加納口の戦い(1547)
天文16年、斎藤道三は稲葉山城下で織田信秀を迎え撃ち、撤退中の織田軍を奇襲し大勝。この敗戦が信秀に二正面作戦の限界を悟らせ、信長と濃姫の政略結婚へと繋がった。
加納口の戦い(1547年)に関する総合的考察:蝮の牙、尾張の虎を砕く
序章:歴史の転換点としての一戦
日本の戦国時代、数多の合戦が歴史の潮流を形作ってきたが、その中には勝敗の帰趨が後の世に決定的な影響を及ぼした、いわば「歴史の結節点」と呼ぶべき戦いが存在する。天文16年(1547年)9月22日に美濃国で繰り広げられた「加納口の戦い」は、まさにそのような一戦であった。この戦いは、尾張の虎と称された織田信秀の勢力拡大戦略における最大の挫折であり、同時に「美濃の蝮」斎藤道三の知略と名声を天下に轟かせた戦いとして記憶されている。
一見すれば、隣国同士の領土を巡る一地方合戦に過ぎないように見えるかもしれない。しかし、その深層を分析すると、この戦いが織田信秀の時代の終焉を早め、その子・信長の時代の幕開けを準備した、極めて重要な分水嶺であったことが明らかになる。加納口での手痛い敗北がなければ、後の織田信長と斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)との政略結婚は成立せず、織田家は北の美濃と東の今川という二大勢力に挟撃されるという、絶え間ない戦略的脅威に晒され続けたであろう。
本報告書は、この加納口の戦いを単なる戦闘記録としてではなく、戦国という時代の力学を象徴する出来事として捉え、その背景、両軍の戦略、合戦のリアルタイムな展開、そして歴史に与えた深遠な影響に至るまで、あらゆる角度から徹底的に分析・考察するものである。
第一章:戦雲の源流 ― 美濃における下剋上と尾張の介入
加納口の戦いを理解するためには、まずその舞台となった美濃・尾張両国が、当時いかなる政治情勢下にあったのかを深く掘り下げねばならない。この戦いは、美濃国における壮絶な下剋上と、それに乗じて勢力拡大を図る尾張の野心が交錯した、必然の帰結であった。
斎藤道三の台頭
戦いの主役の一人、斎藤道三は、戦国時代を代表する下剋上の体現者である。油売りという微賤の身から身を起こし、その才覚と冷酷なまでの合理主義で美濃の実権を掌握していった様は、まさに「美濃の蝮」の異名にふさわしい 1 。当時の美濃国は、守護大名である土岐氏の内部で家督争いが続いており、国内は疲弊し、権威は失墜していた。道三はこの混乱に乗じ、まず守護代・斎藤氏の家臣となり、やがて主家を乗っ取る。そしてついには、自らが仕えた美濃守護・土岐頼芸を国外へ追放し、名実ともに美濃国主の座に君臨するに至った 3 。道三のこの一連の行動は、旧来の権威や秩序を全く意に介さない、実力のみが支配する新時代の到来を告げるものであった。
織田信秀の野心と戦略
一方、尾張国では織田信秀がその勢力を急速に拡大していた。「尾張の虎」と恐れられた信秀は、津島・熱田といった港湾を掌握することで得た強大な経済力を背景に、積極的な領土拡大政策を推進していた 4 。しかし、彼の戦略には構造的な脆弱性が内在していた。尾張国内の完全な統一を成し遂げるよりも、国外への領土拡張を優先した結果、北の美濃(斎藤道三)と東の三河(松平氏、そしてその背後に控える駿河の今川氏)という、二つの強力な敵と同時に向き合う「二正面作戦」を強いられていたのである 4 。この戦略は、信秀の軍事資源を常に分散させ、一つの戦線に全力を集中することを困難にしていた。
介入の大義名分
信秀の美濃侵攻は、単なる領土的野心のみによるものではなかった。彼は、道三によって追放された前美濃守護・土岐頼芸を保護し、「頼芸を正統な守護の座に復帰させる」という大義名分を掲げた 3 。これは、自らの軍事行動を正当化し、美濃国内に数多く存在するであろう反道三勢力の支持を取り付けるための、巧みな政治的戦略であった。信秀は自らを「旧秩序の回復者」として演出し、道三を「主家を追放した簒奪者」として断罪することで、戦いを有利に進めようと画策したのである。
この対立構造を深く考察すると、加納口の戦いが単なる国境紛争には留まらない、より大きな時代の価値観の衝突であったことが見えてくる。土岐頼芸という伝統的権威を擁する織田信秀は、既存の守護・守護代体制という「旧秩序」の擁護者の立場にあった。対する斎藤道三は、実力で主君を追放し国を奪った、まさに下剋上という「新秩序」の体現者であった。したがって、この戦いは、伝統的権威と実力主義という、戦国時代という社会変革期における二つの異なるイデオロギーが、美濃の地で激突した代理戦争としての側面を色濃く持っていたのである。
第二章:刻まれた年代の謎 ― 天文13年説と16年説の比較検討
加納口の戦いを巡る研究において、最も基本的ながら未だに確定を見ていないのが、その発生年次である。主要な史料において、天文13年(1544年)と天文16年(1547年)の二つの説が並立しており、この年代の違いは、戦いの歴史的意義を解釈する上で極めて重要な意味を持つ 5 。
諸史料の提示
各説の根拠となる史料は以下の通りである。
- 天文13年(1544年)説 : この説の最も強力な根拠は、当代一流の文化人であった連歌師・谷宗牧が記した紀行文『東国紀行』の記述である。宗牧は天文13年10月に信秀の居城・那古野城を訪れ、「美濃で大敗を喫した」直後の信秀と面会したと記録している 6 。同時代の人物による直接的な記録であり、その史料的価値は非常に高い。『定光寺年代記』などもこの説を支持している 6 。
- 天文16年(1547年)説 : 一方、『甫庵信長記』や『享祿以來年代記』といった後代に編纂された軍記物や年代記の多くが、この年を合戦の年としている 6 。この説の最大の強みは、物語としての整合性である。この敗戦の直後、天文17年(1548年)から18年(1549年)にかけて、織田信長と斎藤道三の娘・濃姫の政略結婚が成立しており、大敗が和睦と政略結婚に直結したという因果関係が非常に明快になる。
- その他の記述 : 織田信長の最も信頼性の高い伝記とされる『信長公記』は、この合戦について詳述しているものの、年次を「ある月」としか記しておらず、年代特定の決定打とはなっていない 7 。また、『加納町市』のように、天文13年と16年の二度にわたって合戦があった可能性を示唆する史料も存在する 6 。
本報告書の立場
本報告書では、諸説を勘案した上で、 天文16年(1547年)説を主軸 として論を進める。谷宗牧の記述の信憑性は揺るがないものの、天文13年にも何らかの小規模な軍事衝突があり、16年に大規模な本戦が行われたという「二度合戦説」も視野に入れることで、史料間の矛盾はある程度解消できる。しかし、歴史の大きな流れを動かした決定的な戦いとしては、その後の政略結婚という重大な政治的帰結と時間的に近接し、強い因果関係を持つ1547年の戦いこそが、より重要であると判断する。
この年代設定は、信秀の戦略的意図を解釈する上で決定的な意味を持つ。もしこの大敗が1547年の出来事であれば、それは信秀が数年にわたり美濃・三河の二正面で戦力を消耗し続けた末の、限界点を露呈させた決定的敗北となる。事実、信秀は翌天文17年(1548年)には三河の小豆坂で今川軍にも敗北を喫している 3 。1547年の美濃での大敗、そして1548年の三河での敗戦という「連続的敗北」こそが、信秀に二正面作戦の破綻を悟らせ、北の美濃との和平を決断させた最大の動機であったと推察できる。これにより、彼は残存戦力を東の今川氏に集中させるという、現実的な戦略転換を迫られたのである。この文脈において、1547年説は歴史の力学を最も合理的に説明しうる。
表1:加納口の戦いに関する主要史料の記述比較 |
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史料名 |
記述されている年 |
織田軍兵力 |
織田軍死者数 |
主な討死武将 |
特記事項 |
『信長公記』 |
年次未記載 |
(記載なし) |
5,000人 |
織田信康、青山信昌 |
撤退中に奇襲を受け大敗した経緯を詳述。 |
『定光寺年代記』 |
天文13年 |
(記載なし) |
2,000人 |
(記載なし) |
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『東国紀行』 |
天文13年 |
(記載なし) |
(記載なし) |
(記載なし) |
著者の谷宗牧が敗戦後の信秀と面会。 |
『甫庵信長記』 |
天文16年 |
(記載なし) |
(記載なし) |
(記載なし) |
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『美濃国諸旧記』 |
(諸説併記) |
約10,000人 |
5,000人 |
織田信康、因幡守達広 |
土岐頼芸を擁しての侵攻という背景を記述。 |
第三章:両軍の陣容と戦略
加納口の戦いは、織田信秀の攻撃的な示威行動と、斎藤道三の老獪な防衛戦略が真っ向から衝突した戦いであった。両軍の構成と戦略目標を比較することで、勝敗を分けた要因がより鮮明に浮かび上がる。
織田軍
- 総大将 : 織田信秀
- 兵力 : 尾張国中から動員された兵力は、史料により幅があるものの、約1万から数万規模の大軍であったと推定される 3 。
- 主要武将 : 総大将・信秀の脇を固めるのは、彼の弟であり犬山城主でもあった織田信康、家老の青山信昌(史料によっては秀勝)、そして一族の因幡守達広といった、織田家の中核をなす面々であった 3 。
- 戦略 : 信秀の戦略は、圧倒的な軍事力を背景にした示威行動にあった。美濃国内深くまで侵攻し、斎藤道三の居城・稲葉山城の城下まで迫って放火や破壊活動(いわゆる苅田狼藉)を繰り返すことで、道三の権威を失墜させ、美濃国人衆の離反を誘うことを狙った 7 。あわよくば、挑発に耐えかねて城から出てきた斎藤軍を、得意の野戦で一挙に粉砕しようという算段であった。これは、自軍の力を誇示し、敵の戦意を削ぐという、当時の正攻法ともいえる戦術であった。
斎藤軍
- 総大将 : 斎藤道三
- 兵力 : 斎藤軍の兵力は不明であるが、道三が後に近隣の大桑城を1万3千の兵で攻め落としていることから 6 、稲葉山城にも相当数の兵力を篭めていたことは間違いない。
- 主要武将 : この戦いにおける具体的な参戦武将の記録は乏しいが、当時の斎藤家には、後に「西美濃三人衆」と称される安藤守就、稲葉一鉄(良通)、氏家卜全といった有力な国人領主たちが仕えていた 12 。彼らがそれぞれの兵を率いて、道三の指揮下で防衛体制を敷いていた可能性は極めて高い。
- 戦略 : 道三の戦略は、信秀のそれとは対照的であった。彼は織田軍の挑発には一切乗らず、堅城・稲葉山城に籠城し、徹底した防衛策をとった 7 。これは、敵の焦りを誘い、長陣による士気の低下と油断が生まれた瞬間を待つという、計算され尽くした持久戦術であった。地の利を最大限に活かし、戦いの主導権を相手に渡さず、自らが望む形で決戦の時を迎えるという、蝮の如き忍耐の戦略である。
両軍の構成を比較すると、一つの興味深い対比が見られる。織田軍が信秀とその一族・譜代家臣を中心としたトップダウン型の指揮系統を持つ軍隊であったのに対し、斎藤軍は道三という絶対的な権力者の下に、それぞれが独立した勢力を持つ美濃国人衆が連合した形態であった可能性が高い。この軍隊の性質の違いが、戦術の柔軟性に影響を与えたことも考えられる。信秀の「見せる」ための大軍に対し、道三は地の利を知り尽くした国人衆を巧みに配置し、「隠れて待つ」実戦的な迎撃態勢を整えていたのではないか。この指揮系統と軍隊の性質の違いこそが、道三の奇襲成功の土台となった可能性がある。
表2:加納口の戦いにおける両軍の構成 |
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勢力 |
総大将 |
主要武将(判明分) |
推定兵力 |
戦略目標 |
織田軍 |
織田信秀 |
織田信康、青山信昌、因幡守達広 |
約10,000~数万人 |
示威行動による斎藤方の切り崩しと野戦への誘導 |
斎藤軍 |
斎藤道三 |
(安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全らが参陣か) |
不明(数千~1万人規模か) |
籠城による持久戦と、敵の油断を突いた奇襲 |
第四章:合戦詳報 ― 稲葉山城下、血戦の一日(時系列再現)
天文16年9月22日、美濃国加納口。この日、稲葉山城下で繰り広げられた一日の出来事は、織田信秀の運命を大きく変えることになる。諸史料の記述を基に、その血戦の模様を時系列に沿って再現する。
【侵攻開始:9月初旬~21日】
天文16年9月3日、織田信秀は尾張国中に動員令を発し、美濃への侵攻を開始した 6 。尾張の諸将を率いた数万の軍勢は、国境の木曽川を渡り、美濃国内へと雪崩れ込んだ。進軍経路の村々は次々と織田軍によって火を放たれ、収穫を間近に控えた田畑は踏み荒らされた。美濃の空には何本もの黒煙が立ち上り、それは斎藤道三に対する無言の圧力であり、美濃の民に織田の威光を見せつけるための示威行動であった。織田軍は抵抗らしい抵抗を受けることなく、順調に進軍を続けた。
【決戦当日:9月22日 午前~午後3時頃】
決戦の日、織田軍はついに斎藤道三の居城・稲葉山城の山麓にまで到達した。眼前にそびえる難攻不落の城を睨みつけながら、信秀は攻撃の総仕上げとばかりに、城下の村々や町への焼き討ちを命じた。炎は瞬く間に広がり、城の入り口である「町口」にまで迫った 7 。
稲葉山城の天守からこの光景を見下ろす斎藤道三の胸中は、いかばかりであったか。麓の町が燃え盛り、自らの領民が略奪されるのを、ただ黙って見ているしかなかった。しかし、これは全て道三の計算の内であった。彼は城門を固く閉ざし、一切の反撃を許さない。この沈黙は、織田軍の兵士たちの間に、「道三は恐れをなして出てこない」「もはや我々の勝利は目前だ」という油断と慢心を確実に広げていった。
【転機:同日 午後4時頃(申の刻)】
その日の戦果に満足した織田信秀は、日没も近いことから軍の撤退を決定する 6 。時刻は申の刻、午後4時頃。西に傾き始めた太陽が、兵士たちの長い影を地面に落としていた。攻撃から撤退へと移行するこの瞬間、いかなる軍隊であっても緊張は緩み、規律は乱れる。隊列は前後に伸びきり、指揮系統は一時的に麻痺状態に陥る。兵士たちの意識は、もはや眼前の敵ではなく、尾張の自陣へと向かっていた。彼らは勝利の余韻に浸り、この日最も無防備な状態にあった。
【奇襲:同日 午後4時過ぎ】
まさにその時であった。織田軍の半分ほどが撤退を完了し、後衛部隊がまさに陣を払おうとした、その一瞬を狙いすまして、稲葉山城の城門が突如として開かれた。城内から堰を切ったように溢れ出した斎藤の兵が、鬨の声を上げながら津波のように殺到する 2 。
完全に不意を突かれた織田軍の後衛は、反撃の態勢を整える間もなく、斎藤軍の猛攻に飲み込まれた。撤退中であったはずの兵士たちは大混乱に陥り、ある者は武器を捨てて逃げ惑い、ある者はなすすべもなく討ち取られていった。道三はこの瞬間を、城の上から冷静に、そして確信を持って待ち続けていたのである。彼の戦術は、敵を誘い込む「釣り野伏せ」の応用形とも言えるが、偽の敗走で敵を誘うのではなく、敵が自ら勝利を確信し、最も無防備になる瞬間まで待ち続けるという、より高度な心理戦であった。彼は敵の行動心理を完璧に読み切り、その脆弱性が最大になる一点を正確に突いたのだ。
【崩壊:同日 夕刻】
後衛の崩壊は、瞬く間に織田軍全体に伝播した。軍は総崩れとなり、統制を失った敗走へと転じた。この混乱の渦中、軍の中核を担っていた信秀の弟・織田信康や、家老の青山信昌らが、必死に踏みとどまって奮戦するも、押し寄せる斎藤軍の勢いを止めることはできず、次々と討ち死にを遂げた 3 。大将クラスの戦死は、兵士たちの士気を完全に打ち砕いた。この一撃で、織田軍は実に5,000人もの死者を出すという、壊滅的な打撃を受けたのである 6 。総大将の織田信秀自身も危機に陥ったが、側近たちの決死の奮闘により、辛うじて戦場を離脱することができた。
【撤退:同日 夜】
日が落ち、闇に包まれた美濃路を、信秀は命からがら少数の供回りとともに尾張へと落ち延びていった 3 。数刻前まで、意気揚々と勝利を確信して進軍した道は、今や悪夢の逃走路と化していた。斎藤軍は深追いをしなかったが、その必要もなかった。この一日で、織田信秀の誇りと軍事力は、完膚なきまでに打ち砕かれたのである。この敗北は、信秀の心に、そして織田家の歴史に、深い傷跡として刻まれた。
第五章:勝敗の分析 ― 蝮の知略と虎の慢心
加納口の戦いは、斎藤道三の知略が織田信秀の軍事力を凌駕した、戦国史における鮮やかな逆転劇であった。その勝敗を分けた要因は、両将の戦略思想と心理状態に深く根差している。
斎藤軍の勝因
斎藤道三の勝利は、決して偶然の産物ではない。それは、計算され尽くした戦略と、鉄の如き忍耐力がもたらした必然の結果であった。
- 知略と忍耐 : 道三は、信秀の圧倒的な軍勢と派手な挑発行動に対し、決して感情的にならなかった。彼は城下を焼かれても動じず、ひたすら籠城を続けることで、敵の心に「侮り」という毒を植え付けた 2 。これは、敵の心理を巧みに操る、高度な知略の表れである。
- タイミングの妙 : 彼の戦術の真骨頂は、攻撃を開始した完璧なタイミングにある。軍事行動において、攻撃から撤退へ移行する瞬間は、最も統制が乱れ、防御が手薄になる。道三はこの「脆弱性の窓」を正確に見極め、全軍の力をその一点に集中させた 6 。
- 地の利の活用 : 居城である稲葉山城は、天然の要害であった。彼はこの地の利を最大限に活用し、自軍が最も有利に戦える状況を作り出した 3 。敵を自らの土俵に引きずり込み、万全の態勢で迎え撃ったことが、勝利を決定づけた。
織田軍の敗因
一方、数に勝る織田軍がなぜかくも無残な敗北を喫したのか。その原因は、信秀自身の慢心と戦略的な行き詰まりにあった。
- 戦略的慢心 : 信秀は、油売りから成り上がった道三の出自を侮り、その力量を過小評価していた可能性がある 3 。美濃国内の反道三勢力からの情報もあり、道三の支配は盤石ではないと高を括っていたのかもしれない。この慢心が、敵の策略に対する警戒心を鈍らせた。
- 戦術的油断 : 敵地深くまで容易に進軍でき、城下の焼き討ちにも抵抗がなかったことで、信秀と織田軍は完全に勝利を確信してしまった。その結果、最も警戒すべき撤退時において、殿(しんがり)の備えなどを怠った 3 。この一瞬の油断が、全軍の崩壊を招いた。
- 二正面作戦の弊害 : 長年にわたる美濃・三河での二正面作戦は、信秀の心に焦りを生じさせていた可能性も否定できない 4 。彼は美濃戦線で早期に決定的な勝利を収め、戦力を三河へ集中させたかった。この焦りが、慎重さを欠いた性急な攻撃と、楽観的な状況判断につながったとも考えられる。
この戦いは、織田信秀という武将の限界を浮き彫りにした。彼は経済力を背景とした物量で敵を圧する、正攻法を得意とする優れた軍事指揮官であった。しかし、道三のような謀略・策略に長けた「知将」タイプの相手に対しては、その戦術が硬直化し、柔軟に対応することができなかった。この父の失敗は、図らずも息子・信長にとって最高の教訓となったであろう。後の信長が、桶狭間の戦いで情報戦を駆使した奇襲で勝利し 16 、美濃攻略においては武力だけでなく西美濃三人衆の調略を多用したことの背景には、この加納口における父の苦い敗北という「反面教師」の存在があった。信秀の敗北は、信長の戦略思想をより多角的で深みのあるものへと進化させる、一つの契機となったのである。
第六章:戦後の新秩序 ― 政略結婚による同盟成立
加納口での壊滅的な敗北は、織田信秀の対美濃戦略を根底から覆し、尾張と美濃の間に新たな政治秩序を誕生させる直接的な原因となった。軍事的な敗北が、外交的な大転換を生んだのである。
織田家の戦略転換
加納口での大敗、そして翌天文17年(1548年)の三河・小豆坂における今川軍への敗戦 3 は、信秀に自らの力の限界を痛感させた。二つの戦線で同時に勝利を収めることは不可能であると悟った彼は、美濃への軍事侵攻という選択肢を完全に放棄する。そして、これまで敵対してきた斎藤道三との和平交渉へと、大きく舵を切った。これは、北の脅威である斎藤家と和睦することで背後の安全を確保し、残存する全戦力を東の宿敵・今川家対策に集中させるという、極めて現実的かつ合理的な戦略的判断であった。
濃姫との政略結婚
この戦略転換を具体化したのが、信秀の嫡男・織田信長と、斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)との政略結婚であった。この歴史的な縁談は、織田家の宿老・平手政秀らの尽力によってまとめられた 1 。この婚姻は、単なる和睦の証に留まらなかった。尾張と美濃という、隣接する二大勢力が同盟関係を結んだことで、東海地方の政治・軍事バランスは劇的に変化した。特に織田家にとって、常に脅威であった背後の憂いが無くなったことの戦略的価値は、計り知れないものがあった。
この同盟は、一見すると敗者である織田家が勝者である斎藤家に臣従したかのように見えるが、実態はより複雑であった。信秀は自らの代での美濃攻略を諦める代わりに、息子・信長の代にその可能性を託すという「次世代への投資」を行った。一方、勝利した道三にとっても、強力な織田家を娘婿に持つことは、美濃国内に根強く残る土岐氏支持派などの反対勢力を牽制し、自らの地位を安定させる上で大きなメリットがあった。彼は勝利に驕ることなく、最も有利な形で講和を結ぶという、現実的な判断を下したのである。かくして、この政略結婚は、信秀の「敗戦処理」であると同時に、道三の「勝利の果実の最大化」でもあり、両者の老獪な政治家としての一面が垣間見える、極めて合理的な政治的帰結であった。
戦後処理
この戦いの凄惨さを物語るものとして、織田方の戦死者を弔うために「織田塚」が建立されたことが記録されている 6 。5,000人もの将兵が命を落としたこの戦いの記憶は、塚という具体的な形で後世に伝えられた。この塚は後に円徳寺に改葬され、現在も岐阜市の史跡として残っている。それは、この敗北がいかに織田家にとって衝撃的であり、忘れがたいものであったかを静かに物語っている。
終章:加納口の戦いが歴史に与えた影響
加納口の戦いは、織田信秀の時代の終わりと、織田信長の時代の幕開けを間接的に促した、歴史の分水嶺であった。この一戦が戦国史の潮流に与えた影響は、計り知れないものがある。
第一に、この戦いは「尾張の虎」とまで呼ばれた織田信秀の軍事的名声に、拭い去ることのできない傷をつけた。彼の拡大戦略はここで大きな頓挫を迎え、以後、その勢威が往時の輝きを取り戻すことはなかった。信秀の時代の、事実上の終焉を告げる戦いであったと言える。
第二に、斎藤道三にとって、この勝利は決定的な意味を持った。「美濃の蝮」の異名は全国に轟き、下剋上によって得た美濃国主としての地位を盤石なものにした 1 。彼は単なる簒奪者ではなく、卓抜した知略を持つ戦国大名であることを、内外に証明したのである。
そして最も重要なのは、この戦いが織田信長に与えた影響である。父の敗北の結果として結ばれた斎藤家との同盟は、信長が家督を継いだ後、尾張国内の統一事業を遂行し、さらには桶狭間の戦いで今川義元を討ち取るという奇跡的な勝利を収めるための、極めて重要な布石となった。もしこの同盟がなければ、信長は常に背後の道三を警戒せねばならず、今川との決戦に全力を注ぐことは不可能であっただろう。父・信秀の手痛い敗北は、信長にとって最高の教訓となり、彼の権謀術数や情報戦を重視する戦略思想の形成に、多大な影響を与えたことは想像に難くない。
結論として、加納口の戦いは、織田家の敗北という形で幕を閉じた。しかし、歴史をより長い視点で俯瞰すれば、この敗北こそが、次代の英雄・織田信長を飛躍させるための不可欠な「生みの苦しみ」であったと評価できる。この一戦がなければ、後の信長による天下布武への道は、全く異なる、より困難なものになっていた可能性が高い。加納口の血戦は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、運命的な一戦だったのである。
引用文献
- 「美濃の蝮」として恐れられた斎藤道三は https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001552214.pdf
- 斎藤道三は何をした人?「油売りから出世した美濃のマムシが下克上で国を盗んだ」ハナシ https://busho.fun/person/dosan-saito
- 加納口の戦い(天文十六年九月二十二日) - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/data2/tenbun160922.html
- 「麒麟がくる」に登場 織田信秀の実像とは https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2020/02/16/212020
- 天文16年(1547)9月22日は稲葉山城下の加納口の戦いで織田信秀が斎藤道三に敗れた日。他に天文13年説と二度あった説がある。信秀は敗北後に重臣・平手政秀の働きで和睦を図り嫡男・信長 - note https://note.com/ryobeokada/n/n0bd0b0eda5de
- 加納口之戰- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%8F%A3%E4%B9%8B%E6%88%B0
- 加納口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 信長公記』「首巻」を読む 第4話「美濃国へ乱入し五千討死の事 - note https://note.com/senmi/n/n4ae8cbe3d8be
- 織田信康(織田信康と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/78/
- 戦国時代の「戦の作法」とは?刈田狼藉・釣り野伏せ・悪口など奇策も紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/64610/
- 加納口の戦い - 一万人の戦国武将 https://sengoku.hmkikaku.com/dekigoto/31mino/15440922kanougutinotatakai.html
- 氏家卜全(うじいえ ぼくぜん/氏家直元) 拙者の履歴書 Vol.302~三人衆から織田への転身 https://note.com/digitaljokers/n/nd79d58d944ac
- 安藤守就、氏家卜全たちと共に西美濃四人衆と言われた。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが http://www.fuwaiin.com/takehanajou-rekisi/fuwa-kawacinokami-hiyosj-jinja/fuwa%20mituharu-bunken.htm
- 「安藤守就」野心が災いの元。最期は追放・討死という憂き目に… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/621
- 「道三の罠」に大敗! 信長の父・織田信秀の波乱万丈人生【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/386725
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