最終更新日 2025-09-05

加治田城・東美濃戦(1584)

天正十二年、東美濃で森長可と斎藤利堯が激突。小牧・長久手の戦いの裏で繰り広げられた加治田城を巡る攻防は、鬼武蔵の最期と地域の自立を賭けた戦いの終焉を告げた。

天正十二年・東美濃擾乱-加治田城を巡る攻防と鬼武蔵の最期-

序章:天下の分水嶺と東美濃

天正十年(1582年)6月、本能寺における織田信長の非業の死は、天下統一を目前にした日本の政治情勢を根底から覆した。その後の権力闘争を制し、信長の後継者として名乗りを上げた羽柴秀吉に対し、信長の次男・織田信雄が徳川家康と結び、公然と反旗を翻したのが天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いである 1 。この戦いは、単なる織田家内部の家督争いに留まらず、秀吉による新たな天下と、信長以来の旧体制の維持を目指す勢力との、文字通り天下の分水嶺となる決戦であった。

この大局において、美濃国、とりわけその東部地域「東美濃」は、両陣営にとって極めて重要な戦略的価値を有していた。東美濃は、徳川家康の本拠地である三河・尾張と、秀吉が押さえる京・大坂とを結ぶ東山道の要衝に位置する 3 。この地を制することは、敵の兵站線を脅かし、自軍の勢力圏を安定させる上で不可欠であった。本報告書で詳述する「加治田城・東美濃戦」は、この天下分け目の大戦における一局地戦、いわゆる「支城戦」として位置づけられている。

しかし、この戦いを単なる支城戦として片付けることは、その本質を見誤ることに繋がる。その深層には、二つの重層的なテーマが複雑に絡み合っている。第一に、本能寺の変以来、この地で覇を競い合ってきた二人の武将、すなわち秀吉方の「鬼武蔵」森長可と、徳川・織田方に与した加治田城主・斎藤利堯との、2年越しの個人的な因縁の清算という側面である。第二に、信長、秀吉といった中央の巨大な権力に対し、地域の自立性を守ろうと結束した在地勢力「加治田衆」の、組織としての最後の抵抗戦であったという側面である。本報告書は、これらの視座から、天正十二年に東美濃で繰り広げられた知られざる攻防の全貌を、時系列に沿って詳細に解き明かすものである。

第一部:動乱への序曲

第一章:本能寺の変、そして権力の空白

天正十二年の動乱を理解するためには、時計の針を2年巻き戻し、天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変まで遡る必要がある。この日、加治田城主であった斎藤利治は、織田信長の嫡男・信忠と共に京都二条御所にあり、明智光秀の軍勢と戦い、討死を遂げた 3 。主君と城主を同時に失った加治田城では、利治の兄であり、城の留守居役を務めていた斎藤利堯がその跡を継いだ 7

斎藤利堯は、弟の死と織田家の混乱という未曾有の危機に対し、極めて冷静かつ大胆な政治的行動を見せる。彼は信忠亡き後の岐阜城が空城となっている機を捉え、これを占拠したのである 8 。これは単なる火事場泥棒的な行動ではない。彼の母は美濃の重鎮・稲葉一鉄の姉であり、利堯はこの叔父と連携することで、自らの行動に正当性と軍事的な後ろ盾を与えようとした 8 。斎藤道三の子である利堯は、この権力の空白を、かつて父が支配した美濃における斎藤氏の権威を再興する千載一遇の好機と捉えたのであった。

一方、その頃「鬼武蔵」の異名で知られる森長可は、信濃国に出兵中であった 12 。信長の死という凶報は、敵地の真っただ中にいた彼を窮地に陥れる。信長の死を知った信濃の国人衆は一斉に蜂起し、長可は九死に一生を得る形で、かろうじて本拠地である東美濃の金山城へと帰還した 14

ここに、本能寺の変に対する二人の武将の対照的な初動がみてとれる。斎藤利堯が権力の空白を突いて旧領回復を目指す 政治的・戦略的 な動きを見せたのに対し、森長可はまず生き残りを最優先し、次いで信長の仇討ちという大義名分を掲げる 軍事的・感情的 な行動に駆られた。この初動の差、そして信濃からの命懸けの脱出行で味わった屈辱と危機感は、その後の長可の苛烈な行動の伏線となり、両者の対立を決定的なものとしていく。

第二章:鬼武蔵の東美濃平定戦

辛うじて本領へ帰還した森長可は、失った信濃の領地を埋め合わせ、かつ自身の勢力圏を盤石にするため、東美濃の平定に乗り出した 16 。その手法は、彼の「鬼武蔵」という異名に違わぬ、苛烈極まるものであった。

長可はまず、可児郡・加茂郡の敵対勢力を制圧すると、矛先を東濃地域へと向けた。彼の支配に抵抗の意思を示した国人衆には、容赦ない鉄槌が下された。土岐郡の久々利氏は抵抗の末に滅亡 16 。恵那郡の苗木城主・遠山友政も、長可の降伏勧告を拒絶したため攻撃を受け、城を支えきれずに徳川家康の下へと落ち延びた 16 。同様に、明知城主・遠山利景や小里城主・小里光明も、長可の猛威を前に戦わずして城を放棄し、家康を頼った 16

長可の戦略は、抵抗する者への徹底的な殲滅と、恭順を示す者への所領安堵という、恐怖による支配であった。妻木氏のように早々に従属した勢力は、森氏の与力としてその支配体制に組み込まれた 16 。この「アメとムチ」の政策により、長可はわずか11ヶ月という短期間で東美濃一帯を制圧することに成功する 18

しかし、この強引な手法は深刻な亀裂を生んだ。長可によって所領を追われた遠山氏をはじめとする国人衆は、その怨嗟を胸に徳川家康の下に集結した。これにより、当時の家康は反秀吉・反森勢力にとっての明確な受け皿として機能することになる。結果として、東美濃には「森長可に従う勢力」と「長可に追われ家康を頼る勢力」という、いつ爆発してもおかしくない断層が形成された。森長可自身が振りかざした力が、皮肉にも彼の背後を脅かす最大の火種を生み出したのである。天正十二年の小牧・長久手の戦いは、この断層が天下の動乱という地殻変動によって、ついに表面化する舞台となった。

第三章:因縁の対決-天正十年「加治田・兼山合戦」の記憶

森長可の東美濃平定戦において、最大の抵抗拠点となったのが、斎藤利堯が守る加治田城であった。天正十年(1582年)7月、両者の対立はついに直接的な軍事衝突へと発展する。この「加治田・兼山合戦」こそ、天正十二年の戦いの直接的な前史であり、両者の間に拭い去れない遺恨を残した決定的な戦いであった 19

戦いの発端は、7月2日未明、森長可が病床にあった米田城主・肥田玄蕃忠政を急襲したことに始まる 20 。不意を突かれた肥田は城を脱出し、同盟関係にあった加治田城の斎藤利堯を頼った。これに対し利堯は、加治田城の南方に位置する天然の要害・牛ヶ鼻砦(毛利山城)に兵を送り、森軍を迎え撃つ態勢を整えた 21

森軍はまずこの牛ヶ鼻砦に攻撃を仕掛けたが、西村治郎兵衛ら加治田衆の奮戦と、飛騨川の断崖絶壁という地形に阻まれ、二度にわたる攻撃をいずれも撃退されるという手痛い敗北を喫した 20 。前哨戦での思わぬ苦戦に激昂した長可は、力攻めを決意。7月4日、軍を転じ、加治田城への直接攻撃を開始した。その際、かつて織田信長による美濃攻略戦(堂洞合戦)で廃城となっていた堂洞城跡に本陣を構えたことは、彼の執念を物語っている 20

しかし、加治田城は「却敵城」(敵を却ける城)の異名を持つ難攻不落の山城であった 7 。斎藤利堯は、城の東に築かれた三徳櫓に家老の長沼三徳を、西の砦に西村治郎兵衛を配置するなど、地形を熟知した巧みな防衛網を敷いて森軍を待ち構えた 23 。猛攻を仕掛ける森軍に対し、加治田衆は一歩も引かず、激しい攻防戦が繰り広げられた。

この戦いの結果について、『金山記』など森氏側の軍記物では引き分けと記されているが、『堂洞軍記』をはじめとする多くの記録では、森軍が多大な損害を出して金山城へ撤退した、斎藤軍の明確な勝利であったとされている 20 。いずれにせよ、動かしがたい事実は、森長可が加治田城を攻略できなかったという点である。

この戦いは、森長可にとって単なる戦術的後退ではなく、東美濃支配における戦略的な大失敗であった。彼は、自身の本拠地の目と鼻の先に、自分を一度は退けた斎藤利堯と、結束の固い加治田衆という反森勢力の中核を温存させてしまった。この「未解決」の遺恨こそが、天正十二年に彼が天下の大戦に臨むにあたり、背後を脅かす最大のアキレス腱となるのである。

表1:加治田・兼山合戦(1582年)における両軍の主要武将と兵力比較

陣営

斎藤軍(加治田城)

総大将

斎藤利堯

主要武将

長沼三徳、西村治郎兵衛、湯浅新六、大島光義、大島光政

推定兵力

約1,700 20

結果

森軍による加治田城攻略失敗。斎藤軍の防衛成功。

第二部:天正十二年・東美濃戦線

第四章:戦端開かる(天正12年3月)

天正十二年(1584年)3月、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の対立が遂に戦火へと発展すると、2年間の沈黙を破り、東美濃の緊張は再び沸点に達した。

【時系列:3月16日】

秀吉方として参戦した森長可は、本拠地である美濃金山城から3,000の兵を率いて出陣。尾張国へと進軍し、犬山市羽黒の八幡林に布陣した 27。これは、家康が占拠した小牧山城への牽制と、味方である池田恒興の軍との連携を意図した動きであった。

【時系列:3月17日 未明】

しかし、この動きは即座に徳川方に察知される。同日夜半には、酒井忠次、榊原康政らが率いる5,000の徳川軍が小牧山を出陣。夜陰に乗じて羽黒へ急行し、布陣したばかりの森軍に奇襲をかけた(羽黒の戦い)。不意を突かれた森軍は混乱に陥り、300名もの兵を討ち取られるという手痛い敗北を喫し、敗走を余儀なくされた 2。

この緒戦における一連の出来事は、重要な示唆に富んでいる。第一に、情報戦における徳川方の圧倒的優位性である。長可の出陣からわずか1日足らずで、徳川方が大規模な迎撃部隊を組織し、完璧な奇襲を成功させている点は、徳川方の情報収集能力と意思決定の速さが森方を凌駕していたことを物語る。この迅速な対応の背景には、東美濃に広がる反森ネットワーク、すなわち斎藤利堯や、家康を頼った旧遠山氏家臣団からの情報提供があった可能性が極めて高い。

第二に、森長可の性格に起因する判断ミスである。他の部隊との連携を待たずに突出した形で布陣したことは、手柄を焦る彼の気性 13 を如実に反映している。この緒戦での惨敗は、「鬼武蔵」の誇りを深く傷つけ、後のより大規模で、より危険な作戦である「三河中入り作戦」への参加を心理的に後押しする一因となった可能性は否定できない。失った面目を取り返したいという焦燥が、冷静な戦略的判断を曇らせたとしても不思議ではない。

表2:天正十二年 東美濃戦線 主要関連人物一覧

陣営

羽柴方

主要人物

森長可、池田恒興、妻木氏

拠点

金山城、大垣城

立場・動機

森長可: 秀吉配下、東美濃の支配者。旧敵の排除と戦功獲得を目指す。 斎藤利堯: 加治田城主。森氏への対抗と斎藤氏再興を期し、徳川・織田方と連携。

第五章:主戦場の転移と東美濃の「空白」

羽黒での敗戦後、小牧山城を挟んで両軍が睨み合う膠着状態が続いた。この状況を打破するため、秀吉陣営で新たな作戦が立案される。

【時系列:4月4日】

秀吉軍の軍議において、森長可の舅でもある池田恒興が、家康の本拠地である三河国岡崎城を直接攻撃し、後方を攪乱する「三河中入り作戦」を献策。秀吉はこれを承認した 27。

【時系列:4月6日】

秀吉の甥である羽柴秀次(後の豊臣秀次)を総大将とし、池田恒興、森長可、堀秀政らで編成された計20,000の別働隊が、三河を目指して出陣した 27。これにより、森長可が率いる3,000の主力部隊は、東美濃の戦線を完全に離れることとなった。

この森長可主力の不在こそが、東美濃に一時的な「力の空白」を生み出し、名もなき「加治田城・東美濃戦」の本体が展開される舞台を整えた。圧倒的な軍事的脅威であった森長可が去ったことで、斎藤利堯と加治田衆は、単に城に籠もる防衛者から、地域の主導権を奪還するための積極的な行動者へと変貌する好機を得たのである。

この期間、具体的にどのような戦闘があったかを詳細に記す一次史料は乏しい。しかし、状況証拠からその実態を推察することは可能である。森氏が占拠していた苗木城には城代として河尻秀長が置かれ 17 、今城のような拠点では防衛のための改修が行われた形跡が確認されている 28 。これは、森方の残存兵力が、反森勢力からの攻撃を警戒していたことを示唆している。

本能寺の変後に岐阜城を奪取するほどの行動力と政治的野心を持つ斎藤利堯が、この好機を座して見過ごしたとは考え難い。この「空白」の期間に、加治田城を拠点として、森方が支配する孤立した城砦への攻撃、兵站路の妨害、親徳川派の国人衆との連携強化、そして徳川本隊への情報提供といった、活発な軍事・諜報活動が展開されたと推測するのが最も合理的である。それは天下の大勢を決する大会戦ではなかったかもしれないが、地域の支配権を巡る、熾烈で粘り強い攻防であったに違いない。これこそが、小牧・長久手の戦いの影に隠された「東美濃戦」の実態であった。

第六章:長久手の凶報と戦線の崩壊(天正12年4月9日)

東美濃で斎藤利堯らが反攻の機会を窺っていた頃、遠く尾張長久手の地で、戦局は急転直下の結末を迎えようとしていた。

【時系列:4月9日 早朝】

三河中入り作戦の情報を掴んだ徳川家康は、自ら本隊を率いて出陣。迂回進軍していた羽柴秀次らの別働隊を完全に捕捉し、追撃を開始した 29。

【時系列:4月9日 午前10時頃】

長久手の地において、家康・信雄の本隊が、徳川軍の急襲を知り撤退を開始していた池田恒興・森長可の部隊と正面から激突。雌雄を決する戦いの火蓋が切られた 2。

戦闘は2時間以上に及ぶ一進一退の激戦となった。森長可は自ら先頭に立ち、愛槍「人間無骨」を振るって奮戦したと伝わる 30 。しかし、徳川軍の精鋭・井伊直政の部隊、通称「井伊の赤備え」と激突した際、その運命は尽きる。水野勝成の家臣である水野太郎作配下の鉄砲足軽・杉山孫六が放った一発の銃弾が、長可の眉間を正確に撃ち抜いたのである 13 。鬼武蔵と恐れられた猛将は、即死であった。享年27 18

総大将・森長可の死は、森軍の士気を一瞬にして打ち砕いた。ほぼ時を同じくして、池田恒興とその長男・元助も討死 27 。指揮官をことごとく失った池田・森軍は総崩れとなり、壊滅した。

この長久手からの凶報は、東美濃の戦況をも一瞬にして決着させた。2年越しに続いた森長可と斎藤利堯の対立、そして加治田衆の地域を賭けた抵抗は、最終的に長久手の戦場で放たれた一発の銃弾によって、あまりにも唐突に、そして完全に終止符が打たれたのである。斎藤利堯と加治田衆にとっての勝利は、彼らが加治田城で血を流して勝ち取ったものではなく、遠く離れた主戦場での総大将の死という、外的要因によってもたらされた。それは、戦国という時代の非情さと、一個人の死がいかに大局を左右するかを雄弁に物語る、象徴的な結末であった。

第三部:戦後の残映

第七章:権力の再編

森長可の死は、東美濃の権力構造に決定的な変化をもたらした。

森氏の家督は、長可の末弟である森忠政が継承した 20 。彼は兄のような苛烈さよりも、堅実な統治で領内の安定化に努めた。東美濃における森氏の支配は維持されたものの、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命により信濃川中島へ転封となり、森氏による東美濃支配は終わりを告げた 33

一方、戦いの勝者となったはずの斎藤利堯は、意外な道を歩む。小牧・長久手の戦いが和議によって終結し、天下が秀吉の下で統一へと向かう流れの中で、彼は政治の表舞台から静かに姿を消した。叔父・稲葉一鉄の勧めもあり、誰にも仕えることなく隠棲したと伝わる 8 。そして、歴史の記録にその名を大きく刻むことなく、ほどなくして病死したとされる 8 。彼の戦いは、斎藤氏の再興という野心のためではなく、あくまで森長可という圧制者への抵抗、地域の防衛が主目的であった。その目的が達成された時、彼の役目も終わったのである。

そして、この戦いの真の主役であったかもしれない「加治田衆」もまた、歴史の大きなうねりの中に消えていった。彼らを結束させていた共通の敵・森長可と、その旗頭であった斎藤利堯という二つの核を失ったことで、共同体としての統制を失い、離散していった。ある者は新たな領主となった森氏に仕え(佐藤堅忠、岸新右衛門ら)、ある者は弓の腕を買われて丹羽氏や豊臣氏、徳川氏の家臣となり(大島光義ら)、またある者は武士を捨てて隠棲した(『永禄美濃軍記』を後世に伝えたとされる湯浅新六ら) 20 。彼らが命を懸けて守った加治田城も、森氏の領地となった後、領内に城が多すぎることによる管理の煩雑さから廃城となり、その歴史的役割を終えた 7

加治田衆の離散は、戦国時代を通じて一定の自立性を保ってきた在地国人衆(地侍)という存在の時代の終わりを象徴している。彼らはもはや地域の共同体として一体で行動するのではなく、個々の武将として、より大きな中央集権的な権力構造、すなわち豊臣政権、そして徳川幕府という新たな秩序の中に組み込まれていく。加治田城・東美濃戦は、彼らが「加治田衆」として一体となり戦った、最後の輝きだったのである。

総括:加治田城・東美濃戦が歴史に刻んだもの

小牧・長久手の戦いという、天下分け目の大戦の影に隠れ、多く語られることのない「加治田城・東美濃戦」。しかし、その詳細を丹念に追うことで、この一連の地域紛争が持つ多層的な歴史的意義が浮かび上がってくる。

第一に、 大局における意義 として、東美濃の反森勢力は、徳川方にとって極めて重要な役割を果たした。斎藤利堯と加治田衆の粘り強い抵抗は、森長可という秀吉方の有力武将の行動を一定期間牽制し、その背後を脅かし続けた。これにより、家康は東方戦線を安定させ、小牧山での本隊の展開に集中することができた。

第二に、 個人史における意義 として、この戦いは森長可という稀代の武将の生涯を象徴し、そして締めくくる最後の舞台となった。彼の苛烈な東美濃平定戦、羽黒での油断、そして長久手での勇猛な最期は、「鬼武蔵」の武勇伝説を完成させる一方で、功を焦るあまり大局を見失うという、彼の戦略家としての限界をも露呈させた。

第三に、そして最も重要な 地域史における意義 として、この戦いは斎藤利堯と加治田衆にとって、地域の誇りと自立を賭けた最後の組織的抵抗であった。彼らは一度は「鬼武蔵」を退け、その死によって最終的な勝利を得た。しかし、その後の彼らの離散と加治田城の廃城は、戦国時代を通じて存続した在地領主制の解体と、近世的な大名領国制への移行という、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。

結論として、「加治田城・東美濃戦」は、単なる支城戦ではない。そこには、武将個人の野心と因縁、地域共同体の存亡を賭けた結束と抵抗、そして戦国乱世の終焉と新たな時代の到来という、この時代のダイナミズムが凝縮されている。歴史の主役たちの華々しい戦いの裏側で繰り広げられた、名もなき人々の戦いの記憶として、後世に語り継がれるべき価値を持つものである。

表3:加治田城・東美濃戦 詳細時系列表(天正12年3月~4月)

日付

時間(推定)

場所

出来事

関連人物

典拠

3月16日

-

美濃金山城~尾張羽黒

森長可、兵3,000を率いて出陣。羽黒八幡林に布陣。

森長可

27

3月17日

未明

尾張羽黒八幡林

徳川軍が森軍を奇襲(羽黒の戦い)。森軍は敗走。

森長可、酒井忠次、榊原康政

2

4月4日

-

(秀吉本陣)

軍議にて池田恒興が「三河中入り作戦」を献策、採用される。

羽柴秀吉、池田恒興

27

4月6日

-

尾張

羽柴秀次を総大将とする別働隊(池田・森軍含む)が三河へ向け出陣。

羽柴秀次、池田恒興、森長可

27

4月9日

早朝

尾張白山林

徳川軍先発隊が、休息中の羽柴秀次隊後衛を奇襲、壊滅させる。

榊原康政、水野忠重、羽柴秀次

29

4月9日

午前10時頃

尾張長久手

徳川家康本隊が、撤退中の池田・森軍と遭遇。長久手の戦い開戦。

徳川家康、織田信雄、池田恒興、森長可

2

4月9日

午後2時頃

尾張長久手

激戦の末、森長可が井伊直政隊の鉄砲により戦死。池田恒興・元助も討死。

森長可、池田恒興、井伊直政、永井直勝

2

引用文献

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  11. 稲葉一鉄 - 月桂院 https://gekkeiin.com/ittetsu.html
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  33. 加治田衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E7%94%B0%E8%A1%86
  34. 湯浅新六 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E6%96%B0%E5%85%AD
  35. 93歳の関ケ原!大島光義~信長・秀吉・家康から認められ、大名となった弓の名手 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6692?p=2
  36. 加治田城の案内板 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/734/memo/1831.html