最終更新日 2025-09-04

倉賀野城の戦い(1582)

天正十年、本能寺の変後、滝川一益は関東の覇権を狙う北条氏と神流川で激突。兵力差に敗れ、倉賀野城へ退避後、関東を去った。この戦いは北条氏の勢力を拡大し、天正壬午の乱の引き金となった。

天正十年、関東の激震:倉賀野城をめぐる神流川の戦い 時系列で読み解く戦略と人間模様

序章:本能寺の変と権力の空白

天正10年(1582年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。織田信長による天下統一事業が最終段階に入り、長年関東に君臨した甲斐武田氏が滅亡。しかし、その直後に発生した本能寺の変は、確立されつつあった秩序を根底から覆し、関東に巨大な権力の空白を生み出した。本報告書で詳述する「倉賀野城の戦い」、その実態である「神流川の戦い」は、この激動の時代に、関東の覇権をめぐって繰り広げられた壮絶な戦いの序曲であった。

武田氏滅亡と織田家の関東統治体制

天正10年3月、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐は、わずか一ヶ月余りで名門・武田氏を滅亡に追い込んだ 1 。この戦役で先鋒として多大な戦功を挙げた織田家宿老・滝川一益は、信長からその功を賞され、上野一国と信濃二郡(佐久・小県)を与えられた 3 。一益は当初、上野国の箕輪城に入ったが、5月には厩橋城(現在の前橋城)に関東支配の拠点を移し、沼田城に甥の滝川益重、西の要衝・松井田城に津田秀政、信濃の小諸城に道家正栄を配置するなど、織田家の支配体制を急ピッチで構築していった 4

この一連の動きは、長年関東の覇者として君臨してきた相模の北条氏にとって、看過できない事態であった。北条氏は武田氏とは婚姻同盟を結び、また上野国は長年自らが狙っていた土地であったからだ 5 。織田家という巨大な権力が、喉元に刃を突きつける形で関東に進出してきたことは、北条氏政・氏直父子に強烈な危機感を抱かせた。

滝川一益の関東管領就任と束の間の安定

信長は一益を単なる上野国主としてではなく、事実上の「関東管領」として派遣し、関東の諸大名を統括する全権を委任した 6 。これは、北条氏をはじめとする関東の諸勢力を織田政権の秩序下に組み込むという、信長の壮大な構想の現れであった。

同年5月、一益は厩橋城で盛大な能興行を催した。この催しには、同盟関係にあった北条家からも使者が参加しており、表面上は織田家と北条家の友好的な関係が保たれているように見えた 4 。しかし、この平穏は、水面下で増大する緊張を覆い隠す、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていたに過ぎなかった。

信長横死の報と、北条氏政・氏直父子の野心

天正10年6月2日、京都・本能寺において織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという、日本史上未曾有の政変が勃発する。この衝撃的な報せは、5日後の6月7日(一説には9日)に、遠く離れた上野国の一益のもとへ届けられた 4 。一益は、重臣たちが情報の秘匿を進言するのを退け、「隠してもいずれ露見する」として、支配下の上州国人衆を集め、信長・信忠父子の死を公表。そして、「急ぎ上洛し、光秀を討ち、先君の恩に報いねばならぬ」と、明智光秀討伐の決意を表明した 4

この一益の決断は、織田家への忠誠を示すものであったが、同時に彼の関東における支配基盤の脆弱性を露呈させることにもなった。信長という絶対的な後ろ盾を失った瞬間、一益の権威は大きく揺らぎ始めたのである。

一方、北条氏政のもとにも信長横死の報は届いていた。氏政は、表向きは同盟者としての立場を崩さず、6月11日付の書状で一益に対し、今後も協調関係を継続する旨を伝えている 4 。しかし、その裏では、翌6月12日には領国全域に総動員令を発令していた 4 。これは単なる裏切りではなく、高度に計算された戦略的欺瞞であった。友好を装うことで一益の警戒を解き、彼が上洛準備や動揺する国衆の鎮撫に追われている間に、迅速かつ圧倒的な兵力で上野へ侵攻する時間的猶予を確保する。まさに、戦国時代における情報戦の典型例であり、合戦は物理的な衝突が始まる以前に、情報と戦略の段階で既に始まっていたのである。北条氏にとって、信長の死は、関東から織田勢力を一掃し、長年の悲願であった関東完全支配を達成するための千載一遇の好機であった 5

第一部:倉賀野城と上州の地政学

この物語の重要な舞台となる倉賀野城は、単なる一地方の城ではない。関東平野の地政学的な要衝に位置し、その歴史は、大勢力の狭間で翻弄され続けた在地領主の苦難の歴史そのものであった。この城と城主の背景を理解することは、神流川の戦いの本質を深く読み解く上で不可欠である。

関東平野の要衝、倉賀野城の戦略的重要性

倉賀野城は、烏川に面した段丘上に築かれた天然の要害であった 9 。地理的には武蔵国と上野国の国境に位置し、古くから関東と信越地方を結ぶ交通の結節点としての役割を担っていた 11 。江戸時代に中山道が整備されると倉賀野宿が置かれることからもわかるように、この地は軍事的にも経済的にも極めて重要な拠点であった 12 。この城を抑えることは、上野国西部、ひいては関東平野全体の支配権を確立するための鍵の一つだったのである。

城主・倉賀野秀景の経歴:上杉、武田、そして織田へ

倉賀野城をめぐる歴史は、関東の勢力図の変遷を色濃く反映している。城主の倉賀野氏は、元をたどれば武蔵七党の一つ、児玉党の一派であり、当初は関東管領である山内上杉氏に属していた 12 。しかし、戦国時代中期以降、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして相模の北条氏康という三雄が関東の覇権をめぐって激しく争うようになると、倉賀野氏はその渦中に巻き込まれていく 12

神流川の戦い当時の城主であった倉賀野秀景は、その典型的な人物であった。彼の本姓は金井氏といい、倉賀野氏譜代の重臣「倉賀野十六騎」の一人であったが、主家が武田信玄の攻撃によって没落した後、信玄の命により倉賀野氏の名跡を継いだ 14 。つまり、彼は武田氏の配下として倉賀野城主となったのである。そして、天正10年にその武田氏が織田信長によって滅ぼされると、今度は新たな支配者である滝川一益に迅速に従属した 16 。彼の経歴は、巨大勢力の狭間で生き残るために、時勢を読み、主君を次々と変えざるを得なかった戦国時代の地方国衆の宿命を体現している。

滝川体制下における上州国人衆の立場と葛藤

倉賀野秀景をはじめとする上州の国人衆の多くは、長年にわたり武田氏の支配下にあったため、その旧臣も少なくなかった 7 。彼らにとって、新たな支配者である滝川一益への忠誠心は、まだ盤石なものではなかった。一益の関東統治はわずか3ヶ月という短期間であり、その支配は織田信長個人の絶対的な権威に完全に依存していた 4

信長の死という「一本柱」が抜けた瞬間、彼らは究極の選択を迫られることになった。後ろ盾を失い、上洛の意向を示す滝川一益に最後まで付き従うのか。それとも、圧倒的な兵力で迫り来る、同じ関東の雄である北条氏に与するのか。彼らの胸中には、自らの家名と領地をいかにして存続させるかという、極めて現実的な葛藤が渦巻いていたのである。

なお、本件の合戦はユーザーの問い合わせにある通り「倉賀野城の戦い」として知られることもあるが、史料を詳細に分析すると、主戦場は神流川を挟んだ金窪原などであり、倉賀野城自体が直接的な攻防の対象となったわけではないことがわかる 7 。倉賀野城は、6月19日の決戦で敗れた滝川一益が、本拠の厩橋城へ撤退する際に一時的に退避した中継拠点としての役割を果たしたに過ぎない 7 。したがって、本報告書では、この戦いの実態を「神流川の戦い」と位置づけつつ、倉賀野氏が当事者として深く関与し、戦後処理の一舞台となった点から、「倉賀野城をめぐる戦い」という複合的な視点で分析を進める。

第二部:神流川の激闘 ― 合戦のリアルタイム分析

本能寺の変によって解き放たれた北条氏の野心は、関東平野を瞬く間に戦火で包み込んだ。滝川一益率いる織田・上州連合軍と、北条氏政・氏直父子が率いる北条大軍が激突した神流川の戦いは、関東の歴史上でも最大級の野戦と評される 7 。ここでは、現存する史料を基に、開戦前夜から決戦、そして敗走に至るまでの緊迫した数日間を、時系列に沿って詳細に再現する。


【表1】神流川の戦い 主要関連年表(天正十年六月)

日付 (天正10年)

出来事

主要関係者

6月2日

本能寺の変。織田信長・信忠父子が自刃。

織田信長、明智光秀

6月7日 (9日説あり)

滝川一益、厩橋城にて信長父子の死を知る。

滝川一益

6月11日

北条氏政、一益に協調継続を約する書状を送る。

北条氏政

6月12日

北条氏、領国に総動員令を発令。上野侵攻を決定。

北条氏政、北条氏直

6月16日

北条氏直率いる本隊が倉賀野方面へ進軍を開始。

北条氏直

6月18日

緒戦(金窪原の戦い) 。滝川勢が北条氏邦軍に勝利。

滝川一益、北条氏邦

6月19日

決戦(神流川の戦い) 。滝川勢が北条本隊に大敗。

滝川一益、北条氏直

滝川一益、 倉賀野城 を経て厩橋城へ敗走。

滝川一益、倉賀野秀景

6月20日

一益、箕輪城にて上州衆との別れの宴を開く。

滝川一益、倉賀野秀景

6月21日

一益、松井田城を発ち、碓氷峠を越え信濃へ。

滝川一益

6月27日

清洲会議開催。一益はこれに間に合わず。

羽柴秀吉、柴田勝家

7月1日

一益、本拠地の伊勢長島城に帰還。

滝川一益

出典: 4 を基に作成


【表2】神流川の戦い 両軍の兵力と主要武将

項目

滝川軍(織田・上州連合軍)

北条軍

総大将

滝川一益

北条氏直(総指揮:北条氏政)

推定総兵力

約18,000

約50,000

主要武将

滝川益重、津田秀政、道家正栄、 倉賀野秀景 、木部貞朝、北条高広、由良国繁、長尾顕長 ほか上州国人衆

北条氏邦(鉢形城主)、北条氏規(韮山城主)、斎藤光透 ほか

出典: 2 を基に作成


開戦前夜(六月十二日~十七日):迫る暗雲

6月12日、北条氏政・氏直父子は領内に総動員令を発令 4 。その軍勢は、わずか数日で5万を超える大軍に膨れ上がった 2 。6月16日、当主である北条氏直が自ら本隊を率い、上野国との国境である武蔵国賀美郡、倉賀野方面へと進軍を開始した 7

これに対し、滝川一益は上州の国人衆をかき集め、約1万8千の兵力で迎撃態勢を整えた 7 。兵力差は約3倍。圧倒的な数的劣勢の中、一益は自らの軍略の才と、配下の上州衆の奮戦に全てを賭けるしかなかった。

緒戦(六月十八日):滝川勢、奮戦す

開戦初日、戦いの主導権を握ったのは滝川勢であった。一益は先手を取り、北条方の最前線基地である金窪城(武蔵国児玉郡)と川井城を猛攻。城を守る北条氏邦配下の斎藤光透・基盛兄弟を破り、両城を陥落させた 7

勢いに乗る滝川勢は、さらに金窪原で野戦を展開。武田旧臣を主体とする上州衆と滝川の旗本が、北条氏邦率いる精鋭「鉢形衆」5千と激突した 7 。この戦いは激戦となり、滝川方は北条方の勇将・石山大学、保坂大炊介らを討ち取る戦果を挙げたが、上州衆の佐伯伊賀守が討死するなど、少なくない損害も被った 7 。しかし、最終的に鉢形衆を敗走させ、追撃によって200余名を討ち取るという見事な勝利を収めた 7 。この緒戦の勝利は、一益の卓越した指揮能力と、この時点ではまだ上州衆の士気が高かったことを示している。

決戦(六月十九日):運命の一日

緒戦の勝利で意気上がる滝川勢。しかし、翌19日、北条氏直率いる数万の本隊が戦場に到着すると、戦況は一変する。

午前の部 - 互角の攻防 : 北条氏直が2万の兵を繰り出して攻勢に出るが、滝川一益は手勢の3千を巧みに動かし、これをあしらう。一時は北条勢を敗走させるほどの善戦を見せ、戦いは互角の様相を呈した 7

午後の部 - 戦局の転換 : 膠着した戦況を見た総指揮官の北条氏政は、弟の北条氏規(氏則)に別働隊1万を与え、兵力に劣る滝川勢を側面から包囲する作戦に出た 7 。この危機的状況に、一益は後陣に控えていた北条高広ら上州衆の本隊に投入命令を下す。しかし、彼らの動きは鈍く、前線へ進軍してこなかった 7

この上州衆の「遅参」は、単なる裏切りや臆病と断じるべきではない。緒戦の勝利で一益に傾きかけた天秤が、北条本隊の登場という圧倒的な現実の前に再び揺れ動いた結果であった。彼らにとっては、信長という後ろ盾を失った滝川方と、関東の覇者である北条方のどちらが最終的に勝利するかを見極めることが、自らの家を存続させるための最も合理的な判断だったのである。

決死の突撃 : 上州衆を頼むに足らずと悟った一益は、覚悟を決める。「運は天にあり、死生命あり。敵中に打ち入りて、討死せよ」と旗本に檄を飛ばし、僅かな手勢を率いて自ら北条軍の只中へ決死の突撃を敢行した 7 。この鬼気迫る猛攻に、包囲していた北条方の方が逆に混乱し、陣形が崩れる。北条氏規がわずか30騎ほどで応戦するのがやっとというほどの混戦となり、この突撃で北条方も300余名が討ち取られたという 7

夕刻の部 - 戦線崩壊と悲劇 : しかし、一益の奮戦も虚しく、兵力の絶対的な差はいかんともしがたかった。北条氏直が軍を立て直して再度総攻撃をかけると、衆寡敵せず、夕刻には滝川軍はついに総崩れとなった 7

敗走する軍の殿(しんがり)を務めたのは、一益の譜代の家臣たちであった。篠岡、津田、太田、栗田、そして笹岡平右衛門といった重臣たち500騎が、主君を逃がすために踏みとどまり、そのことごとくが討死を遂げた 7 。そして、最後まで一益と共に戦った上州衆の中からも、木部貞朝、さらに倉賀野城主・倉賀野秀景の二人の息子、五郎太と六弥太が討死するという悲劇が起こった 7

敗走(六月十九日夜):倉賀野城へ

滝川一益は、敗残兵をかろうじてまとめ上げ、戦場からほど近い 倉賀野城 へと退避した 7 。ここでひとまず息を整えた後、その日のうちに本拠地である厩橋城へと撤退した 7 。北条軍は勝利したものの、一益の決死の突撃によって損害も大きく、深追いして追撃することはなかった 19 。神流川の戦いは、こうして滝川勢の決定的敗北に終わったのである。

第三部:敗軍の将、関東を去る

神流川での大敗は、滝川一益の関東支配の終焉を意味した。しかし、彼の物語はここで終わらない。敗軍の将として、敵地と化した関東から本拠地・伊勢長島まで、壮絶な脱出劇を繰り広げることになる。その過程で見せた武将としての器量、そして上州の将たちとの人間的な交流は、この戦いのもう一つの側面を我々に伝えている。

箕輪城での別れの宴:束の間の交流と名残

6月19日の夜、命からがら厩橋城に帰り着いた一益は、まず城下の長昌寺で、自らのために命を落とした将兵たちの供養を行った 7 。彼の胸中には、無念と共に、最後まで付き従ってくれた者たちへの深い感謝があったに違いない。

翌20日、一益は一つの決断を下す。これまで人質として預かっていた上州国人衆の子弟たち、その中には決戦で進軍をためらった北条高広の次男も含まれていたが、彼ら全員を解放したのである 7 。これは、もはや関東に留まる意思がないことを示すと同時に、彼らが後顧の憂いなく新たな支配者である北条氏に降伏できるよう整える、一益なりの最後の「配慮」であった。

その夜、一益は箕輪城に倉賀野秀景ら上州の主だった将たちを集め、別れの酒宴を催した。この席で、一益は自ら鼓を打ち、謡曲『羅生門』の一節を「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡った。これに応えたのが、二人の息子を失ったばかりの倉賀野秀景であった。彼は『源氏供養』から「名残今はと鳴く鳥の」と返し、互いに名残を惜しんだと伝えられている 7 。この逸話は、単なる感傷的な美談ではない。支配・被支配の関係を超え、過酷な戦国を生きる武士同士の、束の間の心の交流を示す感動的な場面であると同時に、一益が築いた人間関係が、単なる力による支配ではなかったことを物語っている。

決死の碓氷峠越えと伊勢長島への帰還

宴の後、一益は自らが秘蔵してきた太刀や長刀、金銀などを上州の将たちに惜しげもなく与え、深夜、箕輪城を静かに旅立った 7 。彼の仁義に感じ入った倉賀野秀景や、後に徳川方につく真田昌幸らは、その恩義に報いるため、危険な道中である木曽までの道のりを警固したとも伝わっている 22 。これは、彼らが一益個人に抱いていた敬意の表れであると同時に、北条方に対してこれ以上敵対する意思がないことを示す、巧みな政治的パフォーマンスでもあった。

6月21日、一益は西の拠点・松井田城で津田秀政らの兵と合流し、約2千の兵力で険しい碓氷峠を越え、信濃国の小諸城に入った 7 。しかし、ここも安住の地ではなかった。信濃の国衆もまた、信長の死を受けて不穏な動きを見せていたからだ。一益は、ここで最後の交渉を行う。信濃の国衆から預かっていた人質(真田昌幸の母などが含まれる)を、中立的な立場にあった木曾義昌に引き渡すことを条件に、木曽谷の安全な通行許可を取り付けたのである 7

この交渉が成立し、6月27日に小諸城を発った一益一行は、木曽谷を抜け、ようやく織田家の領国である美濃国に入る。尾張の清洲城で信長の後継者となった三法師(織田秀信)に拝礼した後、7月1日に、ついに本拠地である伊勢長島へと帰り着いた 7

清洲会議への不参加と政治的失墜

しかし、この壮絶な逃避行は、一益に致命的な代償を強いることになった。彼が関東で死闘を繰り広げ、決死の脱出を行っている間に、織田家の中枢では天下の行方を決める重要な会議が開かれていた。6月27日に開催された「清洲会議」である 4

織田四宿老の一人でありながら、この会議に間に合わなかった一益は、織田家の後継者問題と遺領の再配分という、最も重要な意思決定の場から完全に締め出された 4 。結果として、明智光秀を討った羽柴秀吉が発言権を増し、織田家における一益の地位は急落。彼のその後の政治生命に、回復不可能なほどの打撃を与えることになったのである 4

終章:戦いが残したもの

神流川の戦いは、単に関東の一地方における勢力図を塗り替えただけではなかった。その結果はドミノ倒しのように連鎖的な影響を及ぼし、関東の政治情勢のみならず、織田家内部の権力闘争、ひいては天下統一への流れそのものにまで、深く大きな波紋を広げていった。

北条氏による上野国平定と「天正壬午の乱」の本格化

神流川での勝利により、北条氏は上野国から織田勢力を一掃し、その支配権を確立した 5 。これにより、北条氏は長年の悲願であった関東全域の支配をほぼ手中に収め、その勢力は最大に達した。しかし、これは新たな戦いの始まりに過ぎなかった。

織田信長という共通の脅威が消滅したことで、武田氏の旧領(甲斐・信濃・上野)という広大な「無主の地」をめぐり、北条氏、徳川家康、そして越後の上杉景勝という三つの勢力が、互いに牙を剥き出しにする。これが、戦国史の最終盤を飾る大争乱「天正壬午の乱」である 1 。神流川の戦いは、この壮大な領土争奪戦の幕開けを告げる号砲となったのである。北条氏はこの後、甲斐・信濃へ侵攻し、徳川家康と直接対決することになり、関東で得たアドバンテージを中央での覇権争いに活かすことができなくなっていく 2

倉賀野氏のその後と、関東における新秩序の形成

滝川一益が関東を去った後、倉賀野秀景は、和田信業ら他の上州国衆と同様に、北条氏に降伏してその軍門に下った 17 。大勢力の間で巧みに立ち回り、家名を保ってきた彼にとって、それは必然の選択であった。

しかし、その8年後の天正18年(1590年)、天下人となった豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、倉賀野氏の運命もまた尽きる。城主・秀景は北条氏の家臣として主君の居城である小田原城に籠城 17 。圧倒的な豊臣軍の前に小田原城は開城し、北条氏は滅亡。秀景もまた、開城直後にその波乱の生涯を閉じたと伝えられている 9 。主を失った倉賀野城もまた、豊臣軍に開城させられた後に廃城となり、その歴史に幕を下ろした 10 。彼の生涯は、戦国の荒波に翻弄され続けた関東国衆の宿命を、まさに象徴するものであった。

神流川の戦いが戦国史に与えた影響の総括

神流川の戦いは、一見すると関東地方の局地的な紛争に過ぎないかもしれない。しかし、その結果が歴史に与えた影響は計り知れない。

第一に、この戦いは関東における織田勢力を一掃し、北条氏の勢力を一時的に最大化させた。しかし、それは同時に北条氏を天正壬午の乱という泥沼の戦いへと引き込み、中央の情勢から乖離させていく原因ともなった。

第二に、滝川一益の敗走と政治的失墜は、織田家内部の権力闘争において、羽柴秀吉の台頭を間接的に助ける結果となった 8 。もし一益が清洲会議に出席していれば、秀吉の独走に待ったをかけ、歴史は違う様相を呈していたかもしれない。

このように、神流川の戦いは、関東の一武将の運命を決定づけただけでなく、織田家の権力構造を変化させ、北条氏の戦略を規定し、最終的には天下統一への流れを加速させる遠因となった。関東の片田舎で起きた一つの戦いが、日本全体の歴史の歯車を大きく動かしたのである。それは、歴史のダイナミズムと、一つの出来事が持つ多層的な波及効果を如実に示す、象徴的な合戦であったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
  3. レファレンスデータベースデータ_20230114 - 群馬県立図書館 https://www.library.pref.gunma.jp/wysiwyg/file/download/1/4778
  4. 神流川の戦い | 倉賀野城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1324/memo/3205.html
  5. 神流川の戦い古戦場:群馬県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannagawa/
  6. 上野国・戦国時代その5 戦国末期から徳川政権へ https://www.water.go.jp/kanto/gunma/sozoro%20walk/the%20age%20of%20civil%20wars%205.pdf
  7. 神流川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  8. 神流川合戦を考える‐ それは「本能寺の変」から始まった 両軍激突‐激闘の金久保城 - 上里町 https://www.town.kamisato.saitama.jp/secure/9746/%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9002%20%E7%89%B9%E9%9B%86%20%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E5%90%88%E6%88%A6%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B.pdf
  9. 倉賀野城の見所と写真・100人城主の評価(群馬県高崎市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1324/
  10. 倉賀野城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Kuragano/index.htm
  11. 倉賀野町について https://kuragano-machi.com/about/
  12. 倉賀野めぐり(PDF形式 1.7MB) https://www.city.takasaki.gunma.jp/uploaded/attachment/14189.pdf
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  15. 武家家伝_倉賀野氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuagano.html
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  18. 倉賀野城(2011年10月29日)群馬県高崎市倉賀野町5556 - 旦さまと私 - FC2 https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-861.html
  19. 和田城 http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/siro/takasaki/wada/wada.htm
  20. 天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/
  21. 神流川古戦場跡碑 - 高崎観光協会 https://www.takasaki-kankoukyoukai.or.jp/?p=6682
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