名護屋湾岸集結を巡る小競(1591~92)
名護屋湾岸集結を巡る小競は、豊臣秀吉の朝鮮出兵準備中に名護屋城に集結した大名間で発生した摩擦。資源争いや旧来の確執、中央の政治作法への不慣れが原因で、秀吉の統制下で武力衝突は回避されたが、後の豊臣政権分裂の遠因となった。
肥前名護屋在陣(1591-92):天下人の号令下に潜む大名たちの軋轢 ―「名護屋湾岸集結を巡る小競」の時系列分析
序論:天下統一後の新たな火種
天正18年(1590年)、小田原の後北条氏を滅ぼし、名実ともについに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。その眼差しは、すでに国内の平定から、海を越えた大陸へと向けられていた。秀吉が「唐入り」と称したこの壮大な明国征服構想は、日本の歴史上、類を見ない国家総動員体制を現出させることになる 1 。この構想の背景には、国内の土地には限りがあり、戦国乱世を通じて武功を重ねた武士たちへの恩賞、すなわち知行地が枯渇しつつあるという深刻な経済的動機があったとの指摘もある 3 。新たな土地を大陸に求めることで、国内武士の不満を解消し、有り余る軍事エネルギーを国外へ転換させる狙いがあったのである。
その第一歩として、秀吉は明の冊封国であった朝鮮に対し、服属と明国への先導役を務めるよう要求した 4 。しかし、朝鮮王朝がこれを拒絶すると、秀吉の構想は「征明嚮導」から朝鮮そのものへの侵略へと変質する 5 。天正19年(1591年)、秀吉は改めて諸大名に遠征の決意を表明し、国を挙げての出師準備が開始された 4 。
この前代未聞の大遠征の拠点として選ばれたのが、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町)であった。この地に巨大な城が築かれ、全国から大名たちがその軍勢を率いて集結した。本報告書が主題とする「名護屋湾岸集結を巡る小競」とは、特定の合戦を指すものではない。それは、天正19年から文禄元年(1592年)にかけて、この名護屋という特異な空間に、かつての敵味方を含む全国の大名が長期間にわたり密集させられた結果として発生した、一連の政治的・社会的な摩擦事象の総称である。これは、まさしく出兵直前の動員下における、極度の緊張状態が顕在化したものであった。
本報告書は、これらの小競り合いを単なる逸話の集積としてではなく、天下統一後間もない豊臣政権が内包していた構造的な矛盾の表れとして捉える。そして、その背景、具体的な事象、さらには後の豊臣政権の分裂に与えた深遠な影響までを、現存する書状や記録といった一次史料に基づいて時系列に沿って解明し、あたかも当時の状況をリアルタイムで追体験するかのように、その実態を徹底的に分析することを目的とする。
第一章:巨大軍事都市「名護屋」— 摩擦の舞台装置
名護屋で頻発した小競り合いを理解するためには、まずその舞台となった物理的・社会的環境がいかに異常なものであったかを詳述する必要がある。名護屋は、まさに摩擦を生み出すべく設えられた巨大な舞台装置であった。
1-1. 前線基地の選定と築城
大陸侵攻の拠点として名護屋が選ばれたのは、地理的な必然性があった。朝鮮半島へ最短距離に位置し、壱岐・対馬を経由するルートの起点として、また入江に恵まれた天然の良港として、この地は最適だったのである 2 。
秀吉の号令一下、天正19年(1591年)秋から、この地で名護屋城の築城が開始された。縄張りを黒田孝高、総奉行を浅野長政が務め、九州の諸大名が普請を分担する「天下普請」の形式がとられた 2 。その速度は驚異的であり、わずか5ヶ月後の翌年春には城の主要部が完成したと伝えられる 9 。この迅速な築城は、豊臣政権の絶大な権力を天下に示すものであったが、同時に、動員された大名たちがいかに過酷な負担を強いられたかを物語っている。
完成した名護屋城は、五層七階の壮麗な天守閣を頂き、その規模は大坂城に次ぐものであった 9 。発掘調査では金箔を施した瓦が出土しており、その豪壮さが窺える 11 。城郭は本丸、二の丸、三の丸といった中心的な曲輪に加え、秀吉が茶会を催したとされる山里曲輪、明国からの使節を滞在させるために設けられた遊撃丸など、軍事拠点のみならず、政治・外交・文化の拠点としての多様な機能を持つ複合的な空間として設計されていた 2 。
1-2. 陣屋の配置と政治的力学
名護屋城の周囲、半径約3キロメートルの範囲には、全国から参集した150家以上もの大名の陣屋が、丘陵地帯を埋め尽くすようにひしめき合っていた 9 。徳川家康、前田利家、伊達政宗といった当代一流の大名たちが、それぞれに館を構えたのである。佐賀県立名護屋城博物館所蔵の「肥前名護屋城図屏風」や『松浦古事記』といった史料には、その詳細な配置が描かれており、当時の壮観な光景を今に伝えている 10 。
この陣屋の配置は、決して無作為なものではなかった。それは、豊臣政権下における大名たちの序列と力関係を可視化した、政治的な地図そのものであった。徳川家康や前田利家といった五大老クラスの有力大名の陣屋は、名護屋城の防衛上の要所に大規模なものが構えられ、政権内における彼らの重責を示していた 9 。一方で、秀吉の正室ねねの甥にあたる木下延俊の陣屋が城に隣接する好立地に置かれるなど、秀吉との個人的な親疎も配置に色濃く反映されていた 16 。大名たちは、自らの陣屋の位置や規模によって、天下における己の序列を日々意識せざるを得なかったのである。
1-3. 幻の首都の光と影
イエズス会宣教師ルイス・フロイスがかつて「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評したこの土地は 11 、築城と大名集結によって、わずか1年足らずの間に一変した。兵士や人夫、さらには京や大坂、堺から集まった商人、文化人など、最盛期には20万人以上もの人々で賑わう、一大軍事都市へと変貌を遂げたのである 13 。城下町には様々な商店が軒を連ね、全国から物資が集積し、名護屋は一時的に日本の政治・経済・文化の中心地となった 21 。
しかし、その繁栄の裏には、深刻な緊張が潜んでいた。異常なまでの人口過密状態は、兵糧や物資の確保、水利権、そして衛生問題など、数々の課題を生み出した。限られた資源を巡る些細な諍いが、大名家の面子をかけた大規模な衝突へと容易に発展しうる、極めて危険な土壌が形成されていたのである。
名護屋は単なる前線基地ではなかった。それは、天下統一後の日本の政治的・社会的縮図を、極度に圧縮して再現した「実験都市」とも言うべき空間であった。全国の大名が、石高に応じて軍役を課せられるという画一的な基準の下に動員されたことは、豊臣政権の支配が全国津々浦々にまで及んだことの証左である 23 。しかし、動員された彼らは、決して無個性な駒ではなかった。それぞれが独立した領国を経営する君主であり、長年にわたるライバル関係や地域的な利害対立といった、複雑な歴史的背景を背負っていた 25 。これらの個性と利害が衝突する大名とその家臣団を、狭隘な土地に長期間、物理的に閉じ込めるという秀吉の策は、既存の対立を緩和するどころか、むしろ先鋭化させる危険性を常に孕んでいた。したがって、「名護屋湾岸集結を巡る小競」は、この人工的かつ高圧的な環境が生み出した、いわば必然的な化学反応であった。この空間そのものが、摩擦の最大の原因だったのである。
第二章:集結する大名たちの心理と力学
名護屋という巨大な坩堝に投げ込まれた大名たちは、いかなる心理状態にあり、彼らの間にはどのような力学が働いていたのだろうか。摩擦の直接的な原因を探るためには、当事者たちの内面に分け入る必要がある。
2-1. 期待と不安、そして不満
秀吉が打ち出した「唐入り」構想は、諸大名にとって、期待と不安が入り混じるものであった。国内での領土拡大がもはや望めない状況下で、大陸における新たな領地獲得の可能性は、多くの武士にとって大きな魅力であり、動員の強力な動機付けとなった 3 。
しかしその一方で、負担は計り知れなかった。長期にわたる在陣と、それに伴う兵糧や武具の準備は、各大名の財政を著しく圧迫した。特に、直前に太閤検地や国替えを経験し、家臣団の不満が燻っていた島津家のように、豊臣政権から要求された軍役を完全に遂行できなかった例も見られる 27 。先の見えない待機状態は、兵士たちの士気を徐々に蝕み、陣中には次第に不満の空気が充満していった。
さらに深刻だったのは、大名間に生じた明確な「格差」である。実際に海を渡り、異国の地で命を懸けて戦うことが宿命づけられた小西行長や加藤清正といった西国の大名たちと、名護屋に留まり、直接的な戦闘に参加することなく兵力を温存した徳川家康ら東国の大名たちとの間には、負わされる負担とリスクにおいて、埋めがたい格差が存在した 28 。この不公平感は、豊臣家臣団の内部に深い亀裂を生み、後の武断派と文治派の対立、ひいては関ヶ原の戦いへと繋がる遠因となったのである。
2-2. 持ち込まれた確執と新たな序列
名護屋の陣中は、それまで日本各地で繰り広げられてきた地域紛争の延長戦の様相を呈していた。特に、奥州仕置を巡って深い遺恨を残していた伊達政宗と蒲生氏郷の関係は、名護屋においても一触即発の緊張状態にあった 25 。また、津軽地方の支配権を巡って長年争ってきた南部氏と津軽氏の対立も、そのまま名護屋に持ち込まれ、新たな火種となっていた 26 。
豊臣政権への服属が遅かった奥羽の大名たちにとって、名護屋は中央の複雑な政治作法や人間関係、すなわち南部信直が言うところの「日本之つき合」に初めて本格的に直面する試練の場でもあった 26 。信直が国許に送った書状には、これまでの自身のやり方を「古本」「すたり物」と卑下し、畿内や中部の大名たちとの間に存在する政治文化の大きな隔たりに戸惑う様子が記されている。些細な言動が秀吉の逆鱗に触れ、家門の存亡に関わりかねないという、極度の緊張感がそこにはあった 26 。
名護屋で発生した摩擦の多くは、単なる個人的な感情のもつれに起因するものではない。それは、豊臣政権という新たな中央集権体制の論理と、それに組み込まれたばかりの地方勢力(周縁)が保持してきた旧来の行動様式との間に生じた「文化摩擦」であり、「政治摩擦」であった。南部信直が中央の作法に戸惑い、津軽為信が前田利家の家臣との交渉に失敗して孤立した逸話は 30 、その象徴的な事例である。これらの出来事は、天下統一が完了したとはいえ、各大名の意識や行動様式が依然として地域的な論理に深く根差しており、全国規模の政治秩序への真の統合が未だ道半ばであったという、豊臣政権が抱える根源的な問題点を浮き彫りにしている。
第三章:陣中における小競り合いの時系列分析(1591年~1592年)
現存する書状や年代記の断片を繋ぎ合わせることで、名護屋で発生した具体的な摩擦の様相を時系列に沿って再現することが可能である。ここでは、あたかもリアルタイムで事件の展開を追うかのように、その詳細を分析する。
【前史】天正19年(1591年):燻る火種
名護屋への集結が本格化する以前から、すでに大名間の対立の火種は各地で燻っていた。その最たる例が、伊達政宗と蒲生氏郷の確執である。葛西大崎一揆の背後で政宗が扇動したとの疑惑が持ち上がって以来、両者の関係は修復不可能なほどに悪化していた 25 。『氏郷記』には、一揆鎮圧に向かう途中の茶席で、政宗が氏郷を毒殺しようと試みたという逸話まで記されている 25 。この逸話の真偽はともかくとして、両陣営が互いをいかに深く警戒し、憎悪していたかを物語るには十分である。この根深い不信と敵意が、そのまま名護屋の閉鎖空間へと持ち込まれることになる。
【本編】文禄元年(1592年):摩擦の顕在化
正月~三月:諸大名の集結と緊張の高まり
文禄元年(1592年)正月、関白豊臣秀次より、唐入りに際して諸大名に名護屋への参陣を命じる条書が発せられた 31 。これを受け、全国から25万ともいわれる大軍勢が、続々と肥前名護屋へと集結を開始する 32 。
3月13日、秀吉は渡海軍の陣立てを正式に発令した 32 。『小早川家文書』などに残る「高麗へ罷渡人数事」には、その詳細な編成が記されている。誰が先鋒を務め、誰がどの部隊に属し、どれだけの兵役を課せられるのか。この序列の明確化は、大名たちの功名心や競争意識を刺激し、陣中の緊張を一気に高める効果をもたらした。
表1:文禄の役における主要大名の陣立と兵力(天正20年3月13日発令)
部隊 |
総兵力 |
主要大名(兵力) |
備考 |
渡海軍 |
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一番隊 |
18,700人 |
小西行長 (7,000)、宗義智 (5,000)、松浦鎮信 (3,000) |
先鋒部隊 |
二番隊 |
22,800人 |
加藤清正 (10,000)、鍋島直茂 (12,000) |
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三番隊 |
11,000人 |
黒田長政 (5,000)、大友義統 (6,000) |
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四番隊 |
14,000人 |
島津義弘 (10,000)、毛利吉成 (2,000) |
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五番隊 |
25,000人 |
福島正則 (4,800)、長宗我部元親 (3,000)、蜂須賀家政 (7,200) |
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六番隊 |
15,700人 |
小早川隆景 (10,000)、立花宗茂 (2,500) |
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七番隊 |
30,000人 |
毛利輝元 (30,000) |
|
八番隊 |
10,000人 |
宇喜多秀家 (10,000) |
総大将 |
九番隊 |
11,500人 |
豊臣秀勝 (8,000)、細川忠興 (3,500) |
|
船奉行 |
9,200人 |
九鬼嘉隆 (1,500)、藤堂高虎 (2,000)、脇坂安治 (1,500) |
水軍 |
名護屋滞陣 |
約100,000人 |
徳川家康、前田利家、上杉景勝、蒲生氏郷、伊達政宗、石田三成、大谷吉継ら |
後詰・予備兵力 |
出典:『小早川家文書』、『天正記』等を基に作成 32 。
四月~五月:秀吉着陣と初期のトラブル
4月25日、太閤秀吉自身が名護屋城に着陣した 32 。絶対権力者の親臨は、表向きの秩序を維持する強力な重しとなったが、同時にその御前でのいかなる失態も許されないという、息詰まるようなプレッシャーを大名たちに与えることにもなった。
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【事例一】徳川・前田家臣間の水喧嘩
この時期に発生したとされるのが、徳川家康と前田利家という、豊臣政権を支える二大巨頭の家臣団による衝突事件である。南部信直が翌年に国許へ送った書状の中で回想しているところによれば、発端は些細な水争いであった 26。しかし、この小競り合いは瞬く間にエスカレートし、双方の家臣が徒党を組んで武装対峙する一触即発の事態にまで発展した。伊達政宗が仲裁に乗り出そうとしたものの、利家は「若き者に似合わぬうちまたかうやく(若い者には似合わない、火薬を扱うような危険なことだ)」とこれを一蹴し、自ら解決にあたったという 26。この事件は、人口過密都市・名護屋における資源を巡る争いの危険性と、それが大名家の面子をかけた問題へと容易に転化しうる構造を如実に示している。 -
【事例二】津軽為信の孤立
奥羽から参陣した津軽為信もまた、中央の政治力学の洗礼を受ける。南部信直の書状によれば、為信は旧領問題を巡って、自らの取次役である前田利家のもとへ陳情に赴いた。しかし、その場で利家の重臣である奥村主計(かずえ)と執拗な口論を演じたため、かえってやり込められ、大いに恥をかいたとされる 30。この一件が原因で、為信は利家や同じく奉行職にあった浅野長政(長吉)のもとへ出入りしなくなり、中央政権との重要なパイプを自ら断ち切りかける事態となった 30。これは、中央の政治作法や交渉術に不慣れな「周縁」の大名が、名護屋という新たな政治空間で犯した典型的な失敗例であった。
十二月頃:奥羽大名の確執、交渉決裂
年末になっても、名護屋の緊張が解けることはなかった。むしろ、長期化する在陣生活の中で、旧来の対立はより根深いものとなっていった。
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【事例三】南部信直と津軽為信の和解交渉破綻
南部信直が文禄元年12月晦日付で国許に送った書状には、津軽為信との和解交渉が決裂に至った経緯が詳細に記されている 26。両家の長年にわたる対立を見かねた徳川家康が仲介に乗り出し、南部の取次である前田利家が実際の交渉にあたった。しかし、交渉の過程で利家が家康に対し、為信を「表裏仁(表裏のある人物)」と評したことが決定打となり、和解の道は完全に閉ざされた 26。この一件は、名護屋が旧来の敵対関係を清算する機会となり得た一方で、中央の有力大名を巻き込んだ新たな政治的駆け引きの舞台でもあり、一度こじれた関係の修復がいかに困難であったかを示している。
これらの事例を分析すると、名護屋での小競り合いは、その発生原因から三つの類型に分類できることがわかる。第一は、伊達・蒲生の関係に代表される、名護屋以前からの対立がそのまま持ち込まれた**「持ち込み型」 。第二は、徳川・前田の家臣の喧嘩のように、些細なきっかけが名護屋特有の環境下で拡大した 「偶発・拡大型」 。そして第三が、南部・津軽の問題のように、両者の対立に加えて、中央の政治作法への不慣れや取次大名を介した複雑な交渉プロセスといった、豊臣政権の統治構造そのものに起因する 「構造・摩擦型」**である。この分類を通じて、単に「喧嘩が多かった」という現象の背後にある、多様な要因を立体的に理解することが可能となる。
第四章:絶対権力者による統制と緊張緩和策
一触即発の危険な空気が漂う名護屋において、なぜ全面的な武力衝突へと至らなかったのか。その最大の理由は、絶対権力者である豊臣秀吉の存在と、彼が講じた硬軟両様の巧みな統制策にあった。
4-1. 鉄の規律:裁定と処罰
名護屋における最終的な裁定者は、常に秀吉であった。大名間のいかなる紛争も、彼の鶴の一声で決着がつけられた。その権威は絶対であり、何人も逆らうことは許されなかった。南部信直が「大事之つき合」に神経をすり減らしていたのも、秀吉の怒りを買って改易されることへの強い恐怖があったからに他ならない 26 。
実際に、朝鮮の戦線で失態を演じた大友義統は、後に秀吉の命によって改易されている 33 。このような厳しい処罰事例は、名護屋に在陣する他の大名たちにとって強力な見せしめとなり、体制への不満や大名間の対立が、武力蜂起のような決定的な行動に繋がることを抑止する効果があった。
4-2. 融和の演出:文化活動によるガス抜き
秀吉は、恐怖による支配だけでなく、文化活動を巧みに利用して大名たちの不満やエネルギーを昇華させることにも長けていた。
- 能楽への傾倒: 秀吉は名護屋在陣中、長期滞陣の無聊を慰めるため、また大名たちの心を一つにするため、能楽に深く傾倒した 34 。大和猿楽四座の名人たちを名護屋に呼び寄せ、自らも熱心に稽古に励み、正室の北政所(ねね)に宛てた手紙の中で「のふ十はんおほへ申候(能を十番覚えた)」と得意げに書き送るほどであった 34 。定期的に催される能の上演会は、大名たちに共通の娯楽を提供し、彼らの有り余るエネルギーを武力ではなく文化的な方向へと導く、一種のガス抜きとして機能した。
- 黄金の茶室での茶会: 秀吉の統治術の真骨頂は、茶の湯の政治的利用に見ることができる。彼は大坂城からわざわざ組立式の「黄金の茶室」を運び込ませ、在陣中の大名たちを招いて大規模な茶会を催した 36 。博多の豪商・神屋宗湛がその日の様子を詳細に記した『宗湛日記』によれば、天正20年5月28日の茶会では、身分の高い大名から順に組分けされ、厳格な序列の下で茶が振る舞われたという 36 。この茶会は、秀吉の圧倒的な権威と財力を誇示する政治的パフォーマンスであると同時に、序列に基づいたもてなしを通じて、全国の大名たちを豊臣政権が主導する新たな文化秩序の中に組み込むという、高度な政治的意図を持っていた。
このほかにも、秀吉は瓜畑で仮装大会を催すなど、様々な趣向を凝らしたイベントを企画し、陣中の緊張緩和に努めたと記録されている 11 。
4-3. 「伊達者」たちの自己表現
このような秀吉による統制下で、大名たちは武力に代わる新たな自己表現の方法を模索した。その最も有名な例が、伊達政宗の振る舞いである。
政宗は、京から名護屋への道中、金色のとんがり帽子や豪華な陣羽織など、絢爛豪華で奇抜な意匠を凝らした軍装で自軍を行進させ、道中の人々の度肝を抜いた 41 。これは単なる目立ちたがりの行動ではない。秀吉への恭順の意を示しつつも、他の大名とは一線を画す自らの存在感を強烈にアピールするための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。武力衝突が禁じられた空間において、文化や風俗の面で他者を圧倒するという、新たな形の競争が始まっていたのである。後に「伊達者」という言葉の語源になったともいわれるこの逸話は、名護屋という特異な社交空間の性質を象徴している 43 。
天下統一後の社会において、武力による序列付けはもはや過去のものとなりつつあった。秀吉はそれに代わる新たな秩序原理として、茶の湯や能といった文化的な序列を導入したのである。黄金の茶室は、その文化的ヒエラルキーの頂点に秀吉自身が君臨することを示す象徴的な装置であった。大名たちは茶会に参加し、能を鑑賞することで、この新たな価値観を受け入れることを表明させられた。これにより、武力衝突という破壊的な形で噴出しがちであった大名間の競争意識は、文化的な競争へと巧みに誘導され、豊臣体制の内部に封じ込められた。名護屋での小競り合いが、ついに全面的な武力衝突に発展することなく収束した背景には、秀吉のこうした巧妙な統治技術が存在したのである。
結論:名護屋の摩擦が映し出す豊臣政権の未来
肥前名護屋への大動員と、それに伴って発生した「名護屋湾岸集結を巡る小競」は、単なる出兵準備期間中の一過性のトラブルではなかった。それは、天下統一という偉業を成し遂げた豊臣政権が、その栄華の絶頂期においてなお内包していた、構造的な脆弱性の縮図であった。
第一に、名護屋での諸大名の確執は、豊臣政権が旧来の地域的対立を完全には解消できていなかった現実を白日の下に晒した。伊達・蒲生、南部・津軽といった事例は、秀吉の権威をもってしても、長年にわたって培われた地域の利害や感情を完全に払拭することは困難であったことを示している。
第二に、奥羽大名たちの戸惑いは、中央と地方の間に横たわる政治文化の大きな隔たりを浮き彫りにした。全国規模の新たな政治秩序への統合は、制度上は完了していても、各大名の意識レベルでは未だ道半ばであった。この認識の齟齬が、無用な摩擦を生み出す温床となった。
第三に、渡海組と在陣組の間に生まれた負担の格差は、新たな不満の火種を政権内部に蒔いた。国内の恩賞地が枯渇する中で始まったこの外征は 3 、成功すれば新たな領地をもたらす可能性があったが、失敗すれば多大な犠牲と経済的損失のみが残る。このリスクを不均等に分担させたことが、後の豊臣家臣団の分裂を決定的にした。
名護屋で顕在化したこれらの軋轢は、朝鮮出兵という過酷な戦役を経て、さらに増幅されていく。特に、朝鮮の戦地において軍監として派遣された石田三成ら文治派と、実際に前線で血を流した加藤清正ら武断派との間に生じた深刻な対立は、この名護屋での緊張関係の直接的な延長線上にあるものと捉えることができる 44 。
秀吉という絶対的な権力者が存命である間は、そのカリスマ性と巧みな文化政策によって、これらの対立はかろうじて抑え込まれていた。しかし、彼の死後、重しを失った大名たちの不満と対立は一気に噴出し、豊臣政権は内部から崩壊していく。その意味において、名護屋での一連の小競り合いは、豊臣政権の栄華の頂点で行われた、来るべき分裂と崩壊の、そして関ヶ原へと至る道のりの予行演習であったと言える。わずか7年間だけ存在したこの「幻の首都」での出来事は、その後の日本の歴史を大きく左右する、極めて重要な転換点だったのである 28 。
引用文献
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- 名護屋城|豊臣秀吉の野望と文禄・慶長の役 - 史跡ナビ https://shisekinavi.com/hizennagoyajo/
- ご乱心か既定路線か…なぜ豊臣秀吉は朝鮮に出兵した?4つの説をご紹介:3ページ目 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/187354/3
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- 「文禄の役」「慶長の役」とは? 朝鮮出兵の背景や結果について知ろう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/603246
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- 天下も狙えた! 秀吉も恐れた文武両道のオールマイティ武将・蒲生氏郷【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37595
- 【名護屋における「日本之つき合」】 - ADEAC https://adeac.jp/hirosaki-lib/text-list/d100020/ht010270
- 名護屋参陣 - 【弘前市立弘前図書館】詳細検索 https://adeac.jp/hirosaki-lib/detailed-search?mode=text&word=%E5%90%8D%E8%AD%B7%E5%B1%8B%E5%8F%82%E9%99%A3
- 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
- (わかりやすい)朝鮮出兵 文禄・慶長の役 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/chosensyuppei.html
- 豊臣秀吉と能 - 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/nou_cha_ishigaki/
- 佐賀のナゴヤ城:天下人秀吉の夢の跡 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/column/g00596/
- 能・茶・石垣 - 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/nou_cha_ishigaki/cha.html
- 黄金の茶室(佐賀県) | 【ロケ地 検索】全国ロケーションデータベース - 国立映画アーカイブ https://jl-db.nfaj.go.jp/location/410200673/
- 黄金の茶室|佐賀県立 名護屋城博物館 - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/exhibition/permanent/golden-tea-room.html
- 豊臣秀吉の「黄金の茶室」を復元・公開します - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/news/2022/02/003802.html
- 豊臣秀吉が愛用した「黄金の茶室」が名護屋城博物館で一般公開されています https://saga-pref.note.jp/n/n428241f77907
- 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
- 伊達成実 - 亘理町観光協会 https://www.datenawatari.jp/pages/17/
- 伊達政宗陣|名護屋城(佐賀県唐津市)の周辺スポット - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9287/pins/29243
- 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1597/