八戸根城の戦い(1591)
八戸根城の戦いは、九戸政実の乱において八戸政栄が根城から出撃し、九戸方に与した島守館を攻略した戦い。これは南部信直を支援し、豊臣秀吉の奥州再仕置軍到着前の地ならしとして重要な役割を果たした。
天正十九年「八戸根城の戦い」の真相:九戸の乱における根城南部氏の軍事行動全記録
序章:再定義される「八戸根城の戦い」― 籠城戦から出撃戦へ
天正十九年(1591年)、陸奥国に吹き荒れた「九戸政実の乱」。この戦乱は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階を飾る大規模な軍事行動として知られている。利用者様が提示された「八戸根城の戦い」という事象は、この大乱の文脈の中に位置づけられる。しかしながら、史料を精査する限り、八戸根城(青森県八戸市)そのものが敵軍に包囲され、籠城戦が展開されたという記録は存在しない 1 。
では、「八戸根城の戦い」とは幻であったのか。否、それは歴史の真実の一側面を、より本質的な形で捉え直すための鍵となる。本報告書が解き明かすのは、城が攻められた防御戦ではなく、 八戸根城を拠点とした城主・八戸政栄(はちのへ まさよし、直栄とも)が、主家である三戸南部氏の危機に際して敢行した、極めて重要な攻撃作戦 である。すなわち、「八戸根城 での 戦い」ではなく、「八戸根城 からの 戦い」こそが、天正十九年に起きた歴史の真相なのである。
この一連の軍事行動において、その象徴的な戦闘となったのが、九戸政実方に与した島守安芸(しまもり あき)の居城「島守館(しまもりだて)」に対する攻略戦であった 3 。この戦いは、九戸の乱という大局において、八戸政栄が果たした戦略的役割と、根城という拠点の軍事的価値を如実に物語っている。
本報告書は、この「八戸根城からの戦い」、特に島守館攻略戦を中核に据え、その背景、リアルタイムな戦闘経過、そして歴史的意義を徹底的に解明する。これにより、利用者様の探求心に対し、より正確かつ深淵な歴史像を提示することを目的とする。まずは、この動乱を織りなした主要な関係者たちの姿を確認しておきたい。
表1:主要関係者一覧(Dramatis Personae)
人物名 |
所属・立場 |
概要 |
南部 信直 (なんぶ のぶなお) |
三戸南部氏 当主 |
南部宗家26代当主。家督相続を巡り九戸政実と対立。豊臣政権に臣従し、九戸の乱では鎮圧軍の当事者となる 5 。 |
九戸 政実 (くのへ まさざね) |
九戸氏 当主 |
南部氏一族最強の武将と謳われた実力者。信直の家督相続に不満を抱き、豊臣政権の奥州仕置に反発して挙兵する 6 。 |
八戸 政栄 (はちのへ まさよし) |
根城南部氏 当主 |
八戸(根城)南部氏18代当主。信直の家督相続を一貫して支持し、九戸の乱では信直方の中核として軍事行動を展開する 8 。 |
島守 安芸 (しまもり あき) |
四戸氏庶流・島守館主 |
南部氏の一族。九戸政実に与し、居城・島守館を拠点とするも、八戸政栄の攻撃を受けることになる 3 。 |
豊臣 秀次 (とよとみ ひでつぐ) |
豊臣氏 |
豊臣秀吉の甥。九戸の乱鎮圧軍の総大将として奥州へ派遣される 10 。 |
蒲生 氏郷 (がもう うじさと) |
豊臣氏配下 大名 |
会津黒川城主。鎮圧軍の主力として浅野長政らと共に北上し、九戸城攻撃を指揮する 7 。 |
浅野 長政 (あさの ながまさ) |
豊臣氏配下 大名 |
豊臣政権の五奉行の一人。鎮圧軍の軍監的立場で従軍。九戸政実の降伏交渉に関与した 7 。 |
第一章:火種燻る北奥の地 ― 南部一族、三国鼎立の内実
天正十九年の九戸政実の乱は、豊臣政権という外部要因によって突如引き起こされた事件ではない。その根底には、数十年にわたり南部一族の内部で燻り続けた、深刻な権力闘争の歴史が存在した。当時の南部氏は、宗家である三戸(さんのへ)南部氏を頂点としながらも、その実態は、有力な庶流である八戸(はちのへ)南部氏と九戸(くのへ)氏が、それぞれ独立した勢力圏を保持する、さながら「三国鼎立」とも言うべき分立状態にあった 6 。
特に、八戸を拠点とする根城南部氏は、南北朝時代に南朝方として活躍した歴史を持ち、一時期は宗家を凌ぐ勢力を誇り、南部氏全体の惣領であったとする見解すら存在するほどの格式と実力を有していた 13 。一方で、九戸氏は南部氏の中でも随一の武勇を誇る一族であり、当主・九戸政実の代にはその勢力を大きく拡大させていた 16 。
この脆弱な均衡を決定的に崩壊させたのが、南部宗家24代当主・南部晴政の後継者問題であった。晴政は当初、男子に恵まれなかったため、一族の石川高信の子であり、自身の長女の婿であった信直を養嗣子として迎えた 5 。しかし、後に実子・晴継が誕生すると、晴政は信直を疎んじるようになり、両者の関係は険悪化する。この宗家内部の亀裂が、南部一族全体を二分する対立へと発展したのである。
この時、最大勢力を誇る九戸政実は、晴政に与して信直と敵対した 9 。政実は、晴政の死後、自らの弟である九戸実親を後継者として擁立しようと画策し、信直の家督相続に真っ向から反対した 5 。家中が信直派と政実派に分裂する中、信直にとって最大の支えとなったのが、八戸の当主・八戸政栄であった。
政栄は、この一連の家督争いにおいて、一貫して信直を支持し、その生命と地位を守り続けた。晴政が信直を討伐しようと軍勢を差し向けた際には、政栄は自ら兵を率いて両軍の間に割って入り、仲裁によって和平を成立させた 5 。また、信直が身の危険を感じて三戸城を脱出した際には、政栄は彼を自らの居城である根城に迎え入れ、匿ったとされる 5 。
なぜ政栄は、武威において勝る九戸政実ではなく、常に危うい立場にあった信直に味方し続けたのか。その政治的信条は、『八戸家伝記』に記された彼の言葉に集約されている。「自家の栄耀を計り嫡家の安危を忘れるよりは、嫡家の付庸となり嫡庶両方の長久を保つ方が良い」 8 。これは、目先の権力闘争に与して自家の勢力拡大を図るよりも、宗家を支え、南部一族全体の分裂を回避することこそが、結果的に自家の永続にも繋がるという、極めて冷静かつ長期的な戦略眼を示している。政栄は、九戸政実の野心が南部氏を内戦による共倒れへと導き、津軽為信の独立や中央政権の介入といった外部からの脅威を招き寄せる危険性を深く認識していた。彼の信直への支援は、単なる忠義心に留まらず、北奥の政治情勢を的確に見据えた、卓越した政治判断だったのである。
第二章:天下統一の最終章 ― 奥州仕置と九戸政実の蜂起
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、名実ともに関東を平定した。その目は、残された最後の未開の地、奥州へと向けられた。秀吉は直ちに「奥州仕置」に着手し、小田原に参陣した大名の所領は安堵する一方、参陣しなかった大名は容赦なく改易するという強硬策を打ち出した 10 。さらに、徹底した検地(太閤検地)、城割り(支城の破却)、刀狩りなどが強行され、奥州の伝統的な支配体制は、中央政権の論理によって根底から覆されることとなった 10 。
南部信直は、八戸政栄の助言もあり、いち早く秀吉への臣従を決断し小田原に参陣したため、糠部郡など広大な所領を安堵された。これにより、信直は豊臣政権の公的な承認を得た、南部氏唯一の当主として位置づけられることになった。しかし、この決定は、南部氏随一の実力者をもって自負していた九戸政実にとって、到底受け入れられるものではなかった 10 。自らの武功と家格を無視され、長年対立してきた信直の下位に組み込まれることは、政実の誇りを著しく傷つけた。
奥州仕置の強引な手法は、各地で在地領主や農民の激しい反発を招き、大規模な一揆が頻発した。この混乱を好機と見た九戸政実は、天正十九年(1591年)3月、ついに五千と号する兵を挙げ、公然と信直と豊臣政権に反旗を翻した 10 。
政実の軍勢は精強であり、挙兵するや否や、南部信直方の苫米地城、伝法寺城、一戸城といった支城を次々と攻略し、その勢いは三戸城に迫るかに見えた 10 。信直は必死に防戦するも、家中には政実の武威を恐れて日和見する者も多く、独力での鎮圧は困難を極めた 11 。窮地に陥った信直は、最後の望みを託し、豊臣秀吉に救援を要請した 10 。天下統一の総仕上げと位置づける奥州で起きた大規模な反乱に対し、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将とする、6万とも言われる「奥州再仕置軍」の派遣を即座に決定したのである 7 。
第三章:忠義の刃、北天を薙ぐ ― 八戸政栄の決断と島守館攻略戦
中央からの再仕置軍の到着を待っていては、南部領の戦況は覆いがたいものになる。三戸の南部信直が九戸政実の攻勢によって危機に瀕しているとの報は、直ちに八戸の根城にもたらされた。この時、八戸政栄が下した決断は、籠城による自領の保全ではなく、積極的な打って出る攻勢であった。彼の視線は、九戸方に与し、根城と三戸城の中間に位置する戦略的要衝、島守館に向けられていた。
3.1 開戦前夜:根城の軍議と戦略目標
天正十九年春、根城の主殿では、当主・八戸政栄を中心に重臣たちが集まり、軍議が開かれていたと推察される。議題は、九戸政実の蜂起にどう対処すべきか。政栄の選択肢は、大きく三つあった。第一に、九戸方に与すること。第二に、中立を保ち日和見すること。そして第三に、従来通り信直を支援し、九戸方と戦うことである。
政栄が選んだのは、迷うことなく第三の道であった。しかし、単に信直に援軍を送るだけでは不十分であった。九戸方の勢力は南部領内に点在しており、中でも島守館の存在は看過できない脅威であった。島守館は、現在の青森県八戸市南郷地区に位置し、根城と三戸城を結ぶ経路上にあり、また九戸城にも近い 4 。この地を九戸方に押さえられていることは、信直と政栄の連携を分断し、八戸勢の背後を常に脅かす匕首を突きつけられているに等しかった。
したがって、豊臣の本隊が北上してくるのを待つのではなく、先んじてこの島守館を制圧し、後背地の安全を確保することこそが、来るべき決戦に備える上での最優先事項であった。政栄の戦略目標は、島守館の無力化に定められた。根城は、もはや単なる防御拠点ではなく、来るべき制圧作戦のための**「前線作戦基地 (Forward Operating Base)」**としての役割を担うことになったのである。
3.2 敵将の肖像:島守安芸とは何者か
攻略目標となった島守館の城主は、島守安芸であった。彼は南部氏の一族で、四戸氏の庶流から分かれた家系と伝えられている 3 。その実名は不明な点が多く、謎に包まれた部分もあるが、島守の地を領する在地領主として一定の勢力を持っていたことは間違いない 20 。
彼が、南部宗家の信直ではなく、九戸政実に与した理由は複数考えられる。第一に、地理的に九戸領に近接していたこと。第二に、南部一族最強と謳われた政実の武威に魅せられ、あるいは屈した可能性。そして第三に、信直の宗家継承に不満を持つ在地領主の一人であった可能性である。いずれにせよ、彼の決断は、自らの運命を、そして島守館の運命を、九戸政実と共にするものとなった。
3.3 攻略戦のリアルタイム再現(天正19年5月頃と推定)
九戸政実の挙兵が3月であり、豊臣の再仕置軍が本格的に北上を開始するのが夏以降であることから、八戸政栄による島守館攻略は、その間の天正十九年5月頃に行われたと推定される。
出陣
早朝、夜霧が晴れやらぬ中、八戸根城の大手門が開き、鬨の声とともに八戸政栄率いる軍勢が出陣した。兵力は数百から千程度と推測されるが、彼らは長年の実戦経験を持つ精鋭であった。鎧兜を固め、槍や旗指物を林立させた一団は、一路、南西の島守を目指して進軍を開始した。
包囲
進軍経路は、現在の新井田川に沿う街道であっただろう。数時間の行軍の後、八戸勢の眼前に島守盆地が広がった。島守館は、盆地を見下ろす南東に伸びた台地の先端に築かれた天然の要害であった 19。政栄は直ちに兵を展開させ、館への道を完全に封鎖し、包囲網を完成させた。
攻防
しかし、八戸勢が対峙したのは、もぬけの殻に近い城であった。城主である島守安芸は、主だった兵を率いて既に九戸城に入城しており、館には少数の守備兵しか残されていなかったのである 4。とはいえ、島守館は台地の急崖と、背後を守る深い空堀によって守られており、容易な攻略を許さなかった 4。
政栄は攻撃を命じた。鬨の声が上がり、八戸勢が空堀を越え、城内へとなだれ込む。館に残された守備兵たちは必死に抵抗するが、多勢に無勢であった。八戸勢の猛攻の前に、館の各所で白兵戦が繰り広げられる。矢が飛び交い、刀槍が打ち合う金属音が丘陵に響き渡った。
陥落
数刻にわたる激しい戦闘の末、ついに島守館は陥落した。八戸政栄の軍勢は館の主郭部を制圧し、勝利の旗を掲げた。この迅速な勝利は、政栄の卓越した指揮能力と、八戸勢の士気の高さを示すものであった。
敗走
この戦闘で生き残った島守館の守備兵たちは、城を脱出し、北方の麦沢村(現在の青森県三戸郡南部町麦沢)方面へと落ち延びたと伝えられている 3。この敗走兵たちが各地で島守姓を名乗ったという伝承は、この戦いが地域社会に与えた影響の大きさを物語っている 20。
この島守館攻略は、単なる一つの支城を落とした以上の、極めて大きな戦略的意義を持っていた。これにより、八戸政栄は三戸城の信直との連携を確固たるものにし、自らの背後の安全を確保した。豊臣の巨大な軍団が到着する前に、自らの判断で領内の反信直勢力を掃討し、来るべき決戦に向けた「地ならし」を完了させたのである。彼のこの先見性ある行動なくして、その後の九戸城包囲戦は、より困難なものになっていた可能性は否定できない。
第四章:天下軍の進撃と九戸城の終焉
八戸政栄が島守館を攻略し、南部領内の地盤を固めていた頃、中央では豊臣秀次を総大将とする6万余の「奥州再仕置軍」が編成され、破竹の勢いで北進していた 10 。この軍勢には、会津の蒲生氏郷、豊臣子飼いの浅野長政、徳川家康の重臣である井伊直政など、当代一流の武将たちが名を連ねており、その威容は奥州の地を震撼させた 7 。
再仕置軍は、道中の反豊臣一揆をことごとく鎮圧しながら北上し、8月下旬には南部領の入り口に到達した。8月23日には、九戸方の将・小鳥谷摂津守がわずか50名の兵で仕置軍に奇襲をかけ、一矢を報いるという出来事もあったが、大勢には影響しなかった 7 。
そして、運命の9月が訪れる。
9月1日:前哨戦
再仕置軍は、九戸城の前衛拠点である姉帯城と根反城に猛攻を仕掛けた。姉帯城では、城主の姉帯兼興・兼信兄弟が城から討って出て奮戦するも、衆寡敵せず討ち死にするなど、激しい戦闘が繰り広げられた 22。一日でこの二つの重要拠点が陥落したことで、九戸城は完全に裸にされることとなった 7。
9月2日:九戸城包囲
前哨戦を制した再仕置軍は、翌日には九戸城(岩手県二戸市)に到達し、総勢6万の兵力で城を完全に包囲した。対する九戸方の籠城兵は約5千 14。兵力差は10倍以上であったが、九戸城は馬淵川と白鳥川に挟まれた天然の要害であり、深い堀と切り立った土塁に守られた難攻不落の城であった 10。九戸政実に率いられた籠城兵は、圧倒的な兵力差にも臆することなく、果敢に防戦し、仕置軍に多大な損害を与えた。
9月4日:偽りの和睦と終焉
城の堅固さと九戸勢の頑強な抵抗に、攻めあぐねた蒲生氏郷ら仕置軍の首脳は、武力による攻略から謀略へと戦術を転換した 10。彼らは、九戸氏の菩提寺である長興寺の僧侶・薩天を使者として城内に送り込み、降伏を勧告した 12。その内容は、政実の武勇を称え、城兵、特に女子供の生命を保証することを条件に城を明け渡すよう説得するものであった 14。
数日にわたる攻防で疲弊し、もはや勝ち目がないことを悟った九戸政実は、城兵たちの助命という条件を信じ、この降伏勧告を受け入れることを決断した 17 。9月4日、政実は髪を剃り、白装束の姿で城を出て、豊臣秀次の陣へと投降した 12 。
しかし、これは偽りの和睦であった。約束は反故にされ、政実をはじめ、彼と共に九戸城に籠っていた島守安芸を含む主だった武将たちは、弁明の機会も与えられぬまま、栗原郡三迫(宮城県栗原市)の陣中にて斬首された 4 。さらに、主を失った九戸城内では、残された兵士やその家族、女子供に至るまでが二の丸に押し込められ、撫で斬りにされるという凄惨な殺戮が行われたと伝えられている 10 。この悲劇によって、戦国大名としての九戸氏は完全に滅亡した。
表2:九戸の乱と島守館攻略戦 詳細年表
年月日(天正19年) |
出来事 |
概要 |
3月13日 |
九戸政実、挙兵 |
南部信直および豊臣政権に対し、5千の兵で反乱を開始。南部方の諸城を攻撃 7 。 |
5月頃(推定) |
島守館攻略戦 |
八戸政栄が根城から出陣。九戸方に与した島守安芸の居城・島守館を攻撃し、陥落させる 4 。 |
6月 |
奥州再仕置軍、編成 |
豊臣秀次を総大将とする6万余の大軍が編成され、奥州へ向けて進発 10 。 |
8月23日 |
美濃木沢の戦い(緒戦) |
九戸方の小鳥谷摂津守が、仕置軍に奇襲をかけ損害を与える 7 。 |
9月1日 |
姉帯城・根反城の陥落 |
九戸城の前哨基地である両城が、仕置軍の猛攻により一日で陥落 7 。 |
9月2日 |
九戸城包囲戦 開始 |
総勢6万の仕置軍が九戸城を完全に包囲。激しい攻防戦が始まる 7 。 |
9月4日 |
九戸城開城・乱の終結 |
仕置軍の謀略による降伏勧告を政実が受諾し、開城。しかし約束は反故にされ、政実らは処刑される 14 。 |
終章:戦後の秩序と八戸氏の未来 ― 最後の戦乱が遺したもの
九戸政実の乱の鎮圧は、単に一地方の反乱が終結した以上の、重い歴史的意義を持っていた。この戦いを最後に、豊臣政権に対する組織的な武力抵抗は終息し、秀吉による天下統一事業は名実ともに完成したのである 7 。北奥羽の地は、戦国の動乱から近世の秩序へと、大きくその姿を変えていくことになった。
戦後、南部信直は豊臣政権から正式に南部氏の当主として認められ、九戸氏の旧領を併合することで、その支配権を盤石なものとした。蒲生氏郷らの勧めもあり、信直は本拠地を伝統的な三戸城から、氏郷が改修した九戸城へと移し、名を「福岡城」と改めた 7 。これは、南部氏が中世的な一族連合体から、集権的な支配体制を持つ近世大名へと脱皮する上で、極めて大きな画期となった。後の盛岡城築城と盛岡藩の成立は、この九戸の乱の戦後処理から始まっているのである 7 。
一方で、この激動の時代を巧みに、そして忠実に生き抜いた八戸氏の地位もまた、確固たるものとなった。当主・八戸政栄の、家督争いの時代から一貫して信直を支え続けた忠誠心と、九戸の乱における島守館攻略などの具体的な軍功は、南部宗家から絶大な信頼を勝ち取った。その結果、八戸(根城)南部氏は、新たに成立する盛岡藩において、筆頭家老格としての地位を不動のものとし、幕末まで続くこととなる。政栄の卓越した戦略的判断は、南部宗家の存続と自家の安泰を両立させるという、最良の結果をもたらしたのである。
結論として、本報告書が「八戸根城の戦い」と再定義した、八戸政栄主導による一連の軍事行動は、決して局地的な戦闘に留まるものではなかった。それは、
- 数十年にわたる南部氏内部の権力闘争に終止符を打つ、最終決着の一幕であったこと。
- 豊臣政権による全国統一という、日本史的スケールの事業を完遂させるための、最後の戦いであったこと。
- 近世大名・盛岡南部藩の権力基盤を確立する上で、不可欠な地ならしであったこと。
という、三つの重層的な歴史的意義を持つ、極めて重要な出来事であったと結論付けられる。根城の城主が下した決断と、その刃が薙いだ道は、北奥の地の新たな時代の幕開けを告げるものであった。
引用文献
- 【第一回】 八戸藩の誕生 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/somuka/hachinoheshinoshokai/1/1/2348.html
- 【日本100名城・根城(青森県)】北東北の名門が駿馬で駆けた南北朝時代以来300年の城 https://shirobito.jp/article/1237
- 島守氏と南部一族 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nanbu1.htm
- 陸奥 島守館-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/shimamori-date/
- 武家家伝_八戸氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hakii_k.html
- 九戸政実とは 秀吉の奥州征伐に挑む反骨の武将 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kunohemasazane.html
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- 南部信直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4
- 武家家伝_九戸氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/9he_k.html
- 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2318
- 「南部信直」南部家中興の祖は、先代殺しの謀反人!? 庶流ながら宗家を継いだ名君 https://sengoku-his.com/470
- 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
- 八戸に根城を築いた根城南部氏 - 青森歴史街道探訪|津軽と南部の歴史 http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_na/08.html
- 九戸城跡 - 二戸市 https://www.city.ninohe.lg.jp/Link/Pdf/213
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- 武家家伝_南部氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nanbu_k.html
- 島守館 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-922.html
- 島守安芸の供養祭10月開催へ(「デーリー東北新聞社」様記事より) | 戦国魂ブログ https://sengokudama.jugem.jp/?eid=938
- 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
- 九戸政実ガイドブック - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/053/589/guidebook.pdf
- 二戸市埋蔵文化財センター https://www.ninohe-kanko.com/archive/kunohejouato.pdf