加賀野井城の戦い(1573)
天正元年、織田信長は浅井氏の支城を次々攻略し、小谷城防衛線を崩壊させた。朝倉氏も滅亡し、浅井長政は孤立。信長の巧みな戦略により浅井氏は滅亡した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正元年・浅井氏滅亡戦記 — 小谷城防衛線の崩壊と「加賀野井城の戦い」の真相
序章:歴史的誤認の解明と本報告書の主題
日本の戦国時代における特定の合戦について、そのリアルタイムな戦況を時系列で把握したいというご要望は、歴史のダイナミズムを深く理解する上で極めて重要な視点です。今回、調査対象としてご指定いただいた「加賀野井城の戦い(1573)」、そしてその概要として示された「近江国(近畿):湖北湖岸の支城が落城し浅井方の防衛線が崩壊」という記述は、戦国史における重要な転換点を示唆しています。
しかしながら、詳細な調査を進める過程で、このテーマには歴史的事実との間に看過できない乖離が存在することが明らかとなりました。まず、「加賀野井城」は美濃国(現在の岐阜県羽島市)に実在した城であり、この城をめぐる主要な戦闘は、ご指定の天正元年(1573年)ではなく、その11年後である天正12年(1584年)、「小牧・長久手の戦い」の一環として発生しています 1 。この戦いは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田信雄・徳川家康連合軍に与する加賀野井秀望の守る城を攻略したものであり、地理的にも時期的にもご指定の概要とは異なります。
一方で、天正元年(1573年)に「近江国」で起こり、「浅井方の防衛線が崩壊」した決定的な出来事は、織田信長による浅井長政の居城・小谷城への最終攻撃、すなわち「小谷城の戦い」とその前哨戦に他なりません 4 。この一連の戦闘において、小谷城を防衛する支城群—山本山城、丁野山城、中島城などが次々と陥落し、浅井氏の防衛網は文字通り崩壊、滅亡へと至りました 6 。
以上の分析から、ご下問の真意は、名称こそ「加賀野井城の戦い」とされていますが、その実質的な内容は「1573年に浅井氏の滅亡を決定づけた、小谷城周辺の支城を巡る一連の攻防戦」にあると結論付けられます。
したがって、本報告書は、この歴史的背景を明確にした上で、ご要望の核心である「1573年の浅井氏防衛線崩壊」のプロセスを、可能な限り詳細な時系列分析によって再現することを主目的とします。合戦の背景から、戦場の地理的・戦略的分析、そして防衛線が崩壊していく様を日付ごとに追い、その歴史的意義を深く考察します。さらに、本来の「加賀野井城の戦い(1584年)」についても補遺として詳述し、歴史上の混同を解消することで、包括的な理解の一助となることを目指します。
第一部:背景 — 決戦に至る道程
天正元年(1573年)の浅井氏滅亡は、突発的に生じた悲劇ではありません。それは、元亀元年(1570年)の織田信長と浅井長政の決裂から始まった、約3年間にわたる熾烈な抗争の最終局面であり、信長が周到に張り巡らせた戦略的包囲網の帰結でした。
元亀争乱と信長包囲網
かつて信長の妹・お市の方を娶り、固い同盟関係にあった浅井長政は、元亀元年(1570年)、信長が長年の同盟相手であった越前の朝倉義景を攻撃したことを機に、信長から離反します 8 。この長政の決断は、信長を背後から脅かすものであり、これにより武田信玄、本願寺勢力、三好三人衆など反信長勢力が連携する「信長包囲網」が形成され、信長は絶体絶命の危機に陥りました。
同年6月、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は、近江国姉川の河原で激突します(姉川の戦い)。この戦いで浅井・朝倉軍は敗北を喫したものの、壊滅には至らず、長政は居城・小谷城に籠城し、抵抗を続けました 8 。その後、両者の戦いは志賀の陣などで一進一退の攻防を繰り広げ、長期戦の様相を呈していきます 8 。
浅井氏の漸次的弱体化 — 織田軍の「絞殺」戦略
姉川の戦い以降、信長の戦略は単なる力押しではなく、時間をかけて浅井氏の生命線を断ち切っていく、いわば「絞殺」とも呼べる周到なものでした。1573年の劇的な崩壊は、この数年にわたる戦略的圧迫の末に訪れた必然的な結末だったのです。
第一段階は、浅井氏の勢力圏を南北に分断することでした。信長は、浅井領の南の拠点であり、猛将・磯野員昌が守る佐和山城に狙いを定めます。佐和山城は織田軍の執拗な攻撃に約7ヶ月間耐え抜きましたが、小谷城からの後詰めを得られず孤立し、元亀2年(1571年)2月、ついに開城を余儀なくされました 11 。これにより、浅井氏は南近江との連絡を完全に遮断され、その勢力圏は湖北一帯に封じ込められることになります。
第二段階は、物理的・心理的な圧迫の強化です。信長は、孤立した小谷城のわずか500メートル前方、北国脇往還を挟んで対峙する虎御前山に、対小谷城用の付城(陣城)を築城します 6 。これは、街道を掌握し、小谷城を間近から監視・威圧するための拠点であると同時に、城内から見える場所に敵の城が聳え立つという、浅井方の将兵の士気を日々削いでいくための強力な心理的楔でもありました。
天正元年、最終局面へ
膠着状態が続く中、天正元年(1573年)7月、信長包囲網の盟主であった室町幕府第15代将軍・足利義昭が、信長に対して槇島城で挙兵します。しかし、信長は迅速にこれを鎮圧し、義昭を京から追放しました(槇島城の戦い) 5 。これにより、信長包囲網はその「大義名分」という精神的支柱を失い、事実上崩壊します。信長は後顧の憂いを断ち、ついに浅井・朝倉の息の根を止めるべく、全力を投入できる状況を創り出したのです。
この年、元号は「元亀」から「天正」へと改元されました 5 。それはあたかも、旧時代の権威が終焉を迎え、信長による新たな天下布武の時代が本格的に到来することを象徴するかのようでした。北近江の空には、決戦の暗雲が垂れ込めていたのです。
第二部:北近江の要害 — 小谷城郭群の戦略地政学
浅井氏の滅亡に至る戦いを理解するためには、その舞台となった小谷城と、それを取り巻く支城群が形成する防衛ネットワークの戦略的価値を把握することが不可欠です。浅井氏の防衛思想は、単一の城で敵を迎え撃つのではなく、複数の城砦が有機的に連携する「城郭群」として、地域全体を要塞化するものでした。
難攻不落の小谷城
浅井氏三代の居城・小谷城は、標高約495メートルの小谷山に築かれた、戦国時代を代表する巨大山城です 16 。春日山城や七尾城などと並び「日本五大山城」の一つに数えられるその構造は、極めて堅固でした 18 。
城の中心部は、山の尾根筋に沿って主要な曲輪(郭)を直線的に配置した「連郭式」の縄張りで構成されています。山頂の本丸には当主・浅井長政が、その麓の小丸には父・久政がそれぞれ拠り、両者の中間に位置する京極丸が連絡路の役割を果たしていました 5 。これらの主要区画は、急峻な地形と深い堀切、堅固な土塁によって守られており、力攻めによる攻略は至難の業とされていました。
小谷城防衛ネットワーク
小谷城の真価は、その単体の堅固さ以上に、周囲の支城群と一体となって機能する広域防衛システムにありました。これらの支城は、小谷城へ至る交通の要衝を固め、敵の接近を阻むとともに、相互に連携して防衛線を形成していました。
- 山本山城: 小谷城の北方、琵琶湖岸に突き出すように位置する、湖北防衛の最重要拠点です 20 。北陸から京へ向かう交通路を扼する戦略的要衝であり、この城を失うことは、小谷城の北の門が破られることを意味しました 22 。
- 大嶽砦: 小谷城の背後、北に連なる尾根の頂に築かれた砦です。ここは、同盟国である朝倉氏からの援軍が駐屯する前線基地としての役割を担っていました 5 。小谷城と一体化し、北からの脅威に備えるための最前線でした。
- 丁野山城・中島城: 小谷城の西麓、織田軍の本陣である虎御前山との間に位置する支城群です 6 。これらの城は、信長の本陣を間近に牽制し、西側からの攻撃に対する防波堤となる重要な役割を持っていました。丁野山城には朝倉方の平泉寺の僧兵が、中島城には浅井家臣の中島氏がそれぞれ守備に就いていました 23 。
織田軍の拠点・虎御前山城
この鉄壁の防衛網に対し、織田信長が築いた虎御前山城は、極めて大胆かつ効果的な拠点でした。小谷城から平地と街道を隔ててわずか500メートルの距離にあり、小谷城内からその動きが一望できるほどの近さでした 14 。このような至近距離に本陣を構えることは、よほどの自信がなければ極めて危険な行為です。しかし信長は、この城を拠点とすることで、北国脇往還という主要街道を完全に掌握し、小谷城に絶え間ない圧力をかけ続けることを可能にしたのです。まさに、王手をかけた将棋の駒のように、虎御前山城は小谷城の喉元に突きつけられた刃でした。
第三部:合戦詳説 — 浅井氏防衛線崩壊の20日間(時系列分析)
天正元年8月、将軍・足利義昭を追放し、後顧の憂いを断った織田信長は、ついに浅井・朝倉連合の息の根を止めるべく、総力を挙げて北近江へ侵攻します。ここからの約20日間は、浅井氏三代の栄華が音を立てて崩れ落ちていく、まさに怒涛の展開となりました。以下の時系列表は、その運命の日々の概要を示したものです。
表:浅井氏滅亡戦 タイムライン(天正元年8月8日~9月1日)
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日付 |
主要な出来事 |
場所 |
関係勢力・人物 |
備考 |
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8月8日 |
阿閉貞征、織田方へ寝返る |
山本山城 |
阿閉貞征、羽柴秀吉 |
防衛線崩壊の起点 |
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8月10日 |
信長、虎御前山に着陣 |
虎御前山 |
織田信長 |
総攻撃の準備完了 |
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8月12日 |
大嶽砦、陥落 |
小谷城・大嶽砦 |
織田軍、朝倉軍 |
朝倉軍の士気低下 |
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8月13日 |
支城群の連鎖的陥落 |
丁野山城、中島城 |
織田軍、浅井・朝倉軍 |
防衛線が完全に崩壊 |
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8月14日 |
朝倉軍、越前へ撤退開始 |
- |
朝倉義景 |
小谷城の孤立が決定的に |
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8月20日 |
朝倉義景、自刃。朝倉氏滅亡 |
越前・賢松寺 |
朝倉義景、朝倉景鏡 |
背後の脅威が消滅 |
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8月27日 |
小谷城総攻撃、京極丸陥落 |
小谷城・京極丸 |
羽柴秀吉、浅井軍 |
本丸と小丸が分断 |
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8月28日 |
浅井久政、自刃 |
小谷城・小丸 |
浅井久政 |
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9月1日 |
浅井長政、自刃。小谷城落城 |
小谷城・本丸 |
浅井長政 |
浅井氏滅亡 |
天正元年8月8日:防衛線崩壊の引き金 — 阿閉貞征の寝返り
運命の日は、浅井氏にとって最悪の形で幕を開けました。浅井家譜代の重臣であり、湖北防衛の要である山本山城を守る阿閉貞征が、羽柴秀吉の執拗な調略に応じ、織田方へ寝返ったのです 5 。
この寝返りは、単に一つの城と兵力を失った以上の、壊滅的な打撃を浅井・朝倉連合軍に与えました。それは、連合軍の防衛戦略そのものを根底から覆す「構造的破壊」でした。山本山城は、小谷城の北方を固める蓋の役割を果たしていました。その蓋が内側から開けられたことで、織田軍は小谷城の背後に自由に兵力を展開することが可能となり、朝倉義景率いる援軍が陣取る大嶽砦は、常に背後を脅かされる危険に晒されることになったのです 20 。
さらに深刻だったのは、心理的な打撃です。長年苦楽を共にしてきた譜代の重臣の裏切りは、小谷城内に籠る将兵たちに計り知れない動揺と相互不信を植え付けました 26 。物理的な防衛線に亀裂が入ると同時に、将兵たちの結束という心理的な防衛線もまた、この瞬間に崩れ始めたのです。阿閉貞征の裏切りは、浅井氏滅亡というドミノ倒しの、まさに最初の牌となりました。
8月10日~12日:朝倉援軍への打撃 — 大嶽砦の攻防
この好機を信長が見逃すはずはありませんでした。8月10日、信長は3万と号する大軍を率いて、小谷城の眼前に築いた虎御前山城に本陣を移し、総攻撃の態勢を整えます 5 。
信長の最初の狙いは、小谷城本体ではなく、その背後に陣取る朝倉の援軍でした。12日、織田軍は朝倉軍が籠る大嶽砦への攻撃を開始します。この時、砦を守る浅井方の浅見氏もまた信長に寝返り、城内に敵兵を引き入れたとされます 6 。内応によって守りが手薄になった砦は、織田軍の猛攻の前に持ちこたえることができず、同日のうちに陥落しました 6 。
8月13日:支城網の総崩れ — 丁野山城・中島城の陥落
大嶽砦の陥落は、小谷城を取り巻く他の支城群の動揺を誘いました。信長はこの機を逃さず、翌13日、小谷城西麓の支城群に総攻撃をかけます。
朝倉方の平泉寺玉泉坊らが守る丁野山城は、織田軍の攻撃の前に降伏し、落城 28 。時を同じくして、浅井家臣の中島直親が守っていた中島城もまた陥落しました 7 。この日の戦闘により、小谷城の西側を守る防衛網は完全に消滅。ご下問の概要にあった「湖北湖岸の支城が落城し浅井方の防衛線が崩壊」という状況は、まさにこの日に現実のものとなったのです。
8月14日~20日:運命共同体の崩壊 — 朝倉軍の壊走と滅亡
信長の真の狙いは、単に小谷城の支城を落とすことではありませんでした。それは、支城を叩くことで朝倉義景の戦意を削ぎ、彼を戦場から引きずり出し、最も脆弱な撤退の過程で殲滅することにあったのです。小谷城の支城攻めは、より大きな獲物である朝倉氏そのものを滅ぼすための、巧妙な「誘い出し」の罠でした。
信長の思惑通り、自軍が守る砦が次々と陥落するのを見た朝倉義景は、完全に戦意を喪失。これ以上の籠城は無益と判断し、13日夜から14日にかけて、全軍に越前への撤退を命じました 6 。
この瞬間を、信長は待っていました。撤退を開始した軍は隊列が乱れ、統制を失いやすく、最も攻撃に弱い状態となります。信長は即座に全軍に追撃を命じ、刀根坂(現在の福井県敦賀市)で朝倉軍の殿(しんがり)部隊に追いつくと、一方的な猛攻撃を加えました(刀根坂の戦い)。朝倉軍はここで壊滅的な打撃を受け、義景はわずかな供回りとともに居城・一乗谷へ逃げ帰ります 5 。
勢いに乗る織田軍は、そのまま越前へ雪崩れ込み、18日には朝倉氏の栄華を象徴した城下町・一乗谷をことごとく焼き払いました 31 。追いつめられた義景は、従兄弟である朝倉景鏡の裏切りに遭い、8月20日、賢松寺にて自刃。ここに戦国大名・朝倉氏は滅亡しました 5 。
8月26日~9月1日:小谷城、落城
最大の頼みであった朝倉氏が滅亡し、小谷城は完全に孤立無援となりました。8月26日、越前の戦後処理を終えた信長は虎御前山へ帰還し、全軍に小谷城への総攻撃を命じます 5 。
27日夜、この最後の戦いで最大の武功を挙げたのが羽柴秀吉でした。秀吉率いる部隊は、闇夜に乗じて崖をよじ登り、本丸と小丸を繋ぐ重要拠点・京極丸への奇襲を敢行。守備兵の抵抗を排してこれを占拠することに成功します 5 。これにより、長政のいる本丸と父・久政のいる小丸の連絡は完全に遮断され、浅井軍は組織的な抵抗が不可能な状態に陥りました。
翌28日、織田軍の攻撃が集中した小丸にて、父・浅井久政は自らの運命を悟り、自刃して果てました 5 。
本丸のみとなった長政は、なおも2日間にわたって抵抗を続けましたが、もはや落城は時間の問題でした。9月1日、長政は最後の務めとして、妻・お市の方と三人の娘(茶々、初、江)を城外の信長のもとへ送り届けさせます。そして、重臣である赤尾清綱の屋敷に入り、静かに自刃しました。享年29 5 。ここに、北近江に君臨した浅井氏三代の歴史は、完全にその幕を閉じたのです。
第四部:戦後の影響と歴史的意義
小谷城の落城と浅井氏の滅亡は、単に一つの戦国大名家が消滅したという出来事に留まらず、戦国時代の勢力図を大きく塗り替え、新たな時代の到来を告げる画期的な出来事でした。特に、この戦いは後の天下人・豊臣秀吉の運命を決定づける重要な転機となりました。
羽柴秀吉の台頭と長浜城の築城
小谷城の戦いは、浅井氏の滅亡の物語であると同時に、「天下人・豊臣秀吉」が誕生する序曲であったと言えます。この一連の戦いにおける秀吉の功績は、他の武将の追随を許さないほど突出していました。戦端を開くきっかけとなった阿閉貞征の調略成功 21 、そして小谷城の運命を決定づけた京極丸の奇襲占拠 9 という、戦いの流れを二度も決定づける大功を挙げたのです。
信長は、この比類なき功績を高く評価し、戦後、滅亡した浅井氏の旧領である北近江三郡を秀吉に与えました 33 。これは、秀吉が織田家中で初めて「城持ち大名」となった瞬間であり、一介の足軽から身を起こした彼が、大名としての確固たる地歩を築いた記念すべき出来事でした。
領主となった秀吉は、旧主の居城であった小谷城には入りませんでした。山城である小谷城は防衛には優れていても、領国経営や商業の拠点としては不便であることを見抜いていたからです。彼は、琵琶湖の湖畔にあった今浜という地を「長浜」と改名し、そこに新たに長浜城を築城します 9 。そして、城下町を整備し、楽市楽座を敷くなどして、商業の振興に努めました。これは、中世的な軍事拠点としての山城から、近世的な経済・統治の拠点としての平城へと、城のあり方そのものが転換していく時代の流れを象徴する出来事であり、秀吉の先見の明を示すものでした。
北近江の支配構造の変化と歴史的意義
浅井氏の滅亡により、北近江の伝統的な国人領主による支配体制は終焉を迎え、織田政権の支配がこの地に深く浸透することになりました。そして、その支配の代行者として羽柴秀吉が着任したことは、後の日本の歴史に大きな影響を与えます。秀吉は長浜の地で優秀な家臣団を育成し、領国経営のノウハウを蓄積し、やがて信長の後継者として天下統一を成し遂げるための基盤を築き上げていきました。
総括すれば、天正元年の小谷城の戦いは、信長包囲網の中核であった浅井・朝倉という二大勢力を同時に滅亡させ、信長の天下統一事業を飛躍的に前進させた決定的な戦いでした。そして同時に、それは信長の後継者となる羽柴秀吉を歴史の表舞台へと押し上げる、運命の戦いでもあったのです。
補遺:美濃国「加賀野井城の戦い(1584年)」について
本報告書の主題である1573年の小谷城の戦いとの混同を避けるため、本来の「加賀野井城の戦い」について、その概要を以下に記します。
合戦の背景と位置
この戦いは、天正12年(1584年)、本能寺の変で斃れた織田信長の後継者の座をめぐり、羽柴秀吉と、信長の次男・織田信雄および徳川家康の連合軍が激突した「小牧・長久手の戦い」の過程で発生しました。加賀野井城は、美濃国(現在の岐阜県羽島市)の木曽川右岸に位置する平城でした 36 。
城主と戦闘の経過
当時の城主は、織田信雄に仕える加賀野井弥八郎秀望(重望とも記される)でした 3 。天正12年4月の長久手の戦いで手痛い敗北を喫した秀吉は、戦局を打開するため、同年5月、家康・信雄本体をおびき出す陽動として、美濃・尾張国境に点在する信雄方の諸城の攻略に乗り出します 1 。
秀吉は10万ともいわれる大軍を動員し、加賀野井城を包囲しました 1 。城を守る加賀野井勢は、信雄からの援兵を含めても2000余という寡兵でしたが、必死の防戦に努めました 3 。しかし、圧倒的な兵力差の前には抗しきれず、城はわずか一日で陥落したと伝えられています 1 。城主・秀望は城を脱出し、辛くも逃亡に成功しました 39 。秀吉軍は勢いに乗り、隣接する竹ヶ鼻城も攻略しています 1 。
その後の加賀野井氏と城
城主であった加賀野井重望は、後に秀吉に仕えることになりますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、三河国池鯉鮒での宴席で水野忠重を殺害する事件を起こし、自らも殺害されました。これにより加賀井氏は改易となり、その歴史を閉じます 37 。
加賀野井城もこの頃に廃城になったとみられ、さらに天正14年(1586年)の木曽川の大洪水や、その後の治水工事によって城郭の大部分は失われました 3 。現在、その故地は田園地帯となっており、往時を偲ばせるものは、わずかに残る石碑と案内板のみとなっています 39 。
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