和賀・稗貫一揆(1596~97)
奥羽の十年戦争:和賀・稗貫一揆(天正・慶長期)の全貌
序章:奥羽の激震 - 「和賀・稗貫一揆」の歴史的位置づけ
利用者提示年代の解題と本報告書の構成提示
ご提示いただいた「和賀・稗貫一揆(1596~97)」という年代は、特定の単一の合戦を指すものではなく、陸奥国和賀郡・稗貫郡の旧領主たちが、その支配権を失ったことに対して起こした約十年間にわたる一連の抵抗運動の総体を指し示すものと解釈される。史料上、この抵抗運動は大きく二つの時期に分けられる。第一が天正18年(1590年)から翌19年(1591年)にかけて発生した「和賀・稗貫一揆」、第二が慶長5年(1600年)から翌6年(1601年)にかけて起こった「岩崎一揆」である 1 。これら二つの反乱は、原因と結果が密接に連関しており、片方を理解するためにはもう片方の知識が不可欠である。したがって、本報告書では、これら二大一揆を一つの連続した歴史事象として捉え、その十年越しの全貌を時系列に沿って詳細に解明する。
時代の奔流「奥州仕置」
全ての始まりは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が断行した「奥州仕置」であった。これは、小田原の後北条氏を滅ぼし、名実ともに関白として天下統一を成し遂げた秀吉が、奥羽地方の諸大名に対し、中央政権への絶対的服従を求めた一大政策である 3 。秀吉の姿勢は極めて厳格であり、その指令には「仕置に反対する者がいたなら、一郷も二郷もことごとくなで切りせよ。六十余州にかたく命じる」との一文があったとされ、奥羽の国人領主たちが直面した有無を言わせぬ圧力を物語っている 4 。
この奥州仕置は、単なる領土の再編ではなかった。それは、鎌倉時代以来、数百年にわたって続いてきた奥羽地方の独自な政治秩序と、秀吉が志向する中央集権的な統治体制との根本的な衝突であった。和賀氏や稗貫氏のような中小の国人領主にとって、遠く離れた中央の政局、特に秀吉という新たな権力者の意図を正確に把握することは極めて困難であった。事実、奥羽の覇者と目された伊達政宗でさえ、小田原への参陣のタイミングに苦慮し、その遅参が領地削減の一因となった 5 。このような状況下で、和賀氏や稗貫氏が小田原へ参陣しなかったのは、明確な反逆の意志というよりも、中央からの情報不足と、これまで経験したことのない中央からの絶対的な要求に対する戸惑いの結果であった可能性が高い 3 。この中央と地方の認識の齟齬こそが、後に続く十年間の悲劇の根本原因となったのである。
表1:二大一揆の比較対照表
項目 |
和賀・稗貫一揆(天正期) |
岩崎一揆(慶長期) |
名称 |
和賀・稗貫一揆 |
岩崎一揆(和賀一揆) |
期間 |
天正18年10月~天正19年6月(1590~1591年) |
慶長5年9月~慶長6年4月(1600~1601年) |
主要人物(一揆側) |
和賀義忠、稗貫広忠 |
和賀忠親 |
主要人物(鎮圧側) |
浅野長政、南部信直、蒲生氏郷 |
北信愛、南部利直 |
直接原因 |
奥州仕置による所領没収 |
関ヶ原の戦いに乗じた旧領回復の試み(伊達政宗の扇動) |
主な戦い |
二子城奪還、鳥谷ヶ崎城包囲戦 |
花巻城の夜討ち、岩崎城籠城戦 |
結果 |
豊臣軍(奥州再仕置軍)により鎮圧。和賀義忠は戦死。 |
南部軍により鎮圧。和賀忠親は自害(または暗殺)。 |
歴史的意義 |
奥羽における中世的国人領主の終焉の始まり。 |
伊達政宗の野望の頓挫。南部氏による和賀・稗貫支配の確定。 |
第一部:天正の蜂起 - 奥州仕置への抵抗(1590年~1591年)
第一章:運命の小田原不参陣
和賀氏と稗貫氏は、共に鎌倉時代以来、数百年にわたり現在の岩手県中央部にあたる和賀郡・稗貫郡をそれぞれ治めてきた名門国人領主であった 7 。彼らは、地域社会に深く根差し、半ば独立した領主としてその権威を保ってきた。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が発した小田原参陣の命令が、彼らの運命を大きく揺るがすことになる。
中央の情勢に疎く、周辺大名の動向を見極めかねていた和賀義忠と稗貫広忠は、この歴史的な命令に応じなかった 1 。この「不参陣」という決断は、秀吉の新たな天下秩序においては許されざる行為であった。結果、同年に行われた奥州仕置の場において、両氏は所領没収・城地追放という最も厳しい処分を下された 1 。そして、彼らが長年支配してきた和賀・稗貫の両郡は、小田原にいち早く参陣して秀吉への服従を示した三戸の南部信直に与えられることが決定したのである 9 。
第二章:反撃の狼煙 - 一揆の勃発
奥州仕置の後、和賀・稗貫地方には秀吉の奉行である浅野長政が入部し、その家臣たちが代官として配置された。彼らは、太閤検地や刀狩といった新政策を強行し、新たな支配体制への移行を進めた 1 。これは、土地との結びつきが強かった旧臣や領民たちの間に、深刻な不満と反発を急速に広げる結果となった。
この鬱積した不満は、奥州仕置軍の主力が引き揚げた直後の天正18年(1590年)10月、ついに爆発する。旧葛西・大崎領で大規模な一揆が発生したのを合図とするかのように、和賀義忠と稗貫広忠もまた、旧臣たちを糾合して蜂起したのである 1 。
【リアルタイム解説】二子城の奪還(天正18年10月28日頃)
蜂起した和賀義忠は、まず旧臣たちを率いて、かつての和賀氏の居城であった二子城を急襲した。この時、城を守っていたのは浅野長政の代官・後藤半七であったが、一揆勢の猛攻の前に城は陥落。和賀義忠は旧領回復の狼煙を上げることに成功した 1 。
【リアルタイム解説】鳥谷ヶ崎城包囲戦
二子城奪還の勢いに乗った一揆勢は、次に稗貫氏の旧居城であった鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)へと進軍し、これを包囲した。この時の兵力差は歴然としていた。一揆勢は、少し前まで現役の武士であった戦慣れした者たちを中心とする2,000余名。対する城方は、浅野長政の代官・浅野重吉が率いるわずか100騎と足軽150人、合計250名ほどに過ぎなかった 1 。しかし、鳥谷ヶ崎城は北上川などを利用した天然の要害であり、一揆勢は圧倒的な兵力差を活かせず、攻めあぐねる状況が続いた 1 。
第三章:南部信直の介入と戦略的撤退
【リアルタイム解説】南部軍の救援(11月7日)
鳥谷ヶ崎城が包囲されているとの報は、和賀・稗貫郡を新たな所領として安堵された南部信直のもとにも届いた。信直は事態を座視できず、居城の不来方城(後の盛岡城)から自ら500騎の兵を率いて出陣。包囲する一揆勢の背後を突く形で攻撃を仕掛け、見事にその囲みを解くことに成功した 1 。
苦渋の決断
南部信直は浅野重吉らを救出し、一旦は鳥谷ヶ崎城に入城した。しかし、季節は既に晩秋。目前に迫る奥羽の厳しい冬と深い積雪を考慮した信直は、この地で冬を越しながら城を維持することは兵站の観点から極めて困難であると判断した。これは軍事的な敗北ではなく、天候と地理を冷静に分析した上での合理的な決断であった。信直は城を放棄することを決意し、代官の浅野重吉らを保護して、本拠地である三戸城へと戦略的に撤退した 1 。
この南部軍の撤退により、結果として鳥谷ヶ崎城も一揆勢の手に落ち、和賀・稗貫勢は一時的に旧領のほぼ全域を奪還するという望外の成功を収めた。一揆勢の視点から見れば、これは豊臣政権の代官と、それを引き継ぐはずだった南部氏を、自らの力で「駆逐した」という紛れもない勝利であった。この短期間の「成功体験」は、彼らの抵抗の正当性を確信させ、その記憶は深く刻み込まれることとなる。そして、この勝利の記憶こそが、十年後に和賀忠親が伊達政宗の扇動に乗って再び蜂起する際の、精神的な礎を築いたのである。
第四章:再仕置軍の蹂躙と悲劇的結末
和賀・稗貫地方における豊臣政権の代官が駆逐されたという事態は、秀吉の怒りを買った。翌天正19年(1591年)、秀吉は奥州各地で頻発する反乱を根絶するため、甥の豊臣秀次を総大将とし、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった錚々たる武将を配した大規模な「奥州再仕置軍」を派遣した 1 。
再仕置軍は、まず葛西・大崎一揆を容赦なく鎮圧しながら北上。その圧倒的な軍事力の前に、和賀・稗貫一揆勢も頑強に抵抗したものの、各個撃破され、なすすべなく鎮圧されていった 1 。指導者たちの最期は悲劇的であった。一揆を主導した和賀義忠は、逃走の末、大鐘原という場所で土民(あるいは野伏)の裏切りにあい、殺害されたと伝えられる 1 。稗貫広忠もまた敗走し、一族は歴史の表舞台から姿を消した 17 。
この徹底的な鎮圧をもって、和賀・稗貫両郡は名実ともに南部信直の所領として確定し、南部氏による新たな統治が開始されることとなった 1 。
第二部:雌伏の十年 - 伊達政宗の野心と和賀忠親(1591年~1600年)
第五章:残党の行方
天正の一揆が鎮圧され、父・義忠が非業の死を遂げた時、その子である又四郎、後の和賀主馬忠親は、兄と共に辛くも難を逃れ、出羽国仙北郡へと落ち延びた 16 。彼は一族の再興を諦めていなかった。文禄元年(1592年)、秀吉による朝鮮出兵が始まると、これに従軍して武功を立てることで家名の再興を図ろうとした。しかし、その道中で兄が病死するという不運に見舞われ、計画は頓挫する 16 。
失意の中、忠親が次に頼ったのが、奥羽の独眼竜・伊達政宗であった。政宗は忠親を庇護下に置き、胆沢郡平沢の地に所領を与えて、再起の機会を窺わせた 2 。政宗にとって、没落したとはいえ旧和賀郡に影響力を持つ忠親は、将来南部氏と対立した際に利用価値のある「駒」であった。
第六章:関ヶ原の好機
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、奥羽地方もまた徳川家康方の東軍と、石田三成方の西軍に与した上杉景勝との対立の最前線となり、緊迫した情勢に包まれた。
この機を領土拡大の絶好の機会と捉えたのが伊達政宗である。家康は、背後を脅かす上杉景勝を牽制するため、政宗に対し、戦功次第では旧領回復を含む大幅な加増を約束する、いわゆる「百万石のお墨付き」を与えていた 20 。
政宗は、和賀忠親を呼び寄せ、こう唆したと伝えられる。「天下は二つに分かれて争っている。今こそ旧領を切り取る好機である。成功すれば、いずれ新体制のお上もこれを認めるであろう」。さらに、南部軍と交戦状態になった場合には、配下の水沢城主・白石宗直に支援させることを約束した 2 。
この政宗の行動は、極めて計算高い地政学的戦略であった。南部氏もまた東軍に属しているため、政宗が自軍を率いて公然と南部領に侵攻すれば、家康の不興を買い、恩賞を反故にされる危険性があった。そこで、南部領内に不満を持つ和賀忠親を「内部から」蜂起させるという手段を取ったのである。これは、表向きは「和賀氏の私的な反乱」であり、政宗は「非公式な支援」に徹することで、万が一失敗した際のリスクを最小限に抑えつつ、成功すれば混乱に乗じて領土を奪うことができる。岩崎一揆は、和賀氏の旧領回復という悲願を内包しつつも、その本質は伊達政宗が仕掛けた「代理戦争」だったのである。
第三部:慶長の再起 - 岩崎一揆の死闘(1600年~1601年)
第七章:電撃の夜襲 - 花巻城攻防戦
政宗の扇動を受けた和賀忠親にとって、千載一遇の好機が訪れた。関ヶ原の戦いに連動して慶長出羽合戦が勃発すると、南部氏の当主・南部利直は、その主力を率いて東軍の最上義光を支援するため出陣。これにより、南部領の南の拠点である花巻城の守りは極めて手薄な状態となった 2 。
【リアルタイム解説】花巻城の夜討ち(慶長5年9月20日)
忠親はこの機を逃さなかった。慶長5年9月20日の夜、彼は旧臣や稗貫氏の残党を率い、手薄な花巻城に電撃的な夜襲を敢行した 11 。一揆勢の勢いは凄まじく、三の丸、二の丸は次々と突破され、本丸へと迫った 2 。
城代・北信愛の防衛戦
絶体絶命の危機に瀕した花巻城。この時、城を守っていたのは、南部家の宿老で当時78歳の老将・北信愛(松斎)であった 24 。兵力で圧倒的に劣る中、信愛はその老練な知略と経験を駆使して、驚くべき防衛戦を展開する。
- 敵味方識別 : 夜陰の混乱の中、敵と味方の区別がつかなくなる。信愛は「敵は北上川を渡って攻めてきているはず。足元が濡れ、泥がついている者が敵兵だ」と看破し、的確な識別法を指示した 22 。
- 心理戦 : 鉄砲に弾を込めず、空砲だけを間断なく撃ち続けさせた。轟く銃声は、あたかも南部方の援軍が次々と到着しているかのように一揆勢に錯覚させ、その士気を大きく挫いた 23 。
- 奇策 : 門の隙間から糞尿を流しかけ、敵の攻撃の勢いを削ぐといった、なりふり構わぬ奇策も用いたと伝えられる 23 。
北信愛の巧みな指揮と、城兵の決死の奮戦、そして駆け付けた僅かな援軍の働きにより、一揆勢の猛攻は食い止められた。また、攻め手である和賀勢と稗貫勢の連携がうまくいかなかったことも、攻城失敗の一因となった 22 。夜明けと共に、一揆勢は花巻城からの撤退を余儀なくされた。
第八章:最後の砦 - 岩崎城籠城戦
花巻城攻略に失敗した一揆勢は、帰還した南部軍本隊の追撃を受け、各地で敗北を重ねた。和賀忠親は、最終的に一族ゆかりの要害である岩崎城に籠城し、最後の抵抗を試みることとなる 2 。南部利直率いる本隊は岩崎城を包囲したが、冬の到来と厳しい積雪により、本格的な攻城戦は翌春へと持ち越された 2 。
【リアルタイム解説】南部軍の進軍と布陣(慶長6年3月)
雪解けを待った慶長6年(1601年)3月、南部利直は4,500の兵を率いて福岡城を出陣。花巻城で軍議を開いた後、3月12日、岩崎城へと進軍した 27 。この時、和賀川が増水しており渡河は困難を極めたが、南部軍は大きな筏を組んでその上に馬ごと乗せて渡るという作戦を敢行し、対岸への進出に成功した 27 。利直は岩崎城の南西に位置する小高い丘、七折館に本陣を構えた。この時、城に籠もる一揆勢の兵力は、わずか480名ほどであった 27 。
【リアルタイム解説】伊達援軍との激突(4月4日夜半)
籠城する和賀忠親にとって最後の頼みの綱は、伊達政宗からの援軍であった。4月4日夜半、約束通り伊達方の白石宗直の家臣・鈴木重信が率いる部隊が、武器や兵糧を城に運び込むため、夏油川を渡って接近した 27 。しかし、この動きは南部方の重臣・柏山明助によって完全に察知されていた。伊達勢が川を渡りきったところを、待ち伏せていた南部軍の中野吉兵衛らが一斉に鉄砲で攻撃。混乱に陥った伊達勢に南部軍が襲いかかり、鈴木重信をはじめとする約200名が討ち取られ、援軍は壊滅した。城内の忠親は、眼下で繰り広げられる友軍の壊滅を、救援に出ることもできず、ただ歯噛みして見守るしかなかった 27 。
【リアルタイム解説】最終決戦(4月26日)
援軍が壊滅し、岩崎城は完全に孤立した。4月26日、折しも嵐が到来し、強風が吹き荒れた。この天候を見た北信愛が、火計を進言する 2 。南部軍は城の風上に大量の茅を高く積み上げ、一斉に火を放った。燃え盛る茅の束は強風に煽られて無数の火の矢となり、城内へと降り注いだ。城の各所で炎が上がり、瞬く間に火の海と化した 27 。この混乱に乗じて南部軍が総攻撃を仕掛け、慶長6年4月26日、岩崎城はついに落城した 2 。
第九章:一族の終焉
岩崎城落城の際、和賀忠親は僅かな手勢と共に城を脱出し、伊達領へと逃げ延びた。しかし、彼の命運も尽きていた。その後、仙台において自害したとも、あるいは口封じのために伊達政宗によって暗殺されたとも伝えられ、その波乱の生涯を閉じた 2 。
この岩崎一揆の結末は、黒幕であった伊達政宗にも大きな代償を払わせることになった。一揆を扇動し、非公式ながら軍事支援まで行っていた事実が露見したことで、政宗は徳川家康の強い不信を招いた。その結果、約束されていた「百万石のお墨付き」は反故にされ、関ヶ原の戦功に対する大幅な加増は実現しなかったのである 2 。
表2:岩崎一揆 主要戦闘時系列表
日付 |
出来事 |
関連人物 |
兵力・戦術 |
慶長5年9月20日 |
花巻城の夜討ち |
和賀忠親、北信愛 |
一揆勢が夜襲を敢行するも、北信愛の巧みな防御戦術により撃退。 |
慶長6年3月6日 |
南部軍本隊出陣 |
南部利直 |
利直、約4,500の兵を率いて福岡城を出陣。 |
慶長6年3月12日 |
和賀川渡河、七折館に布陣 |
南部利直 |
増水した和賀川を筏で渡河。岩崎城を見下ろす七折館に本陣を設置。 |
慶長6年4月4日 |
伊達援軍の壊滅 |
鈴木重信、柏山明助 |
鈴木重信率いる伊達援軍が南部軍の待ち伏せに遭い、約200名が討死。 |
慶長6年4月26日 |
岩崎城落城 |
和賀忠親、南部利直、北信愛 |
嵐の中、北信愛の献策による火計で城が炎上。南部軍の総攻撃で陥落。 |
結論:和賀・稗貫の土に刻まれたもの
天正と慶長の二度にわたる大規模な一揆の鎮圧により、和賀・稗貫地方における旧領主勢力としての和賀氏・稗貫氏は完全に払拭された。これにより、南部氏(後の盛岡藩)による両郡の支配体制は盤石なものとなり、近世を通じてこの地の統治者として君臨することになる 22 。
この十年間にわたる和賀・稗貫の抵抗は、戦国乱世の地方分権的な秩序が、豊臣・徳川政権による中央集権体制へと強制的に移行させられていく過程で起きた、最後の激しい陣痛であった。それは、時代の大きな変化の波に抗い、先祖伝来の故郷の地に殉じた国人領主たちの、壮絶かつ悲劇的な物語として位置づけられる。
そして、この一連の動乱は、奥羽のもう一人の主役、伊達政宗の野望にも終止符を打った。岩崎一揆の扇動という彼の謀略の頓挫は、関ヶ原後の徳川家康による新たな天下の秩序が、もはや戦国的な実力行使による領土拡大を許容しないことを、天下に示す象徴的な出来事となった。和賀一族の悲劇は、皮肉にも、新たな時代の秩序を確立するための礎の一つとなったのである。
引用文献
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- 北松斎と南部政直 - 花巻史談会 https://www4.hp-ez.com/hp/hanasidan/page14
- 伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10835
- 花巻城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/iwate/hanamaki/hanamaki.html