最終更新日 2025-08-31

古河城の戦い(1590)

天正十八年、古河城の戦いは豊臣軍による攻城戦ではなく、北国勢の進撃と政治的圧力による無血開城であった。古河公方家は存続し、城は徳川氏の戦略拠点へ。

天正十八年 古河城無血開城の真相 ―天下統一の奔流、関東旧秩序の終焉―

序章:問いかけ―「古河城の戦い」は存在したか

天正十八年(1590年)、春。天下統一の総仕上げとして、関白豊臣秀吉はその後北条氏が支配する関東へと、未曾有の大軍を差し向けた。この歴史的軍事行動は「小田原征伐」として知られ、戦国乱世の終焉を告げる画期的な出来事であった。利用者様がご関心をお寄せの「古河城の戦い」は、この壮大な戦役の一環として語られるべき事象である。

しかし、歴史の深層を探求する時、我々は一つの根源的な問いに直面する。すなわち、この年、古河城において大規模な攻城戦や激しい戦闘は、果たして行われたのであろうか。後北条氏の主要な支城が次々と陥落、あるいは包囲される中、関東のかつての中枢であった古河城を巡る攻防の記録は、驚くほどに静寂を保っている。一次史料において、刀槍を交える合戦の存在は確認されていない。

本報告書は、この「戦闘記録の不在」こそが、古河城の運命を解き明かす最も重要な鍵であると位置づける。そして、「古河城の戦い」の実態が、物理的な戦闘ではなく、圧倒的な軍事力を背景とした政治的・心理的な攻防の末に行われた「無血開城」と「接収」であったことを、周辺状況の時系列分析を通じて徹底的に解明するものである。それは、天下統一という巨大な奔流が、いかにして関東の旧秩序を飲み込み、新たな時代を築き上げていったかを象徴する、極めて重要な一幕であった。

第一部:決戦前夜 ―天正十八年、関東に迫る嵐

関東の覇者・後北条氏の戦略と限界

天下人・豊臣秀吉の侵攻という未曾有の国難に対し、後北条氏四代当主・氏政と五代当主・氏直が選択した基本戦略は、本拠地である小田原城を中心とした徹底的な籠城策であった 1 。かつて上杉謙信や武田信玄の猛攻をも退けた難攻不落の巨城・小田原城。その周囲には、城下町全体を内包する約9キロメートルにも及ぶ壮大な総構えが築かれ、一大要塞と化していた 2 。この堅固な本城に兵力を集中させつつ、関東各地に配置された支城ネットワークが豊臣軍の進軍を遅滞させ、疲弊させるというのが、後北条氏が描いた防衛構想の青写真であった。

しかし、その戦略は、対峙する敵の規模と質を根本的に見誤っていた。後北条氏が領国全土から動員し得た兵力は約五万六千。一戦国大名としては驚異的な数であったが、秀吉が動員した兵力は、それを遥かに凌駕する二十一万から二十二万という、まさに桁違いの大軍であった 1 。さらに深刻だったのは、兵力の数以上に、その「質」の差であった。後北条軍の主力が依然として農繁期には帰農する農民兵であったのに対し、豊臣軍の中核を成していたのは、織田信長の時代から進められてきた兵農分離によって生み出された、戦闘を専門とする職業武士団だったのである 1

この対決は、単なる兵力差を巡る戦いではなかった。それは、戦国末期において最も先進的であった中央集権的な軍事システム(豊臣)と、旧来の地域大名が保持し続けた地方分権的な軍事システム(後北条)との構造的な衝突であった。後北条氏の籠城策は、戦国中期までの関東という限定された地域内の抗争においては有効であったかもしれない。しかし、全国規模の兵站網と圧倒的な動員力を有する豊臣政権の前では、もはや時代遅れの戦略と化していた。この構造的劣勢こそが、古河城を含む関東諸城の運命を、実際の戦闘が始まる以前から、ほぼ決定づけていたのである。

古河城の戦略的・政治的立ち位置

豊臣軍の侵攻に揺れる関東平野において、古河城は極めて特殊な地位を占めていた。その重要性は、軍事的な側面と政治的な側面の両方から理解されねばならない。

第一に、古河城は室町時代中期、享徳の乱の最中に鎌倉を追われた足利成氏が本拠を移して以来、約一世紀にわたり「古河公方」の居城として、関東における政治的・文化的中心地としての権威を保持してきた 4 。戦国末期には実質的に後北条氏の支配下に組み込まれていたものの、その歴史的権威は関東の諸将にとって依然として無視できないものであった。

第二に、地理的要衝としての価値である。古河城は、渡良瀬川が西を流れ、周囲を広大な沼沢地や水堀に囲まれた、典型的な「水城」であった 6 。利根川水系にも近接し、関東平野における水運の結節点を押さえる上で、計り知れない戦略的価値を有していた。その縄張りは、本丸、二の丸、三の丸が直線的に連なる連郭式を基本とし、獅子ヶ崎と呼ばれる突出部などが防御の要をなす堅城であったと推定される 8

そして第三に、最も重要な要素が、城内に存在する権力構造の二重性である。天正十八年当時、城内には最後の古河公方・足利義氏が嗣子なく没した後に家督を継いだ、その息女である足利氏姫が存在していた 11 。彼女は後北条氏の庇護下にあったが、彼女に仕える家臣団にとっての至上命題は、必ずしも後北条氏への忠誠ではなかった。彼らにとっての最優先事項は、関東足利氏の血統、すなわち「古河公方家」の存続にあった可能性が極めて高い。

この事実は、古河城に潜在的な脆弱性をもたらしていた。城は後北条氏の軍事支配下にある一方で、古河公方の旧都としての権威を内包していた。豊臣軍の目的は、あくまで後北条氏の打倒であり、関東の名門である足利氏の殲滅ではなかった。したがって、後北条氏の敗色が濃厚となった場合、城内の人々が後北条氏と運命を共にするのではなく、氏姫を奉じて豊臣方と交渉し、足利家の安堵を図るという選択肢は、極めて合理的かつ現実的なものであった。軍事的には堅固な城も、政治的には極めて脆い基盤の上に立っていたのである。

第二部:北国勢、関東を席巻す ―リアルタイムで追う進軍記録

秀吉は小田原城攻略にあたり、徳川家康らを主力とする東海道からの本隊、長宗我部元親らが率いる水軍に加え、北関東制圧を目的とした別働隊を編成した。前田利家と上杉景勝を総大将とし、真田昌幸らを加えたその兵力は約三万五千。後に「北国勢」と呼ばれるこの北方方面軍の動向こそが、古河城の運命を直接的に左右することになる 13

北国勢の進軍は、後北条氏の北関東防衛網を驚異的な速度で瓦解させていった。そのリアルタイムな進撃路を追うことで、古河城が直面した絶望的な状況が浮き彫りになる。

  • 天正18年3月15日 : 前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの北国勢は、信濃から上野へと抜ける関東の玄関口、碓氷峠への進軍を開始。後北条方の抵抗を排除し、関東平野への侵攻路を確保する 15
  • 3月28日 : 北国勢は上野国へ本格的に侵攻。後北条氏の重臣・大道寺政繁が守る北関東防衛の最重要拠点、 松井田城 に対する攻撃を開始する 15
  • 4月20日 : 約三週間にわたる攻防の末、松井田城はついに落城。城主の大道寺政繁は降伏する 15 。この要衝の陥落は、後北条方の北関東戦線に激震を走らせ、指揮系統に致命的な打撃を与えた。
  • 4月24日まで : 松井田城陥落の報を受け、後北条方の士気は急速に萎縮。箕輪城、厩橋城(現在の前橋市)といった上野国の主要拠点が、わずか数日のうちに次々と豊臣方に制圧、あるいは開城していく 15
  • 4月29日まで : 由良国繁の金山城、その子・氏繁が守る館林城も北国勢の手に落ちる 15
  • 5月上旬 : 下野国に位置する皆川城も、豊臣方に降伏開城する 15
  • 5月27日 : これまで後北条氏と敵対関係にあった常陸国の佐竹義宣、下野国の宇都宮国綱といった北関東の有力大名が、小田原に布陣する秀吉のもとへ正式に参陣。豊臣方への恭順を明確にし、後北条氏は政治的にも完全に孤立する 15

北国勢の進軍は、単なる物理的な制圧に留まらなかった。それは、後北条方の士気を根底から打ち砕く、効果的な心理戦でもあった。最重要拠点であった松井田城の陥落を皮切りに、上野国の諸城がわずか10日ほどでドミノ倒しのように無力化されていく様は、周辺の城々に対し「抵抗は無意味である」という強烈なメッセージを発信した。

この結果、古河城は5月を迎える頃には、北と西の防衛線を完全に喪失し、戦略的に孤立無援の状態に陥った。後北条氏の防衛構想の根幹であった支城間の連携は、北国勢の圧倒的な兵力と電撃的な進軍速度の前に、機能する間もなく寸断されたのである。

以下の表は、この間の北国勢の進軍と、後北条氏の北関東防衛線が崩壊していく過程を時系列で整理したものである。

日付(天正18年)

出来事

対象の城

関連武将(豊臣方)

関連武将(北条方)

結果

3月15日

碓氷峠へ進軍開始

-

前田利家、上杉景勝、真田昌幸

与良与左衛門

後北条方の防衛線を突破

3月28日

攻城戦開始

松井田城(上野)

前田利家、上杉景勝

大道寺政繁

約3週間の籠城戦へ

4月20日

開城

松井田城(上野)

前田利家、上杉景勝

大道寺政繁

落城、大道寺政繁は降伏

4月24日まで

開城・占領

箕輪城、厩橋城(上野)

北国勢

-

豊臣方が上野国中部を制圧

4月29日まで

開城・占領

金山城、館林城(上野)

北国勢

由良国繁・氏繁

豊臣方が上野国東部を制圧

5月上旬

降伏開城

皆川城(下野)

北国勢

皆川広照

豊臣方が下野国へ進出

5月27日

小田原へ参陣

-

佐竹義宣、宇都宮国綱

-

北関東の諸大名が豊臣方へ帰順

この表が示すように、わずか一ヶ月余りの間に、後北条氏の北関東における支配体制は、軍事的にも政治的にも完全に崩壊した。古河城に残された選択肢は、もはや極めて限定的なものとなっていた。

第三部:古河城、開城 ―戦闘なき攻防の記録

天正十八年五月、関東平野の戦況は、古河城にとって絶望的な局面を迎えていた。上野国を完全に制圧した前田・上杉らの北国勢は、利根川を挟んで古河城と直接対峙する位置まで進出。時を同じくして、浅野長政が率いる別動隊も房総半島方面から北上し、5月18日には下総国の有力支城であった本佐倉城を占領した 15 。これにより、古河城は北、西、そして南の三方向から豊臣方の勢力圏に圧迫され、事実上の包囲下に置かれたのである。

本城である小田原城は、秀吉本隊によって幾重にも包囲され、籠城戦は三ヶ月目に突入していた 1 。もはや外部からの援軍は絶望的であり、後北条氏の各支城は、自らの判断で活路を見出すほかなかった。この状況下で、古河城内では、後北条氏に殉じて玉砕すべきか、あるいは足利家の存続を第一に考え降伏すべきか、激しい議論(評定)が交わされたと推察される。

最終的に、城方が選択したのは後者であった。戦闘の記録が一切存在しないという事実は、彼らが武力による抵抗を断念し、豊臣方との交渉に最後の望みを託したことを雄弁に物語っている。

この交渉において、極めて異例かつ重要な役割を果たしたのが、古河公方足利氏姫に仕える女房衆、すなわち「上臈之御方(西殿)」と呼ばれる高位の女官であった 12 。現存する史料によれば、彼女が古河城を代表する使者として豊臣方の陣営に赴き、交渉にあたったとされている。さらに興味深いことに、その交渉相手もまた、豊臣方の女性(考蔵主)であったと伝えられている 12

軍事的な抵抗が不可能となった時点で、古河城を巡る攻防の主戦場は、城壁や堀から交渉の席へと移行した。この局面において、武士ではなく、氏姫に仕える女性が交渉の前面に立ったという事実は、単なる偶然ではない。それは、後北条氏の家臣という立場から発せられる「降伏」の交渉ではなく、関東足利氏という由緒ある血統の存続を訴えるための、高度に計算された政治的戦略であった可能性が高い。武力や知謀が支配する戦国の論理から、家の存続という文化的・血統的な価値を訴える論理へと、議題そのものを転換させる狙いがあったと考えられる。

この交渉は功を奏した。豊臣方との間で、足利氏姫の身柄の安全と、古河足利家の家名存続が認められたのである。その結果、古河城は一滴の血も流すことなく、豊臣方に明け渡された。これこそが、利用者様が探求された「古河城の戦い」の歴史的真相であった。それは、剣戟の交わらない、静かなる「戦い」の終結であった。

第四部:新秩序の礎石 ―戦後処理と古河城の未来

関東仕置と古河城の再配置

天正十八年七月五日、難攻不落を誇った小田原城は、三ヶ月に及ぶ包囲の末に開城した 1 。秀吉は、開戦の主導者と見なした北条氏政・氏照兄弟、および重臣の大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じ、ここに戦国大名後北条氏は滅亡した 15

戦後、秀吉は「関東仕置」と呼ばれる大規模な領土再編に着手する。その最大の眼目は、徳川家康を従来の東海五カ国から、後北条氏の旧領である関東六カ国へ移封(国替え)させることであった 4 。これにより、家康は江戸を新たな本拠地と定め、関東の統治を開始する。

この新たな政治体制の中で、古河城の運命もまた大きく転換した。家康の関東入府に伴い、古河城には徳川家康の重臣であり、家康の嫡男・信康の娘である登久姫を正室とする小笠原秀政が、三万石をもって入城した 18 。秀吉は当初、後北条氏の支城に対して破却令を出したとされるが 18 、古河城は破却を免れるどころか、小笠原氏の手によって修復・拡張が進められた 4

この事実は、古河城の役割が根本的に変質したことを示している。かつての「古河公方の権威の象徴」としての役割は終わりを告げ、新たに「徳川氏の本拠地・江戸の北方を守護する戦略拠点」として、近世的な城郭へと生まれ変わったのである。水運の要衝という地理的優位性はそのままに、その戦略的価値は、新たな支配者である徳川氏の統治システムの中に再配置された。

古河公方家のその後

一方、古河城の無血開城によって命脈を保った古河公方家、すなわち足利氏姫の処遇もまた、秀吉の巧みな政治手腕によって決定された。秀吉は、関東の旧権威である足利氏を根絶やしにすることなく、自らの支配体制下に巧みに組み込む道を選んだ。

秀吉の仲介により、足利氏姫は、同じく足利一門でありながら、かつて古河公方家と対立した小弓公方の末裔・足利国朝と婚姻することとなった 11 。国朝の死後は、その弟である頼氏が氏姫を娶り、家名を継承した。彼らは秀吉から下野国喜連川(現在の栃木県さくら市)に所領を与えられ、その地名をとって「喜連川氏」を称することになる 11

喜連川氏の所領は五千石程度に過ぎなかったが、江戸時代を通じて、その待遇は破格のものであった。彼らは足利氏の後継者として、十万石の大名に等しい格式(十万石格)を与えられ、その血統は幕末まで尊重され続けた 11

これは、秀吉による旧権威の巧みな再利用であった。武力で関東を制圧した秀吉と、その跡を継ぐ家康にとって、支配を安定させるためには、在地の人々が納得する「権威」が必要であった。関東における最大の旧権威である古河公方家を、滅ぼすのではなく、別の足利家と統合させて無害な形で存続させる。これにより、秀吉は自らを「旧来の秩序の破壊者」ではなく、「新たな安定をもたらす秩序の再編者」として演出し、新支配者である徳川家康の関東統治に正統性を与える効果を狙ったのである。古河城の無血開城は、この巧妙な戦後処理を実現するための、不可欠な布石であったと言える。

総括:歴史的意義 ―「戦い」から「接収」へ

本報告書が詳述してきたように、天正十八年の「古河城の戦い」とは、火花を散らす攻城戦ではなく、圧倒的な軍事力を背景に行われた政治的・心理的圧力の結果としての「無血接収」であった。この一見地味な出来事は、しかし、戦国時代の終焉と近世の幕開けを象徴する、極めて重要な歴史的意義を内包している。

第一に、この一件は 後北条氏の統治システムの限界を露呈 させた。北関東防衛線のあっけない崩壊と、古河城の戦わずしての開城は、後北条氏が築き上げた支城ネットワークが、豊臣政権の全国規模の動員力と巧みな調略の前には、もはや有効に機能し得ないことを証明した。

第二に、それは 関東における中世的権威の終焉 を意味した。古河公方足利氏が、自らの判断で旧主である後北条氏を見限り、新たな天下人である豊臣氏に恭順したことで、関東における室町時代以来の旧秩序は名実ともに終焉を迎えた。城主が武力ではなく、血統の権威を盾に交渉し、家の存続を図ったことは、武士の時代が新たな段階に入ったことを示唆している。

第三に、それは 近世的支配体制への移行を象徴 する出来事であった。古河城が徳川氏の戦略拠点として再編され、足利氏が喜連川氏として新たな支配体制に組み込まれたことは、関東地方が戦国乱世から、徳川家康を頂点とする近世的な支配体制へと移行する画期的な瞬間であった。古河城は、渡良瀬・利根の水運を押さえる要衝として、関東統治の新たな要として再配置されたのである。

したがって、「古河城の戦い」の真相を追うことは、単に一つの城の運命を解明するに留まらない。それは、天下統一という巨大な歴史の奔流が、いかにして関東の旧秩序を飲み込み、二百数十年続く泰平の世の礎石を築き上げていったかを理解するための、極めて重要な鍵となるのである。

引用文献

  1. 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
  2. 北条氏政は何をした人?「秀吉をナメすぎて追い込まれ小田原評定のすえ降参した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/ujimasa-hojo
  3. 北条五代にまつわる逸話 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html
  4. 戦国関東の覇権を争った古河公方の城・古河城【茨城県古河市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/31643
  5. 古河城 茨城県古河市 - 古城巡り 写真館改 https://yamashiro2015.blog.fc2.com/blog-entry-1722.html
  6. マチネタ - 茨城西南医療センター病院 https://seinan-mch.or.jp/seinan-com/machineta/42.php
  7. 古河城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/info01/kogaj.htm
  8. 古河城 http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/ibaraki/kogazyou/kogazyoucg1.html
  9. 古河城と古河公方館 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/ibaraki/07-01-kogajou.html
  10. 0478 古河公方足利成氏館跡 0480 小堤城跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/52/52702/131674_8_%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8.pdf
  11. 喜連川氏(きつれがわうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%96%9C%E9%80%A3%E5%B7%9D%E6%B0%8F-51129
  12. コラム(古河公方関連) - 古河史楽会 http://koga-shigakukai.com/column/column_kubou/kubou-20.html
  13. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  14. 【A 小田原合戦】 - ADEAC https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht060660
  15. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  16. 小田原合戦 - 守谷市観光協会 https://moriyashikanko.com/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6/
  17. 「北条氏」が気になり「小田原と鎌倉」の観光に行った話 ~北条氏政・氏照の墓所、幸田門跡 - note https://note.com/pen_no_suke_1122/n/n18db7fc2188e
  18. 古河城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%9F%8E
  19. 古河城 http://cf916626.cloudfree.jp/Oshiromeguri/Kanto/KogaJyo.html