勝瑞城再攻略(1585)
天正十三年、秀吉の四国征伐で阿波勝瑞城は無血接収。長宗我部元親は防衛拠点を一宮城へ移しており、秀吉は政治的象徴の城を巧みに利用。戦後、蜂須賀家政が徳島城を築き、阿波の中心は徳島へ移った。
天正十三年、阿波平定戦の実相:「勝瑞城接収」に至る道
序章:天下統一の奔流、四国へ
天正10年(1582年)6月、本能寺に響いた銃声は、日本の歴史を新たな段階へと押し進めた。主君・織田信長を失った羽柴秀吉は、驚異的な速度で京へ取って返し、山崎の地で明智光秀を討ち果たす 1 。この「中国大返し」と呼ばれる神速の行軍は、秀吉が信長の後継者としての地位を固めるための、最初の、そして最も決定的な一歩であった。続く賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を、小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康連合軍と対峙し巧みに和睦を結ぶことで、秀吉は天下統一事業の主導権を完全に掌握した。その視線は、もはや旧織田領の再編に留まらず、未だその威光に服さぬ西国の雄たちへと注がれていた。その筆頭が、四国を席巻しつつあった長宗我部元親であった。
「土佐の出来人」と称された長宗我部元親は、土佐一国を統一すると、その勢いを駆って四国全土の制覇へと乗り出していた 2 。当初、元親は信長と友好関係にあり、信長から嫡男・信親に一字を拝領するなど、良好な関係を築いていた 4 。しかし、阿波の三好氏の処遇を巡って両者の間に齟齬が生じ、関係は急速に悪化。信長は三男・信孝を総大将とする四国征伐軍を編成するが、その矢先に本能寺の変が勃発する 4 。
信長の死という千載一遇の好機を、元親は見逃さなかった。彼は阿波、讃岐、伊予へと破竹の進撃を続け、天正13年(1585年)春には伊予の河野氏を降伏させ、四国統一をほぼ成し遂げるに至る 6 。だが、その絶頂期はあまりにも短かった。天下人への道を突き進む秀吉は、信長が築いた対立構造をそのまま継承し、元親に対して臣従を求めたのである。秀吉は讃岐・伊予両国の返上を条件とする和睦案を提示したが、長年にわたる戦の末に手にした領土を易々と手放すことを元親の誇りが許さなかった。「伊予一国の返上以外は応じられぬ」という元親の返答は、事実上の交渉決裂を意味した 9 。
ここに、豊臣秀吉による四国平定の役が決定される。秀吉が動員した兵力は、まさに空前絶後であった。弟の羽柴秀長を総大将に任じ、総勢10万を超える大軍を編成 3 。その作戦は、長宗我部氏の防衛力を分散させ、戦意を根底から打ち砕くことを目的とした、周到な三方面同時侵攻であった。
- 阿波方面軍: 総大将・羽柴秀長、副将・羽柴秀次(後の豊臣秀次)、そして蜂須賀正勝、黒田孝高ら歴戦の将を配した約6万の主力部隊。淡路島を経由し、阿波の玄関口を突く 12 。
- 讃岐方面軍: 備前の宇喜多秀家を主将とし、仙石秀久らを加えた約2万3千。瀬戸内海を渡り、讃岐へ上陸 4 。
- 伊予方面軍: 中国地方の毛利輝元を動員し、その麾下で戦巧者として知られる小早川隆景、吉川元長らが率いる約3万から4万。安芸・備後から伊予へ渡海する 4 。
この大包囲網は、単なる軍事侵攻に留まらない。元親が主戦場と予測し、兵力を集中させていたであろう阿波方面だけでなく、同時に伊予・讃岐からも攻め入ることで、長宗我部方の防衛構想そのものを無に帰せしめる狙いがあった。兵力で圧倒的に劣る長宗我部軍は、兵力の分散を余儀なくされ、各個撃破の危機に瀕する。それは、秀吉が得意とした兵糧攻めや水攻めと同様に、物理的な戦闘が始まる前に、既に戦略的な段階で勝敗を決しようとする、彼の卓越した戦術思想の現れであった。天下統一の巨大な奔流は、四国の覇者の野望を飲み込むべく、瀬戸内海を越えようとしていた。
第一章:決戦前夜の阿波国
天正13年(1585年)の豊臣軍侵攻を正確に理解するためには、時計の針を3年前に戻し、阿波国の支配者が劇的に交代した「中富川の戦い」を検証する必要がある。この戦いこそが、阿波における軍事戦略の拠点を大きく転換させ、1585年の「勝瑞城接収」が戦闘なき結末を迎える直接的な伏線となったからである。
天正10年の激震:中富川の戦いと勝瑞城陥落
本能寺の変によって織田氏の圧力が消滅した好機を捉え、長宗我部元親は2万3千と号する大軍を率いて阿波へと雪崩れ込んだ 5 。迎え撃つは、かつて阿波を支配した三好氏の血を引く十河存保。彼は阿波・讃岐の兵5千を勝瑞城に集結させ、元親の挑戦を敢然と受けて立った。両軍は勝瑞城の南を流れる中富川を挟んで対峙し、天正10年8月28日、決戦の火蓋が切られた 14 。
兵力で4倍以上も上回る長宗我部軍の猛攻の前に、十河軍は奮戦するも衆寡敵せず、多くの将兵を失い敗走。存保は勝瑞城での籠城を余儀なくされる 14 。元親は2万の兵で城を幾重にも包囲し、阿波の旧都は息詰まる攻防戦の舞台となった。攻城戦の最中、天候が急変し、数日間にわたる記録的な豪雨が吉野川流域を襲った。『元親記』や『三好記』などの軍記物によれば、この大洪水によって城の周囲一帯が湖のようになり、攻め手の長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登って難を逃れるほどの惨状であったという 15 。この天災は戦況にも影響を与え、城方にとっては補給の好機となり、攻め手にとっては苦難を強いたが、大局を覆すには至らなかった。
約20日間にわたる包囲の末、援軍の望みも絶たれた十河存保はついに降伏を決断。天正10年9月21日、勝瑞城を明け渡し、手勢と共に讃岐へと退去した 14 。ここに、室町時代から阿波に君臨した名門・三好氏の支配は完全に終焉を迎え、阿波国の政治的象徴であった勝瑞城は、長宗我部元親の手に落ちたのである。
長宗我部氏の阿波統治と防衛拠点の戦略的シフト
阿波を手中に収めた元親は、その支配体制を盤石にするため、国内の主要な城郭に一族や譜代の重臣を配置した 16 。
- 岩倉城: 長宗我部掃部頭
- 脇城: 長宗我部親吉(元親の弟)
- 牛岐城: 香宗我部親泰(元親の弟)
- 一宮城: 江村親俊(北城)、谷忠澄(南城)
これらの城は、阿波の東西南北に睨みを利かせる戦略的拠点であった。しかし、その中で、来るべき秀吉との決戦を見据えた元親の防衛構想は、大きな転換を遂げていた。その鍵となるのが、平城である「勝瑞城」から山城である「一宮城」への戦略的重心の移動である。
勝瑞城は、細川氏の守護所として、また三好氏の本拠として、阿波の政治・経済・文化の中心地として栄華を極めた 17 。その構造は、大規模な濠と土塁に囲まれた複数の郭からなる複郭式の館を中心とした平城であり、城下町と一体化した守護町であった 19 。しかし、それは平時の統治には適していても、秀吉が動員するような圧倒的な大軍による包囲攻撃に対しては、本質的に脆弱であった。
一方で、一宮城は徳島平野の南西に聳える、標高約144メートルの気延山に築かれた天然の要害であった 21 。険しい山容に守られ、複数の曲輪が巧みに配置されている。元親はこの城の軍事的価値を極めて高く評価し、阿波支配の直後から城の大規模な改修に着手。従来の北城に加え、新たに南城を増築し、腹心である谷忠澄を城代として配置した 21 。さらに、籠城戦の生命線である水を確保するため、城内には大規模な貯水池が設けられていた 21 。
この一連の動きは、元親の冷徹な戦略眼を物語っている。彼は、秀吉との決戦において、平野部での正面衝突がいかに無謀であるかを理解していた。勝算は、山城の堅固な守りを活かした持久戦に持ち込み、敵の消耗を誘うことにある。天正13年の侵攻時、元親自身が阿波西部の山間にある白地城に本陣を構え、東部防衛線の要として一宮城を位置づけていた事実が、その戦略を裏付けている 4 。
つまり、1585年の時点で、阿波における長宗我部方の実質的な軍事中枢は、もはや勝瑞城にはなかった。勝瑞城は旧時代の政治的象徴であり、一宮城こそが、四国の命運を賭けた最終防衛拠点だったのである。この戦略的判断こそが、「勝瑞城再攻略」が大規模な戦闘に至らなかった最大の理由であった。
第二章:阿波侵攻、その軌跡(時系列解説)
天正13年(1585年)6月、豊臣秀吉が放った四国征伐軍は、長宗我部元親が築き上げた四国支配の牙城を、三方から同時に揺るがした。本章では、その中でも主戦場となった阿波国における一ヶ月余りの攻防を、合戦のリアルな空気が伝わるよう、時系列に沿って詳述する。
【表1】天正13年 阿波平定戦 関連年表
年月日(1585年) |
出来事 |
6月中旬 |
羽柴秀長・秀次軍、阿波国・土佐泊に上陸。侵攻を開始。 |
6月下旬 |
木津城攻防戦。約8日間の籠城の末、水の手を断たれ開城。 |
7月上旬 |
秀長軍、一宮城へ進軍。阿波の最終防衛線を包囲。 |
7月上旬~下旬 |
一宮城攻防戦。約20日間にわたり、長宗我部方が徹底抗戦。 |
7月25日 |
秀長より城将・谷忠澄らへ、元親の土佐一国安堵を条件とする降伏勧告の書状が届く。 |
7月下旬 |
一宮城、降伏勧告を受け入れ開城。 |
8月上旬 |
白地城にて元親、重臣らの説得を受け降伏を決断。 |
8月6日 |
豊臣方と長宗我部方の和睦が正式に成立。四国平定が完了。 |
【表2】阿波平定戦における両軍の主要武将と兵力
勢力 |
総兵力(推定) |
主要部隊と指揮官 |
豊臣軍 |
約10万以上 |
阿波方面軍(約6万) 総大将:羽柴秀長 副将:羽柴秀次 その他:蜂須賀正勝、黒田孝高、筒井定次など 讃岐方面軍(約2万3千) 主将:宇喜多秀家 その他:仙石秀久、小西行長など 伊予方面軍(約3万~4万) 主将:小早川隆景 その他:吉川元長など(毛利軍) |
長宗我部軍 |
約4万 |
総大将:長宗我部元親(本陣:白地城) 阿波方面守備軍 一宮城:谷忠澄、江村親俊 木津城:東条関兵衛 牛岐城:香宗我部親泰 岩倉城:長宗我部掃部頭 脇城:長宗我部親吉 |
天正13年6月:怒濤の上陸と緒戦
6月中旬、阿波北東端の土佐泊(現在の徳島県鳴門市)の沖合は、おびただしい数の軍船によって埋め尽くされた。羽柴秀長・秀次率いる6万の大軍が、淡路島から海峡を越えて上陸したのである 12 。その威容は、長宗我部方の兵士たちの士気を挫くに十分であった。
豊臣軍の最初の目標は、阿波の玄関口に位置する木津城であった。城主・東条関兵衛は城兵を鼓舞し籠城の構えを見せるが、秀長は力攻めという愚策を採らなかった。彼は城を包囲すると、城にとって生命線である水の手(水源)を断つという、兵糧攻めの定石に則った戦術を展開した 22 。城内の水が枯渇するのに、多くの時間はかからなかった。
約8日間の籠城の末、兵の渇きに耐えかねた東条は、ついに降伏開城を決断する。彼は土佐の本陣にいる元親のもとへ撤退したが、彼を待っていたのは労いの言葉ではなく、主君の烈火の如き怒りであった。元親は、緒戦での粘りのない戦いぶりに激怒し、東条に容赦なく切腹を命じたのである 22 。この悲劇的な逸話は、四国の覇者としての矜持を傷つけられ、圧倒的な国力差の前に焦燥感を募らせる元親の、追い詰められた心理状態を如実に物語っている。
木津城のあまりにも早い陥落は、阿波沿岸の防衛線に致命的な動揺をもたらした。南方の牛岐城を守っていた元親の弟・香宗我部親泰や、渭山城(後の徳島城)の吉田康俊は、木津城の運命を目の当たりにし、豊臣軍の勢いをまともに受けることの不利を悟った。彼らは抵抗を諦め、戦わずして城を放棄し、土佐へと兵を引いた 22 。こうして、豊臣軍は阿波東部の沿岸地帯を、ほとんど抵抗を受けることなく制圧したのである。
天正13年7月:阿波の主戦場、一宮城
沿岸部を完全に掌握した秀長軍は、満を持して阿波における長宗我部方の最後の、そして最大の拠点である一宮城へと進軍を開始した。4万と号する大軍が、気延山の麓に幾重もの陣を敷き、城を完全に包囲した 21 。
城内では、城代の谷忠澄と江村親俊が率いる1万の兵が、決死の覚悟で守りを固めていた 21 。一宮城は天然の要害であることに加え、元親の指示による改修で防御力が格段に向上していた。特に、城内に設けられた大規模な貯水池は、秀長軍が木津城で用いた水の手を断つ戦術を無効化し、長期籠城を可能にする上で決定的な役割を果たした 21 。
攻防は熾烈を極めた。豊臣軍は鉄砲隊を前面に押し立てて波状攻撃を仕掛けるが、城兵は険しい地形と巧みな防衛施設を利してこれをことごとく撃退。20日以上にわたる攻防で、豊臣方も多数の死傷者を出し、戦況は膠着状態に陥った 21 。力攻めでの早期攻略が困難であると判断した総大将・秀長は、ここで攻撃の手を一旦緩め、より巧みな戦術へと移行する。それは、武力による殲滅ではなく、敵将の理性に訴えかける心理戦であった。
7月25日、秀長は城将である谷忠澄のもとへ使者を送った。届けられた書状には、これ以上の無益な殺生を避け、元親が土佐一国を安堵されることを条件に降伏するよう勧める旨が記されていた 24 。これは、敵将の名誉を重んじ、味方の損害を最小限に抑えながら勝利を収めようとする、秀長の、そして秀吉の高度な戦略思想の現れであった。
天正13年7月下旬~8月上旬:終戦への道
秀長からの降伏勧告は、籠城を続ける城将たちの心を大きく揺さぶった。谷忠澄らは、圧倒的な兵力差と、既に伊予・讃岐の戦線が崩壊しつつあるという情報を鑑み、これ以上の抗戦は阿波の民を徒に戦火に晒すだけであり、長宗我部家の存続すら危うくすると判断。苦渋の決断の末、勧告を受け入れ、一宮城を開城した 10 。
城将としての責務を終えた谷忠澄は、すぐさま元親の本陣である白地城へと馬を走らせた。主君に降伏の経緯を報告し、全面的な和睦を具申するためである。しかし、元親は忠澄の言葉を聞き入れるや否や激高したと伝えられる。「未練者(臆病者)めが!」「一宮城に帰って切腹せよ!」と、その激しい気性のままに忠澄を罵倒したという 10 。この逸話は、四国の覇者としての誇りと、抗いようのない冷徹な現実との間で引き裂かれる、元親の深い苦悩と葛藤を象徴している。
だが、元親一人の意地で覆せる状況ではなかった。谷忠澄に続き、他の重臣たちも、豊臣軍との武具、兵糧、兵員数といったあらゆる面での絶望的な差を説き、根気強く元親を説得した 10 。やがて元親も、激情から覚め、重臣たちの言葉が現実であることを受け入れざるを得なかった。
天正13年8月6日、長宗我部元親は、豊臣秀吉への降伏を正式に受諾した。ここに、秀吉の四国平定は事実上完了し、元親による四国統一の夢は、その成就の寸前で潰えたのである 1 。
第三章:「勝瑞城再攻略」の真実
ご依頼の核心である「勝瑞城再攻略」という事象は、これまでの時系列を追うことで、その実態が自ずと明らかになる。結論から言えば、天正13年(1585年)において、勝瑞城を巡る大規模な戦闘、すなわち軍事的な意味での「攻略戦」は発生していない。それは、戦後処理の一環として行われた、戦闘なき「掃討・接収」であった。
戦闘なき「掃討・接収」
阿波における主戦場であった一宮城が開城し、長宗我部元親の降伏が決定的なものとなった後、阿波国内に残っていた長宗我部方の諸城は、抵抗することなく次々と豊臣方に明け渡された。阿波の旧都・勝瑞城も、この大きな流れの中で、一矢も交えることなく豊臣軍によって接収されたのである。これは、軍事的な「攻略」というよりも、統治権の移譲を明確にするための「接収」、あるいは「無血開城」と呼ぶべきものであった。
城に入ったのは、戦後の論功行賞で阿波の新領主となることが内定していた蜂須賀家政の部隊か、あるいは羽柴秀長軍の先遣隊であったと推測される。彼らは城内に残された武器や兵糧を接収し、城の各所に豊臣方の旗を掲げることで、この地が新たな支配者の管理下に入ったことを内外に示した。この行為は、物理的な戦闘以上に、阿波の民衆に対して時代の転換を視覚的に知らしめる、重要な意味を持っていた。
なぜ大規模な戦闘が起きなかったのか:1585年時点での勝瑞城の価値
では、なぜ阿波の象徴ともいえる勝瑞城で、大規模な戦闘が起きなかったのか。その理由は、1585年時点における勝瑞城の戦略的価値の変化にある。
第一に、 軍事的価値の低下 が挙げられる。前章で詳述した通り、長宗我部元親は秀吉との決戦に備え、防衛戦略の重心を平城である勝瑞城から、堅固な山城である一宮城へと完全に移していた。主力を一宮城に集中させた結果、勝瑞城にはわずかな守備兵しか配置されていなかった可能性が高い。豊臣方にとっても、主戦場である一宮城を陥落させ、元親の降伏を引き出した以上、既に軍事的には無力化された勝瑞城を、多大な犠牲を払ってまで攻撃する必要性は全くなかったのである。
第二に、勝瑞城が持つ 政治的・象徴的価値 の重要性である。勝瑞城は、室町幕府の管領家であった細川氏、そして畿内を席巻した三好氏が本拠とした、阿波国の「首都」であった 17 。この地を支配下に置くことは、阿波国の新たな支配者として豊臣政権の権威を示す上で、極めて重要な意味を持っていた。
これらの点を踏まえると、1585年の「勝瑞城接収」は、軍事行動のクライマックスとしてではなく、**政治的儀式(セレモニー)**としての性格が極めて強かったと結論付けられる。それは、長宗我部氏によるわずか3年間の「占領」時代を終わらせ、豊臣政権という新たな中央権力の下で阿波国が再出発することを宣言する、象徴的な行為であった。豊臣方は、旧都を武力で破壊するのではなく、平和裏に接収することで、自らが破壊者ではなく、新たな秩序の構築者であることを阿波の民衆に強くアピールした。これはまた、新領主となる蜂須賀家政が、旧来の勢力からの反発を抑え、円滑に統治を開始するための、巧みな地ならしでもあった。したがって、この無血接収は、秀吉の周到な戦後処理構想の一環として、計画的に実行されたものと見なすべきであろう。
終章:新時代の幕開け
天正13年(1585年)の四国平定完了は、長宗我部氏による四国統一の夢の終焉であると同時に、豊臣政権下における新たな統治体制の始まりを告げるものであった。阿波国の旧都・勝瑞城のその後の運命は、この戦国末期の大きな時代の転換を象徴している。
蜂須賀家政の阿波入国と新体制
戦後、豊臣秀吉は論功行賞を行い、阿波一国17万6千石を、四国平定において先鋒として多大な功績を挙げた蜂須賀正勝・家政父子に与えた 27 。天正13年(1585年)8月、蜂須賀家政は新領主として阿波に入国する。当初、家政は阿波における最大の軍事拠点であり、落城させたばかりの堅固な山城・一宮城を居城とした 30 。これは、長宗我部氏の残党や、新領主に反抗する可能性のある国人衆を牽制するための、現実的な選択であった。
しかし、家政の視線は、恒久的な統治を見据えた、全く新しい拠点に向けられていた。彼は、一宮城や、歴史的権威を持つ勝瑞城を、自らの藩政の中心地とすることはなかった。
政治中心地の移転:勝瑞から徳島へ
家政は、吉野川の河口デルタ地帯に位置する渭津(いのつ)、その中の小高い丘である猪山(いのやま)に、新たな城の築城を開始する 32 。この地は、秀吉自身が城地に選定したとも伝えられている 34 。家政はこの地を「徳島」と改め、ここに徳島城と新たな城下町の建設という壮大な事業に着手した。
この移転は、単なる地理的な移動以上の、深い政治的決断であった。その背景には、いくつかの合理的な理由が存在する。第一に、経済的・軍事的合理性である。吉野川河口という立地は、水運の拠点として、物資の集積や商業の発展に極めて有利であった 20 。また、大坂にいる主君・秀吉との連絡や、兵員の輸送においても、内陸の勝瑞や山中の一宮城とは比較にならない利便性を持っていた。
第二に、そしてより重要なのは、政治的な意図である。勝瑞は、三好氏以来の旧来の権威と、それに連なる国人衆たちの影響力が色濃く残る土地であった 18 。新領主である蜂須賀氏が、これらの旧勢力としがらみを持ちながら統治を進めることは、将来的な不安要素を抱え込むことに他ならない。それに対し、徳島の地は、いわば未開の地であった。ここにゼロから城と城下町を建設することは、過去の権威や勢力構造を完全にリセットし、蜂須賀氏による新たな支配体制を、純粋な形で盤石に築き上げることを可能にした。それは、旧時代との決別と、豊臣政権がもたらす新しい価値観に基づいた国造りを、阿波全土に示す強力なメッセージだったのである。
勝瑞城の終焉と歴史的意義
徳島城の築城と城下町の整備が急速に進むにつれて、勝瑞が担ってきた阿波国の政治・経済的中心地としての地位は、急速に失われていった 26 。やがて勝瑞城は破却され、その堅固な石垣や貴重な建材の多くは、徳島城を築くための資材として運び去られたという伝承も残っている 37 。ここに、細川氏の時代から約240年にわたり、阿波国の中心として栄華を誇った勝瑞の歴史は、静かにその幕を閉じたのである 37 。
天正13年(1585年)の「勝瑞城再攻略」という出来事は、それ自体が大規模な戦闘を伴うものではなかった。しかし、それは戦国時代の終焉を象徴する、極めて重要な一幕であった。圧倒的な中央権力(豊臣政権)が、いかにして地方の覇者(長宗我部氏)を屈服させ、新たな支配体制を構築していったか。その過程が、この一連の出来事の中に凝縮されている。それは、単なる武力による制圧だけでなく、敵の戦略を無力化する巧みな戦術、敵将の名誉を重んじる政治的駆け引き、そして未来を見据えた戦後の統治構想までを含んだ、総合的な「平定」事業の最終章だったのである。勝瑞城の無血接収と、その後の静かな終焉は、力と戦略によって旧秩序が塗り替えられていく、戦国乱世の結末を静かに物語っている。
引用文献
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- 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/51
- 天正13年(1585)8月6日は長宗我部元親が羽柴秀長ら秀吉軍に降り四国が平定された日。元親は伊予を除き四国をほぼ制圧していたが秀吉軍に三方より攻められ講和が成立。元親は阿波と讃岐を - note https://note.com/ryobeokada/n/n7b7dd86cfb2c
- 勝瑞城 : 戦国時代、阿波国における三好氏の拠点だった城館跡。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2017/06/25/shozui/
- 事業概要 - 四国地方整備局 https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/jimusyo/annai/gaiyou/gaiyou.html
- 豊臣家への「義理」に苦悩する蜂須賀家政 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/39460
- 蜂須賀家政 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/110200/
- 四国の城(一宮城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle08/085502/sub085502
- 蜂須賀家政Hachisuka Iemasa - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/tokai/hachisuka-iemasa
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- 勝瑞城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%91%9E%E5%9F%8E
- 勝瑞城(徳島県板野郡藍住町)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note https://note.com/digitaljokers/n/ne977e9c12ed6