最終更新日 2025-09-01

出雲・神西湖口の戦い(1562)

永禄五年、毛利元就は神西湖口を制圧し、尼子氏の神西城を孤立させ陥落。周到な調略と兵站戦略が功を奏し、尼子氏滅亡への決定的な一歩となった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

永禄五年 出雲侵攻序盤戦 ― 神西湖周辺域における毛利・尼子の戦略的攻防 ―

序章:戦雲、出雲へ

永禄五年(1562年)、中国地方の勢力図は、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利氏が、西国の覇者へと変貌を遂げる大きな転換点にあった。この年、毛利元就が開始した出雲侵"攻は、長きにわたる宿敵・尼子氏との最終決戦の幕開けを告げるものであった。その序盤において、出雲西部の神西湖周辺で繰り広げられた攻防は、大規模な会戦こそ記録されていないものの、毛利の周到な戦略と尼子の苦境を象徴する、極めて重要な軍事行動であった。本稿は、この「神西湖周辺域の攻防」を、その戦略的背景から戦術的展開、そして歴史的意義に至るまで、時系列に沿って詳細に解き明かすものである。

永禄五年(1562年)に至る中国地方の勢力図

天文二十四年(1555年)の厳島の戦いにおける劇的な勝利は、毛利氏の運命を決定づけた。この一戦で大内氏の重臣・陶晴賢を討ち取った元就は、返す刀で弘治三年(1557年)までに大内義長を自刃に追い込み、その旧領である周防・長門二国を完全に併呑した 1 。これにより、毛利氏は山陽地方の大半を掌握する巨大勢力へと飛躍したのである。

次なる目標は、山陰に覇を唱える尼子氏の討滅であった。尼子氏は、かつて経久・晴久の代には山陰・山陽十一州に影響力を及ぼすほどの威勢を誇った 2 。しかし、天文九年(1540年)の吉田郡山城攻めの失敗以降、その勢威には陰りが見え始めていた 3 。さらに、天文二十三年(1554年)に尼子晴久が精鋭であった一族の新宮党を粛清した事件は、尼子家中に深刻な亀裂と動揺をもたらし、国人領主たちの求心力を著しく低下させていた 4 。永禄三年(1560年)末に当主・晴久が急逝し、若年の義久が跡を継ぐと、その支配体制の脆弱性は一層顕著となった 5

両者の角逐の舞台となったのが、莫大な富を生む石見銀山であった。この銀山を巡る争奪戦は長年にわたり続いたが、永禄年間に入る頃には毛利氏が優勢となり、その支配を固めつつあった 1

開戦の直接的引き金 ―「雲芸和睦」の破綻

永禄二年(1559年)頃、室町幕府十三代将軍・足利義輝の仲介により、毛利元就と尼子晴久の間には一時的な和睦(雲芸和睦)が成立していた。しかし、この和睦は両者の根本的な対立を解消するものではなく、極めて不安定なものであった。

均衡が破られたのは、永禄四年(1561年)十一月のことである。尼子方の石見国人・福屋隆兼が、毛利方に与していた福光城を攻撃したのである 4 。毛利元就はこの行動を和睦違反とみなし、即座に和睦の破棄を宣言した。これが、尼子氏討滅という年来の宿願を果たすための、絶好の大義名分となった。元就にとって、この事件は単なる局地的な紛争ではなく、出雲侵攻を開始するための「待望の口実」であった。

石見平定と本城常光の降伏 ― 出雲侵攻の地ならし

和睦破棄を宣言した毛利氏は、直ちに行動を開始した。まず、尼子方の石見における残存勢力の一掃に取り掛かった。福屋隆兼の音明城を攻略して隆兼を敗走させ、同じく尼子方の重臣であった多胡辰敬をも討ち取った 4

そして、永禄五年(1562年)六月、出雲侵攻の帰趨を左右する決定的な出来事が起こる。石見銀山の押さえであり、尼子方の石見における最重要拠点・山吹城を守る猛将・本城常光が、毛利氏に降伏したのである 4 。常光は、かつて毛利軍の攻撃を幾度も撃退した難攻不落の城将であったが、尼子本家の支援が期待できず、毛利の圧倒的な圧力の前に屈した 6

この本城常光の降伏は、単に一城が落ちた以上の意味を持っていた。これにより、石見国内の尼子方勢力は完全に瓦解し、毛利氏は西側から出雲へ侵攻するための盤石な後方基地と、石見銀山という巨大な財源を完全に手中に収めたのである 1 。もはや、元就の眼前に出雲への道を開くことを阻むものはなかった。厳島の戦い以降、七年に及ぶ周到な戦略の末、ついに尼子氏の喉元に刃を突きつける準備が完了したのである。


【表1】永禄五年 出雲侵攻 序盤戦 主要関連年表

年月

出来事

戦略的意義

永禄4年(1561)11月

尼子方の福屋隆兼が毛利方の城を攻撃。毛利元就、これを口実に「雲芸和睦」を破棄 4

出雲侵攻の直接的な引き金となり、毛利に大義名分を与えた。

永禄5年(1562)6月

石見・山吹城主の本城常光が毛利氏に降伏 4

石見の尼子方勢力が瓦解。毛利は出雲侵攻における西方の安全を確保した。

永禄5年(1562)7月3日

毛利元就、隆元・元春・隆景らと共に吉田郡山城を出陣。出雲侵攻を開始 1

尼子氏討滅に向けた本格的な軍事行動の開始。

永禄5年(1562)7月下旬

毛利軍、出雲西部の赤穴(瀬戸山城)に着陣。三沢氏・三刀屋氏ら国衆が次々と帰順 1

元就の調略が奏功し、尼子の防衛網が内側から崩壊。毛利軍は無血で進軍路を確保した。

永禄5年(1562)8月~9月

毛利軍、鳶巣城などを制圧し、出雲平野西部に展開。神西湖周辺で尼子方と対峙 4

戦線が月山富田城の西の玄関口である神西湖周辺に到達。

永禄5年(1562)9月~11月

神西湖周辺の陸路を巡り、両軍の斥候や小部隊による小競り合いが頻発(推定)。

毛利軍による兵站線遮断と、尼子軍による抵抗が続く消耗戦の様相を呈した。

永禄5年(1562)12月

毛利元就、宍道湖と中海の中間点である洗合(荒隈)に本陣城を築城 1

月山富田城と白鹿城・神西城との連携を完全に分断。神西湖周辺の攻防に事実上の決着をつけた。


第一章:戦場の地理学 ― 16世紀における出雲西部の地勢と戦略的重要性

戦国時代の合戦を理解する上で、その舞台となった土地の地理的条件を正確に把握することは不可欠である。特に、永禄五年の「神西湖周辺域の攻防」は、当時の地形が両軍の戦略・戦術に決定的な影響を与えた典型的な事例であった。

戦国時代の神西湖 ― 現代とは異なる潟湖の姿

現代の神西湖は、差海川という河川を通じて日本海と繋がる、周囲約5キロメートルの穏やかな湖である 10 。しかし、永禄五年(1562年)当時の姿は、これとは大きく異なっていた。

古代、この地域には『出雲国風土記』に「神門水海(かんどのみずうみ)」と記された広大な内湾が広がっていた 12 。斐伊川や神戸川が運ぶ土砂の堆積作用により、この内湾は徐々に埋め立てられ、その西端に残ったのが戦国時代の神西湖であった 12

ここで最も重要な点は、 現代において神西湖と日本海を結ぶ差海川は、江戸時代中期の貞享三年(1686年)に、治水と新田開発を目的として開削された人工の排水路である という事実である 12 。これは、戦国時代当時、神西湖と日本海との間には、大型の軍船が自由に出入りできるような安定した水路が存在しなかったことを意味する 12 。湖は、砂州によって海と隔てられた、半ば閉鎖的な潟湖(汽水湖)だったのである。

この地理的条件は、一般的に想起されがちな「水軍同士が湖上で激突する」といった海戦のイメージが、この攻防には当てはまらないことを示唆している。毛利水軍が湖内に侵入して尼子方の拠点を直接攻撃することも、逆に尼子水軍が湖を拠点として日本海で活動することも困難であった。したがって、この戦いの本質は、湖そのものではなく、湖の存在によって必然的に狭められた 陸上の交通路(ボトルネック)の支配権 を巡る攻防であったと理解しなければならない。

兵站線としての価値と脆弱性

神西湖の戦略的重要性は、まさにこの陸上交通路にあった。当時の出雲の幹線道路は、神西湖の北岸と南岸を沿うように走っていた 19 。湖北路と湖南路と呼ばれるこれらの街道は、西の石見国や日本海沿岸部と、尼子氏の本拠地・月山富田城がある出雲平野中心部とを結ぶ大動脈であった。

尼子氏にとって、神西湖周辺は日本海側から物資(兵糧、武具、塩、海産物など)を陸揚げし、月山富田城へと輸送するための重要な兵站線(補給路)の結節点であった 20 。特に、毛利氏によって山陽側からの交通を脅かされている状況下では、日本海航路の重要性は増す一方であった。

しかし、この兵站線は地理的に極めて脆弱であった。湖と山地に挟まれた狭い平地を通る街道は、敵軍によって容易に封鎖されうる。毛利軍にとって、この神西湖周辺の街道を制圧することは、月山富田城の生命線を断ち切るための最も効果的な手段であった。元就の狙いは、湖上での戦闘ではなく、陸路を完全に遮断することによる兵糧攻めの第一歩だったのである。

尼子十旗・神西城の役割

この戦略的要衝を防衛するため、尼子氏は神西湖の南岸、湖南路を見下ろす丘陵上に「神西城」を築いていた 6 。神西城は、尼子氏の主城である月山富田城を防衛するために配置された支城群「尼子十旗」の一つに数えられる重要な拠点であった 23

永禄五年当時の城主は、神西氏の当主・神西元通(三郎左衛門)であったと伝えられる 23 。神西氏は代々この地を治め、尼子氏の重臣として出雲西部の防衛と交通路の監視という重責を担っていた 23

毛利軍が出雲に侵攻するにあたり、この神西城は西進を阻む最初の本格的な障害であった。毛利にとって、出雲平野の中心部へ進軍し、月山富田城を包囲するためには、まずこの神西城を無力化し、神西湖周辺の交通路を完全に掌握することが絶対的な前提条件だったのである。

第二章:侵攻開始 ― 毛利軍の電撃的展開(永禄5年7月~9月)

永禄五年七月三日、万全の準備を整えた毛利元就は、嫡男・隆元、そして「毛利の両川」と称された吉川元春、小早川隆景を率いて、本拠・吉田郡山城を出陣した 1 。その総兵力は一万五千を超え、さらに道中で合流する国人衆を含めれば、二万に達したともいわれる 5 。尼子氏の命運を賭けた戦いの火蓋が、ついに切られたのである。

出陣と侵攻経路(7月3日~)

毛利軍本隊は、石見路を経由して出雲へと向かった 25 。これは、六月に本城常光が降伏したことで、石見方面の安全が完全に確保されていたからに他ならない。後顧の憂いなく、全軍を尼子領へと集中させることが可能な状況であった。

七月下旬、毛利軍は早くも出雲国西部の要衝・赤穴(現在の飯南町)にある瀬戸山城に進駐した 1 。ここを前線基地とし、出雲平野への本格的な侵攻作戦が開始された。

出雲国衆の雪崩をうった寝返り

赤穴に入った元就を待っていたのは、尼子方の激しい抵抗ではなく、出雲国人衆からの相次ぐ降伏の申し出であった。三沢城の三沢為清、三刀屋城の三刀屋久祐といった、これまで尼子氏の中核を担ってきた西出雲の有力国人領主たちが、戦わずして次々と毛利の軍門に降ったのである 1

この事態は、単に毛利の軍事力が尼子を圧倒していたことだけを意味するものではない。それは、元就が軍事行動に先立って、長年にわたり周到な調略活動を行ってきた成果であった。新宮党粛清以来、尼子家中枢への不信感を募らせていた国衆に対し、元就は所領安堵などの有利な条件を提示し、内側からの切り崩しを図っていた。

結果として、尼子氏が想定していたであろう出雲西部の防衛線は、物理的に突破される以前に、政治的に内側から崩壊した。尼子義久は、毛利軍と対峙する前に、自らの足元が崩れ去っていくのをなすすべもなく見守るしかなかったのである。

出雲西部制圧と戦線の東進(8月~9月)

西方の国衆を味方につけた毛利軍の進撃は、もはや電撃的であった。大きな戦闘を経験することなく、出雲平野の西部へと進出した。八月には、天台宗の古刹であり、大きな影響力を持つ鰐淵寺に寺領安堵の書状を送り、その保護を約束することで人心の安定を図った 4 。同時に、出雲平野の北側、北山山脈に位置する鳶ヶ巣城を制圧し、宍道氏を城主として配置した 4 。これにより、出雲平野の西半分は、事実上毛利の支配下に入った。

この侵攻の速さは、元就自身が九月に四国の三好長慶に宛てた書状からも窺い知ることができる。その中で元就は、出雲中部の国衆もほぼ味方につけたため、「尼子方の勢力は、もはや月山富田城一箇所に追い詰まったも同然である」と、戦況の圧倒的優位を伝えている 4

この時点で、毛利軍の先鋒部隊は、ついに月山富田城の西の玄関口である神西湖周辺地域に到達した。尼子方の最前線拠点である神西城は、西方の味方をすべて失い、完全に孤立した状態で、毛利の大軍を迎え撃つという絶望的な状況に置かれたのである。

第三章:神西湖口の攻防 ― 水際を巡る戦術的応酬(永禄5年9月~12月)

永禄五年秋、毛利軍の先鋒が出雲平野西端の神西湖周辺に到達したことで、出雲侵攻は新たな局面を迎えた。ここから年末にかけての約三ヶ月間、この地で繰り広げられた攻防こそが、広義の「神西湖口の戦い」の実態である。特定の日に大規模な決戦が行われたという明確な記録は存在しない。しかし、両軍の戦略目標と当時の状況から、あたかも戦場を俯瞰するかのように、そのリアルタイムな戦況を再構成することは可能である。それは、華々しい会戦ではなく、兵站と情報を巡る、地味で執拗な消耗戦の連続であった。


【表2】神西湖周辺域の攻防における両軍の推定兵力と主要指揮官

項目

毛利軍

尼子軍

総大将

毛利元就

尼子義久(月山富田城)

主要指揮官

吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家など 5

神西元通(神西城主) 23

総兵力

15,000~20,000 1

約10,000(月山富田城) 27

麾下国衆

三沢為清、三刀屋久祐、赤穴久清など、西出雲の国衆が多数帰順 1

神西城の守備兵力は数百から1,000程度と推定される。

状況

圧倒的な兵力と、周辺国衆の支持を得て、戦略的優位を確立している。

西方の味方を失い、神西城は敵中に孤立。月山富田城からの大規模な後詰は困難。


毛利軍の戦略目標:月山富田城の完全孤立化

この局面における毛利元就の戦略目標は、極めて明快であった。それは、力攻めによる神西城の短期攻略ではなく、月山富田城を完全に孤立させるための包囲網を着実に構築することにあった。そのための戦術は、二段階で構成されていた。

  • 第一段階:兵站線の完全遮断。 神西湖の南北を通る街道を物理的に封鎖し、日本海側から月山富田城へ向かう全ての物資補給を断つこと 20
  • 第二段階:情報網の分断。 神西城、そしてその先にある島根半島北岸の重要拠点・白鹿城と、月山富田城との間の使者や伝令の往来を遮断し、連携を不可能にすること 1

この戦略は、後の月山富田城本城への兵糧攻めを見据えた、元就の一貫した戦略思想の表れであった。

想定される戦況の推移(9月~11月)

この戦略目標に基づき、神西湖周辺では以下のような状況がリアルタイムで展開されていたと推測される。

  • 【状況①:対峙と牽制(9月上旬~中旬)】
    毛利軍の先鋒部隊が神西湖の西岸および南岸に陣を敷き、神西城を遠巻きに包囲する。しかし、即座に総攻撃を仕掛けることはしない。神西城は天然の要害であり、無理な力攻めは損害を増やすだけであることを元就は熟知していた。毛利軍は、砦を築き、防備を固めながら、威力偵察として小部隊を神西城の城下まで派遣し、尼子方の防備の堅さと士気を探る。これに対し、神西城を守る神西元通は、城兵を固く城内に留め、挑発には乗らず籠城の構えを徹底する。両軍の睨み合いが続き、戦場には静かな緊張が張り詰める。
  • 【状況②:補給路を巡る小競り合いの頻発(9月下旬~10月)】
    毛利軍は、主戦力を神西城の攻略ではなく、湖北・湖南両街道の封鎖に投入する。街道の要所に柵や逆茂木を設置し、通行を物理的に不可能にしていく。これに対し、尼子方は月山富田城から、あるいは日本海側から密かに物資を運び込もうと試みる。夜陰に乗じて山中の間道を行く尼子方の小荷駄隊や、救援を求める密使が、毛利軍の張り巡らせた伏兵によって発見され、散発的な戦闘が頻発する。特に、湖の船着場であったと推測される「船本」のような場所では、物資の陸揚げを巡る小規模な攻防が繰り返された可能性がある 27。これは、陣形を組んでの合戦ではなく、数名から数十名単位の部隊によるゲリラ戦であり、双方に少しずつ死傷者が出る、血生臭い消耗戦であった。
  • 【状況③:尼子方の抵抗と後詰の頓挫(11月)】
    神西城の孤立が深まる中、城主・神西元通は月山富田城の尼子義久に繰り返し救援を要請する。義久もこの危機を座視するわけにはいかず、後詰(援軍)の派遣を決断する。しかし、すでに毛利の大軍が出雲平野西部に展開しており、大規模な軍勢を神西湖まで進めることは極めて困難であった。やむなく派遣された数百名規模の先遣隊は、平野部を進軍中に毛利軍の遊撃部隊に側面を突かれ、神西城に到達することなく壊滅、あるいは撃退される。後詰失敗の報は、神西城の城兵の士気を著しく低下させ、籠城の限界が近づいていることを示唆していた。

毛利軍の決定打 ― 本陣の設営(12月)

秋が深まり、戦況が膠着するのを見た毛利元就は、この地域の攻防に終止符を打つための決定的な一手を打つ。それは、軍事力による制圧ではなく、築城による戦略的封じ込めであった。

元就は、軍をさらに東進させ、宍道湖と中海を結ぶ水陸交通の最重要拠点である**洗合(あらわい、または荒隈)**の地に、恒久的な本陣城の築城を開始したのである 1 。この地は、月山富田城の北西に位置し、島根半島(白鹿城方面)と出雲平野(月山富田城)とを繋ぐ結節点であった。

十二月、この洗合城が完成した瞬間、神西湖周辺の戦局は事実上決した。この城の存在により、毛利軍は月山富田城と、その西方に残る神西城・白鹿城といった支城群との連携を、物理的に、そして完全に分断することに成功した。神西城は、もはや救援の望みを絶たれた、敵中に浮かぶ孤島と化したのである。一連の小競り合いは、この戦略的本陣を安全に築くための地ならしであり、本陣完成をもって、元就はこの地域の攻防に「戦略的チェックメイト」を告げたのであった。

第四章:戦略的帰結と次なる戦いへの序曲

永禄五年末の洗合城築城は、神西湖周辺域における一連の軍事行動の終着点であり、同時に、尼子氏滅亡へと至る次なる戦いの序曲でもあった。この攻防は、毛利の戦略構想の中で極めて重要な意味を持つものであった。

神西湖周辺域における攻防の勝敗

戦術的な観点から見れば、九月から十一月にかけての神西湖周辺での戦いは、決定的な勝敗がつかない小競り合いの連続であったかもしれない。神西城が力攻めで陥落することはなく、神西元通は最後まで城を守り抜いた 24

しかし、戦略的な観点から見れば、その結果は毛利氏の完全な勝利であった。元就の主目的は神西城の攻略そのものではなく、兵站線の遮断と月山富田城の孤立化にあった。洗合城の完成により、この戦略目標は完璧に達成された。神西城は月山富田城との連携を完全に断たれ、戦術的には持ちこたえていても、戦略的には無力化されたも同然の状態に陥ったのである。最終的に神西元通が毛利氏に降伏するのは、月山富田城が開城した後のことであり、この時点でその運命は事実上定まっていた 23

月山富田城包囲網の完成

神西湖周辺の制圧と洗合城の築城により、毛利軍は月山富田城に対する鉄壁の包囲網の西半分を完成させた。これにより、石見方面や日本海側からの陸路による補給は完全に不可能となった 20

この時点で、尼子氏が頼ることのできる補給路は、島根半島北岸の要衝・白鹿城を拠点とする海路と、東方の中海を経由した伯耆方面からのルートのみに限定された 20 。元就の次なる狙いが、これらの残された生命線を断ち切ることに向けられるのは、必然の流れであった。

白鹿城の戦いへの布石

神西湖周辺域での勝利は、尼子氏滅亡へのドミノ倒しにおける、まさに最初の牌を倒す行為であった。この勝利がなければ、次なる大規模な作戦は不可能であった。

元就の次なる標的は、尼子十旗の筆頭とされ、日本海からの補給路を担う最重要拠点・白鹿城であった 20 。もし神西湖周辺の尼子勢力が健在であれば、毛利軍は白鹿城を攻める際に、背後(西側)の神西城からの脅威に晒されることになったであろう。しかし、神西湖周辺を完全に制圧したことで、元就は後顧の憂いなく、全戦力を白鹿城攻略に集中させることが可能となった。

永禄六年(1563年)八月から開始される白鹿城の戦いは、神西湖周辺域での戦略的勝利があったからこそ実行可能となった作戦であり、両者は分断された個別の戦いではなく、月山富田城の補給路を段階的に、そして確実に断ち切っていくという、元就の巨大な戦略構想の一部をなす、連続した軍事行動として捉えなければならない。

終章:歴史的評価

永禄五年(1562年)の「出雲・神西湖口の戦い」は、その名称から想起されるような単一の大規模な合戦ではなく、より複雑で戦略的な意味合いを持つ一連の軍事行動であった。その歴史的評価は、以下の三点に集約される。

「神西湖口の戦い」の再定義

第一に、この戦いは特定の合戦名で記憶されるべき単一の出来事ではない。それは、毛利元就による出雲侵攻作戦の序盤において、 月山富田城の生命線である西方の兵站線を巡って繰り広げられた、極めて重要な戦略的攻防段階 と定義すべきである。その本質は、地理的隘路における陸上交通路の支配権を巡る争いであり、築城によって敵の連携を断つという、元就ならではの戦術が際立った局面であった。

毛利元就の戦略思想の体現

第二に、この一連の攻防は、毛利元就の卓越した戦略思想を完璧に体現した事例であった。元就の勝利の方程式は、決して猪突猛進の力攻めではなかった。

  1. まず、周到な 調略 によって敵の足元を崩し、国衆を寝返らせて内側から弱体化させる。
  2. 次に、圧倒的な軍事力で進駐しつつも、戦闘は避け、地理的要衝を押さえて敵の 兵站を断つ ことに主眼を置く。
  3. そして、敵が完全に孤立し、弱ったところを確実に叩く。

神西湖周辺域の攻防は、まさにこの手順通りに進められた。それは、血を流す戦闘よりも、敵の力を削ぎ、勝利の条件を整えていく「戦わずして勝つ」という思想の結実であった。

尼子氏衰亡の必然

最後に、この序盤戦における尼子方の対応は、その後の滅亡という結末をすでにこの時点で暗示していた。西方の国衆の雪崩をうったような離反を食い止められず、西方の重要拠点である神西城を孤立させ、有効な後詰を送ることもできずに各個撃破されていく様は、尼子義久政権の求心力の低下と、毛利の複合的な戦略に対する対応能力の欠如を物語っている。

尼子氏は、個々の城や兵士の勇猛さでは毛利に劣ってはいなかったかもしれない。しかし、大局的な戦略構想と、それを支える政治力・組織力において、すでに毛利に大きく水をあけられていた。神西湖周辺の陸路が封鎖され、洗合に毛利の本陣が築かれたとき、尼子氏の命運は、もはや風前の灯火となっていたのである。この攻防は、戦国大名・尼子氏の長い黄昏の時代の終わりを告げる、静かな、しかし決定的な序曲であったと言えよう。

引用文献

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  26. 出雲市地域が誇る観光スポット【観光課】 https://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1587623122755/index.html
  27. 白鹿城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ShiragaJou.html
  28. 水路掌握の観点で見た毛利元就の布陣と戦略 - みやざこ郷土史調査室 https://miyazaco-lhr.blog.jp/archives/1620505.html
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