最終更新日 2025-09-03

和泉・大鳥郡の戦い(1576)

天正四年、信長は石山合戦の海上補給路を断つべく木津砦を攻撃。雑賀衆の鉄砲戦術で原田直政が討死し織田軍は壊滅するも、信長は自ら出陣し奇襲で逆転勝利。この戦いは石山合戦の戦略を海上へと転換させた。
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天正四年の大坂湾岸攻防:石山合戦における「和泉・大鳥郡の戦い」の全貌

序章:天正四年、戦火再燃の畿内

天正4年(1576年)、織田信長による天下布武の道程において、最大の障壁として立ちはだかっていた石山本願寺との攻防は、新たな局面を迎えていた。元亀元年(1570年)に始まったこの十年戦争、世に言う「石山合戦」は、信長が越前や伊勢長島の一向一揆を凄惨な根切りによって殲滅した後も、未だ終結の兆しを見せていなかった 1 。石山本願寺は単なる宗教施設ではなく、淀川河口の天然の要害に位置し、堅固な防御施設を幾重にも張り巡らせた難攻不落の城塞であった 3 。信長は陸路からの包囲網を敷き、兵糧攻めによる枯渇を狙う持久戦の構えをとっていたが、戦況は膠着していた 3

この均衡を破ったのが、西国の大大名・毛利輝元の本格的な参戦であった。天正4年2月、備後国に追放されていた前将軍・足利義昭の檄文に応じる形で、輝元は反信長包囲網の一翼を担うことを明確に表明したのである 6 。毛利氏の参戦は、単なる同盟関係の構築に留まらなかった。輝元は武田勝頼や上杉謙信といった東国の雄にも書状を送り、信長を東西から挟撃する壮大な戦略構想を描いていた 1 。この西からの強大な圧力は、籠城を続ける本願寺門主・顕如を大いに勇気づけ、戦闘再開への決意を固めさせる直接的な要因となった 6

石山本願寺にとって、毛利氏の支援はまさに生命線であった。信長の包囲網によって陸路を完全に遮断されていた本願寺が唯一外部と繋がることを許されていたのが、大坂湾から木津川河口を経て本願寺に至る海上補給路であった 8 。毛利氏はこのルートを用いて、兵糧や弾薬といった軍需物資を継続的に送り込むことが可能であり、これが本願寺の長期にわたる抵抗を支える力の源泉となっていた 1

したがって、信長にとって本願寺を攻略するためには、この海上補給路の遮断が絶対的な至上命題であった。対する本願寺側もその重要性を熟知しており、補給路を防衛すべく、木津川河口域に「木津砦」や「楼岸砦」といった複数の砦を築き、一大防衛ラインを構築していた 6 。天正4年5月に勃発した一連の戦闘、すなわち本報告書が主題とする「天王寺の戦い」は、この戦略的要衝を巡る必然的な激突だったのである。それは、信長の「陸からの封鎖戦略」と、毛利・本願寺連合の「海からの補給線維持戦略」という、両陣営の存亡を賭けた戦略の根幹が、初めて正面から激突した戦いであった。

第一部:両軍の対峙 — 激突への序曲

合戦の火蓋が切られる直前、両軍は明確な戦略目標を掲げ、それぞれの切り札を手に布陣していた。この戦いの様相は、両陣営の将帥の質、部隊の構成、そして戦術思想の違いによって、その趨勢が大きく左右されることとなる。

織田軍の戦略目標と部隊編成

織田軍の当面の戦略目標は、本願寺の兵站を支える海上補給路の喉元、すなわち「木津砦」を攻略し、物理的にこれを遮断することにあった 6 。この極めて重要な作戦の総指揮官として信長が任命したのは、腹心中の腹心、原田(塙)直政であった。

直政は、もとは塙姓を名乗り、信長の馬廻から精鋭部隊である赤母衣衆に抜擢された古参の武将である 12 。吏僚としての才覚にも長け、信長の上洛後は山城国南部と大和一国の守護に任じられるなど、方面軍司令官として絶大な信頼を得ていた 12 。前年の長篠の戦いでは鉄砲奉行の一人として、武田の騎馬隊を打ち破る上で重要な役割を果たしており、信長が最も信頼を置く将帥の一人であったことは疑いない 12 。この重要作戦に直政を起用したこと自体が、信長の並々ならぬ期待の表れであった。

直政の麾下には、畿内の諸勢力を結集させた混成部隊が編成された。その陣立ては以下の通りである。

  • 第一陣(先陣): 三好康長(笑岩)を筆頭に、鉄砲の扱いに長けた傭兵集団である根来衆、そして本稿の主題である「和泉衆」が配された 6
  • 第二陣(本隊): 総大将・原田直政が直卒する、彼の支配領域である大和衆と山城衆で構成されていた 6
  • 後方支援(天王寺砦守備隊): 作戦行動中の後方を固めるため、織田軍の拠点である天王寺砦には、明智光秀と、宿老・佐久間信盛の嫡男である佐久間信栄が配置された 6

本願寺・一揆勢の防衛戦略と切り札

迎え撃つ本願寺勢は、木津川河口に築いた木津砦と楼岸砦を中核とする防衛網に依拠していた 6 。しかし、彼らの最大の強みは物理的な防御施設ではなく、顕如の救援要請に応えて馳せ参じた紀伊国からの援軍にあった。それが、戦国最強の鉄砲傭兵集団と謳われた「雑賀衆」である。

雑賀衆は、紀伊国を本拠とする地侍集団であり、その名は「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」という言葉と共に、戦国の世に轟いていた 17 。彼らは単なる傭兵ではなく、多くが熱心な本願寺門徒であり、信仰心と卓越した戦闘技術を兼ね備えた特異な集団であった 19 。棟梁である鈴木孫一(重秀)に率いられた彼らは、一説には数千挺ともいわれる、当時としては規格外の火力を有していた 21

雑賀衆の真価は、保有する鉄砲の数のみならず、それを最大限に活用する革新的な集団戦術にあった 22 。個々の射撃技術の高さは言うまでもなく、敵を有効射程距離まで引きつけてからの一斉射撃による面制圧、さらには『佐武伊賀働書』にその運用法が示唆されるように、射手、火薬を詰める者、弾を込める者といった役割分担によって連射速度を飛躍的に高める戦法など、極めて高度な組織的運用を実践していた 22 。この先進的な戦術思想こそが、彼らを最強たらしめていたのである。


表1:天王寺の戦い 主要関係者と兵力比較

陣営

指揮官

主要部隊

推定兵力

主力兵種

織田軍

原田(塙)直政

大和衆、山城衆、三好康長、根来衆、和泉衆

不明(本願寺勢より少数)

足軽、鉄砲

明智光秀、佐久間信栄(籠城)

-

-

-

織田信長(後詰)

馬廻衆、急遽招集された兵

約3,000 2

足軽、騎馬

本願寺勢

顕如(総帥)

門徒衆、雑賀衆(鈴木孫一)

攻撃時:約10,000〜15,000 15

鉄砲、足軽


この兵力比較からも明らかなように、特に信長が救援に駆けつけた時点での「3千対1万5千」という圧倒的な兵力差は、この戦いの劇的な展開を象徴している。織田軍の一翼を担う「和泉衆」の存在は、この戦いが和泉国にとっても無縁ではなかったことを示している。

第二部:合戦詳報 — 天王寺の激闘(リアルタイム時系列解説)

天正4年5月3日から7日にかけての5日間、大坂湾岸の地は戦国史上稀に見る激闘の舞台と化した。織田軍の大敗から信長の奇跡的な逆転勝利に至るまで、刻一刻と変化する戦況を、あたかも戦場に立つ観測者の視点で再現する。


表2:天王寺の戦い 詳細年表(天正4年5月3日〜7日)

日付

時刻(推定)

場所

織田軍の動向

本願寺勢の動向

結果・特記事項

5月3日

早朝

木津・三津寺周辺

原田直政隊、木津砦へ攻撃開始。先陣は三好・根来・和泉衆。

織田軍の攻撃を事前に察知。雑賀衆が周到に待ち伏せ。

作戦開始。

午前

同上

雑賀衆の猛烈な鉄砲射撃を受け、先陣の三好勢が敗走。原田直政本隊が孤立。

楼岸砦から出撃。数千挺の鉄砲で組織的な一斉射撃を敢行。

雑賀衆の革新的戦術が織田軍を完全に圧倒。

同上

原田直政、奮戦するも包囲され討死。塙一族の多くも戦死し、部隊は壊滅状態に。

織田軍本隊を包囲殲滅。

織田軍、作戦開始からわずか半日で壊滅的大敗北を喫す。

午後

天王寺砦周辺

敗残兵が天王寺砦へ退却。明智光秀・佐久間信栄らが籠城を開始。

大勝利の勢いに乗り天王寺砦へ進軍、1万5千の兵で包囲を開始。

戦局は完全に攻守逆転。

5月4日

終日

天王寺砦・京都

天王寺砦、完全包囲下で絶望的な防戦。京の信長へ急使が到着。

砦への猛攻を継続。

信長、衝撃の敗報を受け取る。

5月5日

京都→河内・若江城

信長、敗報に接するや即座に出陣。僅か100騎で若江城に入る 6

-

信長の驚異的な初動速度。

5月6日

終日

若江城

信長、兵力の集結を待つが、急な動員のため3千程度しか集まらず 10

天王寺砦への攻撃をさらに強める。

砦から「3日も持たない」との絶望的な報告が届く 11

5月7日

未明

若江城→住吉口

信長、5倍の兵力差を承知で出撃を決断。敵の側面を突くため住吉方面へ迂回。

天王寺砦を包囲中。勝利を確信。

乾坤一擲の救援作戦開始。

天王寺砦南方

3段構えの陣形で本願寺勢の背後から突撃。信長自ら先陣で指揮を執る 21

織田軍の予期せぬ奇襲に混乱。鉄砲で応戦。

信長、足に軽傷を負うも怯まず 6

天王寺砦

激戦の末、包囲網を突破。籠城していた明智光秀らと合流に成功 6

-

救援作戦、第一段階成功。

天王寺砦周辺

信長、休息せず即座に部隊を再編し、反撃を命令。「天の与ふる所」と将兵を鼓舞 11

陣形を立て直そうとするも、織田軍の猛攻に総崩れとなる。

信長のカリスマ的指導力が戦局を決定づける。

石山本願寺木戸口

敗走する本願寺勢を石山本願寺の門前まで追撃。

城内へ潰走。

織田軍の劇的な大勝利。本願寺勢の死者2,700余り 6


【局面一】織田軍、木津へ進撃(5月3日 早朝)

天正4年5月3日、夜明けと共に原田直政率いる織田軍は行動を開始した。『信長公記』が記す通り、先陣には三好康長、根来衆、和泉衆が、次陣には直政直卒の大和・山城衆が続くという二段構えの布陣であった 6 。彼らの目標はただ一つ、石山本願寺の南方に位置する木津砦の攻略。この砦を落とせば、本願寺の海上補給路に楔を打ち込むことができる。将兵の士気は高かったに違いない。

【局面二】鉄砲の咆哮と織田軍の崩壊(5月3日 午前)

しかし、彼らの前途には周到に準備された死の罠が待ち構えていた。本願寺側は、織田軍の攻撃目標と進軍経路を事前に察知していたのである 9 。鈴木孫一率いる雑賀衆は、木津砦と楼岸砦を巧みに利用し、織田軍をキルゾーンへと誘い込むべく待ち伏せていた。

織田軍の先陣が射程内に入った瞬間、戦場の空気は一変した。数千挺の鉄砲が一斉に火を噴き、雷鳴のような轟音が鳴り響いた。立ち込める硝煙が視界を奪い、先頭を進んでいた兵士たちは、その革新的な火力の前に次々と薙ぎ倒されていった 22 。この組織化された集中射撃は、従来の合戦の常識を覆すものであった。先陣の三好勢は瞬く間に戦意を喪失し、混乱状態に陥って敗走を開始した 9

これにより、後続の原田直政が率いる本隊は、前方から殺到する敵兵と、後退してくる味方との間に挟まれ、完全に孤立した。直政は数時間にわたり奮戦し、陣形を維持しようと試みたが 9 、雑賀衆の猛攻は一向に衰えない。ついに織田軍は四方から包囲され、乱戦の中で総大将・原田直政は討死。塙喜三郎、小七郎といった彼の一族郎党もことごとく戦死し、織田軍の一大方面軍は、作戦開始からわずか半日で壊滅するという悲劇的な結末を迎えた 9

【局面三】本願寺勢、逆襲と天王寺砦包囲(5月3日 午後〜5月6日)

予期せぬ大勝利に、本願寺勢の士気は天を衝く勢いであった。彼らは直ちに反撃に転じ、1万5千という大軍となって織田方の拠点である天王寺砦に殺到した 6 。砦には、明智光秀と佐久間信栄が僅かな兵と共に籠っていたが、圧倒的な兵力差の前に、その命運は風前の灯火であった。絶体絶命の窮地に陥った光秀らは、最後の望みを託し、京都にいる信長へ救援を求める急使を放った 6

【局面四】信長、電撃的出陣(5月5日〜7日 未明)

5月5日、京都で衝撃的な敗報に接した信長の行動は、常人の理解を超えていた。『信長公記』は、その時の様子を「明衣の仕立纔か百騎ばかりにて」(戦装束ではなく平服のまま、僅か100騎ほどで)と記している 6 。信長は詳細な情報を待つことなく、直ちに馬を飛ばし、前線基地である河内国の若江城へと急行した。

しかし、あまりに急な動員令であったため、若江城に集結した兵力は僅か3千ほどに過ぎなかった 2 。一方、包囲下の天王寺砦からは「三、五日も持ち堪えられそうにない」との悲報が絶え間なく届く 11 。敵は1万5千、味方は3千。兵力差は5倍。誰もが籠城か、あるいはさらなる援軍を待つべきだと考えたであろう状況で、信長は自ら打って出るという、乾坤一擲の決断を下した。

【局面五】乾坤一擲の突撃(5月7日)

5月7日未明、信長は3千の兵を率いて若江城を出撃した。彼は正面からの衝突を避け、南方の住吉口へと大きく迂回し、敵の側面から奇襲をかける作戦をとった 11 。そして、信長自身が先陣の足軽に混じり、自ら槍を振るって突撃を敢行したのである 10

総大将のこの常軌を逸した行動は、織田軍の将兵の士気を極限まで高めた。対する本願寺勢は、まさか信長自らがこれほど少数の兵で、しかも側面から攻撃を仕掛けてくるとは夢にも思っておらず、完全に意表を突かれた。激しい白兵戦の中、信長は敵の鉄砲玉を足に受け軽傷を負ったが、その進撃は微塵も揺るがなかった 6 。織田軍の凄まじい気迫の突撃は、数に勝る本願寺勢の包囲網を切り崩し、ついに天王寺砦の籠城部隊との合流に成功した 6

【局面六】決着 — 追撃と勝利(5月7日)

救援に成功した信長は、しかし、一息つくことを許さなかった。彼は籠城策という選択肢を最初から捨てていた。砦内で部隊を即座に再編すると、反撃を命令したのである。『信長公記』によれば、信長は将兵に対し「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所」(これほど敵が密集しているのは、天が我々に与えた好機である)と述べ、その士気を再び燃え上がらせたという 11

勝利を確信していた本願寺勢にとって、この予期せぬ猛烈な反撃は致命的であった。一度崩れた陣形を立て直す間もなく、織田軍の猛攻に晒され、ついに総崩れとなった。織田軍は敗走する敵を石山本願寺の木戸口まで執拗に追撃し、最終的に2,700余りの首を挙げるという、信じがたい大戦果を記録した 6 。こうして、織田軍の壊滅的な大敗から始まったこの戦いは、信長一人のカリスマ性と戦術眼によって、劇的な逆転勝利で幕を閉じたのである。

第三部:分析と影響

天王寺の戦いは、単なる一合戦の勝敗に留まらず、戦術、戦略、そして人事の各方面に大きな影響を及ぼした。この一戦が石山合戦全体、ひいては戦国時代の軍事史に与えた意義は計り知れない。

戦術的分析

この戦いは、戦国時代の戦闘における「戦術のパラダイムシフト」を象徴する出来事であった。

原田直政の敗因 は複合的な要因によるものであった。第一に、 情報漏洩の可能性 が挙げられる。本願寺側が織田軍の攻撃を事前に察知し、万全の迎撃態勢を整えていたことは、内部からの情報漏洩を強く疑わせる 9 。第二に、

敵戦力の過小評価 である。直政は、雑賀衆が持つ鉄砲の火力と、それを組織的に運用する戦術の革新性を根本的に見誤っていた。従来の槍働きを主軸とした合戦の常識で攻めかかり、待ち伏せと集中砲火という新しい戦術の前に為す術なく敗れ去った。これは、個人の武勇を中心とした戦術思想が、組織的な火力を最大化する合理的な戦術思想の前に通用しなくなったことを示している。

対照的に、 雑賀衆の革新性 はこの戦いで遺憾なく発揮された。防御拠点と連携した「待ち伏せ」と、圧倒的な火力による「制圧射撃」を組み合わせた彼らの戦術は、当時の最先端であり、方面軍司令官を討ち取るという衝撃的な戦果を挙げた 22 。これは、鉄砲が戦の勝敗を左右する決定的な兵器であることを、改めて天下に知らしめる出来事であった。

そして、 信長の勝因 は、彼の類稀なる将器に集約される。第一に、 驚異的な決断速度と行動力 である。敗報に接してから僅か2日で自ら前線に到着し、兵力不足という絶望的な状況下でも即座に攻撃を決断したそのスピードが、敵の勢いを断ち切る最大の要因となった 21 。第二に、その

カリスマ的指導力 である。自ら先頭に立って敵陣に突入し、負傷してもなお戦い続ける姿は、兵士たちの士気を極限まで高め、不可能を可能にした 25 。第三に、

柔軟な戦術眼 である。劣勢を覆すために正面衝突を避け、迂回して敵の側面を突くという的確な判断が、勝利への道筋を切り開いた 11 。信長の一連の行動は、危機的状況におけるリーダーシップの理想的な発露であり、現代の危機管理論にも通じる普遍的な教訓を含んでいる。

戦略的影響

この戦いの結果は、織田家の戦略に大きな転換をもたらした。

まず 人事への影響 である。信長は、盟友とも言える重臣・原田直政の敗戦に激怒し、生き残った塙一族を追放・処罰するという極めて厳しい措置をとった 9 。これは、失敗に対する信長の非情さを示すと同時に、他の諸将に対して作戦失敗の責任は厳しく問うという、彼の統治哲学を明確に示すものであった。直政が統治していた大和国の支配権は、彼の配下であった筒井順慶に引き継がれた 12

次に、 包囲網の再構築 である。天王寺砦を奪還した信長は、この勝利に満足することなく、直ちに周辺に新たに10箇所の付城を築かせ、石山本願寺に対する陸上からの包囲網を一層強化した 2 。これにより、本願寺は陸路から完全に孤立することとなった。

そして最も重要な影響が、 戦略の転換 — 海への視線 である。天王寺での緒戦の敗北は、陸路から木津砦を攻略することの困難さを信長に痛感させた。これにより、彼は海上からの補給路を断つこと、すなわち海上封鎖の重要性を再認識することになる。しかし、この戦いのわずか2ヶ月後の7月13日、毛利水軍と雑賀水軍の連合艦隊が織田水軍を木津川河口で迎え撃ち、織田方は焙烙火矢などの新兵器の前に壊滅的な敗北を喫してしまう(第一次木津川口の戦い) 1 。この屈辱的な敗北こそが、信長に常識を覆す「鉄甲船」の開発を決意させる直接的な契機となる。つまり、天王寺の戦いは、石山合戦の主戦場を陸上の攻防から、毛利家を巻き込んだ海上の制海権争いへと大きく転換させる、決定的なターニングポイントとなったのである。

結論:石山合戦の転換点としての一戦

本報告書が探求した「和泉・大鳥郡の戦い」とは、その実像として、天正4年(1576年)5月に繰り広げられた「天王寺の戦い」を指すものであった。この戦いにおいて、織田方の一部隊として「和泉衆」が動員されており、和泉国がこの歴史的な攻防に深く関与していたことが確認できる。戦場そのものは摂津国であったが、畿内全域の国衆を巻き込んだこの戦いは、和泉国の勢力図にも間接的な影響を与えた重要な一戦であった。

この戦いは、複数の側面から石山合戦全体の分水嶺として位置づけることができる。

第一に、 戦術史上の意義 として、雑賀衆の鉄砲集団戦法が織田軍の方面軍司令官を討ち取るという衝撃的な戦果を挙げ、組織的な火器運用の有効性を天下に証明した点である。これは、戦国時代の戦闘様式が新たな段階へ移行する象徴的な出来事であった。

第二に、 信長のリーダーシップの証明 として、方面軍の壊滅という絶望的な状況を、自身の比類なきカリスマ性と卓越した戦術眼によって覆したこの勝利は、若き日の「桶狭間の戦い」と並び称されるべき、信長の将器を物語る象徴的な一戦であった。

第三に、そして最も重要な点として、 石山合戦の戦略的転換点 としての役割である。天王寺での陸戦における勝利と、その直後の木津川口での海戦における敗北という一連の出来事は、信長の戦略的思考を根本から変えさせた。この結果、戦いの焦点は陸上の包囲網から、毛利水軍との制海権争いへと大きくシフトした。この戦略転換こそが、後の鉄甲船の建造、そして第二次木津川口の戦いでの雪辱へと繋がり、最終的に石山本願寺を完全な孤立へと追い込む道筋をつけたのである。

したがって、天王寺の戦いは、単なる一合戦の勝利に留まらず、戦術の進化を促し、信長の将器を証明し、そして十年戦争の最終局面への扉を開いた、極めて重要な歴史的転換点であったと結論づけることができる。

引用文献

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