏に吸収されました。特に、太田川流域を拠点としていた「川内警固衆」などの水軍戦力は、そのまま毛利水軍へと編入され、後の厳島の戦いなどで活躍する重要な戦力となりました 13 。
このように、元就は敵対する権力構造は徹底的に破壊する一方で、その構成要素である有能な人材や組織は解体・吸収し、自らの力へと転換させるという、極めて現実主義的かつ効率的な勢力拡大の手法を実践しました。この冷徹な合理性こそが、彼を一代で中国地方の覇者へと押し上げた原動力の一つであったと言えるでしょう。
第二章:毛利元就の安芸国統一
佐東銀山城の攻略と安芸武田氏の滅亡は、毛利元就の安芸国統一事業における決定的な一歩でした。これにより、安芸国内に元就と対抗しうる勢力は皆無となり、彼は名実ともに安芸国の支配者としての地位を不動のものとしたのです 4 。
この強固な地盤を得たことで、元就は次なる戦略を展開することが可能になりました。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へそれぞれ養子として送り込み、山陽・山陰の有力国人を完全に支配下に置く「毛利両川体制」を構築 31 。安芸一国を磐石の支配下に置いたことが、後の中国地方全域への飛躍を可能にしたのです 32 。
第三章:中国地方の勢力図の変化
この勝利は、毛利氏の主君であった大内氏との関係にも影響を与えました。尼子氏との最前線で最大のライバルを自力で排除した元就の評価は、大内義隆の中でさらに高まり、その信頼は絶対的なものとなりました 33 。
安芸を完全に掌握した元就は、大内軍の中核として、尼子氏の本国・出雲への大遠征(第一次月山富田城の戦い)に参加します。しかし、この遠征は味方の裏切りなどもあって大失敗に終わります。この敗戦が、大内義隆の権威を失墜させ、後の大内家の内紛、そして元就の独立へと繋がる、新たな動乱の序曲となるのでした。
補章:1550年前後の佐東銀山城
第一章:天文19年(1550年)頃の中国地方情勢
ご依頼のあった天文19年(1550年)頃、中国地方の情勢は再び大きく動こうとしていました。毛利元就の主家である大内氏の内部で、深刻な対立が進行していたのです。当主・大内義隆は、先の出雲遠征の失敗以降、次第に政治への意欲を失い、京から招いた公家たちと文化的な活動に没頭するようになります。これに対し、筆頭重臣で武断派の陶隆房(晴賢)は強い不満を募らせ、両者の溝は修復不可能なレベルにまで達していました 34 。この対立は、翌天文20年(1551年)、陶によるクーデター「大寧寺の変」として結実し、大内義隆は自刃に追い込まれます。
この間、毛利元就は表向き大内氏に忠実な家臣として振る舞い、備後国の神辺城を攻略するなど、着実に自らの勢力圏を拡大していました 35 。彼は大内家の内紛を冷静に観察し、自らが独立し、さらには天下を窺う好機を虎視眈々と狙っていたのです 33 。
第二章:天文23年(1554年)「防芸引分」と銀山城
大寧寺の変で大内家の実権を握った陶晴賢と、急速に力をつける毛利元就との関係は、必然的に悪化の一途を辿ります。そして天文23年(1554年)、元就はついに晴賢と完全に手切れし、大内氏からの独立を宣言します。これを「防芸引分」と呼びます。
この時、佐東銀山城には大内方(陶方)の城番として栗田肥後入道が置かれていました。元就は独立宣言と同時にこの城を攻撃。しかし、もはや安芸国内に元就に敵対する者はおらず、栗田は元就の説得に応じて戦わずして城を明け渡しました 7 。ここに佐東銀山城は、名実ともに、そして完全に毛利氏の所有物となったのです。この無血開城は、翌天文24年(1555年)に陶晴賢を討ち滅ぼす「厳島の戦い」の、重要な前哨戦の一つとなりました。
結論:一戦が画した中国地方の未来
天文10年(1541年)の佐東銀山城の戦いは、単に一つの城が落ち、一つの名家が滅んだという局地的な出来事ではありませんでした。それは、鎌倉時代以来の旧い権威(安芸武田氏)が、戦国の世を勝ち抜く新たな実力者(毛利元就)によって完全に打ち破られた、安芸国の支配権の移譲を天下に示す象徴的な戦いでした。
この一戦の勝利によって、元就は安芸国という強固な地盤を初めて手に入れました。それは、謀略と才覚のみで成り上がってきた彼が、その後の中国地方の激しい動乱を勝ち抜き、一代で西日本最大級の戦国大名へと駆け上がるための、最も重要かつ決定的な第一歩でした。この佐東銀山城の攻略なくして、後の厳島の奇跡も、中国地方の統一も成し遂げられなかったと言っても過言ではないでしょう。一つの戦いが、一人の武将の運命を変え、ひいては中国地方全体の未来を画したのです。
引用文献
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- 歴史紀行第16回 ~毛利元就編その② 吉田郡山城の戦い | 広島医療生活協同組合 http://www.hiroshimairyo.coop/blog/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B4%80%E8%A1%8C%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%9B%9E-%E3%80%80%EF%BD%9E%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1%E7%B7%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E2%91%A1%E3%80%80%E5%90%89%E7%94%B0%E9%83%A1/
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