勝竜寺城の戦い(1579)
天正七年(1579年)の激闘:明智光秀による丹波・丹後平定戦の全貌と勝竜寺城の戦略的意義
第一部:序論 - 「勝竜寺城の戦い(1579年)」という問いの再定義
日本の戦国史において、天正七年(1579年)は、織田信長の天下統一事業が大きく前進した年として記憶されている。この年、明智光秀が畿内における支配を強化したという認識は、歴史の大きな流れを捉えている。しかしながら、「勝竜寺城の戦い」という特定の合戦がこの年に発生し、光秀がこれを攻略したという記録は、主要な歴史資料には見られない。この認識は、複数の重要な歴史的事実が、後世において一つの象徴的な出来事として記憶の中で結びついた結果、形成されたものと考えられる。
具体的には、以下の三つの事実が複合的に認識されている可能性が高い。第一に、勝竜寺城で実際に大規模な戦闘が行われたのは、永禄十一年(1568年)、織田信長が上洛の途上で三好三人衆方の岩成友通が守るこの城を攻略した戦いである 1 。第二に、明智光秀と勝竜寺城が運命的に結びつくのは、天正十年(1582年)の本能寺の変後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀が、死出の旅路の直前に一時的に籠城した最後の拠点としてである 4 。そして第三に、天正七年(1579年)こそ、光秀が数年にわたる苦闘の末に丹波国を完全に平定し、盟友・細川藤孝と共に丹後国をも手中に収め、織田家臣団の中でその地位を飛躍的に高めた、彼の軍歴における頂点とも言うべき年であった 6 。
この「勝竜寺城」という場所、「1579年」という時間、そして「光秀の権勢確立」という事象が結びついた背景には、勝竜寺城が光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)が嫁いだ細川家の居城であり、両家の強固な同盟関係を象徴する場所であったという事実がある 9 。つまり、この誤解そのものが、勝竜寺城の持つ政治的象徴性と、1579年という年の光秀のキャリアにおける決定的な重要性を、逆説的に証明しているのである。
したがって、本報告書では、利用者様の「光秀が畿内支配を強化した戦い」という本質的な関心に応えるべく、単一の合戦を追うのではなく、天正七年(1579年)に繰り広げられた**「明智光秀による丹波・丹後平定戦」**の全貌を主題とする。この一連の軍事行動を時系列に沿って詳細に解き明かし、その中で勝竜寺城が果たした真の役割、すなわち「戦場」ではなく「戦略拠点」としての意義を明らかにすることで、歴史の深層に迫る。
第二部:天正七年(1579年)に至る戦略的背景
天正七年の丹波・丹後における最終決戦は、決して突発的に生じたものではない。それは、織田信長の天下統一戦略と、明智光秀の武将としての執念が交錯する中で、数年にわたり周到に準備された必然的な帰結であった。
織田信長の戦略と丹波・丹後の重要性
天正三年(1575年)頃から、織田信長の視線は西国、すなわち中国地方の雄・毛利氏に向けられていた。毛利氏との全面対決は不可避であり、その大遠征を敢行するにあたり、背後となる山陰道の確保は絶対的な戦略的要請であった 7 。丹波・丹後は、京都に隣接し、山陰道への入り口を扼する要衝である。この地域に割拠する波多野氏や赤井氏といった独立性の高い国人衆を完全に制圧し、織田家の支配下に置くことは、西国攻略の前提条件だったのである 12 。この困難な任務の総責任者として、信長は明智光秀を指名した。
第一次黒井城の戦いと光秀の屈辱
天正三年(1575年)10月、信長の命を受けた光秀は丹波へ侵攻する。当初、丹波国人衆の多くは光秀に味方し、戦況は有利に進んだ。光秀は「丹波の赤鬼」の異名を持つ猛将・赤井(荻野)直正が籠る黒井城を包囲し、落城は時間の問題と見られた 7 。しかし、天正四年(1576年)1月、攻城戦の最終段階で事態は急変する。味方であったはずの八上城主・波多野秀治が突如として織田方から離反し、光秀軍の背後を急襲したのである 7 。完全に意表を突かれた光秀軍は総崩れとなり、壊滅的な敗北を喫して京へ敗走した。この「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる鮮やかな計略による敗北は、光秀の軍歴における最大の屈辱であり、彼の心に丹波平定への執念を深く刻み込むこととなった。
執念の拠点構築と戦略の転換
敗走後、光秀は力押しによる短期決戦から、腰を据えた長期戦へと戦略を大きく転換する。彼は失敗から学び、まず恒久的な兵站・指揮拠点として、丹波の入り口にあたる地に亀山城の築城を開始した 6 。これは、敵地深くに浸透して戦うのではなく、確固たる前線基地を確保し、そこから周辺の敵対勢力を一つずつ着実に切り崩していくという、近代的で合理的な攻略法への進化であった。光秀は、単なる武将としてだけでなく、方面軍司令官としての兵站管理能力や行政能力をも発揮し始めたのである。
血縁による同盟強化:勝竜寺城の役割
光秀は軍事行動と並行して、外交による包囲網の構築にも注力した。その最も重要な一手が、長年の盟友であった細川藤孝との関係強化である。天正六年(1578年)、光秀の娘・玉(後のガラシャ)は、藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎ、その祝言は藤孝の居城である勝竜寺城で盛大に執り行われた 1 。この婚姻により、明智・細川両家は単なる同盟者から強固な姻戚関係となり、丹波と丹後という二つの地域を、それぞれの専門領域として分担し、連携して攻略する共同戦線が成立した。この同盟において勝竜寺城は、血縁による結束を内外に示す象徴的な拠点となった。戦火が交わされなかったことこそ、この城が後方拠点として完璧に機能していた証左であり、その「静かなる」戦略的重要性は計り知れない。
この間、天正六年10月には摂津の荒木村重が信長に謀反を起こすという大事件が発生し、光秀は丹波攻略と並行して、有岡城の包囲戦にも参加するという二正面作戦を強いられた 15 。この過酷な状況下で着実に丹波の敵対勢力を削いでいった光秀の能力は、信長の信頼を一層高める結果となった。
表1:丹波・丹後平定戦 主要関連人物一覧
勢力 |
人物名 |
役職・拠点 |
天正七年(1579年)における主な動向 |
織田軍(丹波方面) |
明智 光秀 |
惟任日向守・坂本/亀山城主 |
丹波・丹後平定戦の総指揮官。八上城、黒井城を攻略。 |
織田軍(丹後方面) |
細川 藤孝 |
長岡兵部大輔・勝竜寺城主 |
光秀の盟友。丹後侵攻を主導し、一色氏と対峙。 |
織田軍(丹後方面) |
細川 忠興 |
藤孝の嫡男・光秀の娘婿 |
丹後侵攻の実戦部隊を指揮。 |
丹波・波多野方 |
波多野 秀治 |
八上城主 |
丹波国人衆の盟主。八上城に籠城し光秀に抵抗するも降伏、処刑される。 |
丹波・赤井方 |
赤井(荻野)直正 |
「丹波の赤鬼」・黒井城主 |
緒戦で光秀を破るも天正6年に病死。 |
丹波・赤井方 |
赤井 忠家 |
直正の後継者 |
黒井城に籠城し最後の抵抗を試みるも降伏。 |
丹後・一色方 |
一色 義定 |
丹後守護・建部山/弓木城主 |
細川軍の侵攻に抵抗。弓木城での籠城戦の末、和睦。 |
丹後・一色方家臣 |
稲富 祐直 |
弓木城の守将 |
稲富流砲術の祖。卓越した鉄砲術で細川軍を苦しめる。 |
第三部:丹波平定戦の最終局面:時系列で見る合戦のリアルタイム展開
天正七年、光秀による丹波平定作戦は最終局面を迎える。それは、伝統的な野戦や強襲ではなく、徹底した包囲と兵站の遮断による「兵糧攻め」を主軸とした、近代的で冷徹な殲滅戦であった。光秀が第一次黒井城の戦いの敗北から学んだ、総合的なプロデュース能力が遺憾なく発揮されることになる。
表2:天正七年(1579年) 丹波・丹後平定戦 主要合戦・出来事 時系列表
年月日(天正七年) |
場所(国・城) |
出来事の概要 |
結果 |
主要関連人物 |
1月28日 |
丹波・亀山城 |
光秀、丹波最終攻略のため亀山城へ出陣。 |
- |
明智光秀 |
3月16日 |
丹波・多紀郡 |
光秀、八上城への本格的な攻撃を開始。包囲網を完成させる。 |
籠城戦開始 |
明智光秀、波多野秀治 |
5月5日 |
丹波・氷上城 |
織田軍、八上城の重要な支城である氷上城を陥落させる。 |
八上城の孤立化 |
波多野宗長 |
6月1日~4日 |
丹波・八上城 |
兵糧が尽き、波多野秀治・秀尚兄弟が降伏。安土へ護送後、磔刑に処される。 |
波多野氏滅亡 |
波多野秀治、明智光秀 |
7月19日 |
丹波・宇津城 |
光秀、軍を転じ、抵抗を続けていた宇津城を攻略。 |
宇津氏降伏 |
明智光秀 |
7月~8月 |
丹後・弓木城 |
細川軍、一色義定が籠る弓木城を攻めるも、稲富祐直の鉄砲隊に苦戦。 |
和睦成立 |
細川藤孝、一色義定、稲富祐直 |
8月9日 |
丹波・黒井城 |
光秀、総攻撃を開始。わずか半日で陥落させ、赤井忠家は降伏。 |
丹波平定完了 |
明智光秀、赤井忠家 |
10月24日 |
近江・安土城 |
光秀、信長に丹波・丹後平定を報告。丹波一国を拝領する。 |
光秀の地位向上 |
明智光秀、織田信長 |
正月~五月:八上城、絶望の籠城戦
天正七年正月、光秀は亀山城から出陣し、丹波国人衆の盟主・波多野秀治が籠る八上城に対する最終的な包囲網を完成させた 7 。その包囲は、『信長公記』によれば「堀を掘り柵を幾里にも取り巻き、塀際には町屋のような小屋掛けをして見張番を置き、獣も通れぬほど」と形容される徹底したものであった 16 。これは、城への兵糧や援軍の補給路を完全に遮断し、内部から枯渇させることを目的とした兵糧攻めであった。
城内では、時が経つにつれて食料が底を突き、餓死者が続出する悲惨な状況に陥った 16 。城外へ脱出を試みる者は、光秀軍の厳重な警戒網によって容赦なく斬り捨てられた。波多野氏にとって最後の希望であった支城・氷上城も、五月五日に陥落し、八上城は完全に孤立無援となった 13 。一年半に及んだ籠城戦は、もはや限界に達していた。
六月:波多野兄弟の降伏と悲劇的結末
六月一日、全ての望みを絶たれた波多野秀治は、ついに降伏を決意する 13 。ここで後世、光秀が自らの母を人質として城内に送り、波多野兄弟の身の安全を保証して降伏させたが、信長がその約束を反故にして彼らを処刑したため、光秀は信長に恨みを抱いた、という有名な逸話が生まれる。しかし、この「母人質説」は同時代の一次史料には一切見られず、江戸時代の軍記物によって創作された可能性が極めて高く、歴史学的には信憑性が低いとされている 16 。
現実はより冷徹であった。六月四日、降伏した波多野秀治、秀尚の兄弟は安土城へと護送され、信長の命令により即日、磔刑に処された 7 。丹波国に長年君臨した名門・波多野氏は、ここに滅亡した。この非情な処断は、信長の支配に抵抗する者への見せしめであり、丹波の他の国人衆の戦意を完全に喪失させる効果を持っていた。
七月~八月:「丹波の赤鬼」の終焉と黒井城陥落
波多野氏を滅ぼした光秀は、間髪入れずに軍を転じ、丹波最後の抵抗拠点である黒井城へと向かった 7 。かつて光秀を敗走させた「丹波の赤鬼」こと赤井直正は、前年の天正六年に病死しており、赤井軍の士気はかつての勢いを失っていた 12 。指導者の死に加え、盟主であった波多野氏の悲惨な末路は、黒井城の城兵に「もはや抵抗しても助命はない」という絶望感を蔓延させたと考えられる。
八月九日、明智軍は黒井城への総攻撃を開始した 6 。八上城攻略で勢いに乗る光秀軍の猛攻と、城内の士気の低下が相まって、かつて難攻不落を誇った堅城は、わずか半日で陥落した 12 。後継者の赤井忠家は降伏し、ここに光秀の丹波平定は完了した。落城から15日後の光秀の書状には、戦勝を感謝し、祈願した寺社に200石を奉納する旨が記されており、長年の宿願を果たした彼の安堵感が伝わってくる 13 。この黒井城への攻撃は、単なる物理的な攻撃であると同時に、波多野氏滅亡という情報を伴った心理的な最終通牒であり、光秀が敵の戦意を完全に砕いた上で、最小限の損害で最後の拠点を制圧した見事な戦役であった。
第四部:丹後侵攻:明智・細川連合軍の共同戦線
天正七年の光秀の軍事行動は、丹波一国に留まらなかった。それと並行して、盟友・細川藤孝、忠興父子が主力となり、丹後国への侵攻作戦が展開されていた。これは、丹波・丹後という広域を同時に制圧する、高度に連携された戦略であった。
弓木城の攻防戦と技術革新の影響
丹後では、名門守護である一色氏が織田家の支配に抵抗していた。細川軍の侵攻に対し、一色義定は当初、居城の建部山城で抗戦するも、劣勢となると家臣・稲富氏の居城である弓木城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 21 。
この弓木城の戦いは、当時の戦争の様相を象徴する出来事となった。城将の稲富祐直は、後に「稲富流砲術」の創始者として天下に名を馳せる鉄砲の名手であった 23 。彼の指揮する鉄砲隊は、城に押し寄せる細川軍に対し、正確無比な射撃を浴びせ、多大な損害を与えた 26 。兵力では圧倒的に優勢な細川軍も、この最新技術を駆使した防御の前に攻めあぐね、籠城戦は20日以上に及んだ 26 。この戦いは、兵力差を覆しうる要素として「技術」が決定的な役割を果たすようになったことを示している。鉄砲はもはや単なる飛び道具ではなく、戦全体の戦略・政略をも左右する要因となりつつあった。
武力から外交へ:政略による決着とその後の悲劇
力攻めでの攻略を事実上断念した細川藤孝は、戦国武将であると同時に当代随一の文化人・教養人でもあった。彼は武力一辺倒ではなく、外交による解決へと舵を切る。藤孝は一色氏に和議を提案し、自らの娘を義定の正室として嫁がせるという条件で和睦を成立させた 21 。これにより、丹後国は事実上、織田家の支配下、すなわち細川氏の影響下に入り、丹後平定は完了した。
しかし、この政略結婚による平和は、戦国の非情さの前にはかなくも崩れ去る。天正十年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長が横死すると、状況は一変する。明智光秀に与しなかった細川忠興は、妻の父が討たれた後、今度は舅であった一色義定に謀反の疑いありとして、宮津城に誘い出して謀殺。返す刀で弓木城も攻め落とし、丹後守護・一色氏を完全に滅亡させたのである 22 。天正七年の「和睦」は、わずか三年後の「滅亡」のための布石に過ぎなかった。この一連の出来事は、信義や血縁よりも、その時々の政治的合理性を優先する戦国武将の冷徹な行動原理を浮き彫りにしている。
第五部:勝竜寺城の真実:戦場ではなく、戦略拠点としての役割
本報告書の出発点となった勝竜寺城は、天正七年の一連の戦役において、どのような役割を果たしたのか。結論から言えば、この城は血と硝煙が渦巻く「前線」ではなく、戦争の遂行を支える「後方司令部」として、極めて重要な機能を担っていた。
天正七年当時、勝竜寺城は明智光秀の最も信頼する盟友であり、娘婿・忠興の父である細川藤孝の居城であった 1 。したがって、光秀が「攻略」する対象ではあり得なかったことは自明である。むしろ、信長の命を受けた藤孝によって、勝竜寺城は二重の堀と土塁、そして石垣を持つ堅固な城郭へと改修されており、京都の南西方面を守る織田政権の重要拠点と位置づけられていた 9 。
この堅城は、丹波・丹後平定戦において、多岐にわたる戦略的機能を発揮したと推察される。
第一に、丹後侵攻を担当する細川軍の出撃拠点として。
第二に、前線へ送る兵員や武具、兵糧などを集積・管理する兵站基地として。
第三に、京都や安土の織田政権中央との情報を密に連携するための情報連絡拠点として。
そして何よりも、光秀の娘・ガラシャが新婚生活を送るこの城は、明智・細川両家の揺るぎない同盟関係を内外に示す、強力な 政治的象徴 であった 10 。この城が平穏であったからこそ、光秀は丹波戦線に、藤孝は丹後戦線に、それぞれ後顧の憂いなく全力を注ぐことができたのである。戦史は動的な「戦場」に光を当てがちだが、戦争の遂行には静的な「拠点」の安定が不可欠である。勝竜寺城の真の価値は、1579年に「何も起こらなかった」ことにある。それは、この城が後方戦略拠点として完璧に機能し、敵のいかなる介入も許さなかったことの証明に他ならない。
第六部:戦後の影響と明智光秀の地位確立
天正七年(1579年)10月24日、丹波・丹後両国の平定を完了した明智光秀は安土城に凱旋し、織田信長に戦果を報告した 7 。信長は、数年にわたる光秀の労苦と功績を「粉骨のたびたびの功名、比類なき」と最大級の言葉で称賛し、恩賞として丹波一国(約29万石)をそっくり光秀に与えた 6 。これにより、光秀は以前からの所領である近江国滋賀郡と合わせて、総石高34万石を領する大大名へと飛躍した。これは、柴田勝家や羽柴秀吉と並ぶ、織田家臣団の中でも屈指の実力者となったことを意味する。
光秀の地位向上は、所領の拡大だけに留まらなかった。彼は丹波を拠点として、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶といった周辺大名を指揮下に置く、事実上の近畿・山陰方面軍司令官とも言うべき広範な権限を与えられた 19 。平定後、光秀はただちに領国経営に着手し、旧勢力の城を破棄する一方で、新たに福知山城を築城するなど、近世的な支配体制の構築を進めた 6 。これは、彼の卓越した行政官としての一面を示すものである。
この天正七年の大成功は、光秀に栄光の頂点をもたらした。しかしそれは同時に、彼の運命を悲劇へと導く序章でもあった。この丹波・丹後平定によって得た強大な軍事力、経済力、そして方面軍司令官としての指揮権は、もはや信長の一家臣という枠を超え、自らの判断で大軍を動かせる独立した権力者としての性格を光秀に与えた。この絶大な力が、わずか二年半後の天正十年(1582年)六月二日、主君信長を本能寺で討つという、日本史上最大の下剋上を決行する上での自信と物理的基盤となったことは想像に難くない。天正七年の栄光は、皮肉にも本能寺の変という悲劇へと向かう「帰還不能点」となったのである。
第七部:結論
本報告書は、「勝竜寺城の戦い(1579年)」という問いから出発し、その歴史的実像を徹底的に調査した。その結果、以下の結論に至った。
第一に、「勝竜寺城の戦い(1579年)」という名称の特定の戦闘は、史実としては存在しない。この認識は、1568年の勝竜寺城での実戦、1582年の山崎の合戦後の光秀の籠城、そして1579年という年が光秀のキャリアの頂点であったという複数の事実が、後世の記憶の中で複合的に結びついたものである。
第二に、この問いの核心にある「1579年」「明智光秀」「畿内支配強化」という要素は、まさしく同年に行われた**「丹波・丹後平定戦」**という歴史的実像を指し示している。この一年間にわたる一連の戦役を通じて、明智光秀はかつての敗北という屈辱を乗り越え、卓越した戦略家・行政官としての能力を開花させた。そして、波多野氏、赤井氏といった長年の宿敵を滅ぼし、織田家中で屈指の方面軍司令官へと登りつめ、その後の歴史を大きく動かす存在となった。
最後に、勝竜寺城は、この天正七年の大事業において、戦場としてではなく、明智・細川両家の強固な同盟を象徴し、前線を後方から支える 静かなる戦略拠点 として、極めて重要な役割を果たした。その平穏こそが、この城の戦略的価値を何よりも雄弁に物語っている。
したがって、天正七年という年を理解することは、単一の合戦を追うことではなく、丹波・丹後という広大な地域を舞台に、軍事、外交、築城、そして政略の全てを駆使して勝利を掴んだ明智光秀の総合的な力量を評価することに他ならない。
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- 【麒麟がくる】丹波・丹後 《戦の舞台からスイーツまで!》明智光秀ゆかりの地 7選 - スカイチケット https://skyticket.jp/guide/454060/
- #174『信長公記』を読むその24 巻12 後編 :天正七(1579)年 | えびけんの積読・乱読、できれば精読 & ウイスキー https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12792084946.html