厩橋城再編の戦い(1563)
永禄六年、厩橋城は武田・北条連合軍に一時占領されるも、上杉輝虎が迅速に奪還。旧城代を粛清し新城代を任命、上杉氏の関東支配体制を再編した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
永禄六年 厩橋城の攻防と再編 ― 上杉輝虎、関東経営の岐路
序章:永禄六年の上野国 ― 三強鼎立の最前線
永禄六年(1563年)、日本の東国、特に関東地方は、三大勢力の野望が激しく衝突する巨大な坩堝(るつぼ)と化していた。越後の上杉輝虎(後の謙信)、甲斐の武田信玄、そして相模の北条氏康。この三人の戦国大名が、関東の覇権を巡って互いに牽制し、あるいは激突する中で、上野国(現在の群馬県)は、その地政学的な位置から、三つ巴の戦いの最前線となっていた 1 。この年の厩橋城(現在の前橋城)を巡る一連の攻防戦は、単なる一城の争奪戦に留まらず、これら三大勢力の戦略的意図が交錯し、関東の勢力図を塗り替えかねない重大な転換点であった。
越後の龍、関東へ:上杉輝虎の関東経営
「越後の龍」と畏怖された上杉輝虎は、永禄四年(1561年)に関東管領・山内上杉家の家督を相続し、将軍・足利義輝から「輝」の一字を拝領して長尾景虎から名を改めていた 2。この関東管領という大義名分を掲げ、輝虎は失地回復と室町幕府の秩序回復を旗印に、毎年のように三国峠を越えて関東へ出兵を繰り返していた 2。彼にとって上野国は、宿敵である北条氏康の勢力圏と直接対峙するための絶対不可欠な前進基地であり、広大な関東平野における軍事行動の起点であった。この大規模な遠征を経済的に支えていたのは、越後の特産品である青苧(あおそ)の専売や、日本海側の港で徴収する関税収入といった、輝虎の優れた内政手腕によって確立された潤沢な財源であった 3。
甲斐の虎、西から迫る:武田信玄の西上野侵攻
一方、信濃国をほぼ手中に収めた「甲斐の虎」武田信玄は、次なる目標を西上野に定めていた 5。永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いを経て、対上杉戦線が膠着する中、信玄は上杉氏の関東における影響力を削ぐべく、西上野の国人衆への圧力を強めていた。永禄六年当時、信玄は箕輪城の長野氏をはじめ、安中氏、倉賀野氏といった上杉方の諸城に対し、執拗な攻撃を仕掛けており、西上野はまさに風前の灯火であった 7。
相模の獅子、関東を防衛:北条氏康の戦略
天文十五年(1546年)の河越夜戦で関東に覇を唱えて以来、「相模の獅子」北条氏康は関東一円に巨大な勢力圏を築き上げていた 8。彼にとって、輝虎の関東出兵は自領の心臓部を脅かす最大の脅威であり、その迎撃は北条家の至上命題であった。この時期、北条氏は武田氏と甲相同盟を結んでおり、対上杉という共通の戦略目標の下、緊密な連携体制を敷いていた 5。
この三者の力が上野国で拮抗し、一触即発の緊張状態が続いていたのが永禄六年の情勢である。厩橋城の戦いは、この均衡を打破すべく、武田・北条連合軍が仕掛けた周到な戦略行動であった。信玄が西上野で上杉方の国人を個別に撃破し、輝虎の注意を西へ引きつけている間に、連合軍の主力は輝虎の関東経営の根幹である厩橋城を直接攻撃する。これは、輝虎を関東から排除することを目的とした、極めて合理的な共同作戦であった。したがって、この戦いは単発の戦闘ではなく、関東の覇権を巡る大規模な戦略的攻勢の頂点と位置づけることができるのである。
表1:主要関係者一覧表
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人物名 |
所属勢力 |
当時の役職・立場 |
本合戦における役割 |
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上杉 輝虎(うえすぎ てるとら) |
上杉家 |
越後国主、関東管領 |
厩橋城の最高責任者。奪還作戦を指揮。 |
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武田 信玄(たけだ しんげん) |
武田家 |
甲斐国主 |
北条氏康と共に連合軍を形成し、厩橋城を攻撃。 |
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北条 氏康(ほうじょう うじやす) |
後北条家 |
相模国主 |
武田信玄と共に連合軍を形成し、厩橋城を攻撃。 |
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長野 賢忠(ながの けんちゅう) |
上杉家臣 |
厩橋城代(伝承) |
厩橋城落城時の城主。戦後、輝虎に誅殺される。 |
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北条 高広(きたじょう たかひろ) |
上杉家臣 |
越後国人、重臣 |
輝虎による奪還後、新たな厩橋城代に任命される。 |
第一章:関東の華、厩橋城 ― その戦略的価値と支配の変遷
戦いの舞台となった厩橋城は、利根川と広瀬川を天然の堀とする渦郭式の平城であり、その堅固さと戦略的な位置から、後に関東七名城の一つに数えられた 11 。徳川家康が後に「関東の華」と称賛したと伝えられるこの城は 13 、戦国時代を通じて上杉、武田、北条の三氏による激しい争奪の的となった 15 。
厩橋城の黎明:長野氏による築城
厩橋城の起源は、室町時代中期の15世紀末に遡る。当初は、西上野の雄であった長野氏が、その本拠・箕輪城の支城として築いた石倉城が始まりとされる 11 。伝承によれば、天文三年(1534年)の利根川の大洪水によって石倉城の本丸などが崩壊。当時の城主であった長野賢忠が、残された三の丸を基に再建した城が、厩橋城と呼ばれるようになったという 11 。この厩橋長野氏は、西上野の長野宗家とは別に、上野国東部に勢力を持った一族であり、地域の有力な国人領主として存在感を示していた。
上杉氏の関東拠点へ:永禄三年の制圧
永禄三年(1560年)、長尾景虎(後の輝虎)が関東管領・上杉憲政を奉じて大軍を率いて関東へ進出すると、上野国の勢力図は一変する。この時、厩橋長野氏は後北条氏に与したため、景虎の攻撃対象となった 17 。景虎軍は厩橋城を攻め落とし、これを制圧 18 。この際に、厩橋長野氏を中心としていた国人衆「厩橋衆」は解体されたと見られている 18 。
城を手に入れた景虎は、ここを自らの関東経営における最重要拠点と位置づけた 8 。彼は重臣の河田長親を城代として配置し 18 、厩橋城は越後からの遠征軍の兵站基地、そして関東各地の味方諸将を束ねる司令部としての機能を担うことになった。
『関東幕注文』に見る厩橋城の役割
輝虎の関東における影響力を示す重要な史料に、『関東幕注文』がある 20 。これは、輝虎が関東へ進出した際にその麾下に馳せ参じた関東諸将の名を列記したもので、彼らのために発注された陣幕の控え書きである 20 。この史料には、上野、下野、武蔵などから集った255名の武将の名が記されており、当時の北関東の勢力図を知る上で欠かせない 20 。厩橋城は、これら多様な国人衆を統率し、対北条戦線を構築するための司令塔として機能していたのである。
しかし、この『関東幕注文』には注目すべき点がある。「厩橋衆」として記載されているのは長野藤九郎と彦七郎の二名のみであり、他の地域の「衆」に比べて極端に少ない 19 。これは、永禄三年の制圧時に、厩橋長野氏の勢力が輝虎によって意図的に削がれ、解体されたことを強く示唆している。
輝虎は城を制圧したものの、厩橋長野氏そのものを完全に滅ぼしたわけではなかった。これは関東の国人衆を懐柔し、敵を増やさないための現実的な政策であったと考えられる。しかし、一度は敵対した旧領主一族を、関東における最重要拠点のすぐ近くに温存しておくことは、潜在的なリスクを抱え込むことに他ならなかった。この中途半端とも言える支配体制の脆弱性が、永禄六年の連合軍侵攻の際に露呈することになる。この落城劇は、輝虎の初期関東支配策の綻びを象徴する出来事であり、後の長野氏粛清という強硬策、すなわち「再編」への直接的な引き金となったのである。
第二章:合戦の刻一刻 ― 厩橋城、攻防の時系列詳解
永禄六年(1563年)、上野国とその周辺では、年明けから既にきな臭い動きが始まっていた。厩橋城を巡る一連の攻防は、孤立した事件ではなく、武田・北条両氏による対上杉包囲網の一環として、周到に計画された年間を通じた軍事作戦であった。
前哨戦(永禄六年 正月~二月)
年が明けると、武田信玄と北条氏康の連合軍は早速行動を開始した。永禄六年二月、連合軍は上杉方の重要拠点であった武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻撃し、これを攻略する 21 。この勝利は、厩橋城へ至る南からの進軍ルートを確保し、武蔵国に点在する上杉方の諸城との連携を断ち切る上で、決定的な意味を持った。
時を同じくして、西上野では信玄配下の知将・真田幸隆が、上杉方の斎藤憲広が守る岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)を調略によって攻略 7 。これにより、上杉方は西からも強力な圧力を受けることになり、輝虎の注意は必然的に西上野へと引きつけられた。これは、連合軍の本命である厩橋城攻撃から輝虎の目を逸らすための、巧みな陽動作戦であった可能性が高い。
侵攻と落城(永禄六年 二月~三月頃)
前哨戦で着実に外堀を埋めた武田・北条連合軍は、満を持して厩橋城へと侵攻を開始した 18 。連合軍は城下に流れ込み、六供・天川原といった当時繁栄していた町並みに火を放った 15 。城は瞬く間に炎に包まれ、焦土の中に孤立無援で浮かぶ島と化した。
この時、厩橋城を守っていたのは、上杉方の城代であった。史料によっては、永禄三年に任命された河田長親が依然として城代であったとするものと、旧城主である厩橋長野氏の長野賢忠(または玄忠)が城代の任にあったとするものがあり、詳細は定かではない。しかし、複数の伝承が一致して語るのは、この籠城戦において長野賢忠が積極的に参戦しなかったという事実である 18 。その理由として、「病気を患っていたため」という説や、「賢忠の子・彦太郎の馬が暴れたのを、輝虎が謀反と勘違いした」といった逸話が残されている 18 。これらの伝承の真偽はともかく、城の防衛体制に何らかの混乱や機能不全があったことは想像に難くない。
結果として、厩橋城は連合軍の猛攻の前に持ちこたえることができず、陥落した 21 。輝虎にとって、関東経営の心臓部とも言える拠点を失ったことは、計り知れない打撃であった。
輝虎の逆襲(永禄六年 四月)
厩橋城落城の報は、雪深い越後の春日山城にいる輝虎のもとへ届いた。この報に接した輝虎の行動は、神速としか言いようがなかった。彼は直ちに軍を編成すると、まだ雪解けも十分でない三国峠を越え、怒涛の勢いで上野国へと進軍した 21 。この出陣は、単に一つの城を奪い返すという戦術的な目的だけでなく、この落城を機に関東の味方国人衆が雪崩を打って敵方に寝返るのを防ぎ、上杉氏の権威失墜を食い止めるという、極めて高度な戦略的判断に基づくものであった。
輝虎率いる上杉軍本隊の出現は、厩橋城を占領し、戦勝気分に浸っていたであろう武田・北条連合軍にとって、まさに青天の霹靂であった。彼らは、輝虎がこれほどの短期間で、しかもこれほどの大軍を率いて現れるとは予測していなかった可能性が高い。
戦闘の具体的な経過を記した詳細な記録は乏しいが、結果は明白であった。輝虎は、準備の整っていなかった連合軍を奇襲の形で打ち破り、ごく短期間のうちに厩橋城を奪還することに成功したのである 22 。この電光石火の用兵は、輝虎の軍事的才能を改めて天下に示すものであった。それはまた、関東の国人衆に対して「上杉は健在なり」と宣言する、何よりも雄弁な政治的メッセージでもあった。この一連の攻防は、戦国時代において情報伝達の速度と部隊の機動力が、いかに勝敗を左右する決定的な要因であったかを物語っている。輝虎の勝利は、彼の軍の機動力が、関東という広大な平野で戦う上での生命線であることを証明したのである。
表2:永禄六年 上野国周辺 年表
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時期 |
出来事 |
関係勢力 |
備考 |
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正月 |
天久沢(群馬県高崎市)に武田軍が布陣 |
武田 |
箕輪城への圧力強化 |
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2月4日 |
武蔵松山城を攻略 |
武田・北条連合軍 |
厩橋城への進軍路を確保 21 |
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2月頃 |
岩櫃城を攻略 |
武田(真田幸隆) |
西上野における上杉方の拠点を制圧 7 |
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2月~3月頃 |
厩橋城が落城 |
武田・北条連合軍 |
上杉氏の関東拠点が一時的に陥落 18 |
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4月 |
厩橋城を奪還 |
上杉 |
上杉輝虎が自ら出陣し、城を取り戻す 24 |
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4月 |
下野小山城を攻略 |
上杉 |
関東における反攻作戦を展開 2 |
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8月6日 |
武田信玄が西上野に在陣 |
武田 |
和田城などへの攻撃を継続 21 |
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10月13日 |
岩下城を攻略 |
武田(真田幸隆) |
斎藤氏を駆逐し、吾妻郡の支配を固める 7 |
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12月 |
箕輪城への大規模攻撃を開始 |
武田 |
城下や長純寺が焼かれるが、落城は免れる 7 |
第三章:「再編」の内実 ― 厩橋長野氏の粛清と北条高広の登用
厩橋城を奪還した輝虎の次なる一手は、軍事行動以上に冷徹かつ断固たるものであった。彼は、この失陥を単なる一敗戦として処理するのではなく、関東における自らの支配体制を根底から見直し、再構築する好機と捉えた。この「再編」は、旧勢力の排除(粛清)と新体制の構築(新城代の任命)という二つの側面から成り立っており、輝虎の支配者としての非情さと、その裏にある戦略的意図を浮き彫りにしている。
旧勢力の排除:厩橋長野氏の粛清
城を取り戻した輝虎は、落城の責任を厳しく追及した。その矛先は、籠城戦で主体的な役割を果たさなかったとされる厩橋城主・長野賢忠(謙忠)に向けられた。輝虎は賢忠を誅殺したと伝えられている 22 。この処断は、単なる一個人の責任追及に留まるものではなかった。それは、輝虎の麾下にある全ての関東国人衆に対する、血塗られた見せしめであった。「上杉への忠誠を欠き、その任を全うせぬ者は、たとえ旧来の名族であろうとも容赦はしない」という、彼の断固たる意志表示だったのである。
この粛清事件により、室町時代から厩橋の地を治めてきた長野氏は事実上没落し、その歴史に幕を閉じた 22 。そして、それは同時に、上杉氏による厩橋城の直接支配体制が、名実ともに確立された瞬間でもあった。
新体制の構築:北条高広、新城代へ
旧勢力を一掃した輝虎は、関東経営の要である厩橋城の新たな城代として、越後の重臣である北条高広(きたじょう たかひろ)を任命した 21 。この人選は、輝虎の関東戦略が新たな段階に入ったことを示す、極めて象徴的なものであった。
北条高広は、相模の北条氏とは全く血縁のない、越後国の名門国人である 25 。輝虎の父・長尾為景の代から仕える譜代の家臣であり、越後北部の要衝・村上城を任されるなど、その武将としての能力は輝虎自身も高く評価していた 26 。しかしその一方で、高広は一筋縄ではいかない人物でもあった。彼はかつて輝虎に対して謀反を起こした経歴を持ち 27 、独立心の強い野心家としての一面を隠さなかった 28 。
なぜ北条高広だったのか?任命の背景
輝虎が、このような複雑な経歴を持つ高広を、関東における最重要拠点に配置したのには、いくつかの理由が考えられる。
第一に、長野氏の失敗を繰り返さないため、もはや現地の国人領主ではなく、本国・越後から派遣した自らの直臣に城を任せることで、支配を確実なものにしようとした。これが「再編」の核心である。
第二に、高広の武将としての実力を純粋に評価していたことである。武田・北条という強大な敵と対峙する最前線には、並の武将では務まらない。高広のような百戦錬磨の猛将を置くことこそが、最も効果的な抑止力になると判断したのである。
そして第三に、高広のような大物国人を、あえて越後本国から引き離し、関東という新たな活躍の場を与えることで、その有り余る野心を外に向けさせ、コントロールしようという狙いがあった可能性も否定できない。
この北条高広の任命は、輝虎の人事戦略における一種の「劇薬」であったと言える。高い能力と引き換えに、常に裏切りのリスクを内包する人物を、最も重要な前線に配置するという、まさにハイリスク・ハイリターンな選択であった。この決定は、輝虎が「義」の武将であると同時に、目的のためには危険な駒すらも使いこなそうとする冷徹なリアリストであったことを示している。そして、この一見大胆な人事が、数年後の永禄十年(1567年)、高広自身の裏切りという形で、輝虎の関東経営に再び大きな影を落とす伏線となるのである 1 。
第四章:戦後の影響と歴史的意義
永禄六年の厩橋城を巡る一連の攻防と再編は、関東の政治・軍事地図に静かだが確実な変化をもたらした。それは、三大勢力の戦略に修正を迫ると同時に、大国の狭間で生き残りを図る国人衆の運命をも左右する出来事であった。
上杉氏への影響:関東戦線の維持と支配体制の強化
上杉輝虎にとって、厩橋城の迅速な奪還は、関東における上杉方の総崩れを防ぐ起死回生の一手であった 24 。もしこの拠点を失ったままの状態が続けば、関東の国人衆は次々と上杉氏を見限り、輝虎は関東からの全面的な撤退を余儀なくされていた可能性すらある。その意味で、この勝利は彼の関東経営の命脈を保ったと言える。
さらに、戦後の長野氏粛清と北条高広の配置という「再編」は、上杉氏の関東支配を、現地の国人衆を緩やかに束ねる「盟主」的な立場から、重要拠点を直臣によって直接管理する、より強固な「支配者」としての体制へと質的に転換させた。しかし、この強硬策は、短期的には支配を強化したものの、長期的には関東国人衆との間に心理的な溝を生み、彼らが「義」によって守られるのではなく、「力」によって支配されることを実感させる結果となった可能性がある。
武田・北条両氏への影響:対上杉戦略の再考
武田信玄と北条氏康にとって、厩橋城攻略が一時的な成功に終わったことは、輝虎の恐るべき軍事的能力、特にその驚異的な機動力を改めて認識させる結果となった。上杉軍を侮れない存在として再評価せざるを得なくなった彼らは、戦略の修正を迫られた。
上杉氏を短期決戦で関東から駆逐する計画が頓挫したことで、両者の戦略はより長期的かつ消耗戦的なものへと移行していく。信玄は西上野の国人衆を一つずつ切り崩していく蚕食作戦をさらに強化し 6 、氏康は小田原城を中心とした支城ネットワークによる防衛体制を一層固めることに注力した 9 。この戦いは、関東における三強の対立を終結させるどころか、むしろその対立構造をより先鋭化させ、長期化させる結果を招いたのである。
上野国衆への影響:大国の間で揺れ動く
この事件は、上野国の国人衆に最も直接的な影響を与えた。輝虎による長野氏への厳格な処置を目の当たりにした彼らは、大国の間で生き残りを図るためには、より慎重かつ計算高い立ち回りが不可欠であることを痛感した。この時期、金山城主・由良成繁のように、輝虎を見限って北条方へと寝返る者も現れ 24 、上野国内の勢力図はさらに流動化していく。国人衆は、自らの家の存続を賭けて、三つの巨大勢力の間を揺れ動き続けることを余儀なくされたのである。
歴史的意義:国人領主の時代の終わりを告げる象徴
「厩橋城再編の戦い」は、厩橋長野氏という在地領主が、戦国大名という巨大な権力の戦略の前に淘汰されていく過程を象徴する出来事であった。輝虎による直接支配体制への移行は、戦国時代が、独立性の高い国人領主たちの連合体から、より中央集権的な大名領国制へと移行していく大きな歴史的潮流の一端を示す好例と言える。
同時にこの事件は、上杉輝虎の「関東経営の限界」をも示唆している。彼は軍事的には勝利し、拠点を確保した。しかし、その力の源泉はあくまで越後からの遠征軍であり、関東に恒久的な領土支配を確立するには至らなかった。結局、輝虎はその後も毎年のように関東へ出兵する必要があり 3 、その負担は越後本国にとって決して軽いものではなかった。したがって、この戦いは、輝虎の軍事的才能の輝かしい発露であると同時に、彼が終生抱え続けた戦略的ジレンマ、すなわち「本国から遠く離れた領土を、いかにして安定的に統治するか」という課題を浮き彫りにした事件でもあったのである。
結論:厩橋城再編の戦いが残したもの
永禄六年(1563年)に上野国・厩橋城で繰り広げられた一連の攻防と、それに続く支配体制の「再編」は、関東の覇権を巡る上杉・武田・北条の三つ巴の戦いにおいて、極めて重要な転換点であった。
この戦いは、単なる城の争奪戦ではない。それは、上杉輝虎の関東経営を根底から覆そうとする武田・北条連合軍の周到な共同作戦であり、それを神速の用兵で覆した輝虎の卓越した軍事的応酬であった。連合軍による落城は輝虎の支配体制の脆弱性を暴き、それに対する輝虎の迅速な奪還と旧勢力の粛清は、彼の支配者としての厳格さと、関東支配への執念を内外に示した。
戦後の「再編」、すなわち厩橋長野氏の排除と越後重臣・北条高広の登用は、輝虎の関東支配が、在地勢力との協調を基本とする緩やかな盟主体制から、重要拠点を直轄する直接支配体制へと大きく舵を切ったことを示す象徴的な出来事であった。これは、彼の現実主義的な統治者としての一面を明らかにすると同時に、後のさらなる混乱の火種を孕むものでもあった。
最終的に、「厩橋城再編の戦い」は、戦国大名の巨大な戦略の前に在地領主が翻弄され、淘汰されていく時代の非情さを体現している。そして何よりも、上杉輝虎という稀代の軍事的天才の栄光と、その内に潜む構造的な限界、すなわち「戦には勝てども、統治は難し」という戦略的ジレンマの両面を鮮やかに映し出す、多層的かつ示唆に富んだ歴史事象として評価されるべきである。
引用文献
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- 年表で見る上杉謙信公の生涯 | 謙信公祭 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち https://joetsukankonavi.jp/kenshinkousai/chronology/
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- 幻の名城 前橋城|特集 https://www.maebashi-cvb.com/feature/maebashi-jyo/maboroshi
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- 北条高広(きたじょう たかひろ) 拙者の履歴書 Vol.220~謙信の死、運命の分かれ道 - note https://note.com/digitaljokers/n/n75ec7705d501
- 上杉家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/05/
- [第41話]謙信は「馬鹿者」がお好き?書状から紐解く人物像 - 新潟県立図書館 https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/1b8446f94c08f7ae67441d7d895601a6/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E4%BD%90%E6%B8%A1%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/%EF%BC%BB%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%91%E8%A9%B1%EF%BC%BD%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%A6%AC%E9%B9%BF%E8%80%85%E3%80%8D%E3%81%8C%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%8D%EF%BC%9F%E3%80%80%EF%BD%9E%E6%9B%B8%E7%8A%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%83%8F%EF%BD%9E?lang=en
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