最終更新日 2025-09-02

刀根坂の戦い(1570)

天正元年、武田信玄の死と足利義昭の追放で信長包囲網が崩壊。織田信長は越前朝倉氏を滅ぼすべく、浅井長政の救援要請に応じ近江へ出兵した朝倉義景を刀根坂で追撃、壊滅させた。この一方的な殲滅戦により朝倉氏は滅亡し、信長の天下布武は決定的に加速した。

天正元年 刀根坂の戦い - 名門朝倉氏、滅亡への七日間

序章:天正元年、崩壊する信長包囲網

天正元年(1573年)は、織田信長の天下布武事業において、決定的な転換点となった年である。この年、彼を長らく苦しめてきた「信長包囲網」は、その根幹から崩壊を始めた。刀根坂の戦いは、この巨大な地殻変動の末に発生した、必然の帰結であった。

巨星墜つ - 武田信玄の死

元亀4年(天正元年)4月、信長が最も恐れた敵、甲斐の武田信玄が西上作戦の途上で病死した 1 。三方ヶ原の戦いで徳川家康を蹂躙し、織田領に迫ったその圧倒的な軍事力は、反信長勢力にとって最大の希望であり、精神的支柱であった 4 。その信玄の死は、包囲網の軍事的中核を失わせ、浅井・朝倉をはじめとする諸大名に深刻な動揺と絶望感をもたらした 2 。信長にとって、東からの最大の脅威が消滅したこの出来事は、長年の宿敵であった浅井・朝倉を完全に滅ぼすための、またとない好機をもたらしたのである。

将軍追放 - 室町幕府の終焉

信玄の死からわずか3ヶ月後の同年7月、信長は包囲網のもう一つの核であった室町幕府第15代将軍・足利義昭との対決に踏み切る。義昭は槇島城に籠城して信長に抵抗するも、織田の大軍の前にあえなく降伏。京から追放され、ここに室町幕府は事実上滅亡した 2 。これにより、信長包囲網はその「大義名分」を完全に喪失した。これまで「将軍を奉じ、信長の非道を正す」という名目の下に結束していた反信長勢力は、単なる信長への反逆者に成り下がったのである。朝倉・浅井両氏は、軍事的支柱(武田)と政治的正統性(足利幕府)を同時に失い、完全に孤立無援の状態に陥った 6

信長はこの千載一遇の好機を逃さなかった。長年にわたり彼の背後を脅かし続けた北近江の浅井長政と越前の朝倉義景を、この機に一挙に殲滅すべく、その刃を北へと向けた。刀根坂の戦いは、信玄の死と義昭の追放という二つの外的要因によって、開戦前からすでに織田方の圧倒的優位が確定していた「仕上げの戦い」であった。朝倉・浅井に残された道は、軍事的な勝利ではなく、いかに滅亡を遅らせるかという延命策のみだったのである。

第一章:浅井・朝倉、最後の近江出兵

信長包囲網が瓦解し、戦略的に追い詰められた浅井・朝倉連合軍。信長の次なる一手は、彼らの息の根を止めるための総攻撃であった。

信長、動く

天正元年8月8日、信長に行動の絶好機が訪れる。浅井氏の重臣であり、山本山城主であった阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田方へ寝返ったのである 1 。これにより、浅井氏の居城・小谷城の西側面が完全に無防備となった。信長はこの好機を捉え、3万と号する大軍を率いて岐阜を出陣。瞬く間に北近江へ侵攻し、小谷城を見下ろす虎御前山に本陣を構え、城を厳重に包囲した 5

小谷城の窮状

完全に孤立した小谷城の浅井長政にとって、残された唯一の活路は、長年の盟友である朝倉氏からの救援であった 7 。援軍なくして落城は時間の問題であり、長政は朝倉義景へ必死の救援要請を送る。この要請が、名門朝倉家を滅亡へと導く最後の引き金となった。

朝倉家中の不協和音

しかし、この時の朝倉家は、すでに組織として末期的な症状を呈していた。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い、姉川の戦い以降、度重なる近江への出兵は領国と将兵を著しく疲弊させていた 1 。家中には厭戦気分が蔓延し、当主・朝倉義景の指導力にも陰りが見えていた。義景が浅井救援のための出陣を命じると、魚住景固(うおずみかげかた)ら複数の重臣が「数年来の軍事疲弊」を理由に、これを公然と拒否するという異常事態が発生する 6 。当主の命令が、家臣団の合意なしには執行できないほど、朝倉家の統制は失われていたのである。

義景、悲壮なる決断

家中の分裂という致命的な問題を抱えながらも、義景は出陣を決断する。これは軍事的な勝算に基づいた合理的な判断というよりは、盟友・浅井家を見殺しにはできないという「名門当主としての最後の意地」であり、信長に屈しないという「政治的姿勢」の表明であった可能性が高い 7 。しかし、その決断を支えるべき家臣団の結束はすでになく、義景自らが総大将となることで、ようやく2万の兵をかき集めるのがやっとであった 7

7月17日に本拠地・一乗谷を発った義景は、8月6日には近江の木ノ本・田上山まで軍を進め、小谷城の後詰として大嶽砦などに布陣した 1 。だが、この外見こそ2万の大軍であった朝倉勢は、内実に深刻な問題を抱えた「砂上の楼閣」に過ぎなかった。これが、栄華を誇った戦国大名・朝倉氏の最後の出陣となったのである。

第二章:嵐中の奇襲 - 大嶽砦・丁野砦の陥落

対峙する織田軍と朝倉軍。戦局が動いたのは、天候さえも味方につけた信長の、常軌を逸した戦術によってであった。この奇襲こそが、刀根坂の惨劇へと至る序曲となった。

天正元年八月十二日、暴風雨

8月12日、近畿一帯を激しい暴風雨が襲った 1 。豪雨と強風は軍の移動を困難にし、視界を奪う。常識的に考えれば、いかなる将も軍事行動を控え、陣中で嵐が過ぎ去るのを待つのが当然であった。朝倉軍もまた、この悪天候の中を敵が攻め寄せてくるとは夢にも思っていなかった 9

信長の神算

しかし、織田信長の発想は異次元にあった。彼はこの暴風雨こそが敵の油断を誘い、奇襲を成功させるための「天与の好機」であると判断した 1 。敵の油断という心理的弱点を突くことに長けた信長は、自ら精鋭を率いて出撃を決断する。この決断が、戦いの趨勢を決定づけた。

前線拠点の崩壊

信長の奇襲部隊は、嵐の音に紛れて朝倉軍の防衛線に忍び寄った。最初の目標は、小谷城と朝倉軍本陣を繋ぐ重要拠点・大嶽砦であった。織田軍の突然の攻撃に、守備兵はなすすべもなく降伏 1 。信長は返す刀で、近隣の丁野砦(城)をも襲撃し、これも瞬く間に陥落させた 1 。朝倉軍の前線拠点は、わずか一日にして、ほとんど抵抗らしい抵抗もできずに崩壊したのである。

信長の心理戦

ここから信長は、さらに冷徹な心理戦を仕掛ける。彼は、捕らえた朝倉兵を処刑するのではなく、あえて解放し、朝倉義景の本陣へと送り返したのである 5 。これは、前線拠点が陥落したという正確な情報を敵将に伝えさせることで、朝倉軍の戦意を根底から揺さぶり、撤退以外の選択肢を心理的に奪うための巧妙な策であった。物理的な打撃に加えて、「信長の奇襲は予測不能であり、防ぎようがない」という恐怖心を朝倉軍全体に植え付けたのである。

この奇襲作戦の成功により、刀根坂の戦いの勝敗は事実上決したと言っても過言ではない。信長は、①気象条件の利用、②敵の油断という心理的弱点、③敗報の伝播による内部動揺、という三つの要素を巧みに操り、物理的な戦闘が始まる前に、朝倉軍の組織としての戦闘能力を完全に破壊した。これは、近代戦における電撃戦や心理戦の概念を先取りする、信長の戦術家としての天才性を示すものであった。

第三章:刀根坂の戦い - 時系列で見る殲滅戦の実態

前線拠点の崩壊は、戦意の低い朝倉軍に決定的な衝撃を与えた。ここから始まるのは、もはや「合戦」ではなく、信長によって周到に計画された一方的な「追撃殲滅戦」であった。

八月十三日 未明〜夜:撤退決断

大嶽砦、丁野砦陥落の報は、解放された兵士によって直ちに朝倉義景の本陣にもたらされた 11 。織田軍3万に対し、自軍は2万。しかも、先の重臣による出兵拒否が示すように家中の結束は乱れ、兵の士気も低い 9 。これ以上の対陣は無意味であり、野戦となれば敗北は必至である。義景は勝ち目がないことを悟り、全軍の越前への撤退を決断した 7 。目標は、国境近くの拠点城郭である疋壇城(ひきだじょう)であった 1

八月十三日 夜半:信長、自ら追撃の先頭へ

朝倉軍の動きは、完全に信長の掌中にあった。彼は「今夜、朝倉軍は必ず撤退する」と予見し、諸将に好機を逃さぬよう厳命していた 11 。そしてその夜、予言通りに朝倉軍が撤退を開始すると、信長は一部の将の動きの鈍さに業を煮やし、わずかな馬廻衆のみを率いて自ら追撃の先頭に立った 9 。この総大将自らが先陣を切るという異常なまでの神速と執念が、織田軍全体の追撃速度を極限まで高め、朝倉軍に態勢を立て直すいかなる時間も与えなかった。

運命の分岐路(柳ヶ瀬)

織田軍が刀根坂の麓、柳ヶ瀬に差し掛かった時、朝倉軍の退却路が二手に分かれていた。一方は中河内を経由する道、もう一方は刀根坂を越えて疋壇城へ向かう道である 14 。どちらを追うべきか、諸将が判断に迷う中、信長は即座に断言した。「義景ら主だった者たちは、味方の城である疋壇城・敦賀を目指して逃げているはずだ。全軍、刀根口(刀根坂方面)へ向かえ」と 14 。この神がかり的な判断は、敵将の心理と地理を完全に見通したものであった。事実、中河内口へ逃れたのは雑兵ばかりであり、義景をはじめとする朝倉軍の中核部隊は、ことごとく刀根坂への道を進んでいたのである 14

八月十三日〜十四日:刀根坂の惨劇

機動力に優る織田軍は、近江・越前の国境に横たわる刀根坂(久々坂峠)で、ついに朝倉軍主力の後衛に追いついた 1 。すでに組織的統制を失い、ただ逃げることしか頭にない朝倉軍は、もはや軍隊ではなかった。退却戦の混乱の中、織田軍の猛攻を受け、将兵は一方的に斬り捨てられていった 1 。『信長公記』によれば、この追撃戦で朝倉軍が失ったのは、名のある武将38名、兵3,800人にも上ったと記録されている 1 。この数字には誇張が含まれる可能性もあるが、朝倉軍が壊滅的な打撃を受けたことは疑いようがない 11

散りゆく将星たち

この刀根坂での一方的な殲滅戦により、朝倉氏の軍事的中核は文字通り蒸発した。一門衆である北庄城主・朝倉景行や、わずか17歳の朝倉道景 9 。家中の重臣であった山崎吉家、河合吉統 3 。そして、かつて美濃国主であったものの信長に国を追われ、朝倉氏を頼っていた客将・斎藤龍興も、この地で奮戦の末に討死した 9 。彼らの死は、単なる将の戦死ではなく、100年にわたり越前を支配した名門・朝倉家の軍事力が、再起不能なレベルで崩壊したことを意味していた。

第四章:敗走、そして裏切り - 朝倉義景の最期

刀根坂の地獄を辛うじて生き延びた朝倉義景であったが、彼を待ち受けていたのは、軍事的な敗北よりもさらに過酷な、味方からの見捨てと裏切りであった。

命からがらの帰還

義景は、鳥居景近や高橋景業といった十数名ほどの僅かな側近に守られ、刀根坂の戦場を離脱 1 。府中(現在の越前市)を経由し、8月15日、ついに本拠地である一乗谷へとたどり着いた 1 。まさに命からがら、着の身着のままの帰還であった。

見捨てられた当主

しかし、栄華を誇った一乗谷に、もはや主君を迎え入れる温情は残されていなかった。刀根坂での壊滅的な敗北の報は国中に駆け巡り、義景のもとに馳せ参じようとする国人や家臣は誰一人として現れなかった 11 。残された手勢は僅か500名ほどであり、もはや戦国大名としての威光は完全に失墜していた。

信長の追撃、止まず

一方、信長は追撃の手を緩めなかった。8月15日から16日にかけて兵士に休息を取らせると、17日には大軍を再編成 11 。かつての朝倉家臣であり、信長に降っていた前波吉継を道案内役として、越前国内への侵攻を本格的に開始した 11 。18日、織田軍は一乗谷になだれ込み、朝倉氏百年の栄華の象徴であった壮麗な城下町に火を放った。炎は三日三晩燃え続けたと伝えられ、「北陸の小京都」と呼ばれた文化都市は、ここに灰燼に帰した 5

景鏡の謀略

一乗谷を脱出した義景に残された最後の希望は、従弟であり、一族の筆頭格であった大野郡司・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)であった。景鏡は義景に対し、一乗谷を放棄し、自身が治める堅固な盆地である大野郡で再起を図るよう進言する 6 。義景はこの言葉を信じ、景鏡を頼って大野へと落ち延びた。しかし、これは信長と密かに内通していた景鏡による、主君を確実に葬るための周到な罠であった 1 。義景が最後の頼みとした平泉寺の僧兵たちも、すでに木下秀吉の調略によって信長方に懐柔されていたのである 1

賢松寺の悲劇

8月20日早朝、景鏡に案内された大野の賢松寺にて、義景は突如として景鏡の手勢200に包囲される 1 。最も信頼すべき一族からの裏切りにより、万策尽きたことを悟った義景は、辞世の句「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」を遺し、自刃して果てた。享年41 1 。景鏡は義景の首を信長に献上して降伏し、自らの保身を図った 5 。義景の最期は、信長の軍事力によって滅ぼされたというよりも、長年にわたる家中統制の失敗と人心の離反が、最終的に最も近しい者からの裏切りという形で噴出した、朝倉氏という組織の構造的欠陥がもたらした悲劇であった。

終章:歴史的意義 - 朝倉氏滅亡と信長の天下布武

刀根坂の戦いとそれに続く朝倉氏の滅亡は、単に一つの戦国大名家が歴史から姿を消したというだけにとどまらない、戦国時代のパワーバランスを根底から覆す重大な意義を持っていた。

浅井氏の滅亡

朝倉氏の滅亡は、即座に同盟者であった浅井氏の運命を決定づけた。最大の後ろ盾を失い、完全に孤立無援となった浅井長政の小谷城に対し、信長は越前平定後すぐに軍を反転させる 15 。もはや抵抗する力も残されておらず、同年9月1日、長政は父・久政と共に自害し、浅井氏は滅亡した 7 。刀根坂の戦いは、北近江平定の最終段階への道を切り開き、信長にとって長年の懸案であった近江・越前の反抗勢力を一掃する結果をもたらしたのである。

一乗谷の灰燼

信長の焼き討ちにより、朝倉氏が百年以上にわたって築き上げた一乗谷の文化圏は、物理的に地上から消滅した 19 。応仁の乱以降、荒廃した京から多くの公家や文化人が避難し、「北陸の小京都」とまで呼ばれたその繁栄は、わずか数日の炎によって終焉を迎えた 20 。この文化的損失は計り知れず、戦国時代の武力による旧秩序の破壊を象徴する出来事となった。

信長包囲網の完全瓦解

朝倉・浅井という、反信長勢力の二大巨頭が消滅したことで、元亀年間から信長を苦しめ続けた包囲網は、名実ともに完全に瓦解した 8 。武田信玄の死、足利義昭の追放、そして朝倉・浅井の滅亡という一連の流れを経て、信長はもはや後顧の憂いなく、その軍事力を畿内、そして西国の毛利氏や、石山本願寺へと集中させることが可能となった。

天下布武の加速

この一連の勝利は、信長の威勢を天下に轟かせ、彼の統一事業「天下布武」を劇的に加速させた。刀根坂の戦いは、信長が単に敵対勢力を屈服させるだけでなく、旧来の守護大名体制を武力で完全に破壊し、その領国を併合するという、新たな統一の段階に入ったことを示す象徴的な戦いであった。この戦い以降、信長に敵対する大名は「討伐」の対象となり、戦国時代の様相は、信長を中心とする新たな秩序形成へと、不可逆的に変化していったのである。

補遺:刀根坂の戦い - 関連武将と兵力分析

本報告書で詳述した刀根坂の戦いにおける両軍の勢力と主要な武将を以下にまとめる。これにより、戦いの規模と、特に朝倉方が被った人的損害の甚大さがより明確に理解できる。

項目

織田軍

朝倉軍

総大将

織田信長

朝倉義景

推定兵力

約30,000 5

約20,000 7

主要武将

柴田勝家、羽柴秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益など 11

朝倉景鏡(後に裏切り)、山崎吉家、朝倉景行、斎藤龍興など 3

主要な討死武将

軽微

朝倉景行、朝倉道景、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など多数 3

引用文献

  1. 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka.html
  2. 信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉。将軍・足利義昭の策謀とふたつの幕府【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1015959
  3. 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
  4. 三方ヶ原の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/mikagatahara-kosenjo/
  5. [合戦解説] 10分でわかる一乗谷城の戦い 「織田信長猛追撃、朝倉義景は裏切られる」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TaSJpppfgs8
  6. 一乗谷炎上(信長軍越前侵攻) http://fukuihis.web.fc2.com/war/war090.html
  7. 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  8. 信長包囲網 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
  9. 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka1.html
  10. 一乗谷城の戦い古戦場:福井県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/ichijodanijo/
  11. 一乗谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 【武将解説】#04:朝倉義景 織田信長に最後まで楯突いた守護大名の生き様とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jkUKp3Z2ja4
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  14. 朝倉征伐:その2(刀禰坂の合戦~一乗谷の戦い) - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/AsakuraSeibatsu2~Tonezaka~Ichijoudani.html
  15. 『信長公記』にみる信長像③ 元亀争乱編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n764e95bf2d43
  16. 神懸りな朝倉追撃戦 (柳ヶ瀬~刀根) - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-6116.html
  17. 歴史の渦に消えた若き龍、斎藤龍興の悲運と執念 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/saitoutatsuoki/
  18. 刀禰峠・朝倉軍壊滅の地 http://fukuihis.web.fc2.com/memory/me000.html
  19. 明智光秀と一乗谷 戦国大名・朝倉氏一族 - 福井市 https://www.city.fukui.lg.jp/kankou/kankou/spot/p021608_d/fil/akechileaflet.pdf
  20. 一乗谷の戦い | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  21. 主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ https://mag.japaaan.com/archives/169859
  22. 朝倉義景は何をした人?「信長の背後をねらうヒット&アウェイでマジギレされた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikage-asakura
  23. 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
  24. いよいよ「麒麟がくる」越前へ!なぜ朝倉義景の時代に越前の文化都市は滅ぼされたのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98139/
  25. 信長を土下座させた男!?朝倉氏最後の当主・義景が住んだ「一乗谷朝倉氏遺跡」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/83724/
  26. 信長を追い込んだ 朝 あ 倉 義 よ 景 と 元 げ 亀 争 そ 乱 - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_03.pdf
  27. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/