最終更新日 2025-09-04

出石城の戦い(1580)

天正八年、羽柴秀長率いる織田軍は但馬へ侵攻。名門山名氏の有子山城を半月で落とし、山名氏の支配を終焉させた。但馬は織田の支配下となり、中国攻めの拠点となった。

天正八年 但馬有子山城攻防戦詳報 ― 名門山名氏の終焉と織田権力浸透の力学 ―

序章: 天下布武の奔流、但馬へ

天正8年(1580年)、織田信長による天下統一事業は、その最終段階を迎えつつあった。同年8月、10年にも及んだ石山本願寺との protracted な戦いが終結し、信長の視線は完全に西国の雄・毛利氏へと注がれることとなる 1 。この巨大な戦略的転換の中で、中国地方への進攻ルート上に位置する但馬国は、天下の趨勢を決定づける上で極めて重要な意味を持つに至った。本報告書は、この織田政権の西進というマクロな視点と、但馬に200年間君臨した名門山名氏の滅亡というミクロな視点が交差する一点、「出石城の戦い」、すなわち有子山城の攻防戦について、その背景、詳細な戦闘経過、そして歴史的意義を多角的に解き明かすものである。

織田信長の中国攻めと但馬の戦略的価値

信長が中国方面軍総司令官に任命した羽柴秀吉は、天正5年(1577年)より播磨国へ進駐し、毛利氏との全面対決に備えていた 1 。この中国攻めにおいて、但馬国は複数の戦略的価値を有していた。第一に、山陽道と並行する形で毛利氏の勢力圏へと通じる山陰道の要衝であり、ここを制圧することは因幡・伯耆への進攻路を確保し、同時に毛利方からの反攻を未然に防ぐ緩衝地帯を設けることを意味した 1 。第二に、但馬には当時日本有数の鉱山であった生野銀山が存在し、その経済的価値は織田軍の軍資金を潤す上で計り知れない魅力を持っていた 3 。秀吉にとって但馬の平定は、中国攻めを完遂するための不可欠な布石であった。

本報告書では、まず戦いの前提となる但馬山名氏の衰退と、織田・毛利という二大勢力に挟まれた苦境を分析する。次に、利用者からの要請である「合戦中のリアルタイムな状態」を再現すべく、羽柴秀長の電撃的な但馬侵攻から有子山城の落城までを時系列に沿って詳述する。最後に、戦後処理と新秩序の形成過程を追い、この戦いが但馬、ひいては戦国時代の終焉に与えた影響を考察する。


【表1】主要関係者一覧

勢力

人物名

役職・立場

備考

織田方

織田信長

天下人

中国攻めの最高司令官。

羽柴秀吉

中国方面軍 総司令官

播磨姫路城を本拠とし、全体の指揮を執る。

羽柴秀長

但馬侵攻軍 指揮官

秀吉の弟。冷静沈着な指揮で但馬平定を主導。

藤堂高虎

秀長配下の部将

後の築城の名手。この戦いでも活躍したとされる。

山名方

山名祐豊

但馬守護、有子山城主

名門山名氏の当主。二大勢力の間で苦悩する。

山名堯熙

祐豊の三男

氏政とも。父と共に籠城し、後に城を脱出。

太田垣輝延

山名四天王、竹田城主

親毛利派の重臣。その動向が織田の介入を招く。

毛利方

毛利輝元

毛利家当主

織田信長と西日本を二分する大大名。

吉川元春

毛利両川

毛利家の重鎮。山陰方面の軍事を担当。


第一章: 斜陽の名門 ― 挟撃される但馬山名氏

天正8年の有子山城攻防戦は、突発的な軍事衝突ではなかった。それは、名門守護大名・山名氏が長年にわたり抱えてきた統治能力の低下、外交戦略の破綻、そして家中の内部分裂が招いた、いわば必然的な結末であった。

「六分の一殿」の栄光と没落

山名氏は室町時代、一時は全国66ヶ国のうち11ヶ国の守護を兼ね、「六分の一殿」と称されるほどの権勢を誇った名門であった 5 。応仁の乱では西軍の総大将として山名宗全がその名を轟かせたが、この大乱を境に山名氏の勢力は急速に衰退し、戦国時代には但馬一国を維持することさえ困難な状況に陥っていた 6 。中央の権威が失墜し、実力主義が支配する時代の中で、旧来の守護大名という権威はもはや絶対的なものではなくなっていたのである。

当主・山名祐豊の苦悩と外交戦略

この斜陽の名門を率いたのが、最後の但馬守護・山名祐豊であった 3 。彼の治世は、東から急速に勢力を拡大する織田信長と、西に盤踞する中国地方の覇者・毛利輝元という、二つの巨大勢力に挟撃されるという絶望的な状況下にあった。祐豊はどちらの勢力に与するべきか明確な態度を示せず、その優柔不断な姿勢は家中の深刻な分裂を招いた 8

この内部分裂を象徴する事件が、天正3年(1575年)に発生する。山名四天王と称された重臣の一人、竹田城主・太田垣輝延が、祐豊に無断で毛利方の吉川元春と単独で和議を結んだのである 9 。山名氏はこれを独力で鎮圧できず、信長に救援を求める事態となった。この一件は、山名氏の統制力が完全に失われていることを内外に露呈すると同時に、信長に「但馬は毛利に通じている」という不信感を抱かせ、軍事介入の格好の口実を与える結果となった。祐豊の苦悩は、個人の資質の問題に留まらず、室町時代的な守護大名という旧来の権力構造が、信長に代表される中央集権的な新しい時代の権力力学に適応できなかった悲劇そのものであった。

第一次侵攻の屈辱と有子山城築城

織田軍による本格的な侵攻以前の永禄12年(1569年)、秀吉は一度目の但馬侵攻を敢行し、山名氏の本拠地であった此隅山城をわずか10日間で攻略した 11 。城を追われた祐豊は和泉国堺へ逃れ、豪商・今井宗久の仲介を得て信長に臣従することで、辛うじて但馬への帰国を許されるという屈辱を味わった 3

この手痛い経験が、祐豊により堅固な新拠点の必要性を痛感させた。彼は帰国後、従来の此隅山城を放棄し、その背後にそびえる有子山に新たな城の築城を開始する 8 。旧来の城名「此隅(このすみ)」が「子盗み」に通じることを忌み嫌い、子宝に恵まれなかった後継者・堯熙(氏政)のために「有子山城」と命名したという逸話は、この新城に一族の再興をかけた祐豊の悲痛な願いを物語っている 9 。しかし、この城は山名氏再興の拠点となるどころか、旧時代の権威が最後に立てこもる、時代の流れから取り残された砦となる運命にあった。

第二章: 但馬侵攻、開始 ― 羽柴秀長の電撃戦

天正8年、播磨を完全に手中に収めた羽柴秀吉は、ついに但馬平定へと乗り出す。その実質的な指揮は、兄の厚い信頼を受ける弟・羽柴秀長に委ねられた。後に「大和大納言」と称され、温厚篤実にして優れた為政者として知られる秀長だが、この但馬侵攻においては、冷徹かつ迅速な電撃戦を展開し、旧来の秩序を容赦なく破壊していく。

天正8年(1580年)1月~3月:戦いの序曲

但馬侵攻の直接的な号砲となったのは、天正8年1月17日の播磨・三木城の陥落であった 1 。2年近くに及んだ「三木の干殺し」と呼ばれる壮絶な兵糧攻めの末、別所長治を滅ぼしたことで、秀吉は後顧の憂いを完全に断ち切った。播磨を平定した秀吉は、中国攻めの司令部を姫路城に置き、自身は全体の指揮に専念する 18 。そして、但馬方面軍の指揮官として、最も信頼する弟・羽柴秀長を指名した 4 。秀長の軍には、後に築城の名手としてその名を天下に轟かせることになる藤堂高虎といった有能な部将たちが付き従っていた 9 。但馬国人衆にとって、刻一刻と迫る織田の大軍は、まさに破滅の足音そのものであった。

天正8年4月:侵攻開始、南但馬の激震

4月、ついに秀長率いる織田軍は姫路城を出発し、播磨・但馬国境を越えて侵攻を開始した 22 。その進軍速度は、但馬の国人たちの想像を絶するものであった。

秀長軍がまず目標としたのは、但馬南部の要衝であり、生野銀山を抑える上で戦略的にも経済的にも極めて重要な拠点、岩洲城と竹田城であった 4 。岩洲城は瞬く間に攻略され、続いて秀長軍は山名四天王・太田垣輝延が守る竹田城へと殺到した。竹田城は標高353.7メートルの古城山山頂に築かれた、高山険阻な要害であった 23 。『武功夜話』によれば、太田垣勢は岩石を投げ落とすなどして激しく抵抗したとされるが、秀長軍の圧倒的な兵力の前に抗しきれず、わずか3日間の激闘の末に落城した 4

この南但馬の二大拠点の電撃的な陥落は、周辺の国人衆に絶望的な衝撃を与えた。但馬の南の門が完全に破壊されたことを悟った八木豊信をはじめとする国人たちは、戦意を喪失し、雪崩を打って秀長軍に降伏した 22 。これにより、山名氏の本拠地・有子山城は南からの防御線を完全に失い、裸同然の姿で織田の大軍と対峙することを余儀なくされたのである。

天正8年5月:出石包囲と名門の最期

南但馬を瞬く間に制圧した秀長軍は、進路を北に取り、山名氏の本拠地である出石盆地へと進軍した。5月上旬には、有子山城を眼前に望む地に本陣を構え、完全な包囲網を完成させた。

標高321メートルに位置する有子山城は、祐豊が再起をかけて築いた最新鋭の山城であった 25 。主郭(本丸)を中心に階段状に連なる曲輪群が配置され、要所は石垣で固められていた 26 。城主・山名祐豊とその後継者・堯熙の父子は、残された兵力を結集し、この城に籠って最後の抵抗を試みた 9 。しかし、城内の状況は絶望的であった。南部の諸城があまりにも速く陥落したことで兵の士気は著しく低下し、何より城主である祐豊自身が当時70歳という高齢で、すでに病の床に就いていたと伝えられている 3

秀長は、堅固な山城を力攻めにする愚を避け、兵糧攻めと降伏勧告を主軸とした攻城戦を展開したと推測される。圧倒的な兵力で包囲し、補給路を完全に遮断することで、城内の士気を削いでいく。藤堂高虎のような知略に長けた武将が、城内への調略や心理戦を仕掛けた可能性も高い 21

抵抗は長くは続かなかった。圧倒的な兵力差、援軍の絶望、そして城主の病状悪化という複合的な要因により、籠城戦はわずか半月ほどで決着し、5月中に有子山城は開城した 9 。落城の瞬間、後継者の堯熙は再起を期してか、城を脱出し因幡方面へと逃れた 16 。一方、病床の祐豊は城内に留まり、織田軍に城を明け渡した。この瞬間、南北朝時代から約200年にわたり但馬に君臨した名門・山名氏の支配は、事実上、終焉を迎えたのである 30


【表2】天正8年 但馬侵攻 時系列表

時期

織田軍(羽柴秀長)の動向

山名方・但馬国人衆の動向

戦略的意味

1月17日

播磨・三木城を陥落させる。

(播磨別所氏滅亡)

播磨平定完了。但馬侵攻への準備が整う。

4月上旬

姫路城を出陣し、但馬へ侵攻開始。

織田軍の侵攻に動揺。

但馬平定作戦の開始。

4月中旬

岩洲城、竹田城を相次いで攻略。

太田垣輝延らが激しく抵抗するも敗北。

但馬南部の要衝を制圧。生野銀山を確保。

4月下旬

南但馬の国人衆が続々と降伏。

八木豊信らが降伏。戦意を喪失。

有子山城の孤立化が決定的に。

5月上旬

出石盆地へ進軍。有子山城を包囲。

山名祐豊・堯熙父子が籠城を決意。

山名氏本拠地への最終攻撃開始。

5月中旬

兵糧攻め、降伏勧告を中心に圧力をかける。

籠城するも士気は低く、城主は病床に。

物理的・心理的な消耗戦。

5月下旬

有子山城が開城・落城。

堯熙は因幡へ脱出。祐豊は城を明け渡す。

但馬平定の完了。名門山名氏の事実上の滅亡。

5月21日

(戦後処理を開始)

山名祐豊が落城から5日後に死去。

但馬における山名氏の支配の完全な終焉。


第三章: 戦後処理と新秩序の胎動

有子山城の落城は、単なる軍事作戦の終結ではなかった。それは、但馬における中世的秩序の完全な解体と、織田・豊臣政権による近世的な支配体制への再編という、新たな時代の始まりを告げるものであった。秀吉と秀長が展開した戦後処理は、その後の豊臣政権の地方支配モデルの雛形とも言える、徹底したものであった。

山名祐豊の最期

有子山城が開城してからわずか5日後の天正8年5月21日、山名祐豊はその波乱の生涯を閉じた 3 。享年70。自刃したとの説もあるが、籠城中の心労と高齢による病死であったというのが通説である 8 。200年にわたり但馬を治めた名門の当主として、その最期はあまりにも静かで寂しいものであった。彼の死は、守護大名という旧時代の権威が、天下統一という新しい時代の奔流の前に為すすべもなく消え去っていく様を象徴していた。

但馬の新支配体制

但馬を平定した秀吉は、その統治を最も信頼する弟・秀長に委ねた。秀長は但馬平定の功により、但馬7郡10万5千石の領主として有子山城主となり、この地の新たな支配者となった 4 。秀長は、戦乱の時代には有効であったが平時の統治には不便な山頂の城郭ではなく、山麓に新たな居館を整備し、ここを政治の中心とした 9 。これが、後の近世城郭・出石城の直接的な原型となる。この城郭機能の移行は、時代が「戦い」から「統治」へと移り変わったことを明確に示している。

秀吉の統治政策と国人衆への処遇

秀吉は但馬平定後、直ちに領内へ禁制を発布し、占領軍による乱暴狼藉や放火を厳しく禁じ、民心の安定と治安維持に努めた 32 。一方で、旧支配層である国人衆に対しては、極めて厳しい処遇を下した。降伏した但馬国人衆のほとんどは、先祖代々の所領を没収された 22 。彼らは土地との結びつきという経済的・精神的基盤を奪われ、完全に織田軍の指揮下に組み込まれた。そして、その武力は、次の攻略目標である因幡国へと向けられた。これは、中世的な土豪連合体制を解体し、彼らを大名の家臣団という近世的な軍事組織の「部品」として再利用する、合理的かつ徹底した政策であった。

ただし、秀吉は単に弾圧するだけではなかった。垣屋豊続のように、その能力を高く評価した人物に対しては、「役に立たれるべき身の上」として所領の一部を安堵するなど、優遇措置を講じている 22 。この飴と鞭を巧みに使い分ける手法は、旧勢力を分断し、新体制への抵抗を削ぐ上で大きな効果を発揮した。

因幡侵攻への布石

但馬の完全平定は、織田軍の中国攻め全体図において、決定的な意味を持っていた。これにより、毛利領の因幡国へ直接侵攻するための確固たる前線基地が確保されたのである 33 。事実、有子山城が落城した翌月の6月には、秀吉軍は早くも第一次鳥取城攻めを開始している 21 。但馬平定から因幡侵攻への間断なき流れは、この戦いが秀吉の壮大な戦略の一部として、いかに計画的に遂行されたかを物語っている。有子山城の落城は、但馬一国の終焉であると同時に、山陰地方全体を巻き込む、より大きな戦いの序章に過ぎなかったのである。

終章: 有子山城落城の歴史的意義

天正8年(1580年)の有子山城落城は、単なる一地方における城の陥落という事象に留まらない。それは、但馬国の政治・社会構造を根底から覆し、戦国時代の終焉と近世社会の到来を象徴する、多層的な歴史的意義を持つ一大転換点であった。

但馬山名氏支配の終焉

最大の意義は、南北朝時代から約200年という長きにわたり但馬国を支配してきた守護大名・山名氏が、大名としての歴史に完全に終止符を打ったことである 7 。城を脱出した山名堯熙は、後に秀吉に仕え、馬廻衆の一人として2,000石の小領主となり家名を存続させることには成功する 36 。しかし、それはもはや独立した領主としてではなく、豊臣政権という巨大な中央権力に組み込まれた一介の家臣としての存続に過ぎなかった。かつて「六分の一殿」と謳われた名門の権威は、有子山城の煙と共に消え去ったのである。

中央権力による地方支配体制への転換

山名氏の滅亡は、但馬における支配者の交代のみならず、支配構造そのものの変質を意味した。地域に深く根差した旧来の権力であった山名氏が排除され、その代わりに織田・豊臣という中央権力から直接派遣された領主(羽柴秀長、前野長康、小出氏など)が統治する体制へと移行した 7 。これは、但馬国が独立性の高い「国」から、統一国家体制に組み込まれた一「地方」へと再編されたことを示している。太閤検地や兵農分離といった、後に豊臣政権が全国で推し進める近世的な統治政策が、但馬にも導入される基盤がここに築かれたのである 32

「戦う城」から「治める城」へ ― 時代の象徴として

有子山城の落城がもたらしたもう一つの象徴的な変化は、城郭の機能そのものの変遷である。戦いの後、しばらくは有子山城が但馬支配の拠点として使用されたが、世の中が安定に向かうにつれて、統治や経済活動に不便な険しい山城は次第にその役割を終えていく 41 。慶長9年(1604年)、城主となった小出吉英は、有子山城を廃城とし、その麓に平山城としての出石城を新たに築き、城下町を整備した 9

この山頂の「戦うための城」から、山麓の「治めるための城」への移行は、時代が「常在戦場」の戦国乱世から、「統治と経済」を重視する近世へと大きく舵を切ったことを物語る、極めて重要な歴史的転換点である。有子山城に残る古式の野面積みの石垣と、後の出石城に見られる整然とした算木積みの石垣の技術的な差異は、この時代の変化を雄弁に物語る物証と言えるだろう 26

結論:但馬再編の節目として

結論として、天正8年の有子山城の戦いは、単に「但馬再編の節目となる落城」という言葉に集約される以上の、深い歴史的意味を持つ。それは、①但馬の政治的支配者の交代、②中央集権体制への編入、③社会経済構造の近世化、④城郭機能の変遷という、四つの大きな転換を同時に引き起こした。この戦いは、名門山名氏の悲劇的な終焉であると同時に、但馬国が中世の殻を破り、近世日本の新たな一員として生まれ変わるための、避けられない産みの苦しみであった。有子山城の落城は、戦国時代の終焉を告げる数多の出来事の中でも、その本質を凝縮した一つの縮図として、後世に記憶されるべきである。

引用文献

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