最終更新日 2025-08-31

和賀・稗貫一揆鎮圧(1591)

天正十八年、奥州仕置に反発した和賀・稗貫一揆が蜂起。南部信直の救援も冬季で撤退し、一揆は一時旧領を回復。しかし天正十九年、豊臣秀次率いる再仕置軍に鎮圧され、和賀・稗貫氏は滅亡。

天正陸奥の最終戦争:和賀・稗貫一揆鎮圧(1590-1591)全詳報

序章:奥羽、静かなる沸騰

天正18年(1590年)、天下統一の最終段階として豊臣秀吉が断行した「奥州仕置」は、数百年にわたり独自の秩序を育んできた東北地方に、未曾有の激震をもたらした 1 。これは単なる領土の再編に留まらず、中央集権という新たな国家理念による、地方の伝統的支配構造の根本的な解体を意味するものであった。この「秩序」の衝突の最前線となったのが、陸奥国和賀郡・稗貫郡であり、後に「和賀・稗貫一揆」として歴史に刻まれる悲劇的な抵抗の舞台となる。

第一節:天下統一の最終楽章、その不協和音

小田原北条氏を屈服させ、名実ともに関東を平定した豊臣秀吉は、その視線を奥羽に向けた 2 。天正18年7月から8月にかけて行われた奥州仕置は、秀吉の天下統一事業の総仕上げであった 1 。しかし、その手法は極めて強権的であった。豊臣政権は、奥羽の諸大名・国人領主に対し、検地、刀狩、そして諸城の破却といった一連の政策を強行した 1 。これらの政策は、土地と人民に対する直接的な支配を志向する豊臣政権の基本理念の現れであり、在地領主が世襲してきた伝統的な支配権とは本質的に相容れないものであった。土地の生産力を示す石高を中央が直接把握し、領主の軍事基盤である武装農民層を解体し、物理的な拠点である城郭を破壊する。それは、奥羽の独立性を根底から覆す「文明の衝突」に他ならなかった。

第二節:独立の王国―和賀氏・稗貫氏の来歴と矜持

現在の岩手県中央部に位置する和賀郡・稗貫郡は、鎌倉時代以来、それぞれ和賀氏と稗貫氏が支配してきた土地であった 3 。稗貫氏は和賀氏の庶流とも伝えられるが、両氏は数百年にわたりこの地に根を張り、複雑な姻戚関係と主従関係を築き上げてきた名族である 3 。彼らの統治形態は、戦国末期に至ってもなお、本家と庶家による一揆的結合(同族連合)という色彩を色濃く残していた 3 。これは、強力な中央集権化を推し進めた他の地域の戦国大名とは一線を画す、在地性の強い緩やかな支配体制であった。戦国末期には郡主としての地位を公的に認められつつあったものの 3 、この統治構造の「前近代性」が、結果として豊臣政権の画一的な基準の前では脆弱性を露呈することになる。

第三節:「仕置」という名の衝撃

天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐への参陣が遅れた、あるいは参陣しなかったことを理由として、和賀氏当主・和賀義忠と稗貫氏当主・稗貫広忠は、共に所領没収という最も過酷な処分を受けた 3 。これは彼らにとって、単に土地を失うという以上の意味を持っていた。先祖代々受け継いできた所領、家臣団、そして領民との絆、その全てを剥奪されることは、領主としての存在意義そのものの否定に等しかった。

仕置の後、稗貫氏の旧本拠地であった鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)には、秀吉の腹心・浅野長政の家臣である浅野重吉が代官として進駐した 3 。和賀氏の旧領にも同様に新たな支配者が入り、秀吉政権の代理人として検地を開始した 3 。外部からの権力によって、地域の秩序は一方的に、そして暴力的に塗り替えられていった。旧領主とその家臣団、さらには土地に根差した民衆の間に、深い絶望と強い反発の念が静かに、しかし確実に蓄積されていったのである 1

この一揆の根本原因は、単なる領地没収への個人的な不満に矮小化することはできない。それは、和賀・稗貫の地で長年培われてきた、同族連合を基盤とする共同体的な地域秩序と、豊臣政権が強いた、石高制に基づく中央集権的で官僚的な支配秩序との、根源的な価値観の衝突であった。検地は領主の土地所有権を否定し、国家が直接土地と生産力を把握する行為であり、刀狩は領主の軍事基盤を解体する。和賀・稗貫氏にとって奥州仕置とは、自らの存在基盤である社会・経済・軍事システムそのものの破壊であり、「世界の終わり」にも等しい危機感こそが、彼らを絶望的な蜂起へと駆り立てたのである。

主要関係者一覧

氏名

所属勢力

役職・立場

本一揆における動向

和賀 義忠

一揆方

旧和賀郡領主

一揆を主導。旧領を一時奪還するも、再仕置軍に敗れ、土民に殺害される 6

稗貫 広忠

一揆方

旧稗貫郡領主

和賀義忠と共に一揆を主導。再仕置軍に敗れた後、大崎氏を頼って敗走した 4

浅野 重吉

豊臣方

浅野長政家臣・代官

鳥谷ヶ崎城主。一揆勢に包囲され窮地に陥るが、南部信直に救出される 7

南部 信直

南部氏

南部家当主

豊臣政権への忠誠を示すため、鳥谷ヶ崎城を救援。冬季到来により撤退 9

豊臣 秀次

豊臣方

関白・総大将

奥州再仕置軍の総大将として派遣される 11

蒲生 氏郷

豊臣方

会津黒川城主

再仕置軍の中核として一揆鎮圧を指揮 1

浅野 長政

豊臣方

豊臣家奉行

再仕置軍の指揮官の一人。旧和賀・稗貫領の統治責任者でもあった 1

伊達 政宗

伊達氏

米沢城主

葛西・大崎一揆の扇動を疑われる。後の岩崎一揆を画策 12

第一章:蜂起(天正18年10月)

奥州仕置に対する鬱積した不満は、天正18年(1590年)秋、ついに武装蜂起という形で爆発する。この蜂起は、単なる感情的な反乱ではなく、奥州仕置軍の主力が引き上げた直後の権力の空白を的確に突いた、周到に計画された軍事行動であった。

第一節:失領の絶望、旧領回復への狼煙

天正18年10月、南の葛西・大崎領で旧臣らによる大規模な一揆が勃発すると、それに呼応するかのように、和賀義忠と稗貫広忠は行動を開始した 3 。彼らは、同じく所領を失い路頭に迷っていた旧家臣団や、新たな支配に反感を抱く在地の武士、農民らを結集し、蜂起の兵を挙げたのである 6 。その兵力は「土卒2000人ともいう」と記録されており、新任の代官が統治するにはあまりに大きな勢力であった 7 。彼らの目的はただ一つ、豊臣政権による新たな支配を実力で覆し、先祖伝来の土地を奪還することであった 3

第二節:初動―旧本拠・二子城の奪還

一揆勢が最初の目標として定めたのは、和賀氏のかつての居城であった二子城であった 3 。この城は、和賀氏の支配の象徴であり、ここを奪還することは、一揆の成功を内外に示し、さらなる同調者を募る上で極めて重要な意味を持っていた。一揆勢は迅速に二子城を攻撃し、これを攻略・奪還することに成功する 3 。この勝利は、蜂起した者たちの士気を大いに高め、彼らの行動が正当な旧領回復の戦いであることをアピールする格好の材料となった。

第三節:鳥谷ヶ崎城包囲戦

二子城奪還の勢いを駆り、一揆勢は次なる戦略目標、稗貫氏の旧居城であり、浅野氏の代官・浅野重吉が駐留する鳥谷ヶ崎城へと進軍した 3 。天正18年10月23日 10 、あるいは10月28日 6 ともされる日に、一揆勢は鳥谷ヶ崎城を完全に包囲した。

城内に籠もる浅野重吉の兵力は僅かであり、圧倒的な数の差の前に絶体絶命の窮地に立たされた 7 。一揆勢の猛攻は凄まじく、城は落城寸前にまで追い詰められた 3 。この一連の動きは、タイミング(仕置軍主力の帰還後)、目標選定(象徴的拠点と行政拠点の連続攻略)、そして周辺の一揆との連携 3 という三点において、極めて計算されたものであった。これは、彼らがこの地域から豊臣の支配を一掃しようとする明確な戦略意図を持っていたことを示している。

第二章:北の狼、動く(天正18年11月)

孤立無援となった鳥谷ヶ崎城からの急報は、北の雄・南部信直のもとへ届いた。信直の行動は、豊臣政権への忠誠と自領の安定という二つの目的を同時に追求するものであったが、奥羽の厳しい自然環境は、彼の軍事行動に大きな制約を課すことになる。

第一節:南部信直の決断

鳥谷ヶ崎城が包囲されたとの報を受け、南部信直は即座に救援を決断する。奥州仕置において、秀吉から朱印状をもって南部氏宗家としての地位を公認された信直にとって 9 、この事態は豊臣政権への忠誠を試される最初の、そして最大の試金石であった。もしここで傍観すれば、自らの立場も危うくなりかねない。信直は自ら兵を率い、本拠地である三戸城から出陣した 9

第二節:雪中の救援行

南部軍は雪の降り始めた奥州街道を南下し、天正18年11月7日、鳥谷ヶ崎城に到着した 10 。南部軍の出現は、城を包囲していた一揆勢に衝撃を与えた。不意を突かれた一揆勢は一時的に包囲を解いて後退し、その隙に南部軍は城内へと駆けつけた 10 。信直は奮戦の末、籠城していた浅野重吉とその家臣らを無事に救出することに成功した 9 。軍事目標であった人質の救出は、見事に達成されたのである。

第三節:戦略的撤退と城の陥落

しかし、信直の軍事的成功は限定的なものに終わった。季節は既に初冬を迎え、奥羽の地は深い雪に覆われ始めていた。これ以上の大規模な軍事行動、特に一揆勢の掃討作戦を展開することは、兵站の面からも不可能であった 9 。信直は、このまま冬を越して城を維持するのは困難であると判断。来春の雪解けを待って本格的な一揆討伐を行うことを期し、救出した浅野勢と共に本拠地・三戸城へと撤退する道を選んだ 9

南部軍という重しがなくなった後、主を失った鳥谷ヶ崎城は、再び一揆勢の手に落ちた 17 。これにより、和賀・稗貫の両氏は、一時的ではあるが、旧領の主要拠点を奪還するという目的を果たしたのである。この一連の出来事は、当時の奥羽における軍事行動が、中央の政治的論理だけで動くものではなく、冬季の積雪という抗いがたい自然環境と、在地に深く根を張った勢力の抵抗力によって大きく左右されるという、厳しい現実を浮き彫りにしている。

第三章:天下人の怒り(天正19年初頭~6月)

和賀・稗貫一揆をはじめ、葛西・大崎、仙北など、奥羽各地から届く反乱の報は、天下人・豊臣秀吉を激怒させた。一度は自らが裁定を下し、平定したはずの地が再び乱れたことは、秀吉の天下人としての権威に対する公然たる挑戦であった。これに対し、秀吉は前回を遥かに凌ぐ規模の懲罰軍を派遣するという、断固たる意志を示す。

第一節:「再仕置」の発令

天正19年(1591年)に入っても、奥羽の混乱は収まる気配を見せなかった 1 。和賀・稗貫のみならず、旧大崎・葛西領でも一揆は継続しており、豊臣政権による支配は完全に頓挫していた 1 。事態を重く見た秀吉は、これらの反乱勢力を徹底的に殲滅し、奥羽の支配体制を再構築するため、「奥州再仕置」を断行する決意を固めた 1 。これは、もはや単なる一揆鎮圧ではなく、豊臣の威信をかけた国家事業であった。

第二節:編成される空前の大軍

天正19年6月、秀吉は諸将に対して奥羽への出陣を命じた 1 。総大将には、甥であり関白の地位にあった豊臣秀次を任命。そして、実質的な軍の指揮官として、会津42万石(後に92万石)の領主であり、歴戦の勇将である蒲生氏郷と、奥州仕置の実務を担当した浅野長政(長吉)が中核を担った 1

この再仕置軍の規模は、尋常ではなかった。徳川家康、上杉景勝といった東国の巨大大名も動員され、奥羽の諸将もこれに加わった結果、その総勢は「十万ともいわれる大軍」にまで膨れ上がったとされる 18 。数千人規模の一揆勢を鎮圧するには、明らかに過剰な兵力であった。この過剰さこそが、秀吉の政治的意図を物語っている。この大軍は、一揆勢を物理的に粉砕するためだけのものではなかった。同時期に葛西・大崎一揆の扇動疑惑で揺れていた伊達政宗 12 や、南部氏内部で不穏な動きを見せていた九戸政実 16 など、奥羽に割拠する全ての勢力に対し、「豊臣政権に逆らう者は誰であろうと容赦しない」という強烈なメッセージを叩きつけるための、政治的パフォーマンスだったのである。

第三節:白河の関を越えて

京を発した再仕置軍は、諸将を糾合しながら奥羽へと進軍を開始した。その進路は、各地で散発的に続く一揆を平定しながら北上するものであった 9 。圧倒的な軍容の報は、瞬く間に奥羽全土に広まった。和賀・稗貫の地で一時的な勝利に酔っていた一揆勢にとって、それは抗うことのできない国家権力の暴力が、刻一刻と自分たちに迫ってくる音に他ならなかった。

第四章:蹂躙(天正19年6月~7月)

天正19年夏、奥州再仕置軍の圧倒的な軍事力は、和賀・稗貫の地に流れ込んだ。数ヶ月にわたった一揆勢の抵抗は、この巨大な力の前に為す術もなく粉砕される。それは戦闘というよりも、一方的な蹂躙であった。

第一節:抵抗の終焉

天正19年6月、蒲生氏郷と浅野長政が率いる再仕置軍の本隊が、和賀・稗貫領へと侵攻を開始した 1 。兵力において絶望的な差があった一揆勢は、もはや組織的な抵抗を維持することすらできなかった。彼らが奪還した城や砦は次々と陥落し、一揆の兵士たちは算を乱して潰走した 18 。公式な記録では、この一揆は天正19年6月20日をもって終結したとされている 6 。蜂起から約8ヶ月、旧領回復の夢は、天下人の怒りの前に無残に打ち砕かれた。生き残った人々も、豊臣軍の追撃を恐れて焼き払われた村を離れ、山野に潜んでかろうじて命をつなぐほかなかった 5

第二節:指導者たちの末路

一揆を指導した二人の領主の末路は、悲劇的なものであった。

一揆の主導者であった 和賀義忠 は、敗走の末に追いつめられ、かつて自らが治めていた土地の土民(在地農民)の手によって殺害されるという、最も無惨な最期を遂げた 6 。この結末は、単なる軍事的敗北以上の意味を持つ。蜂起の際には和賀氏を支持した民衆が、抗いがたい権力である再仕置軍の到来を前に、旧領主を見捨てたことを示している。彼らは、敗残の将を匿うことのリスクよりも、その首を差し出すことで新支配者からの赦免を得る道を選んだのである。これは、戦国的な主従関係や地域共同体が、豊臣政権という新たな、より強大な権力構造の前に脆くも崩れ去ったことを象徴する出来事であった。

一方、 稗貫広忠 は、辛うじて追撃の手を逃れ、旧大崎領へと落ち延びたとされる 4 。その後の消息は定かではないが、剃髪して仏門に入ったとも 4 、矢沢の地で失意のうちに亡くなったとも伝えられている 3 。いずれにせよ、数百年にわたって稗貫の地を治めた名門・稗貫氏は、広忠の代をもって歴史の表舞台から完全に姿を消した。

終章:新たな秩序と遺恨

和賀・稗貫一揆の鎮圧は、奥羽地方における豊臣政権の支配を決定的なものとした。しかし、力による平定は、新たな秩序を確立すると同時に、次なる紛争の火種を深く埋め込む結果となった。

第一節:戦後処理と新秩序の確立

一揆鎮圧後の天正19年9月、和賀・稗貫両郡に対する最終的な仕置が行われ、この地は正式に南部信直の所領として安堵された 1 。一揆の際に信直が示した豊臣政権への忠誠が報いられた形である。稗貫氏の旧居城であった鳥谷ヶ崎城は「花巻城」と改称され、南部氏の重臣中の重臣である北秀愛(信愛)が城代として入城し、新たな統治を開始した 17

再仕置軍は、その勢いのまま北上を続け、南部氏内部で信直に反抗していた最大勢力、九戸政実の討伐へと向かった(九戸政実の乱)。これも圧倒的な兵力で鎮圧され、奥羽地方における豊臣政権への大規模な組織的抵抗は完全に終焉を迎えた 9 。これにより、秀吉の天下統一は、名実ともに完成したのである 9

第二節:残された火種―岩崎一揆への序章

しかし、武力による鎮圧は、人々の心にあった不満や旧領への思慕までを消し去ることはできなかった。没落した和賀氏の一族である和賀忠親は、伊達政宗のもとへ身を寄せ、その保護下に入った 13 。奥州仕置によって大幅に領地を削減された政宗は、天下の情勢を冷静に見極めながら、失地回復の機会を虎視眈々と狙っていた。

そして約10年の歳月が流れた慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いによって天下が二分されると、政宗はこの好機を逃さなかった。彼は和賀忠親を扇動し、「今こそ旧領を回復する好機である」と挙兵を促した 13 。忠親はこれに応じ、和賀・稗貫の旧臣や残党を集めて蜂起し、南部氏の拠点である花巻城を急襲した。これが世に言う「岩崎一揆」である 7

この岩崎一揆も、最終的には南部信直の子・利直によって鎮圧され、和賀忠親も政宗に見捨てられる形で自刃に追い込まれる 18 。しかし、この事件は、1591年の一揆鎮圧が、一つの紛争を終わらせると同時に、新たな紛争の「資源」(旧領回復を願う不満分子)を生み出したことを明確に示している。そして、その資源を伊達政宗という野心的なプレイヤーが利用したことで、和賀・稗貫の地は、もはや中央対地方という構図ではなく、南部氏と伊達氏という北奥羽の二大勢力が角逐する、新たな代理戦争の最前線へと変貌を遂げたのである。和賀・稗貫一揆の鎮圧は、豊臣政権にとっては奥羽平定の画期であったが、地域の視点から見れば、それは次なる長い抗争の序章に過ぎなかった。


和賀・稗貫一揆 関連年表

年月日(西暦/和暦)

出来事

関連人物・勢力

1590年7月-8月(天正18年)

豊臣秀吉、奥州仕置を断行。和賀氏・稗貫氏が改易される 2

豊臣秀吉、和賀義忠、稗貫広忠

1590年10月下旬

葛西・大崎一揆に呼応し、和賀・稗貫一揆が蜂起 14

和賀義忠、稗貫広忠

1590年10月23日頃

一揆勢、和賀氏の旧居城・二子城を奪還後、鳥谷ヶ崎城を包囲 3

一揆勢、浅野重吉

1590年11月7日

南部信直、救援軍を率いて鳥谷ヶ崎城に到着。浅野重吉らを救出 10

南部信直、浅野重吉

1590年冬

南部信直、積雪のため討伐継続を断念し撤退。鳥谷ヶ崎城は一揆勢の手に落ちる 9

南部信直、一揆勢

1591年3月-9月(天正19年)

九戸政実の乱が勃発 20

九戸政実、南部信直

1591年6月

秀吉、奥州再仕置軍の派遣を命令。豊臣秀次を総大将とする大軍が奥州へ向かう 1

豊臣秀吉、豊臣秀次、蒲生氏郷

1591年6月20日

再仕置軍の侵攻により、和賀・稗貫一揆が鎮圧される 6

蒲生氏郷、浅野長政、一揆勢

1591年7月頃

和賀義忠、敗走中に土民に殺害される。稗貫広忠は敗走 4

和賀義忠、稗貫広忠

1591年9月

再仕置軍、九戸政実の乱を鎮圧。和賀・稗貫両郡は正式に南部信直の所領となる 1

豊臣秀次、南部信直

1600年9月(慶長5年)

関ヶ原の戦いに乗じ、伊達政宗の扇動で和賀忠親が蜂起(岩崎一揆) 13

伊達政宗、和賀忠親、南部利直

1601年4月(慶長6年)

岩崎城が陥落し、岩崎一揆が鎮圧される 13

南部利直、和賀忠親

引用文献

  1. 激突! 秀吉の天下と奥羽の反発 - 福島県立博物館 https://general-museum.fcs.ed.jp/file/1343
  2. 奥州仕置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
  3. 武家家伝_稗貫氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hienuki.html
  4. 稗貫広忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E8%B2%AB%E5%BA%83%E5%BF%A0
  5. 無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp https://serai.jp/tour/1019742
  6. 和賀・稗貫一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%B3%80%E3%83%BB%E7%A8%97%E8%B2%AB%E4%B8%80%E6%8F%86
  7. 和賀稗貫一揆(わがひえぬきいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E8%B3%80%E7%A8%97%E8%B2%AB%E4%B8%80%E6%8F%86-1218322
  8. 花巻城 https://www.city.hanamaki.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/094/1369353001034.pdf
  9. 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
  10. 花巻市博物館研究紀要 第15号 (PDF 5.9MB) https://www.city.hanamaki.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/020/kiyou15.pdf
  11. 解説之書 https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf
  12. 伊達政宗 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
  13. 岩崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
  14. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  15. 近世こもんじょ館-【れぽーと館】 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&code_no=56
  16. 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再仕置と北の精鋭・九戸軍大攻囲 https://sengoku-his.com/122
  17. 城ぶら「花巻城」!取りつ取られつ…陸奥戦国の激戦を刻む城跡 https://favoriteslibrary-castletour.com/iwate-hanamakijo/
  18. 伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家としての意地 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10835
  19. 花巻物語事典 https://hana-isan.com/Search/single_page/0/6587
  20. 「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/14